こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2011年6月30日 木曜日 夏のフェイバリッツ・5 細野晴臣「お誕生会」'82.5

2011-06-30 20:02:04 | 音楽帳
細野さんがYMOを立ち上げるに至るには、アルファ・レコードの社長、村井邦彦の支援があった。
村井さんは、細野さんが小坂忠に作った「ありがとう」(1971年)がすごく好きで、その頃出会う。
一緒に大好きな温泉に行ったりと交流していた。

細野さんはクラウン・レコードに所属していたが、その後の一連の作品を最高だと思い「こっちへ来い来い」とラヴコールを続けていた。
自由にやりたいようにやっていた中、「泰安洋行」の商業的失敗にクラウンは見切りをつけた際に、契約の切れ目の1977年、村井さんはアルファ・レコードへと招き入れる。
そこで、細野さんに持ちかけた話が、海外進出。
YMOの結成と海外ツアーのお膳立てをする。

・・・・・そして、全世界的なYMOのヒットと東京への着目。

そんな折、村井さんは、教授の「ただマニアックな音楽をやっていたのに売れてしまった」という発言に怒り「どんな思いでお膳立てし・カネをつぎ込んできたのか分かっているのか」と言ったそうである。

そんな熱狂のさなか、2回のワールド・ツアーで巻き込まれたYMOの異常なヒットとその中で身動きが出来なくなった3人は、「BGM」での大衆とアルファ・レコードへの裏切りを行う。



1981年、YMOはアルバム「BGM」「テクノデリック」と国内ツアーで全てやりたいことをやり尽くしてしまう。



実質上解散したYMOは、1982年三人三様やりたいことをし出す。
細野さんと幸宏は『YMOが成功したらレーベルを作ってもらう』という約束を果たし、アルファ・レコード内に5月「YENレーベル」を発足する。
そして、曲をスタジオの中に入ってから創るというYMO3人独自の才能と技から、スタジオ代が膨大に膨れ上がった反省から、こじんまりした使い勝手の良い「LDKスタジオ」も設けてもらう。

思えば、細野&幸宏と教授の分かつ流れは、BGMの「CUE」の制作に始まり、この「YENレーベル」・・・そしてスケッチ・ショーと続くもの。
だが、ボクはそれは単純に坂本龍一が何にも同調しない「俺が俺が」という我の強さゆえのことと思う。

1982年、細野さんと幸宏は「YENレーベル」発足、集まってきたミュージシャンのプロデュース、そしてそれぞれのソロ、そしてこれほどぜいたくなメンバーは居ないという幸宏の国内ツアー・・・等々、この年も爆発的な活動を行う。



一方。教授こと坂本龍一の1982年は、国内での「B-2UNITS」というバンド形式でのライヴ、矢野顕子と共にロンドン滞在での「愛がなくちゃね」制作、デヴィッド・シルヴィアン、スティーヴ・ジャンセンと3人でのシングル制作、そして大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」へ俳優として出演のために、ラロトンガ島での長期に渡る撮影生活へと入っていく。

***

「YMOをやる中では、ソロ・アルバムは創らない」と言っていた細野さんが、まだYMOの名が残る中、1982年ソロ・アルバムを創ったのは、ほぼYMOが終わってしまったことを意味していた。



そのアルバムのタイトルは「フィルハーモニー」。
このアルバムは、イミュレーターと名機プロフィット5のみで創られた。
ほぼ1人でのLDKスタジオでの録音。

YMOという器ではやりきれなかったこと、そして、YMOと自分の間のバランスが崩れてしまったことのバランスを取るために、細野さんにはソロ・アルバムを創る必要があったのだった。
アルバムには、教授経由で知った現代音楽からの影響が強く感じられる。

5月18日に「坂本龍一のサウンドストリート」に、YENレベールの頭として、所属アーチストである立花ハジメの「H」の紹介と共に、「フィルハーモニー」が紹介された。

ボクはとてもこのアルバムが好きで、毎年夏が来ると聴くアルバムである。
夏、ということは、このアルバムから語られることは無いのに、なぜか自分には、夏を感じてしまう。
確かに「ホタル」という曲は収まっているが。

今日は、このアルバムの中から「お誕生会」というミステリアスな曲をかける。



この曲は、1人でスタジオに籠もる中、様々な人が手みやげや慰労を兼ねて現れるが、そういう来た人の音や声をイミュレーターにサンプリングし、コラージュのようにはめ込まれて曲として出来上がったもの。
実に、現代音楽的でありながら、現代音楽をも超えているエスニックな響き。

80年代というのは(1986年末までだが)、ボクにとっては、1年で語れず、1ヶ月1ヶ月が濃厚な密度としてあって、また事実、音楽の流れの変化も川の流れのように月次単位で変わっていたとてつもない時代だった。
1982年というたった1年を取り上げても、とんでもない量の質の高い音楽が生まれていたことを改めて実感する。
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2011年6月29日 水曜日 夏のフェイバリッツ・4 高橋幸宏「四月の魚(Poisson D'avril)」'86

2011-06-29 20:10:56 | 音楽帳
火曜日から水曜日の朝にかけて、せんぷうき弱で眠ったものの、熱帯夜でごろごろ転がる。
ただ、朝ぼけぼけで、暗闇からドアの外に出るとまたもや夏の熱線。

なぜこの時期に?
という不思議に包まれるが、明け方、頭の中を幸宏が出た映画のシーンと「四月の魚(ポワソン・ダヴリル)」のテーマ曲が延々とエンドレスで流れていた。



お陰で、行きの電車もずっと頭の中から、この曲が鳴り止まなかった。
私が、この曲を今振り返ると、この映画を知った当時、1986年には、少し幸宏に対しての距離が遠く感じられた。

・・・というか、私が二年目の素浪人でノイローゼと必至に戦っていた状況の中、幸宏はリラックスして師弟関係であるピエール・バルーとフランス語で歌い・お洒落に染まっていた姿が、あまりに対照的過ぎて、力の抜けない中「四月の魚」に入っていけなかったというのが、今言える本音。

その後、映画「四月の魚」、そして、その音楽「ポワソン・ダヴリル」がなんといとおしいものだったのだろうか・・・ということに、時を経て、気が付いたが、それは既に遠くの過去となっていたことに切なさを強めた。
ひたすら水面下に澱んでいた地獄の素浪人生活のときに、リアルタイムで味わえなかった自分の届かぬ幸宏との距離。



前年の1985年段階での「Once A Fool・・(遥かなる想い)」から番組のテーマ曲となった『今日の空』の「今日の空は少し、哀しいね 街をかける君は、笑いかけた・・」という求めても手に入らない恋という病気を抱えたまま、苦悶し嘆く歌に、共鳴してならなかったが、そこから「四月の魚」への跳躍の距離の遠さには、当時近づけなかった。

切実さからリラックスへ、それはある程度、自分の身が安定していなければ取れない態度である。

1986年、単なる放浪者で、居場所もカネもなかった当時の自分。
2011年、居場所も喰うだけのカネも一見してあるが、見えないガンが身心を侵している自分。

今朝の夢から、寝ぼけた電車の中へ。
不幸な渦中に居ながらも、ほのあかりが見えるかのような夢。
なぜ、自分が幸福で居るのか不思議でならない朝だった。

今は6月。
ボクの中では夏と既に言った。
その感覚は変わらない。

しかし、なぜ、超名盤「薔薇色の明日」に収まる『6月の天使』では無く、ボクの無意識が勝手に『四月の魚』を選んだのかは、無意識の何かの隠喩。
無意識の反応を、意識では理解出来ないが。。。。



***

PS:東京電力は、盛んに『電力不足キャンペーン』を行っているが、それは真っ赤なウソだということが次第に分かってきた。
地球で生きる以上、エネルギーの仕組みや今までの暮らし方を見直すには良い時期だが、真っ赤なウソに付き合う必要は無い。
戦時中に「贅沢は敵だ」というプロパガンダに従って、栄養失調で死んだ人が居たが、そうなってはいけない。
所詮は『電力不足キャンペーン』も大本営発表とプロパガンダに過ぎない。
日本政府とグルたちの情報操作と言行は、本当にキチガイ国家=中国と変わらない状況。
全部、国が絡むものはウソ。
儲かるのは、ぶらさがる節電どうのこうの含めてそのグルたちだけ。
そういう構図。
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2011年6月28日 火曜日 写真日和 6月1~5日

2011-06-28 22:10:07 | 写真日和
6月1日 水曜日 有明に展示会に行った帰り、秋葉原に移動


かつて殺傷事件のあった交差点はもう既に影も形も変えている。
記憶喪失都市東京。


その近くに咲く、水の花あじさい。


一方で、昔から変わらず在り続けるみつ豆屋さん「伊万里」。


御茶ノ水よりまで歩き、橋の上から須田町方面を見る。


夕暮れの灯。


歩いてアメ横まで。

6月2日 木曜日
 

夜のナポリタン。

6月3日 金曜日 


浅草の夜の美脚。


隅田公園から見る闇。


パチンコ屋に飾られた夜の花にストロボを炊く。

6月4日 土曜日 隅田川


夕暮れ時に飲むビール。


沖縄に行った際に首里城で買ったTシャツを着て。

6月5日 日曜日


メロンちゃん。


古い向島の家屋と花。


花を見て、夏近しと思う。


スーパーにて、雨傘をさすマネキン。


荒俣宏さんのNHK-ETVを見る。
山折哲雄氏との対談。


科学の「業」。。。


おぼろげなる福島原発。
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2011年6月28日 火曜日 「タイム」

2011-06-28 08:21:10 | 雑記帳
さくりんさんへ

「あっという間の週末」というより、月→金の疲労の中で、金曜日夜更かしして、土日寝過ぎて抑鬱を強め、時間の胎内サイクルが壊れて月曜日を向かえる。
こんな意志の弱い・馬鹿を繰り返しをしている。
週を繰り返すにつれ、また心身を病んだ状態に逆戻りしている気がする。

私に必要なのは、実は、クスリでは無く、強固な意志なのだろうことを知っている。
しかし、昨日は昨日でダラダラと周囲に流される無駄な時間にいらつきながらも付き合ってしまう。

ピンク・フロイドの「タイム」が余りにも禁忌に触れ(それを言ったらおしまいだろう)、核心ずばりをそのまま語る事に「良い曲」も「悪い曲」もない。

『…おまえが死んだあとに残されたのは、書きなぐられた予定表だけだ』。

これは、太宰治の「人間失格」であり、それを下地に書かれた三島由紀夫の「仮面の告白」、または、安部公房の「箱男」に近しい哲学的作品を匂わせる。



こういう感覚、真理に目覚める瞬間は、幼少期からハタチ近くまで悩んだ離人感覚を想起させる。
そのとき私は、それを「キチガイになってしまったのかもしれない」と幼少期の頃、思っていた。
絶望感が襲ってきて、「こんな鏡を見ないと自分の姿すら見えない肉体の中に潜んで、なぜ自分は自分として在らねばならないのか?
自分は数十年後に、確実に死ぬのだ。
とすれば、生きることは死に向かっていることと変わらないじゃないか。」と気づいた日。
自分という異物感と居心地の悪さを感じながらも、その宿に居続けねばならないジレンマ。

それが私だけの問題ではないと知るには、相当な時間を要してしまった。

多くの本やアーティストとの出会いを糸口に、この悩みの源泉を次第に理解していく。
1980~1981年の坂本龍一へのシンパシーというのも、彼のその頃のこれらの苦悩(「こんな音楽を聴いて楽しいかい?」[『フロントライン』の一節])を共有化する事から生まれた。



幼少期からの長い間、要は、それは飛蚊症のようなもので、蚊が飛んでいるようなゴミが視界に在る事に悩むが、他のことに気を取られるうちに忘れてしまう。
そんなように。

これは、そんな錯覚に紛れる技を医学とした森田療法という行動哲学ともクロスする。

しかし、森田療法を解釈する半分の人を、私は誤った解釈として否定するつもりだが、それを言語化することは難しい。
誤釈する解釈の在り方は、概念で「あるがまま…」と念仏のように語るが、それは単なる気まぐれに過ぎない。
やはり底流には死に向かう道が絶えず着々と準備されている事をベースに置かねば始まらない。

この時間という見えない化け物。
その時間を微分し、瞬間の集積として捉え、刹那を掴んだ天才は三島由紀夫だった。
彼の「金閣寺」に膨大に埋め込まれたトラップは、この言語化しづらい「なにがしか」。

彼の作品の中で「金閣寺」が飛び抜けているのは、形として定着する難易度を超えて、言語化した事にある。



私が、ふとよぎったのは昨夏の「ワールドハピネス2010」のあるシーンの自分の感覚。

私は、アートを(兄・MZ師・ハブ噛み師匠除く)知り合いと行くという習慣は無い。
元よりネコの如くの「孤」を生きて来たのもあるが、他人に気を遣い、共に同じ事を味わうなど嘘であり邪魔に思っているから、好きなものはたいてい一人でおもむく。

「ワールドハピネス2010」で、集団的狂騒に場が傾いた刹那、醒めた感覚で周囲を見て「今、この時は、リアルタイムの事実だが、多くの人はこの瞬間を忘れるし、それぞれはそれぞれの時を生きて、まだら模様に死んで(消えて)行く」というイメージ。
そんなシーンが、私に訪れたり離れたりする。
離人感覚。

まるで太宰治の「トカトントン」。

3・11とその後しばらくが、今まで在ったはずの時間の在り方を、瞬時逆転させてしまった事をみんな思い出せば、それが一番近い感覚かもしれない。

いくら他人と時間を共有化した時があろうとも、いくら他人に場の共有を強要されようと、それぞれはそれぞれの生の長さ感覚の時間を生き、一人で死んで行かねばならない。

嘘を言わずに語ると、これは紛れも無い真実である。

***

西部邁ゼミナール (2009年11月21日)


PS : 三島由紀夫の「仮面の告白」を世に出した編集者は、坂本龍一の父親、坂本一亀である。
河出書房の編集者。
不思議な因縁と因果。
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2011年6月27日 月曜日 夏のフェイバリッツ・3 一風堂「MagicVox」'81.8

2011-06-27 20:19:30 | 音楽帳


一風堂との出会いは1980年。
セカンド・アルバムであった「リアル」を、当時ドイツはベルリンで録音中ということが、とても気になっていた。
同様に、同じベルリンで故加藤和彦さんも録音中。

当時は、ラジオ以外に、音を試聴する、ということが不可能だったため、ジャケットや誰かの音楽レビューから、何かの決断をしてLPレコードを買う、という至難があった。

一方、自分は、レコードという形態ではないカタチで小さく収まった「ミュージック・カセット」というものにある種のフェチシズムを覚えていた。
自作でも、色んな切抜きや印字シールなどを用いてジャケットを創作するということに凝っていた。

当時の「カセット雑誌」で、カセット・テープ・ライフを送っている「カセットの達人」の独自のカセット・ジャケットやコレクションを見て憧れた。

***

FMfanで、1980年夏に、故加藤和彦さん「ベル・エキセントリック」と一風堂「リアル」が同時に紹介され、同じベルリン録音ということで、音の根底を流れる共通するものについて語られていた。

ボクは、その記事に触発されて、アルバム「リアル」をミュージック・カセットで買い、盛んに聴いた。
不思議なバンドだなあと思った。

確かに、ここには、土屋昌巳が憧れたベルリンへの想い、過去のテクノ・電子楽器音楽のパクリが散見され、実際の曲が人工的な部分がある印象・・・そんなものがあったが、ベルリンで録音されたがゆえの漠寂感がただよっており、そこがとても好きだった。

***

1981年6月、マー坊こと土屋昌己さんが「坂本龍一のサウンドストリート」に出演し、リアルタイムで聴きながら、エアチェック録音した。

アッコちゃんの「また、会おね」ツアーで、ギターに土屋昌己さんを任命し、一緒にツアーしている教授。
そんなさなかの放送。

まだ、完成していないサード・アルバム「レディオ・ファンタジー」制作途中の曲をかけてくれた。
暗いながらも、テクノ花盛りの幸福な日々のさなかの出来事。



トーキングヘッズのブライアン・イーノ・プロデュースの歴史的アルバム「リメイン・イン・ライト」とそのツアー両方に参加したエイドリアン・ブリューの頭を一撃された、今までに無いギター。
そこに教授もマー坊も一撃され、土屋昌己さんのギターというのも大いなる影響を受けていた。
・・・・というか、その後、小山田圭吾に至るまでのオリジナリティあるギタリストの原型・源流は、エイドリアン・ブリューであるが。

***

思えば、土屋昌己さんは教授を慕い、教えてもらったレコードを買いあさり、そんな弟分だったので「また、会おね」ツアーにも、起用されたのだが、この後「レディオ・ファンタジー」発売が8月、それと同時に、日本での本格的なMTV、一風堂の『コズミック・サイクル』。
そして、それがロンドンで評価され、一風堂はイギリスでも有名になっていく。

「レディオ・ファンタジー」は、ラジオの何語だかわからないノイズ交じりのざらついた語り、チューニングの音、ダウンタウンブギウギバンドでキーボードを弾いていた千野秀一さんの和太鼓を導入したり、逆再生の音にダブをかぶせるなど、さまざまな実験を含みながら、オリジナリティ溢れるコンセプトアルバムだった。



その後は、いろいろ今後語っていくが、教授に言わせれば、YMOによって欧米に着目された日本の音楽を、マー坊はそのオリエンタリズムを逆手に取って利用した、ということになり、「いつもYMOの問題児」=教授は、YMO・教授の姿を追いかけるマー坊との絶縁めいたことをインタビューで発言することに結果なっていく。

***



まあ、そういうこともあったが、夏になるとボクはいつも「レディオ・ファンタジー」そして4枚目にしてオリジナル・ラストとなる「ナイト・ミラージュ」を聴く。
いろいろ因縁話はあるものの、ボクはこの頃のマー坊の野心が音楽となってあらわになっていた姿が好きである。
何というかキッチュな感覚と言うのだろうが、それがこの人の持つ良さだと思っている。



大竹伸朗作品のジャケット・アルバム「レディオ・ファンタジー」に収まっている「マジック・ヴォックス」。
最後のアルバム「ライヴ&ゼン」にも収まっているが、もろエイドリアン・ブリューばりのギター。
しかし、それもテクニックが卓越した人にしか出来ないワザ。
そんなギターがかっこいい、ダークな雰囲気の漂う好きな曲の1つ「マジック・ヴォックス」。

下記YOUTUBEは、貴重なMTV『コズミック・サイクル』に収まっているヴァージョン。

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2011年6月27日 月曜日 朝なる絶望

2011-06-27 08:40:36 | 音楽帳
朝、何とか7:30に這い起きる。
「ああ、また朝が来てしまった」
一週間、いや、この先を思えば、このまま目を開かずに永遠の時に溶けて行きたい。

シャツと短パンで寝たものの夜中の冷え込みに寒くなって、布団を取り出しかぶる。
いくら寝ても、疲れとだるさは取れない。

外は暗い白い空。
小雨がパラついている。
40年以上朝が嫌いで憂鬱だ。
首コリから左の筋が張って、頭が左に回らない。
カラダのそこいらじゅうにガンが回ってしまったかのような体感がする。
それを幻覚というのは楽だが、本人以外理解されない感覚。

緑茶を飲み。
兄から父の日にもらった選曲CDから、ピンク・フロイドの「タイム」が流れ出す。

こんな時に聴ける音楽ではない。
重過ぎて立ち上がれなくなる。

勢いだけで支度し、勢いだけで電車に乗り込む。
社会という歯車にダイビングするしか手が無い。
私は今朝も自滅する。

「エブリデイ・アイ・ダイ(ゲイリー・ニューマン)」

■ピンク・フロイド「タイム」



倦怠にまみれた一日を刻む時計の音。
おまえはただ無駄に時間を浪費していく。

故郷の小さな土地をうろつきまわり、お前を導いてくれる誰かか何かを待ち続ける。

日だまりの中で寝そべる事に飽きて、家にいて中から雨を眺めてる。
若いおまえにとって人生は長く、一日を無駄にしても時間は有り余る。

だが ある日。。。

10年が過ぎ去っている事に気付く。
いつ走り出せばいいのか?
誰も教えてはくれない。

お前はスタートの合図を聞き逃したのだ。
お前は太陽に追いつこうとひたすら走る。

だが、太陽は沈んだかと思うと、おまえの背後から再び姿を現わす。

相対的には太陽は変わらないが、おまえだけが年老いていくのだ。

息は切れ。
ある日、死の隣にまで近付く。
毎年、一年が短くなり、時機は一向に見つかりそうにない。

計画はすべて失敗に終わるか、ページ半分になぐり書きされた線と化す。
静かな絶望に身をまかすのが、イギリスのやり方。

時間は過ぎ、歌が終わる。

もっと言いたい事があったはずなのに。。。。。。
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2011年6月26日 日曜日 ジハード

2011-06-26 20:22:15 | 雑記帳
東京電力、他の電力独占会社は、関係者たちの証言から全く懲りていない事がわかる。

電力利権の壁はとてつもなくぶ厚い。

***

こんな不景気で自殺者の多い国では、電T+αに根こそぎ大枚が吸収されていく広告クライアントを降りる企業が多い。

しかしそんな中でも、大枚はたいて広告をする電力会社は最重要顧客。
そのカネの出元は、我々が払う電気代。

(地震のどさくさに紛れてCMを復活させているJALも、一体何を考えているのだろうか?)

よく考えなくても、独占企業で競争相手不在の電力会社が、広告に大枚を落とす意味など無い。

そこに放射能漏れが起き続けているが、表層メディアにとっても最重要顧客だから、極めて「ぬるい」歪曲された報道になる。

BSの小西克哉さんの番組に出た、最近メディアに顔を出す官僚さんの話では、とある地上波テレビ出演の際、収録前にプロデューサーから「今日は、東京電力の発・送・配電分離の話はしないように」と言われたそうな。
所詮は、その程度の事だ。



そういえば、TBSラジオの人気番組「ストリーム」。
私は、営業の頃、小西克哉さん&マッピー、そして料理家のケンタロウさん、様々なゲストの昼の放送を毎日楽しみに聴いていた。
小西さんゆえ社会派で大人向けのオシャレな稀有なる番組だったが、唐突に番組が終わることとなった。

最終回で、言いたいことを飲み込み、悔しいとだけは言った小西さん。
人気絶頂番組をつぶす何かの力がウラで働いたことは、どんな馬鹿でもわかった。
そういえば、なぜかストリームのスポンサーに聖教新聞があったなあ。
なあんてね。

***

先日、家に来た東京電力の課長と課長代理は「我々も、皆さんの言いたいことは理解しているが、本体は…」とコトバの中でよく出て来た。
彼らは一応管理職だが、結局は「本体」には無力なる一労働者に過ぎない。
「お時間を貰えますか?」と課長は言ったが、既に1週間が過ぎた。
MZ師曰く「もう二度と連絡なんか来る訳無いじゃないか」。
私もそう思う。

あと数日後に、東京電力は株主総会が開かれるが、大株主も所詮は電力利権に絡む者たちだから、何事も無く終わるだろう。

まあ、質問は出るだろうが、いつもの「のらりくらり作戦」だろうね。

***

スマップの歌に「世界に1つだけの花~」なるものがあるが、私は思想として嫌いである。
この歌は、1人1人が世界に1つしかない花と言うが、私は全くそう思わない。
この国にも不要な命と在るべき命がある。
こういうことを言うと「人権」を盾にするエセ人権主義者が出て来るが、事実だから曲げようが無い。

大震災で全てを無くした福島の子が一時転入した学校で「放射能が移る」といじめられる。
私はそういうことに加担する子供の集団から人権を奪うべきだと思っている。
親含めて実名を公表して構わない。

MZ師が偉いのは、子供の頃、こういう子供にジハード(聖戦)として「行動」を起こし、完遂したこと。

そこまでは行けなかった自分は、復讐手帳の人物リストに教師含めて記載したままだが、ぼやぼやしていたら相手が先に亡くなってしまう。
「いやあ、子供の頃のことだからさあ」などと同窓会で肩を組んで酒を呑めるほど、私も馬鹿では無いし、そんな物分かりの良い人間ではない。
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2011年6月25日 土曜日 夜 夏のフェイバリッツ・2 Grace Jones「Libertango」'82.3

2011-06-25 23:55:34 | 音楽帳
1982年3月に受験から開放され、管理主義で野蛮な麹町中学校にオサラバして中学生活を終え、4月から文武両道の巣鴨学園の生活に入っていった。

1981年が、ウルトラヴォックスを中心としたヴィサージ・スパンダーバレエ・ランドスケイプ・デュランデュランなどを産み出し、幸宏の名盤「ロマン神経症」・一風堂の「レディオ・ファンタジー」を産み出したニュー・ロマンティクス・ムーヴメントの年だったとすれば、1982年は、その後に立ち現れたファンンカラティーナ・ムーヴメントが多くの新しい音楽体験の風を自分に運んでくれた。



ジャマイカ生まれのアイランド・レコード、アイランド・レーベルの国内発売権を持ったポリスター・レコードが、1982年3月25日にここ数年のレコードを各2,000円の各安値で一斉に「アイランド・エクスプロージョン2000」というシリーズで発売した。

そのことに拠って、過去のグレイス・ジョーンズ、ウルトラヴォックス、ロバート・パーマー、マリアンヌ・フェイスフル、B-52’S等々の音楽と出会う。

これが、バハマはナッソーにあるコンパスポイント・スタジオという楽園での音との出会い、細野さんのトロピカル三部作を通過した経過の中で、自分の楽園志向の「微熱」が再度胎内に発生してしまい、1982年レゲエ、ダブ、ラテン、ハイチ、ファンカラティーナへの憧憬へと傾いていく。



2011年の夏のフェイバリッツのその2として紹介するのは、そんな南の風の中でよく聴いたグレイス・ジョーンズのアルバム「ナイトクラビング」に収まった「リバータンゴ」。



アコーディオンと言いヨーロッパはおフランス的でありながら、南洋の匂いと相まったミックス。
これを聴けば、1989年に「ワールド・ミュージック」と言い出したものが、如何に音楽業界活性化のための単なる一大キャンペーンに過ぎなかったかがよくお分かりになって頂けると思う。
何も、この曲のような世界の音楽のミックスなど70年代から連綿と続いていのである。
こういう音楽を聴いてきた自分には「ワールド・ミュージック」というコトバは実にうさん臭かった。

***

このアルバム「ナイトクラビング」もバハマはナッソーにあるコンパスポイント・スタジオで録音されている。
プロデューサーは、アイランド・レコードの会長だったクリス・ブラックウェルとアレックス・サドキン。

アレックス・サドキンは、この後の80年代で躍進したトンプソン・ツインズの有名なプロデューサー。
と言えば「ああ、そういうこと」と合点が行く、アイランド・レーベルのパラダイス志向の音。

またスライ&ロビーのスライ・ダンバーも参加。
多くのレゲエ・ミュージシャンがバックを固める。



この後、1983年暮れに、明らかに教授の「B-2UNIT」をパクったジ・アート・オブ・ノイズが、このアイランド・レコードから出てくるが、元はバグルスもアイランド・レコード所属。



その首謀者トレヴァー・ホーンが、80年代中盤の音楽界を席巻することとなるだが、このときにはそんなことは知るよしも無い。

トレヴァー・ホーンが、このグレイス・ジョーンズをプロデュースして、恐ろしく美しい奥行きのある音を産み出すこととなるが、それはまた今度の物語。

***

さくりんさんへ

失敗です。
金曜の晩に好い気になって、ビールをたんまり呑んで音楽を聴いていたら、朝の6時まで行ってしまいました。
反省です。

お蔭で16時間睡眠し、夜は22時に起き、スーパーに買出しに行き、今、やっとパソコンに向かっています。

今夜は、先ほど外に出て驚いたのが、昨夜の熱帯夜と一転したなんて涼しい風の吹く夜。
まるで外気がクーラーのようで、窓を開けはなちました。

ネコのママさんも、今夜は過ごしやすいでしょうね。

***

新薬の話、とても現場に居ないとわからない実話は怖いものです。

「症状の、ある部分にはまったく作用しないので、効果より悪化が目立つ」
医者が「お薬変わりました~」一言で済ます。

製薬会社と病院の癒着は誰でも分かる話ではあるものの、相当カネが動いているんでしょうね。

私も、とある有名なとある製薬会社の物件の内装の仕事をしましたが、まあそんな大きい建物が建つくらいカネが流れているということでしょうね。

しかし、とはいえ、大きな名だたる病院の医者と言うのは、やはり凄いとは思っています。
うちの家系は代々コレステロールが異常値で、当の私もそうですが、兄貴が無理矢理、病院嫌いのお袋さんをそのコレステロールを低くするために、慶応病院に通わせていましたが、その担当医の先生が熱心で「おかしい・・・おかしい・・・」と様々な検査をする。
お袋本人は、極楽とんぼなので「先生、もういいっすよ」という中、調べていくうちに、胃がんを発見するに至る。
あのとき、町医者に掛かっていたら、単純にコレステロールの薬出されて、今頃死んでいたでしょうね。

しかし、それも10年前のこと。
今でも80歳のお袋さんは元気そのもの。
その一方で、がんを発見してくれた先生の方が、若くして先に亡くなってしまった。
なんとも言えない。

***

『かたちんばさんにお会いする日がもしあるならば、コーヒーを飲んでいただきたいと「死までの生」の中で思うひとつです。
(ご一緒にジャニスでもくもくと探し物、というのも思いつきましたが、音楽や本を探すというのは独自の世界観がありますから。)』

是非、コーヒーを頂きたいと思います。
毎年、アイスコーヒーをカラカラと音をさせて飲むたびに「夏が来たんだなあ」という季節感を感じます。
ボクの中では、もう夏が来ています。
放射能のことをすっかり忘れて。。。
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2011年6月25日 土曜日 夏のフェイバリッツ・1 細野晴臣「蝶々-San」'76

2011-06-25 04:26:46 | 音楽帳
本日(24日 金曜日)も暑かった。


【本日のサービス・ショット、シャラポワ。
モデルでもあるものの、とてもテニスのプロ・プレイヤーとは思えない。
しかし、こんな無防備に海にくりだせば、更に放射能を浴びる。】

木曜日の夜は、早く布団に入り、弱のせんぷうきを付けて、TBSラジオ「DIG」を聴いていた。
本当は疲れが溜まっているので、早く寝ねばいけないのだが、睡眠薬を飲んでも不思議と眠りに落ちなかった。

途中から「今夜は眠れないのだ」と開き直った。
熱帯夜である。

私個人の感覚で、今週梅雨は明けずとも、夏は始まった。
毎年の「夏のフェイバリッツ」の切り出しは、やっぱり『熱帯夜』だろうなあ・・。
そう想いながら。

多分、暗闇の中、3時頃、やっと眠りに落ちた。

あっという間に朝が来た。

***

汗をかきかき最後の1日を働く。
昼に多めに食事をしたら余計に調子悪くなった。

やっと、仕事の節目を付けたのが21:30.
帰り道、ビールとつまみを買って帰る。



家に着くと汗が止まらない。
「裸族」の季節だ。

夏は、パンツ1枚で過ごすに限る。
「ワールドハピネス2010」でもらった貴重なうちわをあおぎ、汗をタオルでふきふき、CDをまさぐる。



ご褒美に、夏の到来に、細野さんのトロピカル三部作を聴こうと思うが、ゴミ屋敷ではCDすら遭難してなかなか見つからない。

という訳で、最初に見つかった「泰安洋行」(1976)を聴きながら缶ビールをぐびぐび呑む。



「すごく自由である」ことを、改めて「泰安洋行」に感じる。
常に異端児扱いだった細野さんが開き直って、創ったトロピカル三部作。

本当の自由を感じる。
今年の夏は、「蝶々-San」で開ける事となる。



極楽極楽。
日本という国で異端児扱いだった細野さんの視線は、もう日本を捨てて、心は南洋に行っていた。
「泰安洋行」の3曲目「サヨナラ ザ・ジャパニーズ・フェアウェル・ソング」。

こんな日本とはおさらばだ。
そういう、自分がどこに居れば良いのだろうか?という居心地の悪さを覚えながら、ここでも、細野さんは、国外に出たいという願望が素直に出ていた。

***

今夜も熱帯夜。
缶ビールも4本目に突入した。

間もなく夜は明けるだろうが、知ったことじゃない。

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2011年6月23日 木曜日 夏到れり

2011-06-23 19:08:53 | 雑記帳
22日 水曜日
朝7:30起きて外を見れば、まるで夏のような真っ青な空と熱線のような陽射し。

本日は夏至。

暦では夏。
一年で一番陽が長い日。
もうこの後からは、陽の長さが縮んでいくのだから、私の感覚より地球は一歩前を歩いている。

まだあじさいは咲き、梅雨も明けては居ない。
そして、放射能はやんでいない。

先日くもおさんに話した通り、諦めては居ないが、もはや他人事で避けようの無い中、おびえても始まらないような気持ちになってきた。

東京電力に「じゃあ、君は我々に、これからは太く短く生きてくれ。
そう言っているんだね。」
彼らはイエスともノーとも言わず。

だが、事実を繋ぐと東京電力が我々にさとす宗教は、そういう生き方なんだろう。

「まあ、この直後に交通事故で即死するかもしれないというシニカルな視点から、過剰に大騒ぎするエセヒューマニストやナンセンスも私個人は理解はするがね。」

こんな考えが行き着く先は「生きられるその限り、猛スピードでさらに音楽を・大事なものたちを語り続け、アートを見て聴いて、行き続けること」だけだ。

生は短い。
ロバート・ワイアット「AtLast IAmFree」。



よく「あなたが間もなく死ぬとしたら、何をしますか?」という究極の質問があるが、死ぬことを覚悟するなら、かつて影響受けた渋澤龍彦著作『快楽主義の哲学』の如く。

この福島原発と放射能が制御不能となったら、秋葉原殺傷事件よろしく様々な犯罪も増え、長年耐え忍んできた今は少ない本物の日本人も生きている間にやりたいことをやる・そんな死を待つことから、一気に跳躍し、死までの生を謳歌する生き方に転換するかもしれない。

先程述べたロバート・ワイアットの曲が日本でシングル盤が出た際の邦題は「生きるよろこび」。
そういう解釈。



元より三島由紀夫は45歳で自決した。
凡人の私は、あと残り数日で先生の自決した歳に到達してしまう。

ならばだ。
「しゃにむに生きるしか無いではないか」(三島のコトバより)



この夏、YMOが出演決定した苗場の「フジロックフェスティバル」、そして「ワールド・ハピネス2011」にも行くしかない。
また、今まで出会った音楽たちとの出会いをシリーズ「夏のフェイバリッツ」に注ぎ込む。
総決算に向けた総括すべき時かもしれない。
ただ、明日死ぬ確率がある限り、悠長な時間は無い。

***

21日 火曜日
22日 水曜日
23日 木曜日

共に暑い日だった。
仕事場でも家でも、28℃になるまでエアコンは付けずに過ごした。

それは東京電力の片棒担ぎの節電ではない。
私はご覧の通りの、ヒューマニストとは真逆のスタンスに居る者。
ただ、動物たちがエアコン無しで、お人間さまが快適で居られる訳も無い。
逆に、ネコたちが、ちゃ~んと動物的勘を働かせて、常に居心地の良い場所を見つける天才のように、自分も『素』で気候変動と季節感をカラダに感じながら、自分の工夫でしのぐわざを見つける夏としたい。
風流なるものを、季節をしのぐわざに転嫁した、江戸の人の魅惑的生き方みたいに。



そこに憧れた故杉浦日向子を、ふいに思い出す。

***

今週は、前屈姿勢でぐったり死んでいるかのように座った女性キャリアを夜の電車でやけに見た。

かく言う私も―というか、私の場合は要因は抑鬱だが―今朝はぐったりしていた。
お茄子のお味噌汁は飲んだが。

昼は、疲れが頂点に来て、珍しく椅子で昼寝してしまった。

汗だくで仕事を片付け、今日は早期退散。
キレイな夕日を見ながら帰る。



途中、寄り道して18:30から喫茶店で過ごす。
カラカラとストローで氷を音をさせてかきまぜ、飲む、今日のアイスコーヒーの旨さは格別だ。



残るは、明日一日の労働となった。

カネ貰うに相当するくらいは4日頑張った自分へのささやかなご褒美のアイスコーヒー。
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