こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2013年12月30日 月曜日 「ぶらぶら」

2013-12-30 11:52:27 | 音楽帳

【寒ツバキ】
昨日の昼、やっと年賀状印刷完了。
それを持って喫茶店で自筆をしたためようと外に出る。
夕暮れを見つつ、島をひとめぐり。ぶらぶらと散歩。
何事もない、何気ない空気に、ようやく我に返る。

より遠くにいく必要もなく、慣れ親しんだものこそが一番しっくりくる。
どこに帰着することなく、ぶらぶらと揺れている。

夜に原点回帰。昔のYMO。
今朝、幸宏&教授の共作「ビハインド・ザ・マスク」を久しぶりに聴く。

■Yellow Magic Orchestra 「Behind the Mask」1979■

















いくつになっても、この曲には一筋の光を感じる。
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2013年12月28日 土曜日 「ざわめき」

2013-12-28 19:41:01 | クロスオーバーイレブン

冬至の前に、島の通りにあった店先に「ご自由にお持ちください」と。
ダンボール箱の中には「ゆず」。
ありがたく数個持ち帰って、ゆず湯に入る。
今日も入った。

「ゆず」には、香りや色や形に、日本的なたたずまいを感じる。
つい三ノ輪に居た幼少の頃に、玄関に飾ってあった武者小路実篤の絵を想い出す。
かたち崩れた筆が描いたのは、みかんだった、と思っていたが、まさか「ゆず」ではなかったのではないか?と勘違いもする。

「柚子」「武者小路実篤」とパソコンでは漢字で書けるが、じぶんのペンでは書けない。
デジタル時代のビョーキだ、と思い、出来るだけ走り書きを紙に書くようにする日々。
まるでお年寄りのリハビリテーションではないか、と(親を思えば)笑えない話しだが。。。。

年末という現実味が無い。残り数日というのに。
むしろ、またクスリを1種類やめ・そぎ落としたことで起きている、離脱症状に苦しんでいた週だった。
具象と抽象の境目に漂っている、ふわふわした感覚である。

あまり絶望的なものばかりを書きたくもないが、だからと言って、希望を書くのもそらぞらしい。
そんな折、かつて発見した大竹伸朗さんのインタビューを思い出し、再度読んでいた。

以下引用部分は、大竹さんの東京や3・11に関する私感が覗けて興味深い箇所。相も変わらず、己に正直な方である。

「ドクメンタの参加が決まったのはちょうど3・11の直後で、いろいろ考えるところがありました。
あの出来事を見たら、明治維新から平成まで続いてきた自分が生まれ育った東京という街のひとつの流れに決定的なピリオドが打たれたという気がしました。
放射能問題にしても、人間がまったく力が及ばないところで宇宙が動き、住んでいる世界が簡単に壊れてしまう感覚、仏教でいうところの無常観を強く感じました。
でも、自分は被災者でなく、部外者であり、それをテーマにすることは考えられなかった。
一方で、震災とドクメンタの参加の決定が重なり、絶対的なアウェーで中に飛び込むという境地におかれ、自分としては前に進む以外ありませんでした。
物がつくれなくなったなどそういうことを言う余地すらなく、自分に何ができるのかといったような自問すらできない状況でした。」

アンダーグラウンドに居た初期キャバレー・ヴォルテールを、自分は自分の中で「実験音楽」と当時くくっていた。
ひりひりした中に塩を刷り込むような感じ、または、ミイラ取りがミイラになるように、闇に引きずり込まれるような感じ。
それが、自分を遠ざけたり、それでも、しばらくすると、そこに近付いてみたくなったり。。。を繰り返していた。
1曲だけを聴くならまだしも、1枚聴きとおすのは困難だった。

その後の1983~1984年、ニュー・オーダーの「権力の美学」と共に、これでも「初期にくらべて、ポップになったね」と当時言っていたキャバレー・ヴォルテールのアルバム「クラックダウン」。
深夜、クロスオーバーイレブンでエアチェックして、カセットテープでよく聴いていたのは、静けさの中にエコーする「ハイチ」、それに続いて掛かったタイトル曲「クラックダウン」。

■CABARET VOLTAIRE 「Crackdown」1983■
まだ、年賀状を書くことに向かえないまま、この曲を聴いていた。

この80年代から距離をおいて、90年代のハウス~アンビエントの流れと交わり、「ワープ・レーベル」からリリースされたキャバレー・ヴォルテールの作品や、リチャード・H・カークのソロ作品などを聴くことになった。
80年代の暗黒姿は薄らいでいて、より聴き易くなっていた。
そこでキャバレー・ヴォルテールへの感覚を掴んだ自分は、その後、80年代の作品に余り抵抗が無くなっていき、過去聴けなかった作品も、脳に届くようになった。
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2013年12月25日 水曜日 「舞踏病」

2013-12-25 23:52:07 | 音楽帳

深夜、独り帰路をふらふらと歩く。
駅から電車に乗れば、ひどく疲れた人たちが、まばらな車内にうなだれて眠る。
こういう日にだって、容赦無い仕打ちに逢っては、それは疲れるだろう。
同じような想いを抱きつつ、そんな深夜の車内に場違いに安堵する。頭痛眼痛。

自分が辿る帰路は、どうしても空塔をはさんでしまう。それを忘れていた。
途中から不愉快なる異国民の流入。音のヴォリュームを上げて、音楽に耳をゆだねる。

■Culture Club 「The Medal Song (Extended Version)」1984■
キミはよく言っていた
どんなときでも、愛し愛されることが大切だって
そのうちキミは気付いた
感情なんてアテにならないものだって

雨が降ればひどい土砂降りになる
涙まであふれてくる

ココロのなかにも雨が降るとき
ボクは世の中に向かって、こう言いたくなる

人生は二度と昔のようにはならない
人生はいつも移り変わっている

ボクの怒りと喜び
涙と苦しみを通り抜けながら

昔、フランシスが支配していたハリウッドの海の下
誰かのゲームで役を演じるために、「かれら」は希望までも売り渡した
手に入るはずもない人生のために、魂は夜のうちにひっそりと死んで行く

見せびらかすメダルを手に入れるよりも
ボクはむしろ、キミとこうして踊っていたいんだ

自分は、メダルをカネ・名誉と言い換え、キミを音楽や美しいものと言い換えてみる。

土砂降りにまみれて汚れたみにくい日には、そのぶん、たっぷりと美しいものを見たり・聴いたりして、補完すること。
働いて疲れたら、自分を休ませること。
そんな当たり前のことを忘れていた。

わたしにとって、時間はフリーズドライ。音楽は一期一会。その瞬間、焼き付いたものたち。
自分のなかでは永遠のポップスターである、ボーイ・ジョージの名曲。
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2013年12月24日 火曜日 「師走下旬」

2013-12-24 23:24:45 | 音楽帳

このところ、島から街への往路復路、聴いているのはYMO「ウィンターライヴ1981」演奏。
帰っては、ピンク・フロイドの「狂気(ザ・ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン)」。
ともにただ、何も考えずひたすら聴いているのが心地好いだけのこと。
スルメを噛むように、繰り返し繰り返し。
思えば、共に1981年暮れに聴いていたもの。無意識下の刷り込みか。

この休み。
土曜日
本当は仕事だったが、中止となる。
3ヶ月近く親に掛かり切りで、こころに余裕が無かったところからやっと放たれたかのよう。久しぶりに島の散歩とぶらぶらする。
日曜日
毎週の行事となった、親の調子をチェックするために実家に行く。快気祝いと5人で宅を囲む。
帰宅してから、薄い焼酎のお湯割りを呑み、カラダを暖める。
月曜日
寝てざんまい。起きてすぐに日が暮れる。
暮れてから、食材の買い出しに何往復もする。
小松菜、長ネギ、大根、ピーマン、ニラといった野菜、5kgのお米、ゴマ、ダシ、調味料、お酒、等々。

そして、本日火曜日。
午後3時を過ぎて、月一回の定期通院。
それを終えると、これまた久しぶりの自由。神保町をうろつく。
陽が沈むと、暖かい陽気も、一気に冷気に包まれる。寒さがヘルニア痛を目覚めさせる。寒さと痛さが、疲労を加速させる時期。
帰ってすぐお風呂に浸かる。今日の祭事に付き合える身体ではない。明日もある。眠るべし。

■YMO 「階段(Stairs)」(ウィンターライヴ1981)12月24日イン新宿コマ劇場■









さぶい街で、行き倒れたサンタに出会う。
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2013年12月22日 日曜日 「心象風景:1983秋/1984秋」

2013-12-22 23:25:30 | 坂本龍一のサウンドストリート

1984年。年末にはまだまだ早い十月。
やけに滲む色した夕暮れどき。
そこには坂本龍一の「森の人」が、心臓音に近付くようなテンポに落とすように、自室内のスピーカーからたゆたっていた。
自分で選んだ機器が組み合わさったオーディオ・コンポと、思考する作業台かつシェルターとしてのつくえは一定の距離を保ちながら、音はスピーカーから、血の色じみた空と混じり合った時間と空間。
もう既に、18歳の自分は疲労困憊し、燃え尽きていた。

1982年3月・中学3年生の卒業前・行くべき航行も定まってしまい、麹町中学校なる・放火して焼き尽くすべき学校にも、何の用も義務束縛ももう無くて、わざと「風邪」と休み、やっと貯めた十数万円を握り締めて秋葉原に向かい、憧れのオーディオ・コンポを買った。
そこから2年半しか経っていない。

1983年秋、神経性胃潰瘍と薬疹で二度立て続けに入院し、12月下旬に出所するまでを過ごす。
YMOが散っていくというのにも関わらず、自分はその最後を肉眼で見れぬまま、こたつで退院後を過ごして年を越した。
まだ、心身はキリキリと現実の痛みを伴いながらも、音楽・サブカルチャーへの希望がまだ在った。

***

坂本龍一のサウンドストリート。
1984年10月23日には、教授自身の新譜「音楽図鑑」特集。
その次の週の火曜日の30日には、来日したデヴィッド・シルヴィアンをゲストに呼んで、ピーター・バラカンとの音楽と話し。

1983年12月に、ジ・アート・オブ・ノイズの「イントゥ・バトル・ウィズ・ジ・アート・オブ・ノイズ」を、自分は初めて聴く。
1983年秋と1984年秋が、たかが1年というのに、いかに濃密な時間の変遷を辿ったか、その1年には、ヒップホップからの引用・イミュレーター(初代サンプリング機器)・オーケストラヒット(Byジ・アート・オブ・ノイズ作)がさまざまな音に現れていた。

アフターYMOの1984年は、何かはっきりしないもやの中に自分は居た。
在るべきものを欠いてしまった感。
一方で音の像を激化させていく方向、一方ではそれに距離を置いて静かの森に向かう方向。
ジ・アート・オブ・ノイズで例えるなら、「ビートボックス」と「モーメンツ・イン・ラヴ」のように。
80年代初頭に爆発したサブカルチャー文化と音は、二分され・股割き状態にあった。(と幻惑されていた。)

サウンドストリートは、この年6月に、糸井重里が司会のNHK教育テレビ「YOU」と同時録音された。
ここでテーマにされたコトバ「行き詰まり」。
1983年末には、これほどまでに豊作は無いというくらいに、ニューウェイヴが実っていたときから、たかだか半年後のこと。

***

1984年10月30日の放送で、デヴィッド・シルヴィアンが紹介した、彼がその時点で聴いていた選曲。
ジョニ・ミッチェル、ブルガリアン・ヴォイス、ヤスカズ、土取利行。
数年で、このような体内のスティルに耳を傾ける境地に至ったのは彼のみでは無い。
当時、自分はLPレコードで購入できなかったのだが、土取利行の作品「磐石」の石の響きは、余計な情報の洪水の渦の外に身を置かせてもらえるものがあった。
汚泥にまみれた世界から脱して、フラットな状態に気持ちを持っていくには、未だに有効な音楽である。

■土取利行 「磐石(サヌカイト)」より■




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2013年12月20日 金曜日 「師走下旬へ」

2013-12-20 23:07:15 | 音楽帳

「今夜の空気は風もなく・あたたかい」と火曜日書けば、ちゃんと途端に、その後に裏目が出る。
日々は平坦では無い。

水曜日。
白く覆われた空・時間が停止した朝に始まる。朝4時過ぎに起きてしまい、二度寝出来ぬまま、QPコーワを服用し、ふらふらと茨城に向かう。
終日、なんだかんだと追われているうち、夜が覆い出し、雨が降り、寒気に包まれる中、外で震えながら電話で仕事を片付ける。
思わず明かりの付く、好きなコーヒーショップをシェルターとして駆け込み、体内にぬくもりを戻す。

睡眠不足は、QPコーワではしのげず、夕刻から夜に失速し、ヘタる。

木曜日。
朝から夜まで、冷たい雨に打たれる。
一年に数回しか外で酒を呑めない心身は、忘年会を断り、やるべきことを独り仕事場でやり、一定時間が来て帰る。
歩く道、クツの中に雨は染み込み、バッグは濡れて・中に入れた冊子はヘタる。
この雨と風によって、紅葉が全て散ってしまった日。



本日・金曜日。
今日も冷たい雨に始まり、夜は止んだものの、さぶい夜道。
世間が「師走の三連休前」で「クリスマス前」の「キケン日」。よって、酔客等の被害を浴びないために、早めに街場を脱出する。



島に戻ると、空には怪しく浮かぶ月。
夜、ムーンライダーズのかしぶち哲郎さんが63歳という若さで亡くなったことを知り、唖然とし、落胆する。

肝臓を壊して以来、毎月、月一回の定期通院。
10~11月の時点では、結果的に同じ建物にお袋さんが入院することは決まっていなかった中、堕ちていくお袋の姿を斉藤孝似の主治医と話した際、「キミも、そういう歳に差し掛かったんだよ。みんなが通らねばならない道なんだから。」とさとされた。
今では言えるが、その感じを思い出す。

高倉健さんも寅さんも同じようなことを言う。
長く生きていると、おおむねロクなことはない。「じゃあ、なぜ、それでも生きるのか」と聞かれたら、ごくたまーに、良いことが起きる。それがあるから生きている。

いつ死ぬか、数秒後に死んでいるかもしれないし、自分が明日起きた際に生きている保証はない。
また、長く生きることが正しいわけでもないと言う理屈もあるが、ヘタレの自分は未だに死は怖い。
だから、生に執着しているのでもないが。
もし生きていけるならば、という前提の下だが、十代の微神経が張った時代にお世話になった兄貴たちが、先絶たれていくのを見ることはつらい。
しかし、今後も、このようなことが現実にあり続けるのは明白な事実である。
老賢人の先人たちは、そういうことを超えても生きて来たのであろうが、その心中を覗いて見たくなる夜である。

■Alison Moyet 「For You Only」1984■
トンプソンツインズの「レイ・ユア・ハンズ・オン・ミー」と同じエアチェックテープに納まった、アリソン・モエットの大好きな曲。
これも、凍てつくさぶい夜に、密着型ヘッドフォンでよく聴いていた1984年のもの。
ヤズー解散後に発表された、アリソン・モエットのファーストソロアルバム「アルフ」に収録された一曲。




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2013年12月17日 火曜日 「師走中旬」

2013-12-17 23:26:45 | クロスオーバーイレブン

仕事場を去ると、今夜の空気は風もなく・あたたかい。
手がかじかむこともない、街の合い間に住まうネコさんたちにも救いの夜。
夜10時も過ぎると、歩く夜道に、静かな空気の中、師走の酔客がノイズを発している。そこから離れようと、道を変える。
歩く眼の隅を、ビルの波間を伝って、月が流れていく。

街を離れ、島に戻れば、夜空に今夜も、地に向かって落ちていくような雲の航跡が見える。
悪いことが起きないことを祈るのみ。

あっという間に、師走も中旬後半にまで来てしまっていた。
果たしてどうしたものか?と毎年思う、年賀状の季節が来てしまった。





こどもの頃は、お正月が楽しみであった。
また、四苦八苦しながらも、年賀状作りに凝っていた。木彫りの版画や手描きの絵だったり。。。
そんな時代は遠くなり、今や到着する年賀状の9割以上が、パソコンとプリンターが自動生成するだけのものとなった。
過去も書いたと思うが、そういう自分もご多分に漏れずに、デジタル機器を使用している。
それでも宛名と余白への文章は「送りたいと思う人」には、手書きを欠かさない。
かつて、様々な場面でお世話になった方々へのあいさつとして。すぐには逢えない距離のひとに向けて。
それだけが、自分なりのあらがい。

かつて思っていたお正月のおもむきは、既に大幅目減りしている。
自分の中の日本も東京も、どんどんと遠くになっていく。
むしろ、不明瞭な未知の新しい年が来ることに、暗澹たる気持ちになる。
また、年賀状を作るのも苦行のように思える。
本当は送りたくもない人が多くを占める中、やむを得ず慣習で送る年賀状ばかりに辟易とする。
「じゃあ、送らなければ良い」と思った頃もあったが、世捨人に踏み切れない状態のままである。

今でもやりとりのある、とある先輩。
パソコンが一般化する前からIT関連に詳しい。それは単なる趣味の延長線で、仕事でITに関わることはない。それが彼の流儀。
そんな彼は「自分は年賀状を出さない主義なので」と宣言することによって、年賀状地獄から解放されている。
過去には「携帯電話は持たない主義なので」と宣言して、魔の追っ手から逃がれた経験の持ち主。

自分も彼に学んで「やってみよう」と当時は思ったが、結局は年賀状の送り合いのループを絶つことは出来ぬまま、枚数は減らしてきたものの、ずるずると2013年末をむかえている。

今年はどうしようか?と考える。
過去は年によって、2種類・3種類のデザインを区分して送ったことがあった。それを今年はやろうとも思っている。
「出さざるを得ない」なる強制下・形式のみは「形式を重んじた」「記号的」年賀状を。
遠くてなかなか会えぬ友人知人・それに「なかま」へは、手書きを加えて時間を掛けた、本来の年賀状を。

この方法が有効であるのは、いくら「かれら」が群れを形成しようとも、年賀状というのは1対1ゆえ。
2つを隔てるモノが存在することが、回り回った情報で「かれら」の耳に入ろうとも、年賀状は「オレがオマエに出している」直線でしかない。
こちらが込めた見えない憎悪や怨念が、その血塗られた賀状にあったとしても、「かれら」には分かりもしないのだから。
プリンターのメーカーCMがよくやっている、安っぽいコピー「想いをカタチに」。
その通りにやってみよう。

無難にコトをスーッとやり過ごせば、それで済むものが、こんなくだらないことまで、つい肩にチカラが入ってムキになる。
そうして、ツノを付き合わせて、バチバチに至る。
根っからの性分だから仕方が無い。

そんなことは別として、話しは音楽に。。。
最初大所帯で始まったトンプソン・ツインズ。彼らの音がこなれてきて喜んだのは、クロスオーバーイレブンで聴いたアルバム「サイド・キックス」からの曲たち。
「ウォッチング」「ライズ」「ラヴ・オン・ユア・サイド」。。。ポップでメロディアスなシンセサウンド。エコー含めた音空間の手触りのしなやかさ。
このエアチェックした3曲をようく聴いた。
このアルバムは、トンプソン・ツインズという名前を多くの音楽好きに広げた。

そして、この翌年1984年。多くのミュージシャンが、疲れて静けさの森に向かっていた年。
当時のポップスの中でも目立って珍しい、極めてゆるやかなテンポの美しい曲「ホールド・ミー・ナウ」が産まれる。
このシングルを納めた「イントゥ・ザ・ギャップ」は、この年、そして1985年と、自分の魂を鎮めてくれる1枚であった。

シングル「ホールド・ミー・ナウ」・アルバム「イントゥ・ザ・ギャップ」は、ワールドワイドなヒットとなり、来日公演も実現し、彼らは一線のポップスターとなる。
その後、更にすごいと思ったのが、次のアルバム「ヒアズ・トゥ・フューチャー・デイズ」。
さまざまなプレッシャーにびくともしないトム・ベイリーのチカラを感じた。

先週から北風がぴゅーぴゅーと吹くさぶい日が始まった。凍てつく夜。そう、そんな夜に聴いていた一曲。
「イントゥ・ザ・ギャップ」と「ヒアズ・トゥ・フューチャー・デイズ」の谷間に発表された、1984年のシングル「レイ・ユア・ハンズ・オン・ミー」。
これまた初めて聴いたのはクロスオーバーイレブンだった。それは、後にアルバム「フューチャー・デイズ」に収録された躍動感あるものではない。
12インチシングルで発表された、初期のシングルヴァージョン。
このほうのヴァージョンが、今でも好きである。

■Thompson Twins 「Lay Your Hands on Me」1984・12Inch Version■
かつて聴き込んだそのカセットテープは、今夜も闇に揺られながら、ゴミ屋敷の中で遭難している。
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2013年12月15日 日曜日 「師走の週末」

2013-12-15 23:17:49 | 雑記帳

駄文を書き連ねているうちに、まとまりを欠いた分裂気質がむにゅーっと顔を出し、「ああ、訳がわかんないよ」と途中で投げ出す。
こういうことが多い。
そういう日には、ブログも更新し兼ねて、遠慮する。
まあ、元々は馬鹿をさらして生きているようなものなので、そのまま出せば良いのだが。単なる気分的なものだけが左右しているだけなのに。
他人にはどうでも良いようなことを、つらつら日々思いつつ、走り書きのメモから、そこに何かがあると思って、メモ起こしをしているうち、脱線していき、最後は訳がわからなくなる。
それは絵も何もかも同じ。途中で投げられたものが山積していく。

昨日土曜は、実家の大掃除の補助的下っ端作業をして、寒空の中帰宅した。
部屋は冷え切っていて・お茶を何杯も飲む。
平日の溜まった疲れも重なり、2時から16時まで14時間睡眠。

起きた日曜の夕方、冬至まで約一週間程度。
既に日没が4時半を切っており、起きるとすぐに日が暮れた。
島の放送で「おうちに帰りましょう」が悲しいメロディーと共に流れた。

パソコンをつけると、まためんどうなことに。
どう試行錯誤を繰り返してみても、キーボードが反応しないのである。

島の電気屋さんにお願いしたいところだが、現代では大手家電店に潰された電気屋さんが軒並み。島には、電気のお店屋さんが無い。
結果、あきらめて、街にキーボードを買いに向かった。

買うときに、レジのお姉さんが「メール会員になると100円引きになりますよ」というので、お願いする。
そうすると「携帯電話を出してください」と言われるがままに差し出す。
会員を増やすために、設定までお店の人がするサービスらしく、唐突に自分の携帯電話をいじくり出す。

黒づくめのヒゲ男の自分。そういう男の携帯電話の壁紙が、ネコののらくろちゃんであるのを見られるに始まり、中をいじくり倒されたが、はじまったからには「しゃあない」と思う。
そうしてお姉さんは作業を続けるが、後ろを振り向くと、レジには行列が。。。
まるで迷惑な客のような「かれら」のまなざしに、「そうじゃあないんですよお」弁解をしたい気持ちになる。

もとはと言えば、今週、とある日。寝て起きると、枕元にあったパソコンのキーボードが水浸たしになっていた。そのせいで、キーボードの中が死滅してしまったのだろう。
寝る際に飲みかけのお茶を、自堕落な自分は、枕元に置いていて、寝返りと共に「ザーッ」とやってしまったのである。

日曜、午後8時過ぎ、パソコンは復旧した。
そうこうしているうちに時間は経ち、週末が終わっていく時間になってしまった。

■David Sylvian 「Back Waters」1984■







スクラップブック・制作途中
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2013年12月13日 金曜日 「ふたたび、13日の金曜日」

2013-12-13 23:32:59 | 雑記帳

朝、じぶんたちが暮らす島の空に、地震雲が出ていた。







帰り道、初めて出会ったネコさん

今朝の島、朝焼け
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2013年12月12日 木曜日 「音が自分のものになるとき」

2013-12-12 22:14:28 | 音楽帳
今日午後のインターFMに、ケン・イシイさんがゲスト出演していた。
ここで聴こえた新譜「DOTS」からの曲が素晴らしい刻だった。

その番組が終わる時点で、ニューオーダーの「ブルー・マンデー」が掛かり、その音楽の流れに、妙に納得してしまった。30年間どうもしっくり来なかった「ブルー・マンデー」が、初めてしっくり聴こえた気がした。
ケン・イシイの新譜と並んだときに「ああ、そういうことだったのか」と時間を逆回しにするかのような、刻を繋げるものがあった。



■New Order 「Blue Monday」1983■
1983年のシングル「ブルー・マンデー」は、ニューオーダーというバンドを初めてオモテ舞台に立たせた曲だった。それを当時の音楽評論家は、やけに持ち上げ、大げさに語った。
自分が初めて「ブルー・マンデー」を知ったのは、その手合いの音楽雑誌類で、御茶ノ水のディスクユニオンで1,500円で12インチシングルを買った。

イアン・カーティスが首吊り自殺した日が月曜日であったことが、この「ブルー・マンデー」という曲のタイトルのゆえんであったが、音楽評論家の語り口は、と言えば「ジョイ・ディヴィジョンの亡霊を振り払った作品」という具合。
確かにそれは正しいことであったが、自分には出来損ないの実験過程にある「ムーヴメント」の暗さや、その後のシングルたちの方が良かった。安っぽくシンコペイトするリズムボックス、ピーター・フックのギターのようなベースの弾き方、くぐもる不明瞭なバーナード・サムナーのヴォーカル。
特に7インチの「テンプテイション」。

80年代やたらとジョイ・ディヴィジョン/イアン・カーティスを引き合いに出すことにうんざりしていた自分。
それが、この「ブルー・マンデー」にもまとわりついてきて、その空気に嫌悪が拡大していく。
買った12インチシングルは、買ったはよいものの「つまらないし、おおげさすぎる。大した曲とは思えない。」

そして、結果的には、この正規の値段で買った12インチシングルを、中古レコード屋に売って手放すことで、この曲と絶縁しようと決断した。新盤状態だったが、数百円にしかならなかった。

1983年発表の「ブルー・マンデー」。
彼らが唐突に終了宣言させられたジョイ・ディヴィジョン。その後、迷いながら実験・模索を繰り返し、一から音を配置しながら、構成主義的な新しい音像を獲得していった。
それが、このユニット最大の稀有なる存在意義であった。

だが、当時のディスコ、ダンスフロアでかかっている「ブルー・マンデー」には、大いなる違和感を抱いた。
投げやりなところから、自分たちだけで音を組み立てていった、そのいい加減さ・進む道の分からなさ。
それが魅力だったニューオーダーにしては、「ブルー・マンデー」は、当時「かっちり」しすぎている印象をぬぐえなかった。

7インチの「テンプテイション」の素晴らしさは、その出来損ない感覚にリアリティがあったのは事実であった。
テクノとも言えるのだが、そうも言いがたい出発点と成り行きの奇妙さ。
垂直的に視える音、ナイフのように振り下ろされるドラムのショット音。

しかし、「ブルー・マンデー」には、どうも出来過ぎた予定調和感覚を自分に抱かせた。それが、自分を遠ざけた。むしろ、この後の「コンフュージョン」の適当さの方がマシだった。
当時、自分と音楽界が乖離した1曲だった。
「ブルー・マンデー」のモノマネ曲が、SPKの「メタル・ダンス」はじめ、その後たくさん出た。影響を受けたミュージシャンは多かった。

耳で聴こえる音・と・音を聴く行為、および、それが体内に取り込まれて、その人のものになる、というのはすべて別物なのである。


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