こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

冬の100曲:広瀬豊「Nova」1986

2025-02-20 21:30:00 | 音楽帳

日誌+ 今日は休みで、遅く起きては、いつも以上にアタマが回らない。起こされたとき、数年前に潰された実家まわりの夢を見ていた。
男まさりの亡き母親がメシ喰いに行こうと言うから、引越し荷物の片付け途中で現場から離れる。ゴミが山積みの玄関を抜け、先に歩く母親と縁切近くなった兄弟の後を追った。自分は家を離れ、振り向きざま、数枚カメラのシャッターを切った。よく見る機会もなかった実家。数メートル離れて全体がフレームに入るようにしながら、その家をじっと見た。こんなカタチをしていたんだな、と数十年目にして初めて知る。
そこで声を掛けられて、夢は中断した。

回らないアタマで昼過ぎまで身の回りにある本やCD等雑多なモノにまみれ、PC内の未整理のファイル、それにアタマの中にあるごちゃ混ぜの考え、これらとない混ぜになって、鉛のような重さが脳内を満たし始めた。こんな膠着状態で室内に幽閉されていくと、大抵は何もかもが未解決で片付かないまんま、どんよりした一日になる。
今日はそのパターンに気付き、家人に「少し出てくる」と適当な誤魔化しをして外に脱出した。
出る時のTV画面で、根岸季衣さんが細い目で渋い顔をしていた。(2時間サスペンス最後まで見られず。)

寒い中、チャリンコを走らせ、雑念吹き飛ばす。使い捨てカイロをギュギュっと握りしめる。

ひどく寒い。それもそうで、日本海側は再びの大雪。東京も今年一番の冷え込み。
しかし、外の陽気に春の訪れを感じる。それはたぶん日差しの光線の色合いや青空の色味、空気の肌会いによるものだろうか?。
冬が持つ不思議は、冷え込み厳しい1.2月に、冬至を離れて日照時間がどんどんと長くなっていく、という相反するバランスにある。
そんな今日、チャリンコで走る片方だけのイヤホンから流れるのは広瀬豊さんの「Nova」、1986年作のアンビエント。自然に流れる音に混じり、水音、鳥や虫、生き物たちのざわめきが絡んでくる。カイロを握りしめ青空に風を切りながら、しばらく時を忘れて、春の音世界に漂う。

 

■広瀬豊「Nova」1986■

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冬の100曲:Marianne Faithfull「Times Square」「Morning Come」1983

2025-02-19 21:30:00 | 音楽帳

先日、マリアンヌ・フェイスフルが亡くなった。

自分が彼女の存在を知ったのは、1982年4月。これまた当時購入していた雑誌「ミュージックマガジン」でのことだった。この雑誌広告に、アイランドレコード創立20周年を記念して 過去の作品を一律2,000円で販売するキャンペーン広告があり、対象レコードのジャケット一覧がのっていた。その中の一枚がマリアンヌ・フェイスフルの「ブロークン・イングリッシュ」だった。ジャケットでは、タバコを持つ手が目のあたりにかぶさり、その陰影で彼女がどんなまなざしか?わからない。まるでまぶしいみたいにひさしにした手。裏の写真ではその手を外し、こちらに睨みを利かせて、メンチ切ってる。その姐御のモノクロポートレートがすごく印象的だった。その後も1982年には「愛の戯れ」が日本国内発売になり、興味をかきたてられたが、おこづかいと優先順位の兼ね合いで聴く機会を逸したまま時が過ぎた。

そんなマリアンヌ・フェイスフル の実際の音楽にやっと触れたのは、翌1983年10月秋だった。深夜23時、クロスオーバーイレブンにて選曲された曲をエアチェックすることになり、1983年の新譜「聖少女」から2曲。「タイムズスクエアの彷徨」「朝来たりても・・・」を聴いた。

80年代当時、彼女は“元ミック・ジャガーの恋人“ということと”元はアイドルのような声だったが・・”という2点がよく語られた。妖精のようだった彼女が数年経ったら、全く違う姿で皆の前に現れた。その激変ぶりがかなりショックだったことは、話す方々の文面からよく伝わってきた。

自分はそんな先輩たちが経験した可憐な姿を知らず、「聖少女」で彼女に出会った。精神の病、それにアルコールとドラッグ中毒を経て死の淵から戻ってきた彼女のしわがれて潰れた声にすごく優しさを覚えた。自分は当時まだ17歳だったが、親や荒廃した家庭、学校やそれを取り巻く社会に振り回されて、既に痛みと苦しみでぼろぼろに疲弊し切っていた。そんな自分にとって彼女の声と歌は同類の仲間と感じさせた。随分と一方的な想いだが、似ていると思った。こういった感覚は理屈ではない。音楽というものは、発語したたった一つのせりふだけで、その声の背後にあるその人の魂のありかみたいなものがわかってしまうから。

***

1983年10月25日出会ったのは2曲だったが、聴いて瞬時にその声に同じ匂いを感じ、どうやって生きていけばいいのかわからず、立ち往生している自分のココロに響いた。

そこから長い時間か流れたが、いまだにどう生きればいいか全くわからない。10代から解消できぬまま抱えた抑うつや倦怠感を引きずって、50代の下り坂を転がっていく。そんな道の途中で、自分のありかを探して彼女のアルバムを取り出して聴くことが未だにある。(ここ一二週はチャリで走らせながら「シークレット・ライフ」を聴いている。)

あの1983年に聴いた2曲は、あれから40余年経った今でも自分のココロを震わせる。昨年ブログに書いたハロルド・バッド同様、マリアンヌ・フェイスフルにも長くに渡ってお世話になってきた恩義がある。底に居る安定感とでも言うのか、彼女の音楽に漂う倦怠感は優しく自分には響く。他人にとってどうかは分からないが、“売れる”音楽、“高尚な”音楽よりもはるかに、自分にとって魂の支えや救いになる音楽だと思っている。

 

■マリアンヌ・フェイスフル「タイムズスクエアの彷徨」1983■

ひそかに聴くアルバムたち

 

PS:

20250219梅はとうに咲いている

20250219河津桜もあと数日だろうか

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冬の100曲:石井明美「バラード」1997

2025-02-11 23:40:00 | 音楽帳

雑録+   90年代は高橋真梨子さんのヒットが続いていたけれど、果たしてどこで自分が「ごめんね」を聴いたのか?記憶に定かでなかった。しかし、言われてみれば確かに「ごめんね」は火曜サスペンスで一番多く繰り返し刷り込みされていたのかもしれない。今は亡き母親がサスペンス好きで、火曜夜はテレビからこの曲が流れていた。「ごめんね」が流れる中、仕事帰りのごはんをよく食べていたような気がする。
「ごめんね」がヒットした90年代後半はもうCD時代だったが、そのCD等々を自分は持っていない。ただ高橋真梨子さんのCDなら母親の遺品で自宅にあったような気がするが、自宅丸ごともうなくなってしまったのでゆくえは不明。今回CDで聴きたいなあ、と思ったタイミングに、図書館でこんな2枚組CDがあることを知り 借りて聴いている。この2枚組CDを見ると、あれもこれも火曜サスペンスのテーマ曲だったんだな、と改めて知る。この中で自分が好きでよく聴く曲のひとつは、石井明美さんの「バラード」。

彼女のヒット曲と言えば「CHA-CHA-CHA(チャチャチャ)」。自分はそれくらいしか知らなかったが、これが掛かっていた時代も、掛かっていた流行りのドラマも、こんな浮かれた曲も、それをもろて挙げて喜んで見聞きしていたアーパーでにぎやかな連中も、そんな安っぽい世界全体が自分は〇き気がするほど嫌いだった。苦々しい思いで耳を塞ぎ、鼻をつまみ、そんな時代をやり過ごした記憶が強い。
そんな背景を持つ自分が、家人に付き合って平野ノラとかその手の芸人が出る音楽番組を最近いくつか見てしまった。悪しき腐臭放つバブル時代のありていな側面をまるで美しい時代であったかのように振り返る番組構成が実にうそくさかった。その中でもう還暦の石井明美さんが若作りした当時のまんまの姿で踊り、「CHA-CHA-CHA」を歌っていた。

自分の人生と無縁な反対側の世界にある歌と歌い手。。。石井明美さんが居た世界を陽としたら、彼らと無縁な反対側の世界で過ごしてきた自分。そして、あれから数十年後、昔の火曜サスペンス再放送で「バラード」を聴いた。良い曲だなあ、と思ってクレジットを確認して、その曲を歌っているのが石井明美さんだと初めて知った。
正直、石井明美さんがこんな良い歌を歌える歌唱力があるなんて想定外だった。ひょっとして「CHA-CHA-CHA」が売れてしまったが為にランバダのカバー曲など「そんな路線」を行かざるを得なくなったのだろうか?。TVメディア中心の世の中だった過去、生き残るには歌手には”この一曲!”が必要で、彼女にとって「CHA-CHA-CHA」はそんな必殺の切り札だったのだろう。
「バラード」を聴いて、『そんな路線ではない石井明美さんの曲』が聴いてみたくなった。ただ「CHA-CHA-CHA」が「そんな路線」であるように、『2時間サスペンスのテーマ曲』もそれはそれで一つの路線。岩崎宏美の最初のヒットが生まれてから2つ目3つ目の「柳の下のどじょう」を探し続けた路線上に「バラード」はある。
そんなことを悶々とぐるぐる思ったすえに、一周して、何者にもなっていない自分の身に意識は戻ってきた。
「バラード」は、リーマンをやめてからのこの4~5年、よく聴いている。

■石井明美「バラード」1997■

20250205

20250208

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冬の100曲:高橋真梨子「ごめんね」1996

2025-02-04 21:50:00 | 音楽帳

250129スカイツリー

 

先週月曜日・27日には、いつも通り大竹さんのラジオで森永さんの声を聞いていた。その森永さんが亡くなったことを知ったのは、翌火曜日・28日夜のこと。実際は13時30分に亡くなったそうだが、知らせを聞いて「えっ」と絶句した。前日昼にはお話ししていたのに。
年明け後確かに調子は悪いと聞いていたが、森永さんのことだから、また波をこえたら調子は戻るはずだと思い込んでいた。しかし、それは甘かった。実際は相当ギリギリのところでラジオに出ていたのだ。そんな当たり前のことを忘れていた自分の思い込みの迂闊さを知った。

大竹さんのラジオではいつも月曜、阿佐ヶ谷姉妹と森永さんの歌声で始まるのが(いつからか)恒例になっていた。それが番組冒頭のなごやかな空気を作っていた。その冒頭の歌に「いただけない」という反響メールが多数占める回もあれば、「すごくうまく行き過ぎてつまらない」という日もあった。妙にクセになるその番組オープニングは「なんだかなぁ〜」な日もあったが、何はともかく月曜日は森永さんの不安定なボーカルで明けていた。こちらは月曜午後からの仕事前、「さて現場に入るか・・」というまでの数十分毎週聞いていた。

***

昨年11月文化放送の浜祭りでは、ゴレンジャーみたいな真っ赤な衣装を身にまとい黒のサングラスをして、歌合戦に臨んだ森永さんの姿を目の前で見た。森永さんはサービス精神旺盛な方で、みんなが「なんて格好してるんですかあ」という中、「これでカンペキに準備は整いました」あとは歌うだけと、高橋真梨子さんの好きな歌「ごめんね」を歌った。
その歌は高橋さんの曲が持つ色気は当然みじんもなく、ゴレンジャーの姿と曲が持つ雰囲気が全くマッチしていない違和感だけがそこには有った。やっぱり「なんだかなぁ〜」という空気が漂い、みんなの印象に残るステージ姿だった。

浜祭りが終わった後のインタビューで森永さんは、やるからにはバットは振り切らなければならない、メディアに出る人はそうであらねばならないといったことを言っていた。そんな姿を回想しながら、ここ数日高橋真梨子さんが歌う正規の方の名曲「ごめんね」を聴いていた。

***

森永さんは優秀だから、お金で困ったことはないだろうけど、それでも、ひたすら堕ちていき苦しくなっていく日本の中で、こんなやりくりや過ごし方があるよ、と私みたいにカネ無き人にもためになる話しをよくしてくれた。マネできることもよくあった。

その一方マネできないのは森永さんの最後の日々だった。ギリギリまで走り続けてパッと息絶えた姿はまるでドラマみたいで、そんな亡くなり方をした人を見たことがない。ガンがわかってから一年少し、最後の走り込み方は凄まじいものがあった。毎週ラジオでよく話していたが、本を何冊も並行で走らせながら、寝る間を削ってやらねばならないことをやり切った。こんな生き方はなかなか出来ないだろう。

ある年齢を超えるとつらくて仕方がないばかりで出口を失うことも多い。自分もそんな現実の渦に苦しむことは多い。しかし、森永さんみたいにはいかないかもしれないが、好きなものに夢中になること中心で余生を生きたいと思っている。(元々リーマンみたいな奴隷生活送ってる場合ではなかったのだ。)自分は果たしてどうなるか分からないが、そんな心境の今を過ごしている。

 

■高橋真梨子「ごめんね」1996■

241104増上寺

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冬の100曲:Jacksons「Victory」1984

2025-01-28 22:00:00 | 音楽帳

十代の頃/80年代初頭への病的なこだわりが40年以上たっても続く。時間的理由だったり経済的事情で当時ゆっくり聴けなかったアルバムを聴き直す日々。そんな中、最近はどうも1984年のアルバムを聴くことが多い。

1984年とは自分にとって「音楽」の魅力が枯渇したみたいに、最新音楽の存在価値が落ち始めた年だった。テクノやエレクトロニックポップが一般化してきて、世界に満ち溢れ出したのが1983年。その年末にYMOが散開してしまい、翌1984年をむかえた。音楽を聴くことで激しい刺激を得られたり、めくるめく夢みたいな世界が脳裏に展開していたのに、そんな麻薬が切れ出したのが1984年だった。

この1984年あたりから美味しい音楽が激減し、自分は"テクノ=命(いのち)"と言っているだけでは凍死してしまうかもしれない、と思い出した。このままでは「生き永らえることは出来ないかもしれない」と判断し、四方八方、色んな周辺分野に新しい音楽の息吹をより一層探し出していた。

そんな中のいわば数100枚のうちの1枚が、ジャクソンズの「ビクトリー」。これは当然、1983年マイケルの「スリラー」が異常な大ヒットを飛ばしたおかげで企画されたアルバムなのだろう。制作スタッフはほぼ「スリラー」と一緒らしい。

しかし、こんな分かったふりをしているが、このCD「ビクトリー」をちゃんと1枚まるごと聴けたのは今年2025年の年明け後のこと。たまたま中古屋さんの店頭でこのCDを発見、格安だったため購入。iTunesに入れて、チャリンコで街を流したり、歩きながら聴いている。

1984年リリース当時、ミック・ジャガーとマイケルの共演したシングル「ステイト・オブ・ショック」、それにシングルカットされ、番組「日立サウンドブレイク」でも掛かった「トーチャー」の2曲は印象深く聴いていたが、それ以外の6曲は知らないまま年月が経っていた。「ステイト・オブ・ショック」は当時ヒットしている最中は大して気にもならなかったのに、刻んでくる音やピキピキと起立したテンポがすごく胸に刺さる日があって、ここ10数年のどこかでシングル盤だけは買って持っていた。

この数日、寂しい寒空の下 夜散歩をする中このアルバムを繰り返し聴いた。全8曲は静かでメロウな曲から激しいものまでうまくバリエーション散らしてある。実に「よく出来たアルバム」だが、企画ものの域は出ていない。

それでも、スーッと聴けてしまうくらい、他のポップスに比べれば水準は高いけれど。。

自分がマイケルを聴くことに違和感を抱く人がいるが、実は「スリラー」も大ヒットする前、発売後すぐに気に入ってカセットで聴いていたくらい。決してマイケルの筋金入り大ファンではないが、おかしくなる前のマイケルは素晴らしいと思っていた。

しかし「ビクトリー」を聴いていると、中居くんじゃないが、ジャクソンファミリーの名声にあぐらかいて、家に女の子を招き入れては兄弟で輪姦していた連中+マイケルのアルバム、という記憶がよみがえる。そんな人でなしの馬鹿兄弟が行う輪姦を横目に見ながら、足蹴にされていたマイケルが不憫でならない。。。

マイケルのヒットがあってこそ発売出来たアルバムなのに、などと憤慨してしまったりする。そうして、せっかくアルバムを通して聴けたのに、結果的には音楽に対したった一人・唯一生真面目で真剣なマイケルの歌う「ステイト・オブ・ショック」に戻ってしまった。

 

■Jacksons(Michael Jackson & Mick Jagger) 「State Of Shock」1984■

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冬の100曲:Roberta Flack「Chapter Two」1970

2025-01-18 20:30:00 | 音楽帳

入院することになった身内のため、ここ数日神保町をほつき歩いていた。唐突に時間が出来て久しぶりに歩いた神保町は、また前回よりがらりと変わっていた。歩く人たちを含めて、街全体がホワイト社会に犯され、漂白されたみたいにきれいになっていく。その分、さらにそっけなく見え出した令和の街。

神保町との付き合いは初めて歩いた小学生時代に始まり、浪人時代には毎日居た。また大人になってからも週末には毎週ココに居る時期があった。そんな長年付き合った時代は遠くになった。

***

この数日 延々と変わっていく変化に呆然としながらも、まだ昔ながら続く古本屋さんや路地を巡り、偶然出会えた本やレコードを買った。

その後お腹が空いて昼食場所をさがして歩いたが、油そばにラーメンに・・カラダに悪そうな高い麺類のお店がいっぱいで、ふつうのお店が無い。外には学生等が並んでいた。寒空の下、座りスマホで待つ人までいる始末。私には入りがたい店だらけ・・。歩き疲れて迷った末、やはりここは安定の日高屋にしようと諦め、いつもの店を目指した。。。しかし、その店に行くと、そこは空き地になっていた。

仕方なく妥協して、次に目指したのは安定の中華屋さん。そこならスカは引かないだろうと探して、手近な店に入る。中国人の店員に案内され、カベに向かう一人席に通されたが、テーブルからスマホで注文するシステム制と知りオロオロ・・etc・etc・・。

***

過ぎ去りし日々を思いながら、その過去と似て非なる街を歩く。そんな中聴いていたのが、ロバータ・フラックのアルバム。最近たまたまめぐり合わせで手に取ったCDは、彼女の1970年作品だった。2枚目のアルバム「第二章(Chapter Two)」。iTunesに取り込んだはいいが、なかなか聞けずじまいだったこのアルバムを取り出し、神保町を歩く道で初めて聴いた。8曲入り約38分。何度も繰り返し聴くうちなじんでいく。

まるで胃薬が胃の粘膜を覆って修復していくように、音がトゲトゲした日々の暮らしで傷み切ったココロに、優しくそっと触れてくる。とがったキズを丸く覆ってくれる。私にとってこのアルバムは、予定調和的にもっともらしい静かな部屋で聴くよりも、昔過ごした街の雑踏の中で、或いは歩き過ぎ行く風景の中で聴く方が沁み入るようだ。ジャズボーカルのテイストと文字にして分類してみせることは可能だが、語ってしまうと消え入りそうな微細な音のニュアンス。そこに向かい合う。

 

■Roberta Flack「Until It's Time for You to Go」1970■

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冬の100曲:フィリップ・グラス「天の伽藍(がらん)」1982

2025-01-11 21:20:00 | 音楽帳

□音楽と無縁な話し□一月上旬□

元旦からの炎症は粘っこいが、やっと下り坂に入った。6日(月曜日)には熱は消えていた。一日中の鼻水もやっと粘質からサラサラの水っ鼻に変わった。しかし、その一方で6日以降、家の人が逆に38度熱を出し始めた。彼女は家で寝て休んで治すやり方をとっていたが、一向に熱が引かないので、数日後やっと医者に行った。

症状の様相からして、私が伝染(うつ)したとはどうも言い難い。しかし、最近は私が外から何かを家に持ち込んでるパターンが多く、一年中こんなことばかりやっていることに今更絶望する。5年前休職して以降、どうもこんな免疫性の病気ばかりで、それは医者から言わせると抵抗力の低下が要因とのこと。コロナ前にはこんなことはなかったのだが、コロナ明け以降ウイルスが暴れている社会状況と自分の減退する身体状況がぶつかりあっていて、戸惑っている。

***

昔からそうだったのかもしれないが、正月などは明けてしまえば普通の平日。昔みたいな正月の高揚感は無い。リハビリが仕事みたいな今の自分には、前年から続く日々が繰り返されているだけだ。そんな三箇日、もう1月3日にはBSテレビはそれまでの平日放送に戻っていた。朝は「はぐれ刑事」やっているし、昼前後からは2時間サスペンスをやっている。

1月3日は、熱で寝込む中、この2時間ドラマを観た。偶然観たそれは「湯の町コンサルタント」というもの。角野卓造と坂東三津五郎の2人のコンビが活躍するもので、以前も一・二度観た気がするのだが、何より惹きつけられたのはバックに流れていたフィリップ・グラスの音楽。どうしてこれが掛かるのか?わからずじまいだったが、すごく思い入れある大好きな曲「天の伽藍(がらん)」が繰り返しかかっていた。

***

「天の伽藍」は、1982年発表のアルバム「グラスワークス」に収録された曲。私は1982年5月(今は亡き放送局?)“FM東京”夜の「サントリー・サウンド・マーケット」で初めて聴いた。

当時マンハッタンに住んでいたブライアン・イーノを立川直樹さんが訪ねてロングインタビューに成功。そのインタビューと音楽を織り交ぜた番組が一週間通して放送され、「天の伽藍」はその中で掛かった。この放送を編集したカセットテープで、「天の伽藍」を何百回も聴いた。憂いを帯びたしらべに、世紀末的な不安を重ねてしまう自分がいた。微妙な淡い色調の曲に「なんて美しい曲なんだろうか」と当時も今もうっとりする。

1982年という年は、実に不思議で面白い年だった。普通のロックやポップスと並列で、現代音楽寄りにあるペンギン・カフェもローリー・アンダーソンもそしてフィリップ・グラスもポップスのフィールドに存在していた。実際、このフィリップ・グラスのアルバムはアメリカのキャッシュボックス・チャートの123位(4月)に入っていた、という。

雑誌ミュージックマガジンで、彦坂尚嘉さんがこのレコード評を書いている。音楽家には「独自のスタイル」を確立することが大事なのかもしれないが、人間としてそれだけでは「救い」が無い。と述べている。60年代後半にすでにフィリップ・グラスは独自スタイルを確立していたが、そこには「救い」がなかった。ここで江藤淳の話しを引き合いに出しながら、このアルバムでフィリップ・グラス独自のかつてのスタイルの硬質性は失われているが、その喪失によって生まれたこの成熟と「救い」に深く敬意を表する、と評価する。

この彦坂尚嘉さんの評価に対し、中村とうようさんは「この手の音楽聴き過ぎて魂を”喪失”せぬようご用心」と書いている。

自分は、このアルバムの美しさに酔ってきた1人。同時期に初めて聴いたスタイルばりばりの「浜辺のアインシュタイン」よりもはるかにこの「グラスワークス」にココロ惹かれる。このアルバムに救いを感じ、このアルバムの中に身をうずめて魂を喪失する悦楽に昔も今も酔っている。

 

■Philip Glass「Facades」1982■

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冬の100曲:坂本龍一「20220123」

2025-01-07 20:50:00 | 音楽帳

□音楽と無縁な話し□暮れから年初□

12月下旬からノドの痛みは感じていたが、それを認めるとアウトなのでうがいだけをして過ごしていた。つまりその痛みは”例の病気”への前兆(まえぶれ)であることは薄々意識で感じていたのである。しかし、そこに注目すると病気を引き寄せるので無視していた。1週間程度続いていたノドの痛みは、なんとかその程度で年を越えた。

そして元旦。今年の正月はそもそもうれしくもなんともない。能登地震が起きた日でもあるし。この何年ものあいだできるだけ関わらないようにしてきた父、そして元家族たち。最近では彼らに一年に一回だけ会う日が元旦となっている。それゆえ余計に元旦は喜ばしいものから遠くに在る。気が重いだけの一日。

その気の重さが前面に出ているから、家人も一緒に行きたくないのだ。しかし、その空気を無理矢理はねかえして、ムチを打って先方へ出向いた。そんな午後の訪問。先方に居ても意味の無い時間。手持ちぶさたから、つい流れで少し冷酒を呑んでしまった。

***

今の自分はふだんお酒を呑まない。無理して「欲しくない」と言っているのではない。吞めなくなったせいでもあるが、もう欲しいとも思わない。たまに夕食時ノンアルコールビアを、家で付き合って呑む程度だ。この日やむなく呑んだ酒のせいで血管が浮き出始め、遠いどこかで頭痛が始まり、そして鼻水が止まらなくなった。かんでもかんでも止まぬ鼻水。よくあるスパイラルが始まり、元旦の会合の終わりを首長くして待つ。

そしてやっと夜7時過ぎ、元旦の会合から解放され、帰路を辿る。その帰路で次第に酒が消えていく。帰りの道で家の者としゃべっていると、それでもまだまだやけに赤い顔と消えぬ鼻水を指摘される。”例の前ぶれ”じゃないの?と。

家に帰って熱を測るとすでに数値は38℃台。。。結果的に昨年後半からの続編。5回目の炎症。三箇日(さんがにち)は病院はやっていないので、この元旦、2日、3日・・・と寝込んで治そうとするが、それで済まないのが、この肺炎に向けた不気味な熱と他の症状。38℃台に上がった熱は、夜中汗でびしょびしょになって衣類を着替えることに。そして翌朝起きると平熱に戻っている。

だが、翌日も午後からゆっくりと熱が上がり出し、また夜には38℃を越えていく。これを2日も3日も繰り返し、果ての無い静かな戦いに入ってしまう。

***

病院が本格的に再開するのは6日(月曜日)だが、この日は元々早朝からしごとの用事があった。何とか5日(日曜日)じゅうには歩ける程度まで直さねばならない。また辛さから月曜まで我慢できる状態でもない。

考えた末4日(土曜日)病院に出向いた。この日は病院側も十分な体制にはなく、医者も関係者も半分程度の状態に対し、年末年始我慢していた同様の患者が来るという具合。それは予想通りだった。自分が見てもらいたかった医師が居ないのも分かった話し。結局検査はできず薬を貰って帰る形となった。これも予想通りだった。あまり劇薬は望まないが、いったん薬で病気をある程度昇華させるしかなかった。そして何とか6日の仕事を越えることができた。

***

年末年始も、いろんな音楽を聴いた。しかしいつもどおりストレートな音楽は少ない。

宝石ならばよく磨かれた鮮やかなものではなくて、はっきりしないもの。光線の入り方で屈折の度合いを変えにぶい色を放つ石のようなもの。。。今日なら今日で、別にどんな音楽でも良かったのだが、夕方たまたまこの曲が気持ちに一番近い位置に在った。

予約して手に入れたCDで、発売前にすでに全部聴いて知っていたということなら、ボウイの「ブラック・スター」と同様。2022年の暮れにオンラインで聴き、翌2023年1月17日入手後はしばらく繰り返し聴いていたが、つら過ぎて放り出したCD。今日ひさしぶりに取り出した。その頃も今日も”20220123”は流していてさほど苦ではない。息と野外の風が聴こえる。

 

■坂本龍一「20220123」■

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冬の100曲:甲斐バンド「ラヴ・マイナス・ゼロ」1986

2024-12-30 21:30:00 | 音楽帳

1974年にデビューした甲斐バンドを初めて聴いたのはかなり遅くて、「Hero」(1979年)というヒット曲が始まりだった。ちょうど「ザ・ベストテン」の時代で、毎週TVの前にかじりついてノートを付けながら見ていた。そんな季節だった。バンドはその後もヒット曲を飛ばし、自分も一曲一曲はTVで聴いたが、アルバムLPを通して聴くわけではなく、その頃は甲斐バンドそのものの良き理解者ではなかった、といえる。当時の少年の心境を振り返れば、とっつきにくく、怖そうな面々で、かかわるとやっかいなんではないか?とその頃思っていたふしがある。
そのうち自分は70年代の終わり頃暗く偏屈な中学生になり、背伸びして「洋楽のみを聴く主義」に無理矢理変更した。

その後、時代はすぐに1980年/80年代になって、私で言えばYMO時代をむかえ、音楽機材も含めて フォーク等々70年代的なものが古く見え始めた。音楽の価値観が全く違う世界に突入し、ミュージシャンはみなその流れを無視しては生きていけない状況になった。そんな80年代は甲斐バンドにとってもアウェイだったであろうし、厳しい時代だったかもしれない。

そんな80年代、甲斐よしひろはサウンドストリートのDJでもあった。教授が火曜、甲斐が水曜レギュラーの時期、教授が1984年「音楽図鑑」を発表したときは甲斐の番組ゲストに出演。まるで水と油というスタイル違う2人だったが、2人の対談は実に面白く、広く異分野の音楽を理解する 甲斐よしひろという人の度量の深さがにじむ放送回だった。

***

海外で言えはニューウェイヴが終焉をむかえ、また新しい未知の時代へと動き出した1986年。そんな1986年に甲斐バンドは解散する。解散間際に流れていた「メガロポリス・ノクターン」そして最後のライヴの最終曲「ラブ・マイナスzero」が今でも好きだ。長年のファンからは、これらの楽曲は甲斐バンドの本筋ではないと言われるかもしれないが、個人的にすごく好きな曲で、一回聴きだすと延々と繰り返し聴いてしまう。
サウンドを追求した結果依頼したボブ・クリアマウンテンのミックスはロキシーのアヴァロンを想起させる美しさ。歌詞を一節一節ひとつごとに切り分け、揺れる声でしっかり圧を語尾にかけるように歌う。そんな甲斐よしひろの魅力的な声と歌い方は、時代を一回りした末のところですごく自分の心に響く。
70年代らしい楽曲から始まったものの、失速せずに泳ぎ切るために時代変化に応じてカタチを変え、全く違う世界に変化してみせた甲斐よしひろの対応力と粘り強い胆力。決して男っぽさや荒々しいチカラ強さだけではなく、アクロバットに変わってみせたしなやかさ、その跳躍距離の長さに"あっぱれ"と思った。

昨日、師走も終わろうとする上野付近をチャリンコで走った。日没の残照を遠くに見ながら、この曲「ラブ・マイナス・ゼロ」を10回近くは聴いたと思う。
アメ横じゃ今年も賑やかに威勢の良い叩き売りが行われてるだろうが、そこは通らずに帰った。あっという間に年末、こうして今年も暮れてゆく。。。

■甲斐バンド「ラヴ・マイナス・ゼロ」1986■

月あかり高鳴る時間は終わり
通りを洗い流すほどの激しい
嵐の中 今夜二人いる

君の海岸へと流れ着き
強く抱きしめようと手をのばすと
霧が行手を隠してしまう

LOVE MINUS ZERO
君から愛をひけば
LOVE MINUS ZERO
二人から愛をとればZERO

孤独なままの夜のくり返し
俺の胸をくもらせてしまった彼女
逢える時まで時間は止まったまま

身体合わせても夢さえ見られずに
叫びだけが夜に突きささる
あれは魂が愛を奏でる音

LOVE MINUS ZERO
俺から愛をひけば
LOVE MINUS ZERO
二人から愛をとればZERO

月あかり高なる時間は終わり
憎しみのあとの愛はげしい姿が
だけど俺を捕らえて離さない

OVE MINUS ZERO
俺から愛をひけば
LOVE MINUS ZERO
二人から愛をとればZERO

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冬の100曲:ペイル・コクーン「繭」1984

2024-12-22 12:40:00 | 音楽帳

昨日12月21日冬至をむかえ、まさに冬本番になった。日中は相変わらず雲の切れた晴天が続いているが、昨夜は風速15mの強い北風が吹き荒れて、野外の自転車は総じてなぎ倒されていた。そして今朝もその強風は続いている。

***

先日書いたペイル・コクーンは11月くらいから聴いている。デビュー作である4曲入りレコード「青空の実験室」(1982年)以外に、1984年に発表された「繭」を聴いている。最近は、寒空の下チャリンコで走る中聴くこの「繭」がとても心地良い。

「繭」は当時カセットブックの形で発売されたもの。カセットテープ好きの自分は欲しい一品だったが、「欲しいなあ」で止まったままこれも買えずじまいで時間が流れていった。

当時は「カセットブック」そのものが「新しい」音楽形態みたいに扱われていたから話題にはなったが、失礼ながらそんなに数が売れなかったはず。。。その「繭」が2020年に初のレコードとCD化となった。私が「繭」をやっと聴けたのもここ数年のこと。

<当時聴けたらもっと良かっただろうなあ、という名盤。>

こんなセリフはよくレコード評につきものだが、これはよくある饒舌なウソではなくて本音。すごく良い曲が多い一枚。自分にとってはまさに2024年の名盤なのだ。

クレジットを見ると曲目はすべて英文字。その文字を立ち止まってようく読んでみる。

A面

  1. Sora
  2. Shunmin
  3. Musoukyoku
  4. Mizutamari
  5. Onshits
  6. Kumoatsume

B面

  1. Toy Box
  2. Laboratory under the Bluesky
  3. Room=Manhole
  4. Automatic Doll
  5. Microscorp
  6. FLALORM

A面始まりから・・空・春眠・夢想曲・水たまり・温室・・・。勝手に日本語に置き換えてみると、このアルバムの世界がよく伝わってくる。今は冬の風吹く中チャリンコで聴いているが、聴いていると雪解けして水ぬるむ季節のぼんやりした春の風景が見えてくる。

歌詞は聞き取れる箇所もあるけれど、過剰なほどエコーがかかった音像の中に歌う声は波紋のように広がって正確には聞き取れない。それがとても心地良い。歌詞なんてわかったって仕方がないのだから。。。あえてぼかしてあると推測する。

また、このアルバムではデビュー作「青空の実験室」の曲が装幀を変えて登場する。A4「Mizutamari」は「水たまり (Brain To Vain)」のリメイクだし、B2「Laboratory under the Bluesky」は「青空の実験室」の、B4「Automatic Doll」も「自動人形」のいわばダブヴァージョン。機材も予算も限られた中だっただろうが、仲間たちの手を借りながら「創意工夫」の末に創られたサウンドは、デモテープの延長線上にあり(←これは褒め言葉)音質的にも決して良いものではないけど、ぼんやりした音の森は実に魅力的。どんなカネの匂いぷんぷんな音楽よりもはるかに美しい。

 

■Pale Cocoon「Sora」1984■

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