こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年9月28日 月曜日 He(&She) Makes Me Wonder

2015-09-28 23:41:04 | 音楽帳

案の定、日が明ければ、私利私欲だけの連中の渦に巻き込まれ、くだらない三文芝居にハナをほじりながら適当に付き合い、深夜帰路を辿る。
ひたすら根絶やしにせねばならないモノ者が、書く手帳に増えていくだけのこと。それだけのこと。

野外の空気も空も数少ない味方。
島の夜の暗闇、その道をよぎるネコたちに出会う。

帰路でデペッシュモードを聴いていた。
電子音楽に感電した落とし児、みなし児みたいな気分で、広い空の下、電子のシャワーを浴びる心地良さ。
”なぜ?月夜に電子音楽を聴くの?”そんな論理的整合性など欠こうが欠くまいが、流民のじぶんが知ったことじゃない。

■Depeche Mode 「Shine」2001■
多くの”その手合い”の本が書いているように、80年代初頭に花開いた海外テクノで、結果的にそのたましいを貫き・多くのフォロワーを産んだのは、ニューオーダーとデペッシュモードだろう。

メンバーの死(にかけた)危機を超えて発表した2001年のアルバム「エキサイター」を買って聴いたのは、数年前のこと。相変わらず咀嚼するスピードは遅いので、ちゃんと良いモノと響いたのは最近のこと。
”生き伸びたから”といって、決して保守的にならず、不可思議な響きを音に感じるあたり、彼らのフロンティア精神は失われていない。
このアルバムも、歩きシャッターを切りながら聴くと、なかなかの恍惚感を産むドラッグ。

2013年、手に入れたチラシ
「スーパームーンだからさ、今夜の月は。」そういう会話を、今日あちこち、いくつか聞いた。
じぶんはそういう専門用語を知らないし分からないから「それって、どういう意味?スーパームーンて、なぜそう言うの?」と幼児みたいに訊くと、誰もちゃんと説明できない。

勝手に酔えば良いが、四六時中外を歩く自分に、今夜の月が一番きれいとは思わない。
もっともっときれいな”お月さま”が浮かぶ日の夜を体験してきたから。
近時では、7月25日隅田川花火の暴動を避けて、韓国街・三河島を歩いていた頃見た月の妖しさが浮かぶ。それは満月でもない。満月である必要もない。

科学的に計算された”一番大きい月”など意識には分からないはずである。
江戸時代、あるいはもっとさかのぼった過去の同志たちが歌を詠むくらいに美しい月を見た夜に、計測など左右していなかった。目の前に見えて感じた、というシンプルな姿だったはずである。

それなのに、そうメディアで言われているから、その夜だけ空に”すまほ”を向けるなど愚の骨頂に見えて仕方がない。
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2015年9月27日 日曜日 中秋月夜

2015-09-27 23:12:02 | 音楽帳

就学や仕事といった濁流奴隷渦中と休暇日との差を埋めようとしてきた四十数年。
かなりのあやつり方法は体得したが、それでも差はある。歳を取りいくら学習しても、だからと言って何かを回避できるわけじゃない。
学校でもマスメディア世間でも経済や企業でも・・・本当のリアルな現実をいかにして生き抜くか、あるいはどんな心構えでいるべきかなど、何も教えはされない。
全部、欺瞞に満ちた世界に過ぎない。デマ宗教催眠世界。

教えてもらうは、近い存在。
生き物や友達や同志、ラジオDJ、書・絵・音楽・アートとそこに関わる人たちなどなど。。。

昨日も今日も街をふらついていた。
今日は、最近付き合いの多い女性と食事をし、昼からお酒を呑み、アジア料理を喰べた。
「また、やせたんじゃないの」と心配と説教を受けながら。

お互い結婚というものが単なる契約に過ぎず、契約が逆に悪を加速し、いずれなれの果てになっていくのが分かっている。
それに「あなたは、独りでいることが大好きでしょ」とまで、見事に見抜かれている。
だから、それぞれがそれぞれの時を過ごし、逢いたいときに逢い、一緒に過ごす。

肉を避ける料理を選ぶ気を遣うのはむしろ向こうで、こちらは「なんでもいいよ」と一応にっこりする。
昼からお酒を呑むなんて、あまりない。土日は歩くのが愉しいから、夜になるまで呑まないのがここあたりの自分だった。

二人でいろいろてくてく歩く。共通の島で。
酒を抜く意味でも。

夜に別れて歩き出すと、あれ?と目の前に中秋の月が浮かんでいた。昨日も今日もきれいな月。
天気予報では「残念ながら今夜の”中秋の名月”はきれいに見られない」そう言っていたので意外だった。

月を見ながら数キロ、追いかけっこ。
交通網を利用・・・と思っていたが、結局家まで歩いてしまった。





明日になれば、また野蛮でどうしようもない馬鹿どもが主たる部分を成す、馬鹿な社会が始まる。
今も明日もそんなものは、可能な限り無視して生きよう。おまえらに蹂躙される覚えはないと。

■Perfume 「Relax In The City」2015■
紹介したいと思いながら、出来なかった。
私の2015年夏の想い出に刻まれた意外な一曲。

インターFMで毎日聴いているうち大好きになった。
独り街を放浪するなか。猛暑の日も土砂降りの日も、mp3プレイヤーに入れたこの曲に励まされ、歩くリズムは幸福に向かった。

この映像はその後に観ることになった。
”のっち”こと大本彩乃さんがとっても可愛いけれど、それとこの夏に刻まれた風景はまったく関係がない。

音楽として、過去Perfumeを否定してきたじぶんが瓦解した夏だった。
この曲が好きなことは、今後も何ら変わりはないだろう。

ココロを上向きに ステキのさあ、はじまり
ワン、ツー、スリー・・・Find A Great Viewpoint
Here We Go・・・キミの場所がある

なにかを変えるのは、今かもしれないから
ワン、ツー、スリー・・・Find A Great Viewpoint
Here We Go・・・キミの特等席

リラックス・・・いつもキミと ここちよい場所 さがしてるの
遠い街並みを・・・こもれびの下ながめてるの

リラックス・・・今日もキミと ここちよい場所 さがしてるの
遠い雲の下、顔出す太陽にあたためてほしいの

ココロおどらせるステキをはじめよう (Relax In The City)
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2015年9月26日 土曜日 それでもなかまと語り合う。

2015-09-26 11:18:25 | 音楽帳

たまにはケンカもする

このところはすっかり秋となって、朝から肌寒い。20℃を切るまでに。
寝る夜中には手足をハエみたいに、すりすりしていたりする。

今週は、水、木、金と3日だけ働いただけなのに濃密で、昨夜は気持ちがヘタっていた。
でも、おだやかに土曜の朝が今は来ている。くもってはいるが明るい。

上下関係を気にしない集まり、とTBSラジオできたやまおさむさんが言う。
たしかに永六輔さんのラジオ「ラジオワイドTOKYO・永六輔その新世界」の楽しさは、そんな”寄り合い”みたいな会話にあった。
今日は、このラジオ最終回で、朝から聴いている。紅茶を呑みながら。

大学時代、絵具類のにおいが充満する美術部の部室に出たり入ったりする”寄り合い”も、歳や学年が上も下も無く、奇人変人たちのしっちゃかめっちゃか。それをにおいと共に想い出す。
今でも一番濃い付き合いをしているのは、ここで出会ったなかまたち。
今年12月がむかえられたら、また3人で都内の古旅館で忘年会をしたいもの。

(マス)メディアとは今の私には悪を語る言葉になってしまったが、原始は媒介として間をつなぎ・ふつうでは出会えなかった者同士が会える広場や公園みたいな自由な空間を意味していた。
永さんのラジオ番組というのも、聞く側にとってもそんな「場」だったような気がする。

昨夜、へたった雨の帰り道、ひさしぶりの渋谷陽一さんのラジオをFMで聴いた。
いまだに変わらず、常に今の音楽動向を語り紹介する渋谷さんのDJスタイルに安堵した。
そして、すごいと思った。

歩くとき持ち聴くmp3プレイヤーには、秋の曲を追加しながら次第に春夏の曲を外していかれている。モンスーン、XTC、ビッグカントリー、デペッシュモード等々1983年秋曲を挿入。

でも、全部の曲を聴くというより、いつも特定の曲ばかりを繰り返し聴いてしまう。
歩くリズムに合うのか?プリンスの「一日で世界一周」に入った好きな曲ばかり。
80年代のプリンスの作品が持つ迫力は、今もパワーを持っている。あまり泥臭過ぎるファンクや騒がしい曲は駄目なのだが、80年代作品では2枚組「1999」や「パープルレイン」といったアルバムより、今は「一日で世界一周」。

ジャケットや雰囲気から、このアルバムにはいつもビートルズの「サージェント・ペパーズ・・・」を想い出す。どうもこの作品にビートルズへの意識的なオマージュみたいなものを感じる。

■Prince 「Pop Life」1985■
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2015年9月23日 水曜日 秋分の日

2015-09-23 23:06:28 | 写真日和

6:50AM Good Morning
日々の苦しみや考えることはいろいろあるが、まとめようとするとまとまらず。
文字にしたためよう、とちんたらしているうちに、時のほうがじぶんを越えていってしまう。
そういうことで、そんな何かを築こうとする徒労はやめ、まとめようとする行為を捨て・断片に徹する。

どうあがこうが、今は今しかなく、今日は今日しかないのだから。
と書いたところで、”今夜は今夜しかないのさ”と言っていた白井貴子の言葉とダブってしまった。別に彼女の音楽ファンではない。





おはよう。早朝から仕事場へ。

午後しばらくすると、今日やれるコトが尽き、仕事場を出て歩き出した。
絶好の散歩日夜。



14:40PM 郵便発祥の地を通り過ぎる。







14:50PM 日本橋・室町あたり







15:10PM 神田・須田町







15:40PM 岩本町





16:10PM 御徒町



16:20PM 東上野





16:50PM 元浅草

カッパ橋

駒形橋





本所



18:00PM 桜橋付近でやせた子猫ちゃんに出会う
カリカリ一袋を平らげる。いつまでもすりすりしてくる。でも、家まで連れていけない。
また来るから元気で、と声を掛けて去る。

結局、島まで歩いてしまう。

■大村憲司 『ザ・プリンス・オブ・シャバ』1981■

ほら
もうずいぶん昔のことだけど ふっとふりかえってみると
そこにあの頃のまんまの自分がいて
あの時とあの場所が やけに輝いてみえるんだ 黄金色にね

あのころ、なんだか
じぶんのまわりのものはなんだってこのままずうっと 永遠にそのままでいるんだって
当然みたいに思っていたけれど

でも、お天気みたいなものでね
ずうっとそのままで 黄金色に輝きつづけるものなんてないんだ

でも、そうかな?
”昔のことだ”って言い切ってしまうには あまりにも生き生きし過ぎているんだからね
”あの日”はいずれ消え去ってしまうものかもしれない
でも、一本のレールのようなものが導いて 何かを黄金色に輝かせているんだ

悲しくなっちゃうよね 同情するよ
でもね、人生って夜のきらめきのようなもの キラキラと輝いているんだよ

”あのときのこと”は決して古ぼけてしまったりはしないんだ
いつだって輝いているんだよ 黄金色にね

(スティーヴィー・ワンダー「ステイ・ゴールド」1983 [コッポラ作品・映画『アウトサイダー』挿入歌])



食材を買って帰りラジオを点ける。
AMがつまらないのでFMに変えると、NHK・FMはラジオドラマ特集。
椎名誠さんの大好きな「気分はだぼだぼソース」”ふたりの部屋”をやっていて聴き入る。
伊武雅刀さんの声。

NHKはバカなのか?このマスターテープを捨てた事実を知る。
椎名さんのこのドラマは、聴いて録音していた人のカセットテープからリマスタリングしたものという。いったいどういうつもりなのか?
仮にも公共放送と名乗っているNHKの神経はいかに。。。
しかし、次第に納得が行った。
ラジオの存在はファンの想い入れの方が上。
映像はともかく、適当に捨ててしまえ、と言う肩書き入りの連中の姿が目に見えるように浮かぶ。
平気でマスターテープを捨てておきながら、YOUTUBEにアップしたラジオ番組には著作権を主張する。連中というのはその程度の存在なんだろう。まるでクレーマーそっくりである。
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2015年9月19日 土曜日・深夜 ぼくらはここにいる。 

2015-09-20 00:46:58 | 写真日和

歩くともうすっかり、秋がいっぱい。
それは撮る対象というより、写真の光に見える色合い。

てくてく今日も歩く。
それだけで、イヤなことも忘れる。ただただたのしい。







■矢野顕子・佐野元春&坂本龍一(詞:糸井重里) 「自転車でおいで」1987■























長いこと愛してきたアッコちゃんたちのこの曲。
音楽そのものも素敵だけど、HOJIROUさんが2008年に上げてくれた、このNHKの映像も素敵。
たぶん明け方の放送だろう。

ここには、この島に今も在る、井戸とそのまわりが映っている。

日々起きる悲しみや怒り。
そんな感情を忘れて、心の在り処を見つけ、精神が安定することが出来る。
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2015年9月17日 木曜日 むずかゆい「社会的価値」と無意味

2015-09-17 00:48:36 | 雑記帳
タマの夜に外呑みに数杯だけ付き合い、地面に光が乱反射する雨の夜。
ふらふら酔いながら、それでも脳は回転していた。朝は弱いが、過去肝臓を壊せる程度に酒には強いほうである。

帰路の電車で、さらりーまん(給料生活者)的社畜2人が、ぐだくだ酔ってごたくを並べている。車内には人が居ない。観客は自分以外居ない。

2人ともとらわれの身を自ら忘我し、システムの一部として刷り込みされた「なにがしか」に夢中。囚人のように。それが意味のない会話に聞こえる。極めて狭い世界。

今さら言うまでもない、化かし合い世界の、よく見慣れた風景。
そうやって、数十年しか生きられないのにも関わらず、人はそこに沼のようにずぶずぶ浸かって行く。

聞きながら想いをめぐらせると、浮かぶはいつもどおり好きな人たちにぷかぷかと辿り付く。
じゃあ”誰ならこうだ”ということ。

好きな人たちはいつも、社会的価値なんか、大した意味なんか無いんだよ、ということを証明すべく、一個人として自らの粗暴なありさまを真実として具現化しようとしてきた事実。

***

捉え方は人それぞれだろうけれども、私にとっての大竹伸朗とは0を100にしようとする、そのアナーキーなさま自体に刺激と生きていく希望を抱く。
「画家」「非画家」という区切りを超えようとする、その情熱に胸を撃たれる。感情論ではない。
作品がどうこうより、そんな概念そのものを0にしてでも、今・ここに居る自分を基準にしていることにおいて。

坂本龍一は、かつてはそういった文脈とコードを引きずった人だったが、次第に社会的価値に引き寄せられていった。だからといって、未だ坂本龍一は大事な此の世の財産と思っている。
だが、まるで我慢比べみたいになるのも良くはないし、教授の稀有な才能も重々承知の上、俯瞰的に引いて見ればそう思う。

「そういう、お前自身が、それをまのがれ得ない”給料生活者”じゃねえか」とよく言われる。
まったくその通りである。
しかし、こんな醒めた意識を持って生きるか否かは、きわめて重要な分岐点とも思う。

必死で「社会・人」であろうとして(或いは”あらねばならず”と)「社会」に100寄り掛かるのと、50寄り掛かるでは大いな違いだろう。結局は、兄貴に昔言われた当たり前の言葉が浮かぶ『おまえが言う世界は、もう存在しないし、それは叶わない』。

それでも、0/100ではない場所に、生きるところを見つけるのがにんげんじゃあないのだろうか?。
個人が社会システムの内側に居たって、イコール社会人である必要はない、という当たり前の事実だけが置き去りにされているように思う。
この一点において、おもねり寝技を使い、しけこむ者ばかりのように見える絶望風景を永遠に望まない。

■坂本龍一 「ザットネス&ゼアネス」1980■
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2015年9月15日 火曜日 生活の柄

2015-09-15 23:38:48 | 音楽帳

9月14日 月曜日
河川決壊後対応でくたびれて、早く寝れば良いものが、独り深酒。そんな時間が無かったら生きていけない。
2時半消灯、睡眠薬服用。

9月15日 火曜日
朝早く起きねばならず、設定したアラームが何度も鳴るが何度も消す。
さぶくねぶくなかなか起きられず。

朝一杯のおいしい緑茶。湯気。二杯頂き、薬を服用、入浴・湯に浸かる。
歯磨き、ヒゲそりとせわしない業務。

外に出ると、さわやかな風と秋雲・空。雲はヒューッとカールしてきた。
ただ葉っぱが落ち・バラけただけなのに、見る足元が秋に見えてくる。
色はまだ若い。

座るつもりはなかったが、二日酔い&足腰痛から、すいたでんしゃの席が空き座る。
タンジェリンドリーム「ハイパーボレア」(1984)&クマさんの「放屁庵退屈日記」(1985)をめくる。
素浪人時代に聖書のようにカバンに忍ばせていたクマさんの本。開くとところどころにエンピツの線。

【クマさんの左に座るは、相棒のガラちゃん】
仕事ざんまいで一日が通り過ぎる。
笑う時は笑い、ストレスはくっちゃべって散らす。

帰ると、ごきお出現。連中と同様唯一嫌いな生き物。タバコを吹かすと別階暗がりに消えていく。
いったん有事を回避。

心を落ち着かせるために久米宏さんの「ラジオなんですけど」の2013年8月録音版を聴く。
ゲストである俳優・久米明さんの話しの豊かさと声のふくらみに安堵する。

【こちらは短いシッポふりふり、カリカリを食べる黒ちゃん】
ここ数日、パソコンのフォルダ「2008-2011エトセトラ」から、適当にmp3プレイヤーに入れ込んだ曲を聴いている。311で切断され、しばらく聴いていなかったフォルダ。

高田渡さんの曲。
エノケン「私の青空」の高田さんカバーは、そのヘタウマさが身に染みいる。
今は無き劇団・カクスコの劇中・むさくるしい男だけのアパートで、その日暮らしのみんなが歌っていた様を見て以来、大好きな一曲。

しかし、この曲は意識外にあった。
その曲を、今になってやけに好きになり、繰り返し聴いている。

■高田渡 「生活の柄」■

歩き疲れては 夜空と陸との 隙間にもぐりこんで
草に埋もれては 寝たのです
ところかまわず 寝たのです

歩き疲れては 草に埋もれて寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが 眠れないのです

近ごろは眠れない
陸をひいては眠れない
夜空の下では眠れない ゆり起されては眠れない

歩き疲れては 草に埋もれて寝たのです
歩き疲れ 寝たのですが 眠れないのです

そんな僕の生活の柄が 夏向きなのでしょうか?
寝たかと思うと 寝たかと思うと またも冷気にからかわれて

秋は
秋からは 浮浪者のままでは眠れない

秋は
秋からは 浮浪者のままでは眠れない

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2015年9月14日 月曜日 冥途のみやげ展

2015-09-14 23:57:09 | スケッチブック

先日の「伝説の洋画家たち -二科100年展-」に続いて、オバケ・ゆうれいを巡る「冥途のみやげ展」を見に行った。
夏に引っ掛けた催事だが、まだ先があると思いつつ、買ったチケットを持って向かったのは開催最終日。もはや夏ではない秋。

本当は数週間前に会場前を通ったが、その日が東京芸大の早々の文化祭・人ごみの渦でむず痒くて回避した。しかし結局最終日なので、ふだんは行列の並ぶのが吐き気がするほど嫌いなのに、入場制限が掛かり30分くらい並んだ。さほど苦ではなかった。
頼りにならないウワサで集まるらーめん屋でもうどん屋でもないので。

東京芸大は、都美館などでアルバイトの頃、友人と学生食堂に潜り込んだ記憶が強い。
80年代後半のその食堂は、古く懐かしいひなびた空気を放っていた。
一緒に搬入設営をする友人は、芸大の食堂は300円もあればいろんなものが食べられるよ、と二人で行った。

そこは大竹伸朗さんの作品「覗岩」が生まれた、宇和島の食堂そっくりな様。
ラーメンにカレーライス。。。安いけど懐かしい味。

展示された、日本独自の「ゆうれい」が発生した源を辿りながら、江戸時代から明治にかけて書かれた水墨画のゆうれいの掛け軸を中心に、広重・北斎・国芳の作品も含めて構成。
趣旨とはそれるが、色鮮やかな浮世絵の”名画家”たちは、江戸時代の世界のポップスターだったんだな、と今一度実感する。
海の向こうにアヴァロン(桃源郷)たる、色彩にあふれた「ジパング」がある。そう恋焦がれたゴッホの切なくも熱い想い。背景に浮世絵を描いた作品「タンギーじいさん」とともに思い出す。

もうモノを集める歳ではないのだが、ついポストカードを買ってしまう。
ポストカード集めは、YMO写真集「OMIYAGE(おみやげ)」で教授のコーナーで知ってから続いている。

チケットのバックになっている「蚊帳(かや)の前の幽霊」(1906年/明治39年)の現物が素敵で、その一枚をポストカードで買った。個人的には「海坊主」の実画が怖く好きな作品として残った。

■Japan&坂本龍一 「Ghosts」 (Live on Old Grey Whistle Test)1982■






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2015年9月12日 土曜日 今日の空

2015-09-12 22:04:10 | 音楽帳

クリムゾンを書いた8日・火曜日。
そして、その後。
台風~栃木茨城の豪雨、河川氾濫、そして決壊・・・という想定外の有事を喰らい、その対応に追われるうちあっという間。

ふだん心身あちこち不調でしんどいのが前提の日々も、緊迫する事態を前にするとピシッと見通しが良くなる。今の私には、クソ社会やクソ経済には一切興味を持てない、政治という見えないウソにも。
それでも身近で接する好きな人が悲しむなら、重いカラダは多少は動く。
「愛は地球を救う」ことは永遠に無いが、愛が起爆剤となりうることは大いにある。

金曜深夜、いったん休みへの合い間、深夜の帰路。
雨もやんだ公園。暗がりで黒ちゃん・キジトラちゃん夫婦が身を寄せ合って草むらで寝ている。暗闇から2人の眼が光る。起こしてしまった。

20代の阪神淡路や311などのとき、ヘヴィーな状況を背負ってしまい、しんどかったものが今回は無い。比較論ではない。ただ単に、とことん絶望していることを前提とするからだろう。

金曜夜眠ると、珍しく長い眠りに堕ちた。
自分では思ってもみなかった、それなりの疲れがあった。
好きな人は学校に避難している。非情だが、彼女にはちゃんと家族が居る。だから私が飛んでいく必要はない。

私は昼近く起きてお風呂に入り、お茶を呑むしきたり。
ラジオからの永さん・外山さんの声を聞く。
いらだちとウツを抱えて外に出て、日の下へと進む。



■柿原朱美 「空に近い週末」(今井美樹さん カバー)■
(詞:戸沢暢美 曲:柿原朱美 編曲:武部聡志)

1991年夏への流れの中、疲弊し切った週末。よく孤独な身をゆだねたこの一曲。
異国で孤独な中、救いとして身を寄せた一つ、今井美樹さん。救いの女神は未だに女神。

週末に ひとりなんて 久しぶり
椅子をベランダに出した

どれくらい 疲れてたか いまわかる
日差し 素肌につもる

何もかも 見えなくして
ふたりの愛は 悲しみへ 急いでいた

さえぎるものの ないキラメキに ただ帰りたかったの
不思議ね 空が近い

まちがいに 気づいたのに 戻れない
そんな恋 ねぇ あるのね

遠くから  小さな子が はしゃぐ声 歌のように聴こえる

目隠しで 過ぎた時が
残した傷に こだわりが いま消えてく

さえぎるもの ない風景が 胸にまたうまれそう

見上げた 空が近い
不思議ね 空が近い

I'LL Never Cry Again Just Sunshine In My Heart

忘れることは 許すこと
たぶん そうね

さえぎるものの ない青空に
あこがれて いたんだわ

不思議ね 空が近い
いつより 空が近い



















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2015年9月8日 火曜日 キング・クリムゾンの来日

2015-09-08 22:42:21 | 音楽帳

キングクリムゾン来日決定を知ったのは、けっこう前だった。
とある夜中に知って、翌朝にはそれを兄や親にすぐ伝え、ずいぶん気にしていた。
それなのに、忙殺されるうちにチケット発売日を忘れてしまった。まあ取れるだろう、と思っていたのである。
それから日を置いて、買おうとしたら完売だった。

「情報」に疎い自分だが、近時、こんな一日・二日程度で完売するケースは少なく、おかしいと思っていた。
オーチャードホール収容人数が少ないのは分かっている。
活動期間が長く、熱狂的先輩たちが多いのも分かる。
だが、何かおかしく、まるでどこかで転売目的で買い占められたみたいな気がしてしまった。

その後、追加公演が決定した。今度こそは、と今思っている。
年の瀬12月は忙しいだろうが、後を考えてはならない。今の気持ちを大事に、最大限その気持ちを優先させるのが、今生きることだ。

ところでメンバーは一体どうなるんだろうか・・・今回掲載された写真にエイドリアン・ブリューが映っていない。こないだ兄と写真を見ながら、長い髪のはえあがったそれらしき人は居ないね、と言っていた。

ロバート・フリップ先生が居なければクリムゾンではないから当然居る。
ディシプリンから35年経っても何も変わっていないように見えるトニー・レヴィンも居る。
相変わらずスキンヘッド&ヒゲにスリムでカッコいい(向こうは変わらず、私の方が彼の姿に近付いてしまった)。

***

1981年再結成した「ディシプリン」で、リアルタイムの初体験したクリムゾン。
先輩たちは『こんなもんは』。。。そんな苦情の嵐の中聴く後ろめたさがしばらくあった。

CMで聴いた「21世紀の精神異常者」。それはその前後にあった。LPジャケットは知っていたが、音には距離があった。
(ジーンズのCMで、70年代の若者の映像との組み合わせだった気がする。あれはウッドストックかもしれない。)

幼少の頃、6つ上の兄の部屋にはカギがかかるようになっており、絶対に入れてもらえなかった。
そんな三ノ輪の家は今思えば不可思議な作りになっていて、最近兄と話して、その家はおじいちゃんが譲り買い受けた家で、元は置屋(おきや)だったことを知った。数十年目の真実。
おばあちゃんは、この場所は吉原土手と言われ、昔の男はここで一杯引っ掛けてから吉原に行ったんだよ、という話をよく聞かせてくれた。

兄が出かけた後、その部屋の斜めになった扉(竹で組まれており、かしいでいた)のスキマから盗み見て、真正面に厄払いお札のように立てかけられたファースト・アルバムLP「クリムゾンキングの宮殿」があった。
そのジャケット全面に、鼻と目を開いた男の絵。
「お兄ちゃんは、何かいけないものにハマっている」という意識。

そんな世代の兄からLPレコードを借りて聴かせてもらったのは、ディシプリン同時期だった。やっと自分がそれなりに話せるくらいまで追い付いてきた頃のこと。

***

追加公演があるから、何とかチケットを取って聴きに行きたいのだが、果たしてエイドリアン・ブリューは居るのだろうか?
フリップ先生はクリムゾンを維持するためには何でもする人だから。。。とはいえ、まさか「ディシプリン」以降のクリムゾンを支える軸だった彼を追いやるとは思えない。

兄と数年前、音楽の話しをしていた。
私が兄にテクノ/ニューウェイヴ以降の音を教え、兄が私にリアルタイム(=昔における当時)のプログレッシヴロックを教える、の図。
そんな兄が「他のミュージシャンと長く付き合えないフリップが、あんだけデヴィッド・シルヴィアンとさまざまな作品を作るなんて珍しい」と言う。私はとある音楽好きの方が書いていた話しをする。「実は、フリップはデヴィッド・シルヴィアンに心酔し、彼をヴォーカルに迎えて新生クリムゾンをしたかったらしい。フリップ本人は否定しているが、デヴィッドはその事実と”それは出来ない”と答えたと言っている。」話しをした。
なるほど。。。と2人で話が合致した。

***

エイドリアン・ブリュー独自の稀有なギターは、土屋昌巳さん並びに80年代のギタリストのスタイルに大きな影響を与えた。そのギターはもちろんだが、かなりこの人のヴォーカルも大好きなのである。
それだけに、日本公演でもエイドリアン・ブリューの姿を見たいと思っているのだ。

90年代以降のクリムゾンには詳しくはない。
むしろ兄が親にプレゼントした「スラック」(1995年)を、親が掛ける中で聴かせてもらったくらいである。その後、興味を今一度持ったのは、数年前の年末に出会った2000年作品「コンストラクション・オブ・ライト」。
その後「ブルーム」(1994年)も買った。ここにはブリューの好きなヴォーカル曲「ワン・タイム」が入っている。

もしチケットを取れたら、その日までに聴き込まねばと思っている。
実はもう心ははやっており、既にいろいろ選んでmp3プレイヤーに入れ込んでいる。

■キング・クリムゾン 「セラ・ハン・ジンジート」1981■
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