こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

ブルー・ナイル  「ダウンタウン・ライツ」'89年

2010-03-28 19:29:57 | 音楽帳


上の写真は、日本大学の芸術学部の「誰か」学生さんが作った作品の、一場面。

女の子が夕暮れに遊んで、お母さんのお買い物の帰りを待ちながら、ワンちゃんと戯れたりする小品だったが、「昭和の街の匂い」を漂わせた、とてもノスタルジックな作品で、心温まる素敵な印象深い作品だった。

これに似たような夢をこないだ見た。

***

夢の舞台は、やはり自分の生まれ育った「三ノ輪」の町。

「悪」が、三ノ輪の町を襲いにやってきて、それに向かって、自分が先頭に立って、「悪」が三ノ輪を壊すのを阻止するために、町のみんなと立ち上がるお話。
(まるで、エヴァンゲリオンの「使徒」みたいな、形の無い対立すべき何がしかとしての「悪」。)

その色合いや造形が、この上の写真の雰囲気そっくりだった。

みんな貧しいけれども、ささやかな幸せを持って生きる町だった、昔の三ノ輪の町を思い起こすような色合いと漂う昭和の匂い。

その夢の中の町では、様々なモノが、粘土や折り紙、それにくずで残った材木でもって、手作りで作られた町だった。

「悪」が襲って来る前に、飼っているうさぎやねずみやネコたちを、まずは、避難所に移して、人間たちも、いつでも逃げられるシェルターのようなところを作っていた。

「悪」が襲ってくると、空を、地下鉄やウルトラマンが飛んで来て、我々を助けてくれた。
うちの向かいにあった(今は無いが)長屋を抜けていくと、そこの土間には、寅さんが居て、町の救済への相談に乗ってくれた。

途中で、昔好きだった女優の若村真由美やら、ニューハーフがたくさん出て来て、その時になると、ヨーロッパの露地街に変わって、オシャレな女性がたくさん、町を彩った。

最後は、ハッピーエンド。
時間にして、約3時間の物語だった。

***

昔、15年住んだ町「三ノ輪」への愛着と、そこへ様々な理由で戻れない事への哀しみが、この夢へ反映していた。

私同様、この三ノ輪の町で、生まれ・育った、私のお袋さんから聞いた、昔の東京大空襲でアメリカのB-29が迫ってくるたびに、みんな灯かりを消して家の中で伏していた話やら、おばあちゃんから聞いた「ここは昔、吉原土手と言って、呑み屋街で、ここで男はみんな一杯ひっかけてから吉原に行ったもんだ・・・」という話やら、戦地に出兵するに当たって町みんなで大日本帝国の国旗を振って壮行会を開いた話と写真を思い起こした。

***

ブルー・ナイルというバンドは、どこというカテゴリーにも属さず、とても極私的な世界で、ろうろうと歌うそのありのままの姿が、とても人のココロを惹きつける情緒に満ちたバンドだった。

HATSという2枚目のLPレコードは、今も大事に保存している。



このLPレコードの中には、下町生まれの自分には、特に惹きつけられる「ダウンタウン・ライツ」という名曲が納まっている。



ユーリズミックスを解散させ、ソロになったアニー・レノックスも、このカバーをしているが、私はやはり「当の本人が、その想いを歌った」オリジナルの方が、圧倒的に好きである。
決して熱くならなくろうろうと歌う中、ココロの中は、熱くなっていくこの曲は、何か、自分の見た三ノ輪の夢と、どこかで繋がっているような気がする。
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Psychedelic Furs 「Sister Europe」'80年5月

2010-03-26 00:49:24 | 音楽帳

この曲を初めて聴いたのは、1981年の暑い夏の夜だった。

5日間に渡って連続で、夏休みの企画としてNHK-FMで放送された「坂本龍一の電気的音楽講座」の中での1曲。

サイケデリック・ファーズのファースト・アルバムのこのジャケットのカッコよさ。
けだるい感じがたまらない。



ジャケット通り、妖しい雰囲気をたたえた初期のサイケデリック・ファーズは、実にカッコよかったが、次第に、その闇の世界から、化けの皮がはがれてしまったが・・・
この時代のリアル・タイムのファーズは、確実に1つの他に無い世界を持っていた。

大好きなこの「シスター・ヨーロッパ」以外にも、「Love My Way」「No Easy Street」という曲の素晴らしさは、是非オススメしたい。

***

PS:このファースト・アルバムのカッコよさ/構図のアイデアは、後に、それをユーモラスに「プラスチックス」が真似して、使っている。



ニュー・ウェイヴが、日進月歩で輝いていた、あのまぶしい時代を思い出すと、ココロが燃える。

あっちがこう出てきたか!と思うと、こっちはこう出てやる!

・・・と言う具合に、ロンドン←----→TOKIOのバトルが、全体の音楽水準を上げて行った「幸福な時代」だった。
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渡辺真理さんの声が、聴けなくなる。

2010-03-25 00:46:15 | 雑記帳


毎晩、疲れて帰る深夜、TBSラジオの「アクセス」で、渡辺真理さんの声が聴ける事が、1つのささやかな癒しだった。

ラジオという「肉声」で、物事を伝えるメディアは、永遠になくならないと想う。
ただ、時間を埋めるために、騒いでいれば良い地上波テレビ(=沈没船)とは違う。

この写真は、ニュース・ステーションの頃の、赤い服が「嫌味」無くしっとりと似合ってしまう、おしゃれな真理さん。

長いこと、渡辺真理さんの声と表情を見てきたが、そこからにじみ出る、この人独特の柔和な雰囲気と優しさ。

「肉声」というのは怖いもので、その人となりが、伝わってくるものである。
小島慶子の開き直りと自己意識の高さとは比べようも無い。

それが、長く、人に愛されてきた「魅力」なのだとつくづく思う。

TBSラジオは、小学生の頃の小島一慶さんの「夜はともだち」に始まり、長い事愛してきたが、近時、若山弦蔵さんの「バックグラウンド・ミュージック」・小西さん&マッピーの「ストリーム」・伊集院光さんの「日曜日の秘密基地」・そして、この「アクセス」と、大事な番組とリスナーの意向を切り捨てながら、一体どこに向かおうとしているのか?

自分には、どうも解せない。

個人的には、多忙な3月にへとへとであるが、残り数日。
何とか、最後の4月1日の渡辺真理さんの「アクセス」まで、ちゃんと幕引きまで聴き遂げたいと思っている。
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「春」と「桜」と「自殺」の中で・・・

2010-03-24 00:41:15 | 雑記帳


今日も、くたくたで、小雨の中、22時半ごろ駅に向かう中、中目黒方面の電車を待つ人が、何か感覚的に多いなあ・・・と思うと、東急東横線で、また、「飛び込み」があったようです。

また、山の手線も、架線に何かが絡まったのが原因で、さまざまな電車に遅れが・・。

近時、「飛び込み自殺」ざんまいの日々に、やはり今の日本は、そこまで異常な状況にあることを、ただ黙って認識するだけだ。

今夜は、いくつかの事故が連鎖して電車のダイヤ全体が麻痺していた。

***

2009年度という不幸だった年度が終わろうとしているのに、そこで「リセット・ボタン」が押されて「さあ、新年度だ」という切り替えがされれば良いものを、その「ゼロ」への回帰はされる事無く、棒状に繋がった「時」の連なりが、見通しの効かない2010年度に繋がっている・・・。

何の保証も無い「Tomorrow Never Knows」という世界。

それが、多くの人の大事なイノチを「魔の刻」に轢きずりこんでいくのである。

自分が、いつからだったか・・・・春に抱く憂鬱は、年度の切り替わりの中、さまざまな不幸が、みんなの上に訪れる事に拠る。

まあ、仕事を始めた1991年(バブル崩壊後)から、約20年間、ひたすら右肩下がりの日本と共にしてきたが、ついに、こうして、まさに「デッド・ライン」に入った2010年。

***

「なぜ、わたしたちは別々の家に帰らなければならないのか・・・」

そういう歌詞が、昔、大好きだった斉藤由貴自身の作詞の曲(アルバム「LOVE」に収録)のセリフにあったのを、急に思い出した。

みんな一緒に居れればいいのに、そうならない現実。

「出会いがあれば、別れもあるさ」・「別れもまた楽し」というコトバもあるが、我々は、そんな前向きなコトバには揺るがないほどの地点に来てしまったような気がする。

ロジカルさ・整合感を全く欠いた大きなチカラが、わたしたちを引き裂いている、きしむ「音」が聞こえてくる。

***

1年という長い時間を寡黙にこつこつと過ごした日々の果て、やっと華々しく咲いた桜が、ほんの数日の嵐や雨という大きな軋轢によって、桜吹雪という美しく刹那的な華々しい散り方をしていく。

ぼくらは、それを綺麗だなと見上げながらも、その桜という不思議な樹木の営みに、さまざまな想いを投影する。

今年の桜には、何か特別な念を抱きながら、しかし、だからといって、何も出来ぬまま、その散り様を、ただ見ている。

「時」だけは、残酷にも、みなの上に等価な長さで、進行し、刻み続ける。
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スクリティ・ポリティ 「オペック・イマック」

2010-03-20 17:00:39 | 音楽帳


スクリティ・ポリティというとすぐ「キューピッド&サイケ’85」というアルバムに直結してしまうヤカラが多いと思う。

確かに、あのアルバムは、素晴らしいのであるが、時代の流れと共に一緒に過ごしてきた自分には、パンクの影響を受けてスタートした初期の頃の12インチや、1枚目のアルバム「ソングス・トゥ・リメンバー」を忘れて欲しくは無いなあというのが本音である。

元々、アートスクール出身のグリーンが始めたユニット「スクリティ・ポリティ」。

最近、やっと「Early」という初期の曲を収録したCDが発売されたものだが。

寡作であったが、ジャケットのアートワークも曲も、アートスクール出身らしく、すごくアイデアに富んでいて、驚かされる事も多かった名曲の数々を創り出した「スクリティ・ポリティ」は、ほんとに80年代において、偉大な存在だったと思う。

***

個人的には、初期のパンクの影響強い「オペック・イマック」という曲が好きである。
原始的なドラムというよりタイコに近い音、ギターは練習しているような音で失敗しているさまをそのまま、暗黒的サウンドの中、暗くつぶやくようなグリーンの声・・・・。

また、その後、「ソングス・トゥ・リメンバー」にも収録された12インチ「スウィーテスト・ガール/ライオンズ・アフター・スランバー」、そして「フェイスレス」がとてもとても好きです。

これらの曲を知り、聴いたきっかけは、1981年4月に始まった教授の「サウンドストリート」であり、1982年の半ばに始まった、ピーター・バラカンさんの「スタジオテクノポリス27」であった。

そのカセット・テープは、約30年を経ているが、未だに愛蔵品として保存してある。

***

俯瞰的に見ると、「キューピッド&サイケ’85」は確かに素晴らしく、グリーンの才能全開の作品なのだが、その完璧すぎるサウンドは、ややもすると商業的な音楽と取られかねない「危うさ」を同時にも抱えている。

そういう意味で、自分には、初期のアイデアあふれる「オペック・イマック」ならびに、12インチの数々の方を愛してしまう。

もともと寡作なグリーンではあるが「キューピッド&サイケ’85」以降のアルバムも出るたびに、全部聴いてきたが、1985年以降、今までを超える作品を創り出せないでいる。

坂本龍一・細野晴臣・高橋幸宏という3人の天才は、雲の上の人としても、「才能やひらめきというのは、枯渇するものなのだ」と、グリーンの創り出す音楽と共に生きてきた自分は思ってしまうのである。

音楽家は、死を迎えるまで、常にきらめき続ける事が如何に困難であるかを思ったりする。
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「Tokyo Sky Tree」とともに生きる

2010-03-18 23:57:48 | 写真日和


日に日に、落ちていくだけの日本のさなか、逆行するように、ぐんぐんたくましい植物のように、天を目指す「Tokyo Sky Tree」(ステキなネーミングです)。

このタワーが育っていく姿が、辟易するような、溜まっていく一方のかたちんばの疲労の背景に、いつも居てくれる最近です。

やっと、僕の家の近くからも「芽」を出し始めまるまで、育って来ました。

ポスターも素晴らしく、夢があふれています。

・・・・天までとどいた「この子」の晴れ姿を、せめて生きて、この東向島から、この眼で見届けたいと思っています。
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そして、ふたたび、春がくる・・・・

2010-03-16 23:39:07 | 雑記帳


今日は、早く帰ろうと誓ったが、結果は21:56の電車になってしまった。

朝から、商品の欠品調整に終われるうち、今日やろうとしていた仕事がスタートしたのは17:30(-_-#)・・・・・。

3月の需要動向も、上向いて来たが、利益確保の為、在庫を絞ってきたせいで「バッファ」に耐えられず、作っては欠品・作っては欠品を繰り返している。

今、ゴールドラット博士の本を読みながら、何とかそれを現場に展開しようと思っているが、本当に在庫のコントロールというのは難しく、自省すべき点も多い。

まあ、3月末まで、これから毎日、日々の調整を片方でしながら/もう片方で、次年度の予算の造り込みをしなければならない、という正念場の半月になる。

毎年恒例の難局である。

***

 自分の仕事場では、「暴挙」と言うしかない人事異動があり。
笠智衆のように大事な指南役の仕事仲間を失う事となり、皆ショックで、片方の翼をもぎとられた形で、4月から離陸せねばならない事となった。

内面で爆発する感情は押さえがたいものがあるが、いくら言っても現実は変えようが無い。

そんなあきらめと共に、片翼でいかにして飛ぶかを頭の中では練り出し始めている。

しかし、その前に、普段は「形式的催し物」が嫌いな自分も、今回は、有志だけで、何とかささやかな「送別会」の場を作って、お礼を言えるよう、一晩の空白時間を作れるように、何とか時間調整したいものだと思っている。

***

帰り道、すでに春休みの女子中学生が、どこに遊びに行ったのだろう、集団で電車に乗っていた。
たくさんのキャラクターのおみやげを抱えた素直そうな友達同志。。。

春というのは、大人になってしまった自分には、憂鬱で残酷な季節である。

「桜の木の下には、死体が埋まっているに違いない・・・・」

***

この日曜日、暖かい陽気に誘われて、ずっと引きこもり冬眠していた自分が、珍しく、外に出かけようという気になり、ひさびさに「東京写真散歩者」に戻り、神保町界隈~末広町~上野~浅草とめぐり歩いた。

ラジオで知った、上野交番の横の桜は、見事に今年は、他に先がけて、一番乗りで花を開いた。

花を咲かせるために、1年も沈黙を守りながら、見事なプレゼンを披露しながら数日で散って行く桜のはかなさよ・・・・。

「散るをいとふ 世にも人にも 先がけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐(さよあらし)」

大好きな、三島由紀夫先生の、昭和45年11月25日の辞世の句です。

様々な人々の交錯する中、季節はめぐりめぐって、そしてまた、今年も、春がやってきます。
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「昭和人」VS「女性の生理」

2010-03-16 00:30:51 | 雑記帳


この写真は、今日、確定申告に行った曳舟の税務署の近くのゴミ捨て場に「発見!」と感じて、街をうつろに東京アッジェする「かたちんば」が、カメラを向けてシャッターを切ったもの。

古い街というのは、不思議なもので、こういう挙動不審なハゲヒゲオヤジが、佇んでいるだけで、その空気を察知して、窓を開けてこちらを睨む人が居るものだ。

土着感がある昭和の名残を残した路地の空気感がある「その街」が正常であるとリトマス試験紙が判定を下したような証拠である。
本来、こういった路地への「よそ者」はささっと立ち去るのが礼儀なのだが、なかなか醍醐味在る物件だったので、つい、カバンからカメラ取り出して、少し間を置いたので、「バシャン!」と高い所の窓を開けて、おじさんがこちらを睨むに至ったのである。

***

最近、電車マナー向上のポスターが貼られているが、「資本主義社会」の欠点とは、「カネさえありゃ、何したっていいんだろ!」という「MORAL」を定義するものが存在し得ない点である。

戦後、アメリカに骨抜きにされた日本は「自由」であるかの錯覚を抱きながら、日本の古来のある性分を失いつつあるのが実情である。

***

話は全く変わるが、「オンナ」という生き物はつくづくわからないものだなと思う(=へ=)。

ほんとにわからん。

アッコちゃんの「ラーメン食べたい」の「友達で居られたらいいのに」では無いが、自分の経験上、色んなオンナの人と付き合ってきたが、「オンナ友達」という人は1人も居ない。

男女の関係であるか/そうでないかの二者択一でしかない。

それは、自分の性格上そうなのか?というと、自分的には、男とオンナは別の生き物であり、男友達というのはあっても、オンナ友達というのは成立しないように思われる。

何だか、男の方が、そういう意味でとことん「話せば解かる」ので、解かり易い単純さにくらべ、オンナVSオンナの女友達というのも、実に「微妙な関係」だと、周囲の出来事を見渡して、よく思う。

***

(例)
昔、「A」という女番長のような人と一緒の仕事場だった頃、自分が仕事場の忘年会の取り纏め役だったが、常にいつもオトコがこういう催し物を仕切り/常に、オンナは「どうしよぉぉ~っかなぁ~」という様子伺う感じに憤慨していた我輩だったが、そこをぐっと飲み込み、仕方無く、幹事として、なだめて来るように持って行ったが、余りにそのわがままな態度にも限界がある!とつい「ブチキレ」てしまい、メールで「来ても来なくても、どおでもいい~ですよ~ぉ」というメール出したら、みんな連鎖反応で、「予定が入って行けなくなりました」の渦。

結局来てくれた女性は、中立的位置に居て、「A」とその取り巻きから距離を置いている、優しい「B」さんだけだった。
それだけが救いだった想い出があります。

オンナを敵に回すと怖いと思ったのと同時に、それまでは、皆様子を窺いながら、バラバラだったのに・・・?と不思議に思ったものです。

***

仲良いフリして仲悪かったり、逆に、ある面では結託していたり、女同士というのは、男同士みたいにカンタンにはいかない「生理」というか「きまぐれ」で生きている「ナマ物」なんだなあと思う。

最近、しみじみ怖いのが、どこからか「ある人」の情報が漏れたりすると、ひょんなところで、ひょんなオンナがそれを知っていたりすること。
女性の情報の伝達の流れというのは、系統図を書いても、そのままにはいかないということ。

最近、怖かったのは、庶務している「C」さんが、契約社員なのに、仕事上、全員の給与明細を毎月作成していて、そこから誰が幾らもらっているかという情報が、「D」⇒「E」⇒「F」・・・・・とダダ漏れになっていた事。(ヒエ~ッ)

まあ、我々のようなリストラ寸前の辺境に居る人間は興味の対象にはなりえないが、個人情報もへったくれも無い。
こういう事があると、まあ、結局、みんな「おばはん」連中の寄り合いみたいなものに見えてくるものだ。

***

闇では何が情報として「密の味」として流れているかわかったものではない。

以前、とある「G」さんと呑みに行った際、隣同士仲良くやってそうな人妻「H」さんの胸元の見えそうな無防備さ(自分は興味無いが、いつも楕円形にたるんでいる)は「一体、同性から見てどうなのよ?」と聞くと、「あれは、多分、自慢で見せたがっているんだと思いますよ。自分が豊満な胸をしているのを、わざと強調していると思う。自分も目に余って、言おうとする時あるけど言いようがなくて・・・」と言っていた。

この話でさえ、いつの間にかすりかわって「かたちんばさん、Hさんの胸ばっかり見ているらしいわよ。」と、いつの間にか変化していたりもする。

「まったく、スケベねえ」と「H」さんの前で「G」さんが言っているやもしれないのだから、困ったものである。

***

また、オンナの人の特徴として、「モノ」に執着心がない、という人が多いと思う。
というか、すぐリセットスイッチが押せる機能が付いているようだ。

自分は、別れたオンナの物でも、「それも人生の一部」として持っていたり、うじうじしているが、オンナは別れるとさっさとモノを捨てる・・・。

たぶん、もし、自分が、結婚などするハメになったら、自分のマニアックな面の40年手塩にかけた収集物は、単なるゴミとして、全て廃棄処分されてしまうだろう。

「使うの?持ってて何の意味があるの?」
たぶん、そう言われるだろう。

「昭和人」と顔に書かれた、古きを愛する「かたちんば」には、怖くておそろし過ぎる。

そういう意味では、今の家は「ゴミ溜め屋敷」なのだ。
一挙にブルドーザーで、再開発地域みたいに、何1つ残ることなく、自分ごと捨てられそうで怖いお話しです。
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Public Image Limited 「CAREERING」'80年

2010-03-12 01:45:01 | 音楽帳



この「キャリアリング」はなんとCM(どこのスポンサーかは忘れたが・・・)にも起用された、自分も大好きな曲である。

このヴァージョンは「Paris au Printemps」というパリのライヴを納めたアルバムに入っているものだが、原曲は1979年の「アルミ缶」に入った「メタル・ボックス」に入っている曲である。

低空飛行を続けるジャー・ウォブルのベースが、カッコイイ。

「ロック」も「パンク」も否定してたどり着いた「パブリック・イメージ・リミテッド」という稀有な、カテゴライズされる事を拒否した革新的なバンドのノッていた時期の名曲である。

ジョン・ライドンというと、すごく暴力的イメージが強いように思えるが、本当はすごくひ弱で病気を持った子供時代をすごした人で、目線をそらさないのは、実は「挑発」ではなくて、その病気ゆえに、クセになった彼の病気の克服法なのだ。

実際は、読書家の、静かなインテリであるらしい。

80年代の革命的・先進的なアルバムを作り出した「パブリック・イメージ・リミテッド」。

「聴いていて楽しい」という音楽を志向する人にはオススメするつもりは無いが、未開の地へ突入していく、ジョン・ライドンの気迫には、鬼気迫るものがあり、常に戦う姿勢を崩さない彼への個人的なシンパシーと、チカラをもらうことも多かった。

「革命」に根ざす彼の音楽には振るい立たせるものがある。

僕は、そういう道を進んだジョン・ライドンを「これを聴かずして何を聴くんだ!」という気持ちにさせられる瞬間がある。

彼は見事に、音楽の革命を起こした偉大なる革命家の1人として、音楽史に刻んで欲しいと思っている。


「Paris au Printemps」(live)

1.THEME
2.CHANT
3.CAREERING
4.BAD BABY
5.LOW LIFE
6.ATTACK
7.POPTONES
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司馬遼太郎 『21世紀に生きる君たちへ』

2010-03-11 00:59:57 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ


私は歴史小説を書いてきた。

もともと歴史が好きなのである。
両親を愛するようにして、歴史を愛している。

歴史とは何でしょう?と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」
と、答えることにしている。

私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。

歴史の中にもいる。
そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。

だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。この楽しさは(もし君たちさえそう望むなら)おすそ分けしてあげたいほどである。

ただ、さびしく思うことがある。
私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。

未来というものである。

私の人生は、すでに持ち時間が少ない。
例えば、21世紀というものを見ることができないに違いない。
君たちは、ちがう。
21世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。

もし「未来」という町角で、私が君たちをよびとめることができたら、どんなにいいだろう。
「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている21世紀とは、どんな世の中でしょう?」

そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういない。

だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。

もっとも、私には21世紀のことなど、とても予測できない。
ただ、私に言えることがある。
それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。

昔も今も、また未来においても変わらないことがある。
そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているということである。

自然こそ不変の価値なのである。

なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。

さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。

人間は(繰り返すようだが)自然によって生かされてきた。
古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。
このことは、少しも誤っていないのである。

歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。

この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。

「人間こそ、いちばんえらい存在だ。」という、思い上がった考えが頭をもたげた。
20世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といってもいい。

同時に、人間は決しておろかではない。
思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。
つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。

このことは、古代の賢者も考えたし、また19世紀の医学もそのように考えた。
ある意味では、平凡な事実にすぎないこのことを、20世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。

20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。
おそらく、自然に対し、いばりかえっていた時代は、21世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。

「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。

この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べたように近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。

この自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。
そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。

そうなれば、21世紀の人間はよりいっそう自然を尊敬することになるだろう。
そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬しあうようになるのにちがいない。
そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。

さて、君たち自身のことである。
君たちは、いつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。

「自分に厳しく、相手にはやさしく」という自己を。

そして、すなおでかしこい自己を。
21世紀においては、特にそのことが重要である。
21世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。

科学・技術がこう水のように人間をのみこんでしまってはならない。
川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が科学と技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。

右において、私は「自己」ということをしきりに言った。
自己といっても、自己中心におちいってはならない。
人間は、助け合って生きているのである。

私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。
斜めの画がたがいに支え合って、構成されているのである。

そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。
社会とは、支え合う仕組みということである。

原始時代の社会は小さかった。
家族を中心とした社会だった。
それがしだいに大きな社会になり。
今は、国家と世界という社会をつくりたがいに助け合いながら生きているのである。

自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。

このため、助けあう、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
助け合うという気持ちや行動のもとのもとは、いたわりという感情である。

他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。

「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」
みな似たような言葉である。

この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。

根といっても、本能ではない。
だから、私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。

その訓練とは、簡単なことである。
例えば、友達がころぶ。
ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、その都度自分中でつくりあげていきさえすればいい。

この根っこの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲よしで暮らせる時代になるのにちがいない。

鎌倉時代の武士たちは、「たのもしさ」ということを、たいせつにしてきた。
人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。
人間というのは、男女とも、たのもしくない人格にみりょくを感じないのである。

もう一度くり返そう。

さきに私は自己を確立せよ、と言った。
自分に厳しく、相手にはやさしく、とも言った。
いたわりという言葉も使った。
それらを訓練せよ、とも言った。
それらを訓練することで、自己が確立されていくのである。
そして、“たのもしい君たち”になっていくのである。

以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心がまえというものである。

君たち。
君たちはつねに晴れあがった空のように、たかだかとした心を持たねばならない。

同時に、ずっしりとたくましい足どりで、大地をふみしめつつ歩かねばならない。

私は、君たちの心の中の最も美しいものを見続けながら、以上のことを書いた。

・・・・・書き終わって、君たちの未来が、真夏の太陽のようにかがやいているように感じた。

***

最後の一行に、何も言う・添える言葉も無い、染み入るような名文である。
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