日誌+ 今日は休みで、遅く起きては、いつも以上にアタマが回らない。起こされたとき、数年前に潰された実家まわりの夢を見ていた。
男まさりの亡き母親がメシ喰いに行こうと言うから、引越し荷物の片付け途中で現場から離れる。ゴミが山積みの玄関を抜け、先に歩く母親と縁切近くなった兄弟の後を追った。自分は家を離れ、振り向きざま、数枚カメラのシャッターを切った。よく見る機会もなかった実家。数メートル離れて全体がフレームに入るようにしながら、その家をじっと見た。こんなカタチをしていたんだな、と数十年目にして初めて知る。
そこで声を掛けられて、夢は中断した。
回らないアタマで昼過ぎまで身の回りにある本やCD等雑多なモノにまみれ、PC内の未整理のファイル、それにアタマの中にあるごちゃ混ぜの考え、これらとない混ぜになって、鉛のような重さが脳内を満たし始めた。こんな膠着状態で室内に幽閉されていくと、大抵は何もかもが未解決で片付かないまんま、どんよりした一日になる。
今日はそのパターンに気付き、家人に「少し出てくる」と適当な誤魔化しをして外に脱出した。
出る時のTV画面で、根岸季衣さんが細い目で渋い顔をしていた。(2時間サスペンス最後まで見られず。)
寒い中、チャリンコを走らせ、雑念吹き飛ばす。使い捨てカイロをギュギュっと握りしめる。
ひどく寒い。それもそうで、日本海側は再びの大雪。東京も今年一番の冷え込み。
しかし、外の陽気に春の訪れを感じる。それはたぶん日差しの光線の色合いや青空の色味、空気の肌会いによるものだろうか?。
冬が持つ不思議は、冷え込み厳しい1.2月に、冬至を離れて日照時間がどんどんと長くなっていく、という相反するバランスにある。
そんな今日、チャリンコで走る片方だけのイヤホンから流れるのは広瀬豊さんの「Nova」、1986年作のアンビエント。自然に流れる音に混じり、水音、鳥や虫、生き物たちのざわめきが絡んでくる。カイロを握りしめ青空に風を切りながら、しばらく時を忘れて、春の音世界に漂う。
■広瀬豊「Nova」1986■