こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

航海日誌:電車にゆられて川越へ

2024-02-23 19:00:00 | 想い出かたちんば

2月4日(日)高校時代の同級生2人と川越で会うことになり、片道2時間の日帰り小さな旅へ出た。川越に行くのは家の者と行った数年前のコロナ禍以来のこと。そこから数年経ったコロナ明けの最近では、どこに行っても外人と観光客のヤマで自由に動けないので 出来るだけ「ベタ」な場所には行きたくない。しかし「川越に行ってみたい」と同級生が言ったため、重い腰を上げたのだった。正直そうでもなければ片道2時間かけて、川越まで行くエネルギーはもう無い。


それまで疎遠だった同級生2人と年に何回か会うようになったのはここ数年のこと。
最初の頃は、ただ会って数時間居酒屋で酒を呑んで解散する、というパターンに従っていた。しかし、しだいに私が酒を呑めなくなったのもあり「ただ酒を呑むために会うのはつまらない」と言い、3人で街をさんぽしながら話し、そこに共有できる何かを見い出すというのはどうか?と提案。2人が同意してくれたので、3人で当番を持ち回り各々好きな場所に行くことになった。


そして、今回の川越行きを提案したのはI君だった。
I君は7年くらい前に脳腫瘍が発覚し、二度の手術と治療を経て今は寛解。そんな大変な経験を経た現在、彼は「後悔しないように」と休暇には常にやりたいことを前倒しで行っている。現在は寛解だが通院は続いているしイザというときの対処もあるため、遠方への旅行は行くことはできない。日帰りで行ける場所として、一回は行ってみたいと選んだのが小江戸・川越だった。

2月4日は悪天候の予想だった。朝、外を見ると雨。
そこからしばらくちらちらと小雪が舞うのが見えた。しかし、その後止んで曇りを何とか維持してくれた。
川越はいろんな行き方が出来るが、悩んだ末、池袋まで出て、東武東上線で向かうことにした。。。座れた席でガタゴト揺れて行く。。。ふじみ野を過ぎたあたりでいきなり視界が広がり、田んぼが広がる景色になった。そこで思い出した。志木にあった某高校を受験させられたとき、この電車乗ったんだった。やたら土くさく、電車ガラスもすすけて汚れていた記憶がある。たぶん15歳、1982年の今頃、だから42年前のことになる。


今振り返ってみると、行きたくもない学校を親のエゴに押されて受験。つくづくムダで空虚な時間を過ごしていたなあ、と思う。その毒親が90過ぎても未だ生きているのはいかがだろうか?。そう自分は思ってしまう。
色川武大さんの小説「百」を思い浮かべる。しかし、この毒にやられなければ、この同級生にも会わなかったのだろうし、人生は複雑な偶然の積み重ねである。


***


今日は断続的な雨の日。最高4/最低2度という厳しい寒さ。家という閉所に一日とじ込められると苦しくなるはずの自分は、実に珍しく室内に丸一日居た。それはネコたちと一緒に居られたからだろう。1982年の今頃聴いていたカセットをひっぱり出して、ラジカセできいていた。その少年の頃によくも悪くも未だに捕まり、インナーチャイルドを抱えた自分がいることを今更ながら再確認する。


■クリストファー・クロス「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」(Arthur's Theme [Best That You Can Do])1981■
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2015年11月25日 水曜日 「雑記帳 備忘録-観覧車-」

2015-11-25 23:44:59 | 想い出かたちんば
11月24日 火
辺見庸さんのNHK番組をアップしてくれた方がいて、夜にそれを見ていた。
タイトルは「世紀末の風景」。90年代の終わり・21世紀前ころの番組と思われる。
ありがたい発見と機会。辺見さんの深いところからうめき漏れてくるような声。その声と語り口が好きなので、話題はどうあれ落ち着く。
https://www.youtube.com/watch?v=qzzaEE5G4ng

最初に観覧車が映る。辺見さんは、その速度感に”しみじみとしてしまう”。ものを考えるのに一番良い速度。
それなのに、それを忘れてより早く、より遠くと指向する社会と人間。

このくだりで想い出したのが、大学時代当時のこと。
経済に一切関心がないじぶんが、無理矢理潜り込んいた桜井哲夫先生の「社会学」の授業。
その教則本のあとがきに観覧車が登場する。その本の一節が好きで、よくめくる。

「ウィーンのプラーターと呼ばれる地区に遊園地があり、そこに、最高点64.75mの大鉄輪にゴンドラを吊った大観覧車がある。1896年につくられたこの大観覧車は、映画『第三の男』で有名となった。
たまたま、九月にこのプラーターの観覧車に乗る機会をもったのだが、最初、そばにゆくまでこの観覧車は止まっているとしか思えなかった。近くにゆけば、たしかにゆっくりとだが観覧車は動いているのである。
そのとき感じたあの奇妙な感じは、この観覧車の近くにあるジェットコースターに乗ってみたときにさらにはっきりしたものになった。

どうやら、われわれの身体は、20世紀に入ってからというもの、とてつもない「速度」のただなかに投げ込まれてしまい、かつてのリズムなど静止したものとしか感じられなくなってしまったのではないだろうか。そしてこのスピードのただなかで、人びとはあとさきもみずに、ただひたすら走らされているのではないだろうか。
ふと、九月だというのに肌寒いウィーンの街角でそんなことを考えたことを、今、思いだしている。」(「近代」の意味 1984年著)

この本は1984年に書かれているが、この本にわたしが出会ったのは1987年のこと。

1984年秋から冬へ。なにかがつっかえて行き詰まった時節。
当時、渚十吾さんが編集人となった雑誌「LOO」を毎月買っていた。
この本は未だにめくる頻度が絶えない、ある種のバイブル。

その12月号に「廃墟のルナパーク」というエッセイがある。はさみこまれた写真は、浅草の花やしきだった。雨の日、水たまりに向けて撮ったショット。文章は伊藤俊治さん。
未だ不思議な時空。それを漂わせた、数少ない昭和のにおいが残る花やしき。

この冒頭で伊藤さんはある本の一節を引用している。
「ずっと昔から子どもたちは、あらゆるものが永遠回帰するということを知っていた。」
(ウォルター・ベンヤミン『メリーゴーラウンドに乗る子ども』)

つながりを意識したこともないが、その後発狂する80年代中盤の東京にて、また別の観覧車に出会う。
後楽園遊園地の観覧車だ。
当時、御茶ノ水の予備校に通い、夕方から歩き出し、水道橋で折れて春日通りを進み出すと、観覧車は姿を現した。毎日毎日。

春日通りを歩くと、後楽園の観覧車を左側にして眺めながら歩く形となる。
夕方にはその左側に夕陽が沈んで行き、バックから光を浴びた球場と観覧車の輪っかが見えた。それを毎日見上げ、樋口一葉がかつて住まっていた菊坂近くの図書館に通っていた。

日航ジャンボが落ち、岡田有希子さんが亡くなる等々うちのめされるばかりの85-86年、ひたすら暗く厳しい素浪人の戦いの風景のなか。

月日は不明だが(たぶん)86年、阿刀田高さんのショートショート集「街の観覧車」の一つをドラマ化したものを視た。
ここに後楽園遊園地の観覧車が登場する。ドラマタイトルに”観覧車”表記はなく”三人娘”といったタイトルだったように記憶している。

このドラマに「冴えない中年父親」という具合にして、役者・きたろうさんが出てくる。
幻のような”娘”を追い掛けて、たびたび後楽園遊園地の観覧車に乗る彼。
劇中、ジ・アート・オブ・ノイズのデビュー12インチ「イントゥ・バトル・ウィズ・・・」の曲が要所要所で掛かる。

そして、ドラマ最後”幻の娘”と共に乗った観覧車から身を乗り出し、彼は転落し亡くなる。その背後で「モーメンツ・イン・ラヴ」が掛かりエンドロールが流れる。

あまり暗い話ばかりはしたくはないのだが、そんなことを想い出した。
辺見さんと同じく、じぶんも観覧車が子供のように好きである。

西尾久に棲んでいたわずかばかりの頃。
よく夜、人がいない近所を自転車で走っては荒川遊園地に行き、まったく動かない遊園地を眺めていたことを想い出す。

■The Art Of Noise 「Moments In Love」1983■
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2015年5月5日 火曜日 「備忘録:新宿」

2015-05-05 21:53:44 | 想い出かたちんば
5月4日 月曜日 快晴 26.6/18.5
高校の同級生と3人で会うことになった。
一人は当時・草加に住んでいた子で、同じバレー部だったのもあり、行き帰り等一緒にいることが多かった。連絡を取り合い会うことを断続的に続けていたが、それでも再会は数年ぶりだった。
もう一人は、大学まで同じだが、会うのは大学以来。

彼らが会おうと集合場所にしたのは新宿。
お芝居や展覧会。そんな目的が無いとなかなか新宿にも来ない。今は、目的を果たしにそこに向かうことは少なくなった。

いつ新宿に来ただろうか?と振り返ると、昨年の今ごろ。
仕事を早々切り上げて向かった、2014年5月1日の細野さんコンサート。

***

世間の連休さなか。
想定はしていたが、街・新宿には吐き気がする群集。

自分はよく新宿のような巨大都市に佇んでいると、一人の人間などが如何に吹けば飛ぶよな、ちっぽけな存在なのかを知り、荒涼とした都市で茫然となる。
「この一人」など代替可能な、誰でも良いアリのような存在。
周りは支離滅裂な人の渦の中、冷ややかな知覚装置が働く。

私が新宿に訪れた初めは、幼少の頃。
服の買い物・百貨店めぐりに付き合わされてのこと。
当時、三ノ輪の家は夜になると、嫁入り前(死語)のおねえさんらを相手に、洋裁を教えるお袋の姿があった。

その後、再び新宿に来たのは、小学3年か4年生の頃。
お袋の友人が知っている、という理由から梅ヶ丘にある塾に申し込まれてのこと。
自分は嫌で仕方が無かったが、断るすべも知らず、ろくに勉強もせぬクセに、律儀に通っていた。

小田急線に乗る経由駅が新宿であり、アテもなく途方に暮れて新宿をふらついた。
70年代の新宿は、東京で一番象徴的な都市で、ニュキニュキ高層ビルが建っていく最中だった。変貌を遂げていく性と欲望をはらんだ地帯。そんな新宿には、まだ猥雑さの陰に人間臭いものが残っており、奇妙な定型化不能人種のるつぼだった。

***

昨日は、昼・飯田橋で降りてそばを喰い、カメラ片手に歩いて新宿まで。
ああ新宿が近いな、という空気を感じる境い目はあったが、昔ほどの強烈な印象はない。
今でも奇妙な人種が棲息出来るスキマはあるが、それを上回る速度でシステム装置が働いており、そこに呑み込まれてどこもかしこも似たり寄ったりの街の1コ。それが新宿。
どうもそんな感じを覚えた。

だから、そんな人が集まる場所ではないところに何かがあるはず。
そんな歩きにその後お前さんは向かったんだろ、と生理が話しかけてくる。


■フリクション 「クレイジー・ドリーム」1979■












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2015年2月1日 日曜日 「New Life 2015」

2015-02-01 23:26:56 | 想い出かたちんば

奇妙な偶然、というのが重なる。否、偶然では無い気もする。
温度や湿度や天気、あるいは匂い、そういったものの組み合わせが無意識下にあり、それが過去そこに居た時空にいざなうのかもしれない。

先日、いつも通りうろうろ歩いているうちに本郷通りをひたすらまっすぐ。既に足を引きずっており、その日は歩くにも限界かと思われる状態へ。
そのうち東大のレンガ壁に阻まれて跳躍するにも出来ず、大学外塀に沿って歩くうち門前へ。
すると、そこにやけに人が居る。さらには報道の車。

門前のたて看板で分かる。大学入試センター試験と記された文字にシャッターを切る。
なにも、その日にここに迷い込んだ意志は皆無なのだが。

今日は今日とて、山手線沿いを歩くうち大塚に迷い込む。
自分のクセ・習性で、過去かかわった人も場所も、付き合いが一定期間切れた後になると、近付くのを避ける。そうしているうち万物は流転する。

久しぶりの大塚周辺も大幅に変わってしまった。
写真を撮り歩いてから数年というのに、まず駅が変わってしまっていた。しかし、まだ高校時代・三十余年前の痕跡は未だに散見することが出来る。それだけでも、まだマシな街であり、当時の匂いがまだ残る。

そこから一つ考えて、高校時代に通っていた道順を歩いて写真に収めようと思った。
そうして歩くが、記憶と目の前がどうも一致しない。
それでも、それらしき古い家や○○荘といったアパートが残る。

そのうち高校の場所にたどり着くが、何か変である。いかつい門はすでになく、中にはクレーン車が入っている。
歩いて次第に明らかになるのは、校内のほとんどの建物の配置が、既に跡形もなく無くなっている。リアリズムの宿はもう存在しない。

門前には、吊るし上げのための教師の代わりに予備校のチラシをまく者たち。
以前は校内にも入れずだったが解放されていたので、勝手に入る。
夕暮れどき、かなたから陽が射す学園内に群がり歓声と悲鳴を上げる集団が居る。

なんとも奇妙で、近付くがそこにあったのは入試合格者の番号掲載板。
その前で、親と子が騒いでいる。
この光景は、自分が三十余年前に見上げていた光景。
あの日、ここには親も身内も居なかった。ただ一人で見上げており、さらにはこの2月の始めではなく、春も近い日の二次募集であった。
それまで合格した高校を親父にことごとく否定された挙げ句、またも放浪者となった自分が双方の妥協案として最後に残された道だったからである。

見れば親は私と同じ頃合いか、少し上である。
見聞きしたくは無かったのが、携帯電話で盛んに親族や塾に電話する親の姿。
韓国では今教育戦争ということは知っていたが、未だこの国も変わらない姿にあることを知る。
それよりなにより、教育熱心な親を否定し、そこからの自由を模索したはずの世代が、結果否定したはずのところに回帰しているザマ。
校舎も周辺も変わっているだけでなく、この姿は自らにカウンターパンチだった。

場を一刻も離れようと歩き出す。その道で三輪車の孫と老夫婦を見、道端に咲いた鮮やかな梅に出会う。
老夫婦はシャッターを切る自分の姿から梅に気付いて、それをめぐって語らっている。
二年前亡くなってしまった旧校長の「政三ちゃん」が、この開花を見ていたら”寒いのを越えて咲く。これこそが、巣鴨魂だ。”と壇上で長いこと演説するだろう。
あのチカラ強い語気とヘタっていた自分の光景を懐かしく思う。

■デペッシュモード 「ジャスト・キャント・ゲット・イナフ」1981■
今日歩くさなか、デペッシュモードのファーストアルバムが余りに良いので、ずっと聴いていた。
久しぶりに聴くこのアルバムは新鮮なテクノポップで、歩く歩調と不思議な相乗効果を生む。
聴いていた当時は、ウォークマンなど持っていなかったので意外に思う。
聴きながら歩きずんずん進むうちに、トランス状態になりながらシャッターを切った。


















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2014年11月9日 日曜日 ピロリの秋

2014-11-09 23:16:10 | 想い出かたちんば
土曜も日曜も雨。そんな天気予報は不確実な予測流布。
それで家にこもって裏切られても、誰も憎む相手はいない。
結果、さしたる雨は降らないでいてくれる。

バスで日暮里あたりまで連れて行ってもらい、適当なバス停で降りる。

私の中の東京のフォルム。
目をつむっても、勝手に指でなぞらえるでこぼこ感。
それはまだ現存する。
経済価値とは真反対だから、のがれ得て、まだ露地でひっそり。

ラヴホテルの真となりに神社仏閣・住宅・繁華街・・・すべてが乱雑にミックスされた都市。
四次元空間的。

低い土地から坂道を上り、山の手へ向かいカーヴを描く道程。
その視野の上側には冬を間近にした白い空。肌寒い。

1983年今頃、胃かいようだったピロリの秋の日と一致する。
あのときの場、急こう配。晩秋の風景。

道は多方面に伸びる。いずれを選ぶかは大した理由はない。
理由は必要ない。らせんのように、同じ通りにぐるぐる戻ってしまってもよい。
その断片は次第に旅を形成し、好みの場所への愛着が根付く。
数十年歩いた末の愛着が、あちらこちらに落ちている。


■デペッシュ・モード 「君の写真」1982■















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2014年11月2日 日曜日 深秋の日曜に覗く晴れ間

2014-11-02 11:03:34 | 想い出かたちんば

ふたりのミケちゃんに出会ったのは、夏終わろうとする頃だった。
とある島の駐車場。物見遊山のにんげんが来ない、ひとけない公園向かいの広々とした過ごしやすい場所。
雨風吹いたら、クルマの下にもぐりこめばいい。

えさをくれる人たちがいるようで、ころんころんとしたカラダ。
人懐っこいのはミケ猫の特性。座ってひざまづくとカラダをくっつけてくる。
さわるとふかふかのカラダ。生まれてまもない若いネコらしく、やわらかい毛とカラダ。

たぶん兄弟、じゃなく姉妹のふたりは仲良くて、ずっと一緒。
お互い頭突きをしたり、カラダをすりよせあい、カラダを重ねあってはお互いの体温と心音を確かめ合い、グルグルと鳴っている。

昨日の雨、傘を差して様子を見に行ったが出会えなかった。
雨がやんだ今日は、ひなたぼっこに出ているだろう。

こんな日には、大学時代のペンキのにおいを思い出す。
文化祭の入り口を作る業務委託を無償で受け、少し寒くなりだした外で、でっかい木材にペンキで絵を描いていた。
当時の自分の衣類には、いっつも絵具が飛び散って、ジーンズもトレーナーにも落ちない色があちこちに在った。

おひさまのぬくぬくした 座ぶとんの上で
ねこいっぴき ひなたぼっこです

ひがな一日 それですごします
まぶたなど はんびらきです

めえるのは おひさまいっこ
ほかに・・・
おひさまの金粉をまぶした自分のてあし

せけんなど・・・どうでもいいのです
おひさまいっこあれば  (やまだ紫)





■イアン・マッカロク 「セプテンバー・ソング」1984■




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2014年9月11日 木曜日 上野のパースペクティヴ

2014-09-11 23:31:05 | 想い出かたちんば

今日、仕事の用事で、久しぶりに上野で降りた。
降る雨は時に強く、かと思えば、やんだり・・と適当に入れ替わっていく。

現地集合する仕事仲間を待ちながら、上野の交差点上空にある歩道橋の一角で、たばこをふかす。
傘を差し、ぼんやりと上野駅前の風景を眺める一幕。

後にやってきた同僚は、いかに昨夜の雨がすごかったかを語るが、偶然自分はタイミングよく大雨には遭わずに済んでいた。
昨日も、自分は一日外に居た。

同僚と上野駅前の風景を話す間に、いろんな話が自分のクチから出た。
ココから突出して見えるタワーマンションの辺りは、かつてギザギザの面白いデザインのビルがあり、確かラヴホテルだった。
しかしある日突然、それが潰されてしまい、その後、今あるあたりにタワーマンションが建ったこと。

この歩道橋からは、上野”しのばずの池”と森が見え、その合間から東天紅がニョキッと顔を出している。
ここから向こう、不忍池方面は、今でもたくさんの緑と自然が残っている。
しかし、一方では焼野原みたいに地上げされた場所がそこここにあり、かつてあった古き場所が消えていっている。

さらに山越えをすると日暮里が見えてくるが、日暮里駅前もことごとく潰され、無味乾燥で四角四面のつまらないビルだらけと化した。
昔、三ノ輪のおばあちゃん家であるたばこ屋では、駄菓子や日用雑貨も売っていた。

その駄菓子を仕入れるために、長女だったお袋は、自転車で三ノ輪から山越えをして、日暮里の駄菓子問屋との往復をしていた。
まだ年頃だったので恥ずかしかったことや、帰り道の山を下りる坂が急で、大荷物を背負って降りるのが、とても怖かった話を何度も聞いていた。

上野歩道橋から一望するだけで、色んな想いがよぎる。
上野は、じゅらくも消えてしまい、これまた無味乾燥な建物が立ち、他の場所もどんどんと消えていっているが、まだ昔の空気が残っている。
路地や猥雑な通りを歩けば、まだそこに痕跡を見ることが出来る。

■「2000トンの雨」2005■
アルバム「ソノリテ」収録曲。
音楽に傾ける、圧倒的な執着と情熱の強度。
そんな山下達郎さんのソウルフルな名曲。




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2014年7月12日 土曜日 ~ラジオなんですけど~

2014-07-12 23:56:47 | 想い出かたちんば
久米宏さんに出会ったのは小学生の頃だった。
今日、TBSラジオの「ラジオなんですけど」を聴きながら、シニカルな笑い方が久米さんらしく、何ら”あの頃”と変わりない。そう思う。

***

小学生の頃の土曜日。
学校に土曜日も行き、放送発信される地点・赤坂を離れ、地下鉄を辿って三ノ輪に着く。
土曜日昼間の通りでは、七輪で魚を焼く釣竿職人のおじさんらの風景。

いつも帰ると、母親は塩シャケを焼いてくれていて、それでご飯を食べた。
”塩分摂取は悪”であり”病気の元”という嘘健康思想流布までは早い時期で、この頃のシャケは本当にしょっぱくて美味しかった。

食べた後、自分が与えてもらった部屋に入り、ラジオをひねると久米さんの声。
お3時には、”ティーブレイク”コーヒーを飲む時間があって、当時コーヒーを飲めなかった自分は、久米さんが飲むコーヒーの音と語りに「オトナ」を頭に描いた。

長い時間のラジオ番組、ということでは、今も永さん・外山さんの「ワイドラジオTOKYO」が続いているが、長丁場だからこそ気取らずリラックスしてくる在り方は、暮らしに密着するし、一緒に時を過ごしている感覚に至れる。

***

久米さんのファンなのか?と言われると、そういうことでは・・・と思うし、好きで好きで仕方が無かった小島一慶さんとの関係とも違う。
だけども、40年近い付き合いの中、久米さんが出る番組をほとんど見聞きしてきた。

今日の「ラジオなんですけど」が400回を迎え、第1回目を聞いてから8年も経つことに時間感覚の不思議さを覚える。
今では堀井美香さんが久米さんの話しを受けるが、そのやりとり、間合い、気配感は、まさにラジオならでは時間。

ラジオジングル曲のさわやかさも含めて、今が永遠であるように思えてしまう。
先ほどに戻れば、久米さんの不思議さ・”上手さ”とは、「どうも自分が考えることとは違う」と思っていても、結局気になって番組を見聞きしてしまうことだろうか。

■「ラジオなんですけど」2014年6月21日■
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2014年6月7日 土曜日 音楽風景 ~ウルトラヴォックス 「ラメント」'84~

2014-06-07 20:52:34 | 想い出かたちんば

ミッジ・ユーロが率いていた(第2期)ウルトラヴォックスが、ニューウェイヴの流れの変化と共に下降線に入ったラインで発表された作品「ラメント」。
1984年作品。

そこには、コニー・プランクとベルリンの壁際で創られた圧倒的作品「エデンの嵐」のヴォルテージは無い。
「エデンの嵐」からたかだか3年程度の後のことなのに。

主観的思い入れとしての「エデンの嵐」が、生涯の100枚に入る作品、という感情が、そこには大いに作用していた。
時代は、インダストリアルと、もう一方では、アコースティックなナマ音へと向かっていた。

当時クロスオーバーイレブンでも掛かった「マン・オブ・トゥー・ワールド」「ハート・オブ・ザ・カントリー」は、それまでの音像には無い方向のたそがれの感覚。
それは、瞬時落胆だったが、その後聴き込めば、新しい彼らの音であり、この2曲は愛していた/いる。

■Ultravox 「Man Of Two Worlds」1984■
他には、シングルカット曲も含めて如何にもウルトラヴォックスらしい曲が収録されていたが、この作品に至るまでに、既に創られた音の撫で返しであって、自分には響かなかった。
当時、メロディメーカーとして稀有な才能を持ったミッジ・ユーロならば、その程度のことはお茶の子さいさい。。。と、高い期待・要求を抱き過ぎていたのだろう。

ロッキンオンのアルバムレビューで、「ラメント」が担当盤となった渋谷陽一さんは、こんな風なことを言っていた。
本当は、彼らは新しい音楽を発明したバンドなのに、音楽には特許というものが無いので、フォロワーを含めて、後から来た新しい音楽家によって淘汰されてしまう。

それは、テクノ/ニューウェイヴのミュージシャンの宿命とも言えるのだが、割りに合わない商売領域だな、と。

確かに、ある程度骨格のベースがある分野では、そういうことは起きないのだが、ゲイリー・ニューマン始め、多くの音楽家に当てはまる事実だった。
しかし、だからと言って、「より新しく・より遠くへ」と向けて鍛錬していた・意志を持つ音楽家をけがされたような気分になってしまい、渋谷さんの発言に不快感をあらわにした記憶がある。

それを言っちゃあおしめえよ、と思った。
と同時に、「ロック」という用語が化石化した80年代には、アウェイな戦いだった中で、「ロッキンオン」をビジネスの軌道に乗せねば、という編集長の顔が覗ける発言でもあった。

■Ultravox 「Heart Of The Country」1984■

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2014年4月30日 水曜日 音楽風景 ~夜の孤島で夕食を~

2014-04-30 22:46:13 | 想い出かたちんば

テレビのコマーシャルが先だったか?FMラジオの洋楽ベスト10で聴いたのが先だったか?
今はもう定かではないが、スーパートランプの「ブレックファスト・イン・アメリカ」は、リアルタイム・同時進行で洋楽勉学途上の耳には、鮮やかな音楽として際立って聴こえた。

1979年のことである。
周囲には、終焉間近のイーグルス、クリストファー・クロス、J.D.サウザー、カーラ・ボノフなど、当時魅惑の世界。それらは自分に向かって、今でも切なくメロウな顔をして・奇妙な色気を放ってくる。
そこには「これはアメリカ、これはイギリス・・・」といった境目は、どうでも良い安息がある。

スーパートランプが、長い事バンドとして作品を出してきたことは、この曲が契機となって知った。
アルバム「ブレックファスト・イン・アメリカ」は、レコードジャケットのデザインがとても秀逸で、印象深いものだった。
海側から見えるニューヨーク・マンハッタンを模した、テーブルの調味料・お皿・フォークやナイフ。

その前で、自由の女神の格好をした、にこやかな太っちょおばさん。
そのおばさんは、ダイナーのような、安価なレストランで働いている制服姿。
〔クール&ザ・ギャングが『いつも行くお店のジョアンナおばさんが大好きなんだ』(ジョアンナ・アイ・ラヴ・ユー)と言う、名曲のくだりを思い出す。〕

タイトルは、明らかに映画『ティファニーで朝食を』のもじりである。
当時、かつて戸籍上の兄弟だった者から譲ってもらったアルバム『モーニング・アイランド』のジャケットで、青空のマンハッタンスカイラインを前に、最高の笑顔を浮かべていた渡辺貞夫さんの姿しかり、自分の空想上憧れのイメージと場所の一つがあり、「ブレックファスト・イン・アメリカ」は、それらと横並びの像を結んでいた。

どうにかして、このLPレコードを手に入れたいと思ったが、一方では、このタイトル曲しか知らないでいた。
そういう中、銀座にあった中古レコード屋「ハンター」に向かった。
ビルの地下にあったそのお店は、くるりとらせん状の階段で、一段一段が鍵盤となっていて、降りるたびに音がした。

そこで、中古レコードの価格の高さもあって、中古ミュージックテープ(カセットテープ版LP)のコーナーに、アルバム「ブレックファスト・イン・アメリカ」を発見した。ちょうど1,000円だった。
そこには、大事なジャケットは無く、カセットテープのインデックスカードも無い状態だったが、何より中身を聴くことを優先して購入した。

帰って聴くと、そこに、牧歌的だったりメランコリックな匂いの強い、味わいがある曲を発見する。そこから次第に入って行って、全部を通して聴けるアルバムとなった。繰り返し聴いても飽きなかった。
B面が始まる1曲目「Take The Long Way Home」は、切ないハーモニカで始まる。家に向かうまでの長い長い・泣きたくなるような帰り道を思わせて、心の中で未だにぐっと来る。

但し、彼らの演奏は、自分がよく囚われるようなジメジメした物悲しさが無く、ぬくもりと優しさにくるまれている。日本で言えばチンドン屋さん一座のように、街を通り過ぎ・去っては行くが、余韻を残すパレードの音楽隊みたいな感じ、とでも言うか。。。

シングルカット曲「ブレックファスト・イン・アメリカ」やジャケットデザインなどに、つい都会的イメージを当初抱いていたのだが、聴いていくうちに、昔テレビで放送されていたアメリカ農村のドラマ「大草原の小さな家」のようなイメージが入り混じった。

■Supertramp 「Breakfast In America」1979■
今夜、がさごそと家の中をめぐり、LPとカセットテープを探していた。
35年後になってから、バンド名であるスーパートランプが”漂流者”という意味であったのを知り、妙に腑に落ちた夜である。

雨はともかく、せっかく咲いたハナミズキが散ってしまうような、風の強い夜。
静かな島に戻ると、雨は小康状態。
南風に揺れる草木のさわさわする音に混じって、露地の家の風鈴が鳴っている。
ボクは、水に浸したお米が、炊き時を迎えるのを待っている。
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