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こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年6月29日 月曜日  「初夏のサウンド28 大祓前夜」

2015-06-29 23:52:39 | 音楽帳

この土曜日は、一週間遅れの父の日。そのお祝いで実家に行った。
庭の梅の木は、この数十年ネコたちが木登りをするのを「おいおい」と見ながら、黙って見守ってきてくれた。その梅の木は昨年尋常ならざる豊作をむかえた。

その昨年の今ごろ・晴天の日にみんなで汗をかいて梅取りをして、洗って漬け込んだ。
あの日から1年。
あれだけ実ったけれど、今年は全然実がならず、日々の雨で落ちてしまい「梅取りの日」にはならなかった。それでもいい。

庭には最近現れたという、白色に茶がほんのり混じったネコさんが。
そのネコさんに初対面した。
名前は、ユキちゃんという。白い毛がきれいで雪のようだから。

たぶん、誰かに飼われていたんだろう。さほど警戒がない。
とはいえ、さわることは許されない。
この庭に1~2週間前に現れたときはガリガリだったが、エサを上げていく間に少しカラダがしっかりしてきたらしい。

最近では、一日中庭周辺に居て、お昼寝をしたり、すっかり庭の主になったようだ。
産まれてからいろいろあったのだろうけど、ユキちゃんにとっての楽園を見つけられたんだろう。
そうして、ゆっくり庭で過ごせばよい。親二人ともユキちゃんの顔を見るのを楽しみにしているんだから。




さてさて、迷走を続ける音楽のお話しへ。。。。。。

ソロとしての高中正義さんに初対面したのは、1980年・東京12チャンネル夕方の「ステレオ音楽館」のパイオニアCMだった。そのCMで「ブルー・ラグーン」をひたむきに演奏するオールバックの高中さんのカッコ良すぎるギター。まるで「音楽こそがすべて」と言うようにギターを弾く姿とその曲に胸を打たれた。同じような出会いを渡辺香津美さんにもこの頃している。(まあ、すべてYMOが”Key”となって繋がるのだが)

■パイオニア プリメインアンプCM 高中正義 1980(まさにこのCM!)■
「ステレオ音楽館」は、YMO・プラスチックス・一風堂・ヒカシュー・チャクラといったテクノポップのライヴ映像が見られる貴重な番組だった。

「ブルー・ラグーン」が入ったLP『ジョリー・ジャイヴ』を持つ中学生同級生の家に行って聴かせてもらった日を想い出す。この水平線と穏やかな夏のヨットが写るジャケットは永遠である。

先日ボズ・スキャッグス好きの6つ上の先輩・Kさんの話しをしたが、Kさんは(これまた)高中さんの大ファンで、高中さんを巡って酒を酌み交わし明かした夜があった。
そうやって、音楽夜話で夜を明かせる人がいることは幸せだと感謝する。

■高中正義 「Blue Lagoon」1979■






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2015年6月28日 日曜日  「初夏のサウンド27 Is Your Love Strong Enough? 」

2015-06-29 01:28:58 | 音楽帳

帰ってラジオを点けるとなぜか?ジェーン・スーさんの声。はて?
そんな今夜。

「ダンクラ」と言うセリフに意味不明だったが、自分の中で復唱すると、ああ、ダンス・クラシックのことか。。。
それまでスーさんのラジオを聴きながらも、いかに生放送を流して聞いてきたが分かる。聞きたくない部分が来るとサーモスタットが効いて、シャットアウトする機能が働く。

何だか特番らしい。ダンス・ミュージックは好きだが、そんな気分にはなれないのでダイヤル回して954からNHKに変える。それでも、ダイヤルを変える前に語った(今夜のお相手)高橋芳朗さんのお話しに耳をそばだてた。こういったダンス(ミュージック)リヴァイヴァルの流れは、ダフト・パンクが1つのキー。その道のプロが言うのだから、そうなんだろうな。

そういう自分も松本零士先生の絵がジャケットのCDを買って聴いた。彼らは、別に「ダンクラ派」じゃなく、魅力的であった。しかしその後、そのダフト・パンクを下敷きにしたパフュームの存在を知り、兄までがそれを聴き・セレクションCDに入れてきたのにはさすがに抗った。ふざけんじゃねえよ、と。

そこから数年を経たこの1年、パフュームを聴き、受け入れるようになった。
可愛いという下世話さもあったが、それを抜きにしても、あのライヴ映像と音楽は単に過去をなぞらえるのでは無いものを今ココに提示している。そう思っている。
最近インターFMからよく「リラックス・イン・ザ・シティ」が掛かるたびに幸福になる。

「ダンクラ」さんで想い出す。
80年代後期は個人的精神不調も伴い「音絶ち」をした。なんてことはない、幻聴幻覚が出たので「半絶ち」したまでのこと。だが個人的な理由だけか?と振り返れば、そうは思わない。
いい気になったバブル時代・ディスコからクラブへの流れ・ユーロビート・・・そんなものが重なり合いながら、享楽主義の中、東京は地上げと破壊が繰り返される悲惨な暗黒時代を目の前でむかえていた。

この1・2年、その時代を回顧しつつ「バブル時代は良かった」と雄弁な人を見かけるようになった。それは、知る人が少なくなったからということや人工バブルが再来したことからだが、そんなヤツを「こそ」決して信じてはいけない。

スーさんは生きるに長けた女性だろうが、誤解をはらむのは、このバブル時代までも捻じ曲げて良いもののように伝える瞬間である。それが私のわだかまりである。
当時、東京が如何に疲弊し地獄だったか、を果たして見ていたのか?そんな疑問符がある。

***

80年代後期の世界的な音楽シーンはユーロビートからハウスが産まれ、90年への境目・時代の転換点で新たなるアンビエントへと変化(へんげ)していった。ここで二分化され、いわゆるダンスフロア中心に育っていく音楽とそこから離脱していく音楽。The Orbはこの境目にあり、ダンスフロアに居ながら、その休憩室で遠くに聴こえてきた音楽からアンビエントを発見するのだが、その手合いの本や語り手はいくらでも居るから、私は撤退する。

そんな流れとはもはや無縁の今日・目の前。雲を追い掛けて炎天下を歩いていた。



■Bryan Ferry 「A Wasteland~Windswept」1985(Album「Boys&Girls)■










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2015年6月26日 金曜日 「初夏のサウンド26 80年代の記憶の断片」

2015-06-27 00:23:21 | 音楽帳

例えば身近に置かれた本の山にある一冊「異界談義」。2002年に発売されたものだが、どこか古本屋さんで手に入れたもの。ぱらぱらとめくりながら気になった個所を読むのだけど、通してすべてを読めてはいない。こういった類の本が適当に寝床の近くにある。

ここには、水木しげるさんが描いた妖怪や、日本のみならず中国や韓国なども含め各地で育った文化を引用しながら、昔の人がどう異界を捉え伝承してきたかが語られている。

***

今日、急に想い出したのが、幼少時・江戸時代を描いた「必殺仕掛人」を布団のすきまから視ていた記憶。狭い三ノ輪の居間兼寝床で、となりには親父が電気を消した中、この番組を安いウイスキー水割りを飲みつつゴロ寝で見ている。

幼い頃から不思議なものに惹かれる少年だった。「あんたは、どうしてこういうもんが好きなんだろうねぇ」と言われながら、無理矢理許可を取り付けたUFO・幽霊・不思議な現象や事件を追った番組を好んで見ていた。文学少年だった兄からのおさがりとあてがわれた小説類は、鮮やかな挿絵以外には興味を抱かず、もっぱら本嫌いが読めた本の接点は江戸川乱歩の少年探偵団シリーズだった。

「異界談義」には、こっくりさんや口裂け女に関するお話しも含まれるが、多くは民俗学の話しである。

糸井重里先生が「不思議、大好き。」というコピーを持って現れたのは80年代初頭で、彼を中心に広告業界が活性化を経て、濡れ手に粟となり、暗躍するに至る訳だが、此の世すべてが広告(うそだかホントだか分からないが、とりあえず表面的に宣言したものにすべては煽動される)化していく。
学生運動でふるっていたゲバ棒をペンに換えて、ということを糸井氏はよく言われていたが、おだやかな語り口の糸井さんの背後にあったのは価値の逆転であり、その後花開いた80年代の文化は結果的に資本主義文化と密接な関係がある。

個人的想いとすれば、当時本当にさまざまクレヴァーな新しい何かを産み出した人々の爆発は確かなる功績はあったが、紆余曲折の上、今あるこの国の悪しきフォーマットに繋がってしまった。
そういう居心地の悪さがある。

***

人が不思議なものに抱く魅力や「なぜか知りたい」という気持ちは、きわめて当たり前の感情。しかし、そこに漬け込んだ宗教が様々な手法を用い・信者集めを加速させ、結果オウム事件(あくまで”事件”)に辿り付いたのも80年代が描き出した光跡である。

極度のノイローゼだった80年代中盤、御茶ノ水聖橋口で女性の手相見が立ち、さかんに勧誘を行っていた85・86年あたり、豊田商事事件前後のシーン。この苦しい時代には岡田由希子ちゃんの死や日航機墜落という傷ましい事件の記憶が肉に食い込んでいる。
(90年代に向かう昭和と平成の境目ごろ新宿に行った際、駅前で象のかぶりものをした女性が選挙カーで踊る姿を眺めていて、気が付くと周囲を笑顔の白装束に囲まれて走って逃げたことなども浮かぶ。)

その1986年・ハタチで死にそこなう馬鹿を通過した後、リハビリテーションの最中、実家にあった朝日新聞に連載された藤原新也さんの「丸亀日記」を毎週ハサミで切り抜いて読んでいた。今でも覚えている文章の中に、24時間営業の「コンビニ」が乱立し始めた頃のくだり(今、手元には無い)。
ふらふらと深夜さまよう蛾が、店の外に設置された街灯に当たりバチバチと電気を放ち、蛾が落ちていくシーン。夜を覆っていた闇の濃さが消えていく、室内には永遠に絶やさず点いた白熱灯。闇世界の死滅。

このくだり的な記載は「異界談義」にも収められおり、まさにそうだと思う。
しかし、「丸亀日記」を読んでいた時から後、当時想像もしない関西で阪神・淡路大震災に遭い灯りの消えた神戸を見、そこから16年後に311が起きる。

歴史を学校で学び始めるのは小学校だが、縄文弥生に始まり聖徳太子に至るまで興味津々で、本嫌いなのに強制も無く歴史に興味を持つが、平安を過ぎるあたりから訳が分からなくなり「勉強」をサボるようになった。そこから後、そういった類に興味を抱いていくのはハタチ後にワープする。

『陰謀論』なるものの存在に自分の目が留まったのは311後であるが、興味深いこともあるものの、どこまで何がどうなのかは一介の私には判りかねる。ただ、元々「世」で語られていることの外側に何かがあるはずという空白が消えてしまい、若年層までもが社会経済・国家・歴史といったものの動向に対して血眼な時代が来るなどとは思ってもみなかった。
そんな流れを感じる。

そんな折「異界談義」をぱらぱらめくると、京極夏彦さんが小松和彦さんとの対談で幼少の頃から「日本的なもの」が好きだが、そこには右という意識もなく・・・という語りがあって、妙に安堵した。

■Japan 「Sons Of Pioneers」1981■
この曲を収めたLP『錻力の太鼓』のジャケットに霊が写っていると言われたが、私には見えなかった。
そうは思わなかったものの、器に盛られたご飯がまずそうであることとデヴィッド・シルヴィアンが持つお箸とお椀の指使いがやけに不器用なさまが未だに記憶に焼き付いている。


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2015年6月24日 水曜日 「初夏のサウンド25 愛しき日々」

2015-06-25 01:01:49 | 音楽帳

昨日・今日と、京都に行き、深夜に帰る。
逢いたかった年上や年下の(”仕事仲間”というより・今では)友達にたくさん会うことが出来た。
共にご飯を食べ、お酒を傾け、長いこと語らった。

今の自分にはもう社会的欲望はほとんど残っていない。
そんな素のまま話していくうち、お酒も入っていない時、つい”仕事を去っても、一生の友達で居て欲しい”などという告白を、女性でもない男性にしてしまう。
それぞれが異国で一生懸命生きている姿を視て、つい感情がこみあげてしまったのだった。
彼らはすんなり”OK”と答える。

”ぼくらはみんなで生きている”そんな想い。その”みんな”は全員ではないけれど、過去いさかいもあり、ケンカもし合った者同士が、そんな些細なことを超えて、繋がった輪の中で笑い合い話せる場所で再会した。

研修をした女性の新入生が、1年ちょっとしか経っていないのに、見る見る綺麗になっていく。そんな彼女が近付いてきて、声を掛けられ、ずいぶん長くお話しをした。

そんなたくさんのOMIYAGEを持って、まだ旅情残る帰路を辿った。



■ロバート・パーマー 「愛しき人々(Every Kinda People)」1978■














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2015年6月22日 月曜日 「初夏のサウンド24 のこりギリギリ」

2015-06-22 23:41:46 | 音楽帳

1982年の春から夏の流れで、もう一つ備忘録。
1980年YMOを中心として「日本」で爆発開花した”テクノポップ”も、たった2年というのに相当濃密なうつろいをしていた。膨張一途・蜜月ばかりが渦だった。そのテクノの1つという認識だったPモデルは、1982年春・作品「パースペクティヴ」を発表する。

調べるとこの作品を雑誌「ミュージックマガジン」は1982年4月にレビューしており、雑誌は一か月前に案内をするので1982年3月あたりに発表されたものかと思う。
FM東京の夕方15分番組で一週間紹介した番組があり、録音しつつ聴いた。一日1曲か2曲。そのカセットテープはその後消してしまったので、今ここには無い。

やけに「コトバ遊び」が目立つと思うと同時に、ドラム及び録音室内反『響』音をいかにして拾うかに腐心した作品と思えた。一応曲それぞれはあるが、そこに表現されたそのものよりも『響き』をどう掬い取るか?がテーマという気がしていた。

そこからはるかかなたに来た後、この『響き』が脳に浮かんで音盤を探した。そうして、この十年のどこかの地点で、CD「パースペクティヴ」を神保町で手に入れた。
このCDを聴いて、当時も今も心に『響』くのは「のこりギリギリ」という曲。

当時は音楽に歌詞は要らないと思っていたし、平沢進先生がどこまで意識としてそれを捉えていたかは不明。しかも、歌い方がくぐもっているので、歌詞そのものは歌詞カードを視て解かるものである。今になって見るとかなり深い内容で哲学的だが、(再び言うが)その歌詞もどこまで平沢進先生が意識上で意識していたかはかなり疑わしい。

無意識が勝手に自動筆記したもののように思ってしまう。

数週間前にツイストの世良公則さんがラジオ「爆笑問題の日曜サンデー」にゲスト出演した。
(その世良さんが極めてカッコよかったことは後日に送るとして)その際、ヒットした曲を創ったのはハタチそこそこであり・毎日必死で追われる日々だったが、その歌詞を見ると自分のモノとは思えないしそれを経験根拠で描いたものとも思えない、と語るくだりがあって、そこに総毛立った。
どうも、そういうもののような気がする。直感であり、論理ではない。

まるでこのアルバムは、YMOの「BGM」やPIL(パブリック・イメージ・リミテッド)の「ザ・フラワーズ・オブ・ロマンス」から影響を受けたように思えるのだが、平沢進先生は否定している。私もたぶんそうだと思う。時代の流れや偶然の一致≠シンクロニシティだと思う。

■Pモデル 「のこりギリギリ」1982■

色とりどりにのこぎり鳥は メートル法の部屋を飛ぶ
愛なんぞじゃありゃしない まして正義なんぞじゃありゃしない
カガミがあるだけ カガミがあるだけ
カガミがあるだけ カガミがあるだけ

のこぎり鳥は どこ 義理欠いた
底 意地とれて のこりギリギリ

きめこまやかにのこぎり鳥は 見える角度で姿を変える
うそなんかじゃありゃしない ましてほんとうなんかじゃありゃしない
日記があるだけ 日記があるだけ
日記があるだけ 日記があるだけ

のこぎり鳥は どこ 義理欠いた
底 意地とれて のこりギリギリ

意気揚々とのこぎり鳥は チェス盤上をねりあるく
敵なんぞはいやしない まして味方なんぞはいやしない
恐怖があるだけ 恐怖があるだけ
恐怖があるだけ 恐怖があるだけ

のこぎり鳥は どこ 義理欠いた
底 意地とれて のこりギリギリ

時はやおそくのこぎり鳥は 直線上の視界の奴隷
いちぬけたいねさようなら ましていちぬけたいねさようなら
言葉があるだけ 言葉があるだけ
言葉があるだけ 言葉があるだけ

のこぎり鳥は どこ 義理欠いた
底 意地とれて のこりギリギリ





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2015年6月20日 土曜日 「初夏のサウンド23 日々是好日」

2015-06-21 00:09:55 | 音楽帳
引きずる疲れや憂鬱感があった。
しかし、そんな心象を抱えたまま室内に居ても出口は無い。
そうして、無理矢理カラダを室外に押し出すと、想定外のドピーカンだった。

今日もラジオと音楽を聴きながら歩いた。
mp3プレイヤー収納曲を、再び入れ替えた。いい加減な順番に現れる曲に「そう出たか」と、つい笑ってしまった。

■ウィークエンド 「サマーデイズ」1982■
長旅になってしまい、今夜も足をマッサージする。

◇今日現れた音楽プレイリスト◇
1・一風堂 「アフリカン・ナイト」
2・ミカド 「ParHasard」
3・ブライアン・イーノ 「Inland Sea」
4・山下達郎 「風の回廊(コリドー)」
5・ドゥルティ・コラム 「キャサリン」
6・ポリス 「King Of Pain」
7・ドゥルティ・コラム 「フェイバリット・ペインティング」
8・一風堂 「ドリーム・オブ・ザ・ジプシーズ」
9・渡辺貞夫 「モーニング・アイランド」
10・ポール・ハードキャッスル 「レインフォレスト」
11・ボズ・スキャッグス 「Isn’t It Time」
12・砂原良徳 「スパイラル・ネヴァー・ビフォー」
13・スティーヴ・ライヒ 「ピアノ・フェイズ」
14・ウィークエンド 「ウィークエンド・オフ」
15・細野晴臣 「最後の楽園」
16・マルコム・マクラレン 「オバタラ」
17・ストラングラーズ 「ユーロピアン・フィーメル」
18・チャイナ・クライシス 「Bigger The Punch I’m Feeling」
19・ウルリッヒ・シュナウス 「Knuddelmaus」
20・山下達郎 「ターナーの汽罐車」
21・ストラングラーズ 「夜の曳航」
22・マラリア 「Kaltes Klares Wasser」
23・山下達郎 「Loveland Island」
24・トーマス・ドルビー 「電波(エアウェイヴ)」
25・ブライアン・イーノ 「ダンウィッチビーチ・オータム 1960」
26・ガビ・デルガド(DAF) 「ミストレス」
27・カジャグーグー 「ハング・オン・ナウ」
28・ガビ・デルガド(DAF) 「ヒストリー・オブ・ア・キッス」
29・マッシヴ・アタック&トレイシー・ソーン 「プロテクション」















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2015年6月18日 木曜日 「初夏のサウンド・22 About The Weather(Magazine)」

2015-06-18 22:36:16 | 音楽帳

昨日、6月17日 水曜日。
3ヶ月に一回のヤマ越え。子供たちが道端で挑戦する数人の長い縄跳び。
回るナワの調子に呼吸を合わせ、突っ込んでいく。自死するみたいにダイヴする。

先週、いきなりのゲリラ豪雨というレイプ。家が台無しになった70代のお父さんがお昼の映像に映っていた。気丈にも冷静なさま。心境はそんなことは無いのだろうが。茫然としているから気丈に見えるだけのことかもしれない。
昨日は一日、その映像のせいで不安定な陽気がいつ舞い降りるかびくびくしていた。
というのも、その近くに終日居たから。

「仕事は副業」と友人やガールフレンドには言いながら、終日アウェイな場で・会議に呑み込まれていると、正直そうも行かなくなる。しかし、こういった日の救いは、短時間にギュッと圧縮されるので、しゃべるエネルギーは要るが、それが終わると少しゆるい時間を、早い時間帯から味わえる。

薬物を可能な限り削り落とす日々も、こういった日だけはQPコーワや鎮痛剤などのチカラを借りる。それでも頭痛等の痛みが消えない。

***

「仕事は副業」でも、こういった前夜は少し神経質や憂鬱になる。そういったときは、その後のゆるむ時に心の標準を合わせることで、心のバランスを何とか確保する。

いくつもの会議のハザマで、都内から来るいろんな人と会うのだが「雨に逢わなかったかい?」と言われる。自分が通り過ぎた各地点で「その通過時点では」なにごとも無かったのに、数十分後に土砂降りになっていた。そう言われると、案外「運」は味方をしてくれていたのかもしれない。

この時節は19時半くらいまで明るいので、島に着くとまだ帰るには早い気がしてしまう。おまけに頭痛が一層きびしい。島の隠れ家の1つである土着喫茶にまぎれ込む。夕暮れの露地では、ネコさんたちがゆうゆうと歩き、道に佇んでいる。
アイスコーヒーを注文し、店のおかあさん(おばあちゃん)と2人でおしゃべりをして過ごした。

■マガジン 「アバウト・ザ・ウェザー」1981■

マガジン/ハワード・デヴォートと出会えた初めは1981年の今ごろ。
教授のサウンドストリートで掛かったこの曲。
雑誌「ミュージック・マガジン」では、この曲を含むLP『マジック、マーダー&ザ・ウェザー』は小嶋さちほさん(ゼルダ)含むみんながボロクソに叩いていた。私が出会い、初めて買ったマガジンのLPが、彼らの最終アルバムになるであろうこと・間もなく解散するだろうという予想を、「なぜそこまで・・・」と当時思っていた。

実際その通りマガジンは解散したが、自分にとっては好きなLPである。
当時、神保町のこじんまりとアットホームだった塾の帰り道、三省堂書店本店横にあったヴィクトリアによく寄り道していた。そこでLP『マジック、マーダー&ザ・ウェザー』を買った。

ヴィクトリアというとスポーツショップのイメージが強いが、当時はレコードショップも展開していた。そして、この神保町店の2階はニューウェイヴ貴重盤の宝庫だった。マガジンやウルトラヴォックスが裏で糸を引きYMOの影響下、別ユニット名称で創ったヴィサージや「ニウロマンティクス」面々のレコードやヨーロッパの最新レコードが店内に並んでいた。
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2015年6月16日 火曜日 「初夏のサウンド・21 憧れのボズ・スキャッグス・3」

2015-06-16 22:41:09 | 音楽帳

1981年発表 坂本龍一「左うでの夢」
「ちょっと、ティーブレイク。」
テクノやデジタルのアタック音が強い最新の音楽ばかりが続いた後、教授がよくサウンドストリートで言っていた言葉。そうして掛ける音楽は、現代音楽でもテクノでもエレクトロニックポップでもない音楽。そうして掛かる音楽は、教授がそれまで聴いてきたものだった。最新でも最先端でもある必要がない音楽。

それらがその後「渋リク」(=渋いリクエスト)という特集回に繋がっていった。
「渋リク」は1982年以降、つまり実質YMOが終わった後であり、そんな余裕が出て始まったものという認識が自分にはある。精神を病んだ限界地点の危機感・切迫感。それに包まれた鬼気迫る1980・1981年のYMO3人は、1982年にはぞれぞれのヴァカンス/解放に向かっていく。

しかし今(言い方は微妙だが)驚くような音像より・ある範疇に置かれたフォーマットにのっとった音楽が現在進行形音楽に多いので、私が「ちょっと、ティーブレイク」と言うときがあったら、逆にディープな過去の音楽に向かう、という生理現象を起こすことが多い。

そー言いながらラジオはマッチ(近藤真彦)の「くるくるマッチ箱」が掛かっている。
80年代当時なら嫌悪していたであろうが、いまやこういった人にもシンパシーを感じて話す言葉に耳を傾けることが多い。お互い同じ時代を越え、イヤな経験も越え、いろいろあったんだから。

***

「実は。。。」と6月11日早々に仕事を退散した理由を、毎日一緒に仕事をする・ある先輩Kさんにだけ告げた。本当は、ボズ・スキャッグスのライヴに一緒に行きたかったのだが、要職を担う彼を誘うには状況的に許されなかった。

あまり音楽一筋ではないが、泊まるたびにシャーデーや最近のブラックミュージックのライヴを見せて教えてもらった・別の先輩Wさんが数年前転勤になる際、送別のプレゼントにボズ・スキャッグスの「ミドル・マン」のCDを選んだ。
それまでもKさんとは20年近い付き合いだったが、数少ない「外呑み」に誘った夜、そのCDを選んだ自分にえらい感激していたらしく、普段は寡黙であり・野蛮な自己主張しないKさんは、饒舌に如何にボズ・スキャッグスが素晴らしいかを語った。
その夜は2人で音楽だけをつまみに話が盛り上がり、深夜まで音楽談義は続いた。

Kさんとは、今・仕事上の関わり合いで一緒に居るが、そんなことを抜きにしてヒトとして好きなのである。思えば、2011年3月11日震災の夜も、家に帰れないというKさんを自分の家に泊めたのだった。

偶然なのだが、KさんもWさんも自分の兄と同い年であり、6つ上の人である。少なくともこの2人との糸は一生だと思っている。

今週、Kさんに「ボズは何も変わらず元気でしたよ」とだけ言った。
Kさん「AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)という言葉が産まれたのは、ボズが居たからだよね。あんなオシャレで都会的でかっこいい音楽はそれまで無かったよなあ。。。」しばし、仕事の合い間に話しをした。

***

どうして、こんなかっこいい人に憧れながら、その後ねじれて行ったんだろうと思う。
私はボズ・スキャッグスやフュージョンやクロスオーヴァーやポップスなどが一方で好きでいながら、テクノにはじまった世界に引き込まれていった。
テクノそのものは決して「健康にも悪くない」が、テクノが発火点となり、ボズが居るポイントを離れていったのは事実である。ヨーロッパの深い森に吸い込まれていったのだった。
毒気が無いと満足し得ない、ということでは、まるでシャブに染まっていく中毒者の如く。

当時行くことはかなわなかったが、ボズ・スキャッグスはLP「ミドル・マン」を伴って1980年に来日し、武道館でライヴを行っている。下記の映像は、10月15日武道館のもの。

そこで不思議な感覚が湧く。
1980年と言えば、日本全土がYMOに呑み込まれた年である、そんな彼らは10月時点ではまだ凱旋帰国していない。彼らは疲弊しきった中、10月15日雨のロンドンに居た。もやもやした怒りと死のロードの道程。

1980年10月15日 細野さん&幸宏
この2ヶ月後の12月には、同じ武道館で「From Tokio To Tokyo」ツアーの歴史的ライヴで締めくくりを行った。

■BOZ SCAGGS 「BREAKDOWN DEAD AHEAD」1980.10.15武道館■

1980年10月16日 幸宏 (このときトニー・マンスフィールドとの対面が、翌年1981年作品「ロマン神経症」へ結実する)
追記:本当はボズを語るはずが、YMOに引き込まれてしまった。当時は、何の違和感も無い同志なのだが、なんだか渾然一体になった感じにも思える。
という訳で中毒重症患者は、YMOを今夜も引用する。

■YMO 「ライオット・イン・ラゴス」1980.12.27武道館(ワールドツアー凱旋公演)■
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2015年6月15日 月曜日 「初夏のサウンド・20 水辺の記憶」

2015-06-15 22:21:30 | 音楽帳

今は少し歩けば隅田川が近くにあり、よく気まぐれに川沿いを歩く。
昨日は、歩き疲れた夕暮れ時、トワイライトが彼方から迫る尾竹橋辺り。その風景の中に私は居た。

梅雨時の雲が垂れ込める雲間から、一部だけオレンジ色になる遠い空が視えた。ほんの数分。
なんだかとっても懐かしい気分になって、音楽を聴きながらそんなシーンにシャッターを切った。

写真と映画と小説とマンガでしか逢えなかった、いたずらな時の巡りあわせ。
その恋しいオバケ煙突があったあたりは、今でもその雰囲気を残していてくれる。

空にゴマ粒を蒔いたように飛ぶ鳥たち。
巣に戻っていくのだろうか、空を舞っている。
その姿を見上げる私。空がとても高く広く感じる。

三ノ輪に居た頃は、荒川や隅田川まで小さな家出をよくした。
草加の頃には綾瀬川へ。
そして大阪時代は、すぐ横が淀川支流で、造幣局と繋がる川沿いをよく歩いた。
西尾久の頃は、最寄りの宮ノ前から小台へ・・・と歩き荒川ほとりに辿り着き、川を眺めてた。

川のある場所は、含めて悲しい物語が多くあった名残りが漂う。
それでも、水のある風景が好きである。
さまざま表情があり、それはコトバではない形で何かを伝えてくる。

水場が近くにあることは、今の私の暮らしにとって欠かせない。



■BOZ SCAGGS 「HARBOR LIGHTS」1976■


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2015年6月14日 日曜日 「初夏のサウンド・19 憧れのボズ・スキャッグス・2」

2015-06-14 12:20:22 | 音楽帳

幼少の頃の三ノ輪の家では、一日中FMラジオが流れていた。その影響で60~70年代のヒット曲は「誰が演奏している何という曲」はわからないまま、おおむね耳だけで知っていた。
中学生に上がり、毎週土曜日お昼はFM東京の「ポップスベスト10」等々を聴き、雑誌「FMfan」をめくり洋楽のお勉強。その折、初めて聴いたボズ・スキャッグスのシングル「ブレイクダウン・デッド・アヘッド」。1980年春のこと。

ニューヨークはマンハッタンというアメリカ全体とも断ち切れた孤島。そのビルが並んだスカイラインへの憧れとこの曲がイメージで繋がった。この曲は、LP「ミドル・マン」に入っていた。黒のジャケット&ネクタイにオールバック、そんなボズは、黒網タイツに赤いボディスーツをまとった女の脚をまくらに、たばこをくゆらせている。



そんな同時期、ガラスを割る音と共に始まるビリー・ジョエルの「ガラスのニューヨーク」を収録した「グラスハウス」が発売されていた。LP2枚とも欲しいが、そんなわけにはいかない。貧乏人にはそんな贅沢が出来る余地は無かった。
もんもんと悩みながら、銀座の街を歩き、山野楽器で悩んだ結果、ボズ・スキャッグスのLPの方を選んだ。2800円だった。この悩んだ結果、ビリー・ジョエルを買っていたならば、その後のボズとの関係も変わっていたはずだった。

お店では巨大なLPジャケットのポスターをプレゼントしてくれた。
今になって思うと「そうだった」と気付いた変な事実は、小さな自室のカベにその大きなポスターを貼っていた事。これではまるで海外プレイボーイのヌードポスターを貼っているようなもので、我が事ながらよく臆面もなくやっていたものである。

LP「ミドル・マン」は勢いいさんで買ったものの、分厚い小説を買ったときと同じで、実際は噛み砕くのに時間と苦労を要した。それは中高生時代に国語教師が「中身のない本はすぐ読めるが、深い本は一回読んだだけじゃあわからないものだ」と言ったようなもので、「ミドル・マン」もA面・B面とひっくり返し何度も何度も聴いた上で、体内に入ってきた。

一回聴いて即大好きになったのはA面トップであり、この作品を代表する曲「ジョジョ」。
たっぷりなタメが利いた抑揚、腰から揺れるブルージーなグルーヴ感。きらびやかなニューヨークの夜を思わせる「オトナの音楽」。
そしてA面終わりの「トワイライト・ハイウェイ」。そこでは、カルロス・サンタナのギターが美しく鳴きまくる。

咀嚼を続け「ミドル・マン」全曲を好きになる過程は、中学生には長かったが、そのステップはほかの音楽を聴くための基礎作りでもあった。片方で「ミドル・マン」を聴きながら、その後発表されたベスト盤とシングル「ミス・サン」をラジオでエアチェックし、過去のボズの作品にさかのぼり1つ1つ彼が辿った道を確認していった。

■BOZ SCAGGS 「YOU CAN HAVE ME ANYTIME」1980■
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