こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

1984年6月 Kajagoogoo 「Islands」

2017-05-16 22:00:00 | 音楽帳

去年から、カジャグーグーの2枚目作品「アイランズ」各曲をYoutubeで繰り返し聴いてきた。
この土日再び聴きなおしていたが、やはりCDで欲しくなって注文した。

彼らに出会った1983年。シングル「TooShy」「HangOnNow」はとても好きな曲だった。
じぶんが一番熱かった80年代の中で、シングル「TooShy」は聴いた回数で言えば突出している。
クロスオーバーイレブンでエアチェックした12インチの長いヴァージョンも大好きだった。深い夜の中、きらめく微細な音を聴いていると安堵出来た。

だが、これらヒットシングル2曲を含む1枚目のLPアルバム「ホワイト・フェザー」に満足していたか?
と言えば、ヒット曲以外へのじぶんの視点・印象が薄く、アルバムとして良い一枚とは思えなかった。

収録された中にはフュージョン的なインストゥルメンタル(その名の通り)「Kajagoogoo」がある。
この曲は、深夜ピーター・バラカンさんがMTVを紹介する番組「ポッパーズMTV」コーナーのテーマ曲になっていた。

「Kajagoogoo」以外にもフュージョン/クロスオーヴァー的な要素強い曲があり、「TooShy」「HangOnNow」などポップでメロディアスな曲と同居したLPは2つの世界に引き裂かれた印象だった。

***

カジャグーグーは1983年ブレイクしたとたんに、ヴォーカルのリマールが脱退してしまい、こちらは「どうして?」という想いになった。
好きになったバンドがいきなり姿を変えるというのは実に残念であった。

翌年1984年、カジャグーグーはリマール抜きで活動を続け、先行したシングル「ビッグ・アップル」「ライオンズ・マウス」と2枚目のアルバム「アイランズ」を発表する。
当時のじぶんはシングルカット曲そのものに興味を持てず、それ以降ろくに聴かないまま。。。となってしまった。

その後も「カジャ」とバンド名を変えて活動しているというニュースは雑誌やラジオで見聞きしていたけど、それっきりになった。
愛しておきながら忘れてしまった、じぶんの冷たさはよろしくなかった。

いまになって「アイランズ」を聴いてやっと理解したのは、フュージョン/クロスオーヴァー的要素にカジャグーグーがやろうとしていた音楽の方向性やオリジナリティがあったのだということである。
アルバムタイトル曲の「アイランズ」や「Part Of Me Is You」など・・・どれもが素晴らしい楽曲である。

よく音楽には「再評価」という言い回しをすることがある。
しかし、その多くは「ただ単にちゃんとリアルタイムで音楽を聴いて(聴かれて)いなかっただけだろう。」そう思っていたが、カジャグーグー2枚目は、じぶんがその当事者。
じぶんと80年代の音楽のあいだに、そんな想定外の距離はない、と思ってきたが、”ちゃんと聞いてなかった”ことに気付いた。

彼らをアイドル視しかしない高校の同級生に「彼らはそうではないよ」と言ったりして、かなりひいき目に見ていた。
だが、思い込みがフィルターになって、音楽を聴くことを曇らせてしまうことがある。
彼らのデビューの登場そのものがデュランデュランの弟分という形であり、それはまるでジャニーズの如くだったため、多くの錯覚があった。

ベースのニック・ベッグスの笑顔のさわやかさが印象的で、未だに「TooShy」のレコード盤をながめることがよくある。

■Kajagoogoo 「Part Of Me Is You」1984■

初夏の夜には素敵な曲を。


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2017年5月12日 金曜日 初夏・日付変更線

2017-05-13 00:00:00 | 音楽帳
温度計がついに28℃を指した。
毎日できるかぎり外気に身をさらす暮らしは続けているが、季節変動を心身でわしづかみにとらえられない。
足が自由にならなくなったせいか?といえばそれが理由でもない。脳のほうもある。脳=精神ではない。

夜、今年はじめてのエアコン。
もはや初夏。と、それに応じて身の回りの塊をまさぐる。
だいぶ処分したが、本やレコードやいろいろ。

興味のアンテナはキリが無くなるので、今日フォーカスは南佳孝さんのレコードやCDにとどめた。

1982年FM生放送だった。
教授は南佳孝を「友人」と言いながら、「”ザ・ベストテン”(黒柳さん&久米さん)によく出るよな、アイツ」とサウンドストリートで言っていた。
友人だし、音楽家としての付き合いもあるが、あのビジュアルでテレビはキツい。

こういう教授の余計なことを言ってしまうポロリは、1983年幸宏さんの「オールナイトニッポン」でよく取り上げられていた。教授は正直すぎるのだった。

今日初めて「認知」したのだが、YMOも山下達郎も南佳孝も全部1980年同時にブレイクしたのだ、ということ。とりこまれた最中に居ると分からないものである。
そして、この3者に共通しているのは、坂本龍一が関わっている事実。

しかし、この手の話しをし出すと派生する事項が多くて、かなりな枝葉がYMOを中心として広がっていくので、キリがない。南洋思考、ということでは、加藤和彦さんの作品も想い出す。

***

南佳孝さんの作品は、今から夏に向けて、知らない方にもぜひともおススメしたいものである。
彼の音を、当時は「シティ・ポップス」(苦笑)などと言っていた。

深夜ラジオ(TBS「夜はともだち」)とか、街で言えば高田馬場だったり、雑誌「ホット・ドック・プレス」なんかが頭に直結する。
80年代、と言いながら、そこにまだ70年代が透かし模様として残留していた。
そのニュアンス。

70年代から80年代に変わっていく中で消えていった音楽家は多いが、YMOも山下達郎も南佳孝も両方にまたがっている。

どこに行ったか出てこないが、南佳孝さんが雑誌・FMレコパルの特集「夏の音楽」でおすすめを紹介しているのを想い出す。
ほかにはまだ(ファンだった)「タイニイ・バブルス」の頃の桑田さんなどが、じぶんの好きな音楽を紹介していた。

夏向けの好きな曲をカセットテープなどに編集する際、どんな音楽を?という特集。
桑田さんがロビー・デュプリーやスモーキー・ロビンソンなど、「それ風」な音楽を挙げている一方、南佳孝さんが人として興味を引いたのがイーノの「ミュージック・フォー・エアポーツ」を挙げている点だった。

また、その後知るアストラット・ジルベルトの「おいしい水」などもあったが、イーノのLP「空港」をカセットに落として、そのまま島に行きたい、という夢を語る姿。
当時のポップ・スター南佳孝自身が好きな音楽と、彼が創り出す音楽との乖離感が刺激的であった。

南佳孝さんにはいろいろ良い作品があり、おススメすべきものは多いが、個人的には「サウス・オブ・ザ・ボーダー」かな?



■南佳孝 「日付変更線」(From「サウス・オブ・ザ・ボーダー」・原曲1978)■




1982年4月広告
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2017年5月 初夏の音 ヴァージニア・アストレイ

2017-05-10 12:00:00 | 音楽帳

車窓から流れる風景。

イヤホンからのヴァージニア・アストレイが風景とシンクロする。
水車が回り、動物ががあがあと鳴き、新緑が草香り光り輝く音。
そして、まどろんで眠くなる。

むせるような暑さ。
もう夏に向かっている季節の中、彼女のあの声とあの微笑みが脳によみがえる。
彼女を想い続けて、こちらはずいぶんと老けてしまった。
「老け」なんてコトバを数年前は思いもせず・使わなかったというのに。

人は昨日まで毎日会っていたのに、ある日突然お互い疎遠になる。
気が付くと相当な時と距離が経っていたりする。
中学校の同級生ですら、花吹雪舞う卒業式に、アーチをくぐり「じゃあ、また」と言ったきり会っていない。
そんなことだってある。

***

ヴァージニア・アストレイはかわいらしい。
かわいい、と思うのは、少ない情報から得た数枚のポートレイトと純潔の処女のような音からの”そうあってほしい”と勝手に思い込んだ幻想。
それ以上入ってくる情報も手段もないので、幻想に包まれたまま、彼女は母となり音楽界から消えていた。
でも余韻は残る。

1983年秋、雑誌「ミュージックマガジン」で初めて知った作品『プロミス・ナッシング』。
あの日から30年余年近く経ったいまも、彼女はまるで妖精のようにふらりと、音楽という姿で目の前に立ち現れる。

■Virginia Astley 「It's too Hot to Sleep」1983■
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1982年4月 B-52’S 「メソポタミア」

2017-05-09 23:00:00 | 音楽帳

作品「メソポタミア」は、B-52’Sの一応3枚目のアルバムとなる。
AB各3曲・計6曲なので「ミニアルバム」とも言われた。
普通LPレコードが国内盤2,800円する中、1,980円と格安だった。
じぶんにとっては初めてB-52’Sを1枚通して聴けた作品だった。

1982年春の新譜発表に伴い、「メソポタミア」は過去2枚の曲と一緒に、FMラジオでさかんに掛かっていた。
このLPレコードが不思議だったのは「ミュージックマガジン」で今野雄二先生も指摘しているように、国内外のレコードにより収録曲の長さが違う。FMでの新譜紹介番組によって、なぜか同じ曲なのに分数が違い、それがナゾだった。

この作品は、トーキングヘッズのディヴィッド・バーンがプロデュースを行っている。
1・2枚目のスコンと突き抜けた脳天気さに陰りが。。。という言い方をする人が多かったが、じぶんには初めての作品として楽しめた。個人的には、A面3曲目の「DeepSleep」という渋い曲が好きだった。この曲は、桑原茂一さんが当時ラジオ番組でも選曲していた。

この作品「メソポタミア」が発表される前、1981年のこと。
土屋 昌巳さんが選んだ「ニューウェイヴレコード100枚」(FMレコパル記事)の2枚が、B-52’Sの1・2枚目で、それが頭に残っていた。
銀座ソニービル地下にあった中古レコード屋「ハンター」で、海賊盤2枚組ライヴLP「BombsAway」を4千いくらという高額をはたいて買ってしまった。

LP1枚買うカネさえないのに、なぜこんなレコードを買ってしまったのか?
こういう気の迷いと衝動買いと失敗が中学・高校時代には多くあった。
ロバート・フリップ&ザ・リーグ・オブ・ジェントルマンもそうだった。

買った足で帰って聴いたら、絶望的に想定外の音で遠い目になる。。。
数千円のビニ本を「ジャケ買い」ののち、開封してスカだったときに似ていた。

正規盤LPであれども同じ。
1980年、本当は別のLPレコードを買うはずが、中学生のとある日、教授の「B-2UNIT」を2,800円で買う。
帰ってターンテーブルに乗せて初めて聞いたときの呆然とした夕暮れどき。。。
オレンジ色に染められた部屋の中「ディファレンシア」が流れていた。そのシーンを想い出す。

「B-2UNIT」は聴き込み、さまざまな経緯ののちに愛聴盤となるが、「BombsAway」への絶望感は回収しようもないものだった。アメリカのパブかどこかで行われたライヴを、遠い位置から盗み録りしたもので、舞台の音楽よりも聴衆のざわめきと声の方が大きく、とても落ち着いて聴ける代物ではなかった。

結果的に泣く泣くこの2枚組LPは手放すことになった。
こんなことだったら、アイランドレコードがセールをしていた期間にB-52’SのオリジナルLPを素直に買えばよかったのである。

しかし、バクチ打ちというものは、理屈ではない、リスクを背負う方へと選択が傾いていく。
この誤った選択により、どれだけぼったくりに遭ってきたか。
実にかっこ悪いが、それをポジティヴに言い回しを変えると。。。「高い勉強代だったが、経験としてムダではなかった。」
そう。少なくとも、B-2UNITはムダではなかったのは事実である。



■B-52's 「Deep Sleep」1982■

PS:早く教授の「Async」を聴かねば。。。
といいながら、今夜も逸脱。録音した(吉田)拓郎さんのラジオを聞きなおしている。


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1982年4月19日 月曜日 「WEEKLY HOT VOICE」

2017-05-09 23:00:00 | 音楽帳

1982年、朝日新聞の月曜夕刊に「WEEKLY HOT VOICE」という2面ページがあった。

いろんな話題を2ページにまとめた企画。
この紙面の作り方や内容は、雑誌「(当時の)宝島」や「スタジオ・ボイス」に近く、毎週楽しみに読んでいた。

「中川敏明の廃盤エレジー」というコーナーがあり、廃盤になってしまったLPレコードにまつわる想い出が詞的文章で語られていた。

第一回目は、ピート・シーガーの「レインボウ・レース」。
チャールズ・ミンガスやエリゼッチ・カルドーゾという音楽家の存在も、当時このコーナーで初めて知った。

このページは1983年まで続き、途中細野さんのコラムが登場した。
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1982年4月 ジャム 「ザ・ギフト」

2017-05-05 23:00:00 | 音楽帳

初めてザ・ジャムで聴いた曲は「イートン・ライフルズ」。
アルバムとしては、リアルタイムで意識的に聴いた作品は’82年春の「ザ・ギフト」だった。

アルバムが発表された4月、FMのあちらこちらで新譜紹介がされ、テレビさいたまの「サウンド・スーパー・シティ」などではMTV『プレシャス』が掛かっていた。
たしか、大貫憲章さんの「動く姿」を初めて見たのは、このときだった。

この作品「ザ・ギフト」を良く言う音楽評論家は大貫さんくらいのもので、大方の人は辛い点数を付けていた。
リアルタイムでパンクを体感した人たちからすると、ザ・ジャムという名前の下で発表すべき作品ではない、と言った論調だった。
それをよそ目に、シングルカットされた「悪意という名の街(Town Called Malice)」はアルバムと共にイギリスチャートをにぎわしていた。

その一方、じぶんはFMで聴いた「ザ・ギフト」の曲たちを一発で気に入ってしまい、必死こいてエアチェックに励み、そのテープを繰り返し聴いた。

***

三大パンクバンドと言われた中の1つ「ザ・ジャム」へ期待されたものと、ポール・ウェラーがやりたい音楽が大きくずれていた。それが作品「ザ・ギフト」の評価を分けていた。

そして、ポール・ウェラーはこの作品を最後にして、バンドを解散させることを決意。
じぶんがやりたい音楽は「ザ・ジャム」ではやれない。。。
→ 翌’83年スタイル・カウンシルの結成へと繋がっていく。

***

「プレシャス」などホーンセクションを導入したファンキーなノリの曲や、スティールドラムなどで南洋の明るいムードの「ザ・プラナーズ・ドリーム・ゴーズ・ロング」など、パンクバンドとしてのリスナーではなかった人には、「ザ・ギフト」はキャッチーで分かりやすい曲に満ちている。
インスト曲「サーカス」は、当時ラジオ日本「全英TOP20」のチャート紹介のバックに使われていた。

どの曲も3分前後と短いのも、聴く側への分かりやすさを手伝っている。
手元に残ったエアチェックしたカセットテープには全11曲中9曲がおさまっているが、カセット分数は30分(!)のものを使用している。それくらい1枚聴き通すのには時間がかからない。

自作のインデックスカードに「The Jam Last Album」とレタリングされているが、それはのちに加えられたもの。
ジャンルは違うがイーグルズもジャムもマガジンも、初めて出会ったアルバムが最終作となるといったことがたくさんあった。

■The Jam 「Precious」1982■

1980年・81年ミュージックシーンは、多様なエスニック音楽を取り入れる(エスノ)、および、ファンクへのアプローチが主要なテーマだったが、「ザ・ギフト」はちゃんと1982年4月の音楽シーンと軌道を一にしている。このへんが実にポール・ウェラーらしい。

「プレシャス」は、ザ・ポップ・グループが分裂して出来たピッグバッグが演奏した曲とまったく同じテイストだったり、「ザ・プラナーズ・ドリーム・ゴーズ・ロング」がハイチやカリプソのエッセンスを取り入れていたり。。。
ポール・ウェラーの「”パンク”という十字架を背負うなんてゴメンだ」という謀反の意志表明がこの「ザ・ギフト」であり、その後に花開くスタイル・カウンシルのように思う。
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1982年7月17日 土曜日 ビルボードチャート

2017-05-04 22:00:00 | 音楽帳

1・ヒューマンリーグ 「愛の残り火」
2・TOTO 「ロザーナ」
3・ジョン・クーガー 「青春の傷あと」
4・サヴァイヴァー 「アイ・オブ・ザ・タイガー」
5・ダズ・バンド 「レット・イット・ホイップ」
6・フリードウッド・マック 「ホールド・ミー」
7・ジュース・ニュートン 「愛のサンシャイン」
8・ソフト・セル 「汚れなき愛」
9・モーテルズ 「オンリー・ザ・ロンリー」
10・38スペシャル 「想い焦がれて」
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1982年7月 ザ・モーテルズ 「オンリー・ザ・ロンリー」

2017-05-04 22:00:00 | 音楽帳

モーテルズの多くを知っているわけじゃないが、なじみ深いバンドで、ヒットした曲は未だに古くならず輝きが失せない。
彼らの曲は、まるで昨日のことのように、よく聞くことができる。

呑んじゃいけないお湯割りをちびちびと隠れて呑みながら聞いていると、場末酒場のカウンターみたいに思えてくる。
演歌をバックに痛飲している呑み助おやじの姿よろしく「もーてるずは、やはりええねぇ~」などと独りつぶやき、深々と目をつむる。
モーテルズには、そんな夜が似合っている。

初めて彼らに出会ったのは1982年初夏。
土曜夜、小林克也さんの「ベストヒットUSA」にて。

大きくヒットした「オンリー・ザ・ロンリー」「想い出のラスト・サマー」はEPレコードまで持っている。これからの初夏には良い。
21世紀に入って出た彼らのベスト盤CDも買ったが、繰り返し聴くのはヒット曲2曲ばかり。1回聴くと何回でも繰り返し聴きたくなる。

ヴォーカルのマーサ・ディヴィスはなぜ泣いているんだろうか?
なぜ目が真っ赤なんだろうか?

ジャケットに映る彼女の目。
意図して真っ赤なのか?
それとも、コンタクトが合わないのか?
出会った当時も、今も、ジャケットを見ては、そんなことを思う。

大きな目が印象的な大柄のグラマラスで艶っぽい女性。
情熱的に感情を吐き出す歌い方と声は、外見の印象同様とても魅力的で惹かれる。

今日気付いたのは、桃井かおりさんのけだるい感じをマーサ・ディヴィスに重ねていたこと。
桃井さんは「男たちの旅路」の頃から今まで好きな方だが、雰囲気がよく似ている。

モーテル、というと、アメリカの何もない1本道のわきにぽつんと建っている安宿。
というイメージが脳裏に浮かぶ。その道にはヒッチハイクをしている人がいる。

このモーテルという言葉は小さいころ妙になまめかしく、ラブホテルよりも隠微な響きに聞こえた。
そして、それらが有る地域は「きっと」京浜東北線や常磐線といった、都内山手線区内からはずれに向かって反れていく経路にある場末の歓楽街に違いない、という思い込みだった。

東京の貧しい下町で生まれ育った少年にとって、夜の国鉄の車窓からまたたくネオンライトはそういった連想を抱かせた。

モーテルズ、とはよく付けたバンド名だ、とつくづく思う。

■The Motels 「Only The Lonely」1982■




余談:モーテルという言葉から、急に映画の1シーンを想い出した。
「サンセット・モーテル」という映画で、内庭のプールでサングラスをして横たわる水着女性の姿。
90年代の初め、デヴィッド・リンチのドラマ「ツインピークス」のオードリーに夢中で、彼女が出演した作品を探している中でたどり着いた映画だった。
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2017年4月 ポール・マッカートニー「ワン・オン・ワン ジャパンツアー2017」

2017-05-02 23:00:00 | 音楽帳

まさか2017年という想像もしない(未来)の地点で、ポール・マッカートニーのライブを見る。
そんなことになろうとは、ゆめゆめ思わなかった。
まるで浦島太郎のような感覚。
 
会場に来ていた人の年齢層は幅広くさまざまだが、リアルタイムの経験をしてきた先輩などは、特にそんな想いだろう。

時は止めることなど出来ず、常に流転し、歴史は常に更新され・上書きされていく。
「この人がビートルズなの?」という十代が居る、その「今」という一線上にポールがいた。
 
***
 
複雑な言い回しだが、ビートルズはポール・マッカートニーのバンドだったんだな、ということをライブで実感する。
そして、帰ったあと数日後、想い出したぼろぼろの本を出してきて、ふたたびめくった。
 
1940年・・・ ジョン・レノン、リヴァプールに生まれる。
1950年・・・ 土岐留雄、東京に生まれる。
1960年・・・ ビートルズ結成。この年、東京は、安保改悪反対のデモで埋まった。 
 
とはじまる一節。
精神科医中沢正夫さんの1986年の著作「他人の中のわたし」。
中井さんが実際に出会った患者と過ごした日々のお話し。

中井さんが仮称・土岐留雄に出会ったのは、1981年・彼が31歳の日。
「・・・それは一見して旧い旧い分裂病者の姿であった。 精神分裂病が治りきらぬまま、かたまっている状態であった。
かたまっているといっても、薄皮の下にはまだマグマが燃え盛っていて、いつ噴火するかわからぬ状態であるうえ、
人格破壊の深い爪あとを残したまま仮の平静状態になっているのだった。」(「時間を止めた男」より一部抜粋)


彼は1965年(15歳)の春に発病した。
中井さんは、話し込んでいくうち、自閉的で情報にとぼしい彼から、次第に理解する手掛かり(CUE)を掴み始める。
彼の一日の全容が分かり始める。

「AM7:30 起床。朝食を取らず、AM10:00までレコードを聴く(第1回目)。
・・・喫茶店・・・昼食・・・散歩・・・PM2:00 レコードを聴く(第2回目)・・・・PM7:30~10:00 レコードを聴く(第3回目)。。。」


彼はジョン・レノンがリードヴォーカルを取った曲だけを選曲して2時間40分に編集し、それを3セット、つまりは8時間。
毎日毎日ビートルズの好きな曲を聴くことを儀式的日課としていた。
そして、彼とビートルズとの蜜月、見事な時間軸との符号を中井さんは読み取っていく。

1970年ビートルズが解散したとき、土岐留雄は20歳である。
「・・・彼は1970年で時を止めて生きているのである。
自分の人生がそれより先へ進むことを拒んでいるのである。そのため1日8時間、彼はビートルズ・サウンドに乗って、1960年代に毎日遡行していたのである。」


これは何も彼(土岐留雄)特有のことではない。
YMOや80年代を巡る冒険の日々であったじぶんも同じであり、当時のビートルズファンも同様であろう。
じぶんが彼に寄せるシンパシーは、同じ病人であるという自覚でもある。

中井さんは、彼の凝り固まった状態を「治す」ことが、果たして彼を幸せにするのか?と書いている。
「・・・土岐留雄の手段は・・・哲学的である。
彼は、単に時間を止めているだけではない。ことこのテーマでは、彼は現在との間に通路をもっているのである。
・・・彼の病を治すとは、おそまきながらこの細いチャンネルをつかって、”彼の時間”を進ませ、われわれの時間(物理的時間)まで追い付かせることに他ならない。
そのことは、今の彼からあの”豊かな1960年代”へ遡行する楽しみをとりあげることになりかねない。
治ったとき、それに見合う新しい夢を将来に向かってもつことができないとしたら、彼は治ったことを悔やむだろう。
それでも治す!ということになると精神科医とはつまらぬ商売である。」

中井久夫さんも「世に棲む患者」で、同様の考えを記していた。
 
何を現実と呼ぶのか?何を妄想と呼ぶのか?
何が正常であり、何が異常なのか? 
それはその人その人の内と外のバランスにあり、誰にも断言できない。
 
音楽と言うのは1つの有益なドラッグだと思う。
言い方によっては、現実逃避に過ぎないと一喝されるだろう。
われわれが頭の固い親父に、幼いころよく言われた言葉であろうし、あまり音楽には詳しくなさそうな中井さんの口調や文章にも同じくだりが出てくる。
 
しかし、それでも、音楽は(薬品ではない)視えないドラッグだと思う。
それを細野さんは「グッド・メディスン」と言っていたが、そういったことが成り立つことがある。万全万能ではないけれど。

目の前の痛みやつらさを軽減させる効果を持つことは十分にありえる話だし、苦しい人にとっての音楽が1つの救いであることを妄想と誰が断定しようか?
もし現実逃避だったとしても、それが何だ、という風に、病人であるわたしじしんは思う。
 
他者がどう言おうが、その人にはなりきれない。
それは怖い事実だが、音楽を通じて外界と繋がることができ、他者と交流することもできる。貴重な「出口」への回路だ。
 
***
 
初めて目の前で見たポール・マッカートニーのショー。
まさに「ショー」であった。
 
70年代幼少の頃にビートルズを知り、その後しだいに追体験として知っていった彼らの音楽とメンバーそれぞれの在り方。
ポールは、楽天家で軽いなあ、という存在感はよく言われたことだし、目の前にはそのまんまの姿が見えた。なんとも軽い。
 
どれだけのつらい時間と物事を超えて、この人は今ここにいるんだろうか、というこちらの想いをよそに、フットワーク軽く2時間半という長いライブをぶっ通してこなす74歳の姿。
 
今ここを生きること。
日々のリハビリとトレーニング。
生き続けることに自信などありはしないから、日々今を生きる。

こうして、先を歩いて灯をともしてくれる陽気な引率者がいることは、この世にとって貴重なことである。
最近、そういったことをよく思う。

■Paul McCartney 「New」2013■


2017年4月27日 東京ドーム
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