こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年10月28日 水曜日 シンクロニシティ?

2015-10-28 23:38:56 | 音楽帳

【おはようさん。今週、日中外で過ごすグレーちゃんにふかふかの紅い敷物が支給された。よかったね。】
ここ数年、インターFMから流れる曲が、行き帰りの道々聴いている曲と一致する。
そんな日がずい分とあった。
今日午後の放送で言えば、ジーザス&ザ・メリーチェーンの「ジャスト・ライク・ハニー」、ライドの「シーガル」。フィールドレコーディング用なのに、今ではmp3プレイヤーとして使っている機器に今入っている曲。この機器には190曲くらいしか入らないので、けっこう確率は高い偶然。

嗜好性が似ているから同じ曲が掛かるのだろうし、だからそばでいつもインターFMが流れているんだろう。「ピーター・バラカンさんの朝の番組をやめてしまうし、この放送局が向かう方向性は間違っているよ・・・」と嘆きながら、それでも仕事のあいまにはずーっと掛かっている。ぼくはぼくなりに信じているのだ。

手を動かしながら、同僚たちと話しつつ”おしごと”をして、このインターFMを一緒に聞いていて「あぁぁ、またmp3機器に入ってる曲だ。。。」とぼそぼそ言うと、周りは『やっぱりスキミングされているんですよ(笑)。たぶん次はアレが掛かりますよ。』とよく言われる。
曲として掛かっておかしくないものが多いので、シンクロニシティ(共時性)とは言いづらいんですが。。。
外に出る仕事あって電車の中で聴いていた曲が、外から戻ったとたんにラジオから流れてきた、などもあり。
そんな不可思議な現象に出会うと、つい大学時代熱中していた(今も敬意抱く)ユング先生が提唱したシンクロニシティを思ってしまう。

先に挙げた2曲は、まぁまぁあってしかるべき単なる偶然でしょうが、そんなインターFMからブライアン・イーノの「ミュージック・フォー・エアポーツ」が掛かったときはびっくりした。
でも、そんなびっくりする瞬間はうれしい瞬間でもある。

マイmp3機器が190曲程度が収納限界、さらに中身を入れ替えしていくことから考えると、かなりの確率。

こうして掛かる音が高頻度でオーヴァーラップするというのは、相当なかたよりがあるのだろうか?
聴いている音楽が狭くなってきているのか?と思うが、無理して変な音を聴いたりしたくもない。

そんな折、夕暮れどき歯医者にさんに行って戻り、ぱちぱちパソコンをたたいていたら、デイヴさんの放送からこの曲が掛かった。これまた2015年10月現在・mp3機器に入った1曲。
まるで申し合わせたように。しかし、このお話しは予定調和では一切ない事実。

■ハート 「アローン」1987年(7月11日ビルボード1位)■

この大ヒットした作品は、1982年の作品「プライベート・オーディション」とともにレコードで持っているけれど、この曲を収録した「バッド・アニマルズ」はCDでしか持っていない。そのCDは今夜もぷかぷかと夜を遭難中。
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2015年10月24日 土曜日 音楽夜話~備忘録・断片~

2015-10-24 23:59:12 | 音楽帳

今週、インターFMからホワイトスネイクが何曲か流れた。
それを契機に、彼らがすでに来日しており、ライヴの途上にいることを知った。
アメリカ・ビルボードチャートで2位まで行ったこの曲を、インターFMでひさしぶりに聴いた。

■Whitesnake 「Is This Love」1987年10~12月■
この曲が街に流れていた頃から90年代までのクロスの時期は、ほとんどの音楽にうとかった。
この時期の新譜の多くは知らない。

この曲は、つくづく良い曲だ、と今一度思う。
ポップミュージックの歴史はつっかえつっかえしつつも、それでも、あらゆるジャンルのエッセンスを吸い込みながら、いつも分かりやすい音楽を提供していたんだな、と思った今日。

映像を視てしまうと、ハードロックやヘヴィーメタルの形骸化した世界。
そう思う方が多いだろう。だが(意外かもしれないが)大好きな一曲。

この曲は、聴く人の環境や音楽機器により、受け取る側に到達した響きは大幅に異なっただろう。
1987年の今ごろ、灯りを消した静かな真っ暗の部屋(かなり良いコンポ)のFMラジオから流れたこの曲。音の良さに対する印象が強かった。

アトモスフィアを持ちスローテンポできらびやかな音色。
そういう急所・泣き所を突かれだけで、何杯もごはんが食べられてしまう。
そんな人間なので、すぐこういった音に恋をしてしまう。昔も今も。

昨夜は明け方まで音楽とラジオ。
数時間寝て、今日も行く先を決めないで歩いた。
mp3プレイヤーの中身は、このホワイトスネイクの曲の影響で、同傾向のソフトな音・ポインターシスターズ、MR.ミスター、スターシップまで詰め込み、聴きながら歩いた。

ニューウェイヴが消え去った80年代後期は、ムーヴメントや方向性を失った”おかげ”で特にベクトルを持たず、(まさかの)ホワイトスネイクがトップ3に入るまでの状況。
何の法則性もなくチャートインする音楽が動く方は、ポップ・ミュージックが健全である証拠なのだが、当時は個人的な想い入れと喪失とかたくなな姿勢が作用していた。

そんな決めつけをやめたプレイリストを作り、明日も秋を歩こう。


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2015年10月22日 木曜日 音楽夜話~備忘録・断片~

2015-10-23 00:39:57 | 音楽帳

頑張って歯医者さん通いは続いている。
先生が偶然この島の先輩と知り、先生と会うのが楽しみになっている。

キュイーンという音、歯根治療の痛みはあっても、治ることに向かうのだから我慢せい。
もっと苦しんでいる人たちの本気の頑張りにくらべ、歯ごときで「なんと幼稚な」。
子供のようで笑ってしまう。
しかし、そうも言えない。

こないだ神保町で手に入れた坂口安吾の本に「不良少年とキリスト」という短編があるのだが、「もう十日、歯がいたい」と始まる。
そうして狡猾な歯医者、それに(ほんとうは可愛いはずの)奥さんとのやりとりを記しながら、「バカヤロー」と痛みに耐えかねて言う。まるで椎名誠のエッセイを思い出させる。

今週、晴れていても肌寒いときが出てきた。
南天は鮮やかな赤い実を結び出し、葉は良い色に変わり出した。美しい季節の到来。

そのせいだろうが、帰り道、おでんくんの具材をたんまり買って帰り、ぐつぐつごぼごぼと煮る。白湯を呑みながら、白い大根に火が通り色が変わるのを待つ。

ラジオを点けてみると、ずいぶんと良い音楽が・・・。その理由はDJの語りでわかる。
この10月の番組改編で始まった番組。語りながら音盤を掛けるのは(ピチカートファイヴの)小西康陽氏。

この番組は偶然何度か聞いた。というのも、XTCの「GO2」に入った『メカニック・ダンシング』が流れたからである。その後も、久々に聴く曲たちに「ギョッ」とさせられた。
(ラジコではない)ラジカセで聴くラジオ。
そのTBSのガサガサする中から、この曲が流れるとは思いもしなかった。その後も久々に聴く、ニューウエイヴ寄りの良い曲が連なり流れた。
他の曜日には、DJとして(なんと!)佐野元春さんや鈴木慶一さん。

小西氏並びにピチカートファイヴなるものを避けて生きてきた。
というのも90年代(じぶんは大阪に居たが)「渋谷系」というコトバを初めて聞いたとき”プッ”と吹き出して笑った記憶。その後「東京に居ない間に、資本主義&快楽主義の象徴=渋谷は、ついに野外で性行為でもヤリ始めたか・・・。まあ、不思議じゃないな。」と思った。
よくみうらじゅんさんら”The Other Side”が「おしゃれねぇ・・・」と半笑いで言うのと同じ思い。かゆくてたまらなくなる。

そんなユニットのヴォーカルだった野宮氏が歌う姿を、今年夏の野外で初めて観た。
声も歌も良かったが、曲の合い間に話したとき自ら”渋谷系”と言うさまに、けっこう正直驚いた。
誰が”渋谷系”と呼んだか?電通が収奪目的で用語化したか?は知りたくもないが、そんな用語を当事者が何のてらいもなく言う様は、理解しえなかった。

(そうなるとは知らず)水族館レーベルで知ったポータブルロックの「グリーンブックス」。
そのスタジオライヴをカセットテープで聴きながら、なんて切なく美しい曲なんだろう。
この曲は当時の愛聴曲だった。

今年の夏歩く際、この「グリーンブックス」とテイ・トーワさんのアルバムに収まった「甘い生活」がmp3プレイヤーに入っていた。ヴォーカリストとしての彼女は素晴らしいと思う。

話しは逸れたが、小西氏を敬遠する中、唐突に出会ったラジオ番組「サウンド・アヴェニュー」。
タイトルはサウンドストリートを想起させる。
実質それをイメージして、というかそのものを意識した番組だろう。

前に聞いたときは途中で他の局に変えたが、今日は作業しながらだったので、最後まで聴き終えた。
途中、小西氏が演じたビルボードライヴ東京の録音が流れた。彼とゲスト女性のデュエット。
その素朴なヴォーカルと良い雰囲気の曲になごみ、それまでの思いが溶けるような感じになった。

と言って、ピチカート・・・を聴くつもりはない。

***

深夜シングル盤・段ボール箱をまさぐった。
もはやターンテーブルに乗せるより、鑑賞品という位置付けのシングルレコードたち。
こないだ選んだデペッシュモ-ドのシングル「World In My Eyes」のジャケットワークが好きである。スキャニングしてみる。



バラという花をキーワードとして想い出す音楽家は、プリンス、モリッシーといった人が出るが、共にデペッシュモ-ドの作品「ヴァイオレーター」が浮かぶ。

そういう今夜の闇夜帰路では、季節柄イアン・マッカロクのシングル盤の曲を聴いていた。
こちらのジャケットもどうにも素敵で仕方がない。良い季節になった。

■Ian McCulloch 「September Song」1984■


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2015年10月20日 火曜日 いま、音楽はどこにあるのだろうか

2015-10-20 23:35:02 | 音楽帳

昨日・月曜日週初め。
17日の土曜日、幸宏(とX)のライヴを聴いてからたった2日後。急ぐじぶんは、月曜もライヴへ向かった。
Hall&Oatesイン武道館。
終わってから、異なる席で聴いていた兄夫婦とおち合い、三人でお酒を飲んだ。

H&Oは1時間40分の間、2回アンコールに答える「カタチ」で納め終えた。
この日がWOWOW生中継ライヴだったという事で、それを想定した演出と流れに、会場はにぎわう。
ぼくは、好きな曲が掛かるというのに、そのライヴが進むと共に次第に醒めていった。

同時代を共に過ごした偉大なるアーチストへの敬意は当然ある。
ぼく自身にとっては、決してノスタルジーではない音。
ぼく自身にとっては、みうらじゅんさんがよく言う「キープ・オン・・・」と指す音。
未だ「リアルタイム」であり「トゥデイ」である音。

彼らの音楽に励まされチカラを貰う場面は、約35年の間に多々あった。
近いところでは、2年前の今ごろ、親を入院させるさなかに聴いた「マリーゴールド・スカイ」。

***

集まった人の層は、ボズ・スキャッグス同様、年齢は高い。
じじばばが集まってやがる・・・そのセリフはここ最近のライヴで、座った席の周囲から聴こえる嫌な言葉だが、当たっている。だから何なんだ、という歯向かいもある。

「マンイーター」に始まり、過去のヒットチューンを繰り出すステージ。
個人的に大好きなジョン・オーツの「ふられた気持ち」が聴けたことは、まずは何よりうれしかった。しかし、ダリル・ホールがまったく声が出ない。それはある程度織り込み済みだったが、現実に出会うとショックだったりもした。

大にぎわいの中、どうしても音の中に入っていけず、H&Oとじぶんの間に膜が張ったような状態。一方みんなは、大枚はたいて来たからにはノらなきゃ損、というモード。

娯楽的ショーとしてのステージ。
ライヴはそういうものと言う人は居るだろうが、じぶんはそうは思わない。
音楽が聴きたいのだ。最近来日が決まったマドンナなどのミュージシャンならわかる。(マドンナも敬意を抱く一人)だが、H&Oにそんな願望は抱いていなかった。

しかし、長年つちかった末に得た栄誉は、それを許さない。そんなジレンマが見える光景。
ヒット曲で固めるステージにせざるを得ない状況が、彼ら2人に乗っかっていた。
中盤のスローでソウルフルな曲に、彼ら2人が実は今やりたい音とあらがいをのぞかせた。

***

終わった後、ひと気無い呑み屋で話す音楽夜話が、愉しく興味深かった。

兄「後ろのおばさんが、アンコールで引っ込むたびに”なんであの曲やんないのよ”とバーゲンセールみたいな感じだった。この場は”プライベート・アイズ”をいつかけるかばかり期待している”空気”が支配していた。」
義姉「エリック・クラプトンのライヴに行ったとき、レイラを嫌々演奏しているのが伝わってきた。たぶん本気で演りたくないんだろうけど、やらないと済まないという感じで・・・」

ぼくは、95年「ソリトンSIDE-B」の夏・沖縄編で、高野寛さんが”やりたいことと聴く側が望んでいる音にギャップがあって、本当はこっちに行きたいのに行けない”悩みを細野さんに吐露していた話しをした。
細野さんは『高野くんがそう言うのは、まだ早い。ぼくですら、それが出来ずに巻き込まれているんだから。』と言っていたが、最近の細野さんがそういう呪縛から放たれ・自由に愉しく演奏していること。
H&O彼ら自身が思っているであろう理解されづらいじれったさに、そんな細野さんのことを想い出した。

***

かつて、渋谷陽一さんは予定調和で受けの良い音楽を”産業ロック”と言ったが、いつからライヴはこんなお行儀のよい”しきたり業務”になったのだろうか?

大勢を呼ぼうとするメインホールで行われるライヴは、今じゃ良い”音の場”じゃない。
アンコールが前提で、一度引っ込み、その後は(どこかの場所と同じで)「これで、終わりです」という放送に従い、素直に出口に急ぐサラリーマン化した世界。
そんな形骸化が蔓延して、それで良い、となってしまっている世界。
お約束の世界は、渋谷さんが語った産業・・・どころか、空虚な時空。

ライヴの始まる前、それに終わった後のざわめき。
何度となく来た武道館の席に座りながら、中心に天上から吊り下げられた国旗と、その周囲。
この場所で、なんと多くのことがあったか。それを感じさせる空間として、武道館並びにおなじみのライヴ会場というのは切ない。中野サンプラザ、厚生年金会館・・・。そんな話しを三人でした。

お互い今まで観たライヴを語りながら、ベストないくつかを選ぶとすると・・・三人一致したのがデヴィッド・シルヴィアンの人見記念講堂で演じた「ブレミッシュ」ツアーだった。

35年前この場所でYMOの凱旋公演が開かれた武道館。
その場に居合わせていたかったなぁ、と思いながらぼくは座っていた。

これもまた、単なるじじばばのノスタルジーではない。これは強がりでもツッパリでもない純粋な想いである。

■YMO 「Behind The Mask」1980年12月武道館凱旋公演■
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2015年10月17日 土曜日・深夜 インソムニア(不眠症)

2015-10-18 02:16:53 | 音楽帳

島の帰路を辿れば、0時を回っている。今夜は夜ふかしネコさんに逢わない。みんな寝たのだろう。

今日もいろんなことがあった。あり過ぎた。だが語りづらいことが多い。
小林弘幸センセイの「三行日記」そのものはマユツバだが、要約圧縮して俯瞰する視点を提示しており興味深い。

今日を要約すれば・・・まず。
9末終わった永さん&外山さんラジオの後・ナイツがDJの番組に細野さんがゲストで生出演。
ナイツの片方の人が細野さんのファンで実現した出演ということに感謝。

子供の頃、大好きで一晩中聴いていたという「インソムニア」が掛かる。
煮物を創り・お昼ご飯を食べ、午後、久米さん~宮川さんのラジオを聴きつつ歩き、いつもの写真旅。

たんまり歩いてシャッターを切った後の夜、新宿で幸宏のライヴを聴く。(※彼のソロでは無い。)
「ニウロマンティック/ロマン神経症」からの『グラス』『ドリップードライ・アイズ』に始まり、涙腺緩むが・・・その後むにゃむにゃ。。。途中「ぼく、だいじょうぶ」からの『It’s Gonna Work Out』も素晴らしかった。

夏の野外も今夜も、幸宏に対する疑問がある。
こういった疑問符は80年代初頭から時折おとずれる。何も今夜始まったことではない。
それは、細野さんや教授に対しても抱くときがあること。

YMO三人それぞれのファンだからこそ、そう素直に思う。
ファンだからと言って、その人がやることを全て受け入れるということはありえない。
好きだからこそ、一つ一つの作品なり言行に不自然さや危惧を抱いたり、批判をあえてしたりする場面があるのだが、瞬間の狂騒やノリに洗脳されてしまう今のこのクニでは理解されづらい現実。

今の幸宏への疑問符は、このクニの若い音楽家等のオーガナイザーであろうとするスタンス。
そんなにまで手を伸ばしたいのか?ビートルズで言えば、ポール・マッカートニー的なにおいを感じる。
ポップスを愛し、細野さんや教授のような異端をあえて行くのではないニュートラルなポジションをキープする生理的バランス感覚は分かっていても、そう思う。

90年代現れた「YMOチルドレン」に始まり、三人三様フォロワーたる音楽家の奪い合いは結果・幸宏の「メタファイヴ」に行きつくが、あれっ?YMOって幸宏だけのものだったかな?というのが、どうも2015年の様相となっている。ほか2人がほぼYMOを放棄しているので、さまざまなバンドが解散後・権利闘争に行きつくのとはまったく異なる。
両狂人の間をつなぎ、何とかバンドを維持したのは幸宏居てのことであり、それもヴォーカリストであると、否定し得ない。それこそしっくりこない。

新宿から神楽坂まで夜道を歩く。夜のあかりにシャッターを切りながらのジグザク。
わだかまる帰路、電車の中は人が少なく安らぐ。長い帰路、坂口安吾を落ち着いて読む。
わだかまりを忘れるべくmp3プレイヤーに入ったデペッシュモード等々を聴いた。
四月の魚さんの言葉に感化されたのもあるが、もともと秋はデペッシュモードの季節なのである。
決して浮いたところのない彼らの音楽は常に信じられる。

■デペッシュモード 「ワールド・イン・マイ・アイズ(ぼくに見えている世界)」1990■
狡猾という言葉があるが、そんな政治的なものや権力闘争は仕事場周辺にたむろする”連中”だけで、それ以上はどうも受け入れられない。
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2015年10月15日 木曜日 地を這うカメはそれでも必死にフルスロットルで生きていく覚悟

2015-10-16 00:51:23 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ

僕はもう、この十年来、たいがい一人で住んでいる。
東京のあの街やこの街にも一人で住み、京都でも、茨城県の取手という小さい町でも、小田原でも、一人で住んでいた。ところが、家というものは(部屋でもいいが)たった一人で住んでいても、いつも悔いがつきまとう。

しばらく家をあけ、外で酒を飲んだり女に戯れたり、時には、ただ何もない旅先から帰ってきたりする。すると、必ず悔いがある。
叱る母もいないし、怒る女房も子供もない。隣の人にあいさつすることすら、いらない生活なのである。
それでいて、家へ帰る、という時には、いつも変な悲しさと、うしろめたさから逃げることができない。

帰る途中、友達のところへ寄る。そこでは、いっこうに、悲しさや、うしろめたさが、ないのである。そうして、平々凡々と四五人の友達の所をわたり、家へ戻る。
すると、やっぱり、悲しさ、うしろめたさが生れてくる。

「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。「帰る」以上、女房も子供も、母もなくとも、どうしても、悔いや悲しさから逃げることができないのだ。
帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる。

この悔いや悲しさから逃れるためには、要するに、帰らなければいいのである。
そうして、いつも、前進すればいい。
[坂口安吾 「日本文化私観」より] ※改行・スペースは原文と異なる


つねに歩くことに希望を見い出すじぶんの今を照射する。

とある日。
不意に安吾の言葉に出くわし、そのコトバに、ぴったりと、眼が醒めるような想いがした。心に響いて仕方がない。(それは上の文ではない。)
安吾のそのコトバが忘れられず、うずうずした日々を過ごし、その末、ムズムズは歩く日々のとある時に、足を神保町・古本屋街にじぶんをいざなった。

何度か出向き、何周かブーンブーンと脳は旋回し・古本屋をいくつも巡ったが、なかなか安吾の本にブチ当たらない。
多くの作家たちと過去すれ違い、擦過してきたなか、安吾は1つのブラックホールだった。
この歳になるまで安吾の実体も知らずに来た。
愛する麻生久美子の初出演映画「カンゾー先生」を有楽町で観て、出演者の舞台あいさつに手を叩いても、原作者の坂口安吾には思いが至らなかった過去。

この休みにいくつかの文章を集めた「堕落論」を買った。そして読んでいる。
「堕落論」には集めたものが異なる、いくつもの本が存在する。じぶんが手に入れたのは1990年集英社文庫。
これは大仰な比喩ではなく、安吾に惹かれた理由。
まるで「今・ここ」に居るかのように、言葉に肉体を宿している点。今、じぶんに語り掛けているように思えて仕方がない。

それを友人MZ師に言うと、太宰治との対談等でも、いかに言葉が肉体を持つかを安吾は訴えていたと聞く。太宰というコインの裏側であった三島由紀夫を想い出す。
産まれたスタートラインで、感性よりもすでに言葉や概念に虫喰われたビハインドから始まった三島さんのこと。

坂口安吾に出会えなかったのは、文学少年に始まった絶縁した兄の部屋から盗み読むことがかなわなかったことが大きい。そのかたわら、もう一人の文学少年(出会ったときには青年)であった友人MZ師からは、話のすきますきまに安吾の話しが出てきた。しかし、じぶんは立ち読みした安吾の文章そのものよりも、彼の語り口のほうが魅力的だった。
「わたしは海を抱きしめていたい」というセリフ。
その表現がいかに素晴らしいかを熱心に語る彼。

お前は、いったい誰に向けてこんな馬鹿な作業を続けているんだ?
ブログに対して、そういったことは、内外問わず言われてきた。

そういうなか、よくじぶんの頭には寺山修司さんの言葉が浮かぶ。
じぶんは何かを求めていろんな本を読み漁ったが、そこに回答を得られなかった。
そこに見つけたのは、彼らの悪戦苦闘のキズ跡のみである。

そんな意味のくだり。

馬鹿丸出しやウソ八百も含めたじぶんという流体の、不可思議な存在の在り処。

***

最近逃げきれず通い始めた歯医者。
じぶんより年上の女院長兼実務担当者。
その手際よさと信頼感に、がんばってちゃんと前向きに歯を治そう。
つねにネガティヴに傾くじぶんなのに、そう思うくらいの感情が珍しく産まれる。

今日、会計を済ませる中、最後の患者ということもあったのだろうが、施術を終えてため息をついたじぶんを笑う先生。雑談を向けられる。
先生も実家が下町だという。そこから話は花開き、愛する街を熱く語ることとなる。
そんなことは思いもしなかった。あそこのカドを曲がって・・・はいはい。そんな具合に。また新しい知り合いに感謝。

カメ。それは、じぶんが小学生の卒業文集で、じぶんを例えて書いたコトバである。
それを当時の鬼畜親父に揶揄され、親族が集まるたびに言われた笑い話。

それから三十数年。イイ歳こいてこんなバカとは言われても、それでも今を生きる。
じぶんがじぶんを見捨てたらそこでジ・エンド。
宗教も主義的主義もモラルもイデオロギーもその人を救いはしない。
じぶんが持つ大事な永山則夫さんの本と言葉を引っ張り出してくる。
「独りで誕まれて来たのであり、とある日独りで死んで逝くのだ」

これは万人共通、唯一の現実である。
ならだ、だ。一生懸命生きるだけである。
たやすく使われる「一生懸命」や「がんばる」を嫌うじぶんは、今こそこの言葉を使いたい。

■エルビス・コステロ&ダリル・ホール 「オンリー・フレーム・イン・タウン」1984■
コステロを聴きながら、駅フォームで電車を待っていたら、気付かぬうちに踊っていたようだ。
向かい電車内から2人の女同志が凝視していた。
踊るといったってスイングだけど、見られてはじめてカラダを動かしてる自分に気付いた。
今、一番自由でしあわせなのかもしれない。過去もそう言った瞬間はあるだろう。
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2015年10月13日 火曜日 備忘録・断片

2015-10-13 23:59:35 | 坂本龍一のサウンドストリート

カレンダー上、三連休明け。ヒトゴミ・クルマ少ないのは継続。
東京地下鉄車内は、相変わらず八割が板切れに向かう移動病棟。

もとからヘルナイアもちのじぶんもヒトゴトじゃない。
クビ・肩の痛みをストレッチや入浴で補うのを続けても、両手にしびれが出る。鈍痛。

帰って点けたAMラジオのチューニングを変えても説教くさく、脳ばかりが肥大。
うんざりしてNHKの英会話講座に辿り付く。まあ、これでいいかという適当さ。
じぶんにとって意味のない無縁世界が気分を散らす。頭痛を感じつつ。
研いだコメがヒタヒタになるのを待つ。

教授のサウンドストリート”デモテープ特集”一回目だろう。
英会話のやりとりにリズムを多重録音したヒトのテープに惹かれたのを想い出した。
それはスロッビング・グリッスル等々の影響下にあるだろうが、無名の一般の人が夜な夜な実験を行う方が断然面白い。当日感じたので覚えている。

■岡元清郎 「Demo Tape In Sound Street On ’80s」■

痛みをめぐり話せば”ちゃーんと、すぽーつ(うんどう)しているのかなぁ~?”と女医にいじられ・追い詰められる、月ごとの定期健診。
なにか自己主張せねばムチ打ちが待っているので、(”うぉーきんぐという病的運動じゃなく”と前説明後)ひたすら歩いている迷走をぼそぼそ話した。
その歩く距離のキチガイさに驚かれながら、「それはいいわネ」と急に上機嫌に顔を変えた女医。

「歩くのはイイわね。
でも、最近は全身運動が良いという効果が出ているのよ。有酸素運動とか・・・」その後は結局スポーツクラブの宣伝のように水泳やフィットネスに類する有体なおはなし。

「なあんだ」と思いながら訊いていると、両肩を回すポーズ。
まったく趣味ではない女医が手を回すたび、見える脇と突っ張る胸に「せんせい、その全身運動ってアレのコトですか?」と言いたくなるが、そんなことを言った日には往復ビンタを喰らうだろう。
ごきげんさんを維持してもらい、そろそろと去る準備をしながら相づちを打つ。
せんせいが尾野真千子さんなら・・・と妄想する余裕は現実には無い。

街を歩くうちに、持って帰ってしまったチラシや本類。それに、要求しないのに舞い込むチラシやタウン誌など。
それらが合体し堆積する紙のうず。
何とかせねばとチョキチョキすることに立ち上がったのは、この一ヶ月。毎回ゴミ出しの日にはひきづるような重さのゴミを出す。
紙や水が一番重い。

最初は必要な部分のみを切り取って後はゴミ箱に入れる、を続けていたが、しだいに大胆になりおおむね捨てるという狂人・強迫行為的になる日も多い。
そうでなければいけない。”これはアトに取っておいて・・・”というアトは無い。
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2015年10月11日 日曜日 十月の旅人

2015-10-11 23:51:42 | 音楽帳



■ヒューマンリーグ 「ヒューマン」1986■

ビルボードチャート 1986年10月25日
10位 アニタ・ベイカー 「スウィート・ラヴ」
 9位 ヒューマンリーグ 「ヒューマン」★
 8位 リサ・リサ&カルト・ジャムWithフルフォース 「オール・クライド・アウト」 
 7位 ジェネシス 「スローイング・イット・オール・アウェイ」
 6位 ボストン 「アマンダ」 
 5位 ドン・ジョンソン 「ハートビート」
 4位 ロバート・パーマー 「I Didn’t Mean To Turn You On」
 3位 ジャネット・ジャクソン 「あなたを想うとき」
 2位 ティナ・ターナー 「ティピカル・メイル」
 1位 シンディ・ローパー 「トゥルー・カラーズ」


シングル「ヒューマン」を初めて聴いたのは、1986年10月ラジオ番組”全英ポップス情報”(NHK-FM・DJ:ピーター・バラカンさん&鈴木さえ子ちゃん)だった。
曲が終わるとピーターさんはヒューマンリーグ2人の女性ヴォーカルがあまりにも下手なことを嘆きつつ、エンジニアがうまいヴォーカルの方にミックス段階で音を差し替えていたことを話していた。
その後、冬に向かう野外で、FENや湯川れい子さんの全米トップ40から何度もこの曲が流れていた。



フィリップ・オーキー/ヒューマンリーグは、ヘヴン17へ分裂していくのに始まり、80年代かなり苦労をした。

アルバム「DARE」からのシングルカット「愛の残り火」がたんまりヒットし、テクノ/エレクロニック・ポップの代表曲扱いで、デペッシュモード、ヤズー、ユーリズミックス、分派したヘヴン17・・・etcやニューロマンティックス面々と共にイギリスのみならずアメリカのチャートを席巻する事となった。それは1981~1982年のこと。それは当時、ブリティッシュ・インヴェイションと言われた。

その後、発売された2枚のシングル「ミラーマン」「ファシネーション」は素敵な曲で、バンドとしての音をキープしていた。
しかし、あっという間にテクノすら飽きられていく時代の加速度のなか、1984年をむかえ、シングル「レバノン」を含む新譜「ヒステリア」を発表するが、大ヒットした「DARE」の影とイメージを引きづったファンから逃げられる。

「レバノン」にあったロック寄りのエモーショナルな側面。
それをキーとしてアルバムが出来ているか?と思いきや、ぼんやりしたゆったりの曲があったり、確かに焦点がぼやけたアルバムではあった。
ぼくはと言えば、好きな曲もあったが、やはりアルバムとしての出来は?と訊かれると「んん~」とうなるものだった。
それ以降、さまざまなインタビューにフィリップ・オーキーはよくキレていた。
どうせ、お前らは「DARE」パート2しか望んでいなんだろ!と。
「DARE」とその余波に酔えた時期は良かったが、その後の行き詰まりとプレッシャーは、相当フィリップ・オーキーの精神にダメージを食らわしていた。

彼らの「DARE」の魅力は、電子楽器音の新鮮さとポップでキャッチーなメロディーの組み合わせにあったが、それもあっという間に、これを契機に湧き出たテクノバンドの渦となって、彼らの専売特許じゃなくなっていった。
同じセリフを渋谷陽一さんが1984年発表のウルトラヴォックス「ラメント」のレビューで言っていたが、時代の残酷さを示していた。新しい分野を開拓した発明家が、その発明の一般化に伴い、その身を追われる「まったく損で不条理」な現実。
”りすぺぐど”なんかされっこない。ただ利用され・盗まれ、吐き捨てられるだけが現実。

これは一般社会にも通ずることだが、後輩なり自分らを追い掛ける側の者に、「まあまあ」とふんぞり返っていると、あっという間に自分が喰われる側に回っている、という流れ。

「DARE」の1981年から「ヒステリア」の1984年には”ただが3年、されど3年”。超高速回転した音楽世界。

ときは微妙に重なりズレるが、
1980年その音楽が日本全土で流れる始末になったバンドが、憤怒の末・自らのバンドとファンを否定するような踏み絵を用意して、”世間”にあらがい・対峙することによって”みそぎ”と浄化を終えようとしたYMOのステップを想う。それは五・一五から二・二六への流れのように水面下で準備され、1981年3月21日に”世間”に叩き付けられた。

ヒューマンリーグはそこまでのことは思わず、「DARE」の延長線上でシングルヒット世界を行っているうちに、時の分水嶺は無情にも彼ら側には立たなかった。

テクノ時代をいろどったYMOとヒューマンリーグ。
この2つのバンドが辿った分かれ道。
90年代になって、CDで”ヒューマンリーグvsYMO”なんてものがあったことを想い出した。

1986年のシングルカット「ヒューマン」。
この時点ですでにバンドは多くのメンバーが脱退し、ヒューマンリーグは3人になっていた。
しかしAORの匂いもするこの曲で、ヒューマンリーグは4年ぶりにビルボードチャートの1位に1986年11月になった。
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2015年10月9日 金曜日・深夜 音楽夜話~備忘録・断片~

2015-10-10 01:10:19 | 音楽帳

【未だにロックという用語への違和感は去らない】
■memo1
今週も、渋谷陽一さんのNHK-FM「ワールドロックナウ」を聴いた。
意識上では数十何年ぶり?アイアンメイデンの新譜2枚組からの紹介曲を聴いた(苦笑)。

昔、血まなこになって、毎夜ラジオにかじりついていたようなものは既にない。
音楽よりも渋谷さんがフラットで居る姿を確認する意味で、ラジオを聴いていた。

意識的にリアルタイムの音楽シーンを追い掛けなくしたのは、1987年以降。
それは精神的不調のせいであり、みずからに課した制限だった。
そんなことを言いながら、制限はあれどカラダはむずむずして、遠巻きにリアルタイムの音を気にしては、はしっこをかじっていた。
要はのめり込むと0か100になってしまう駄目な自分への鍛錬のはじまりだった。

しかし、それもしだいに慣れていくと、何も今・盛り上がっている音を逃がすことなど大したことではないとなっていった。

■memo2
想像通り・・・と渋谷さん、アイアンメイデンの新譜ライナーノーツを伊藤政則さんが書いているらしい。
「一曲ダウンロードが主流?・・・ちょっと待て、アイアンメイデンのこのアルバムを聴け!」政則さん並びにその手合いの熱い人たちのセリフ。

この言い回しはまるで馬鹿にしているかのようだが、ぼくとしてはそうではない。
一曲ダウンロード?ふざけんな、というくだりは、大貫憲章さんのブログでも読んだもの。
大貫さんは、それを音楽軽視の商業主義一辺倒の業界人に向けて放っていた。

じゃあ、おまえは?と問われたら、ぼくは両方理解できます、と言う。
いい加減だ、と言われるだろう。しかし、事実である。

それは昔も今も、ぼくにしては素直な言い方だ。
決して誰かにすりよるコビ犬ではない。むしろあなたがたのラジオを聴いて育ち・教わったことだ。

■memo3
たくさんのLPレコードを買いたいけれど、そうはいかない。それが出発点だった。
だからラジオに向かい、カセットテープにエアチェックした。それを大事に聴いた。
それで良ければ、LPレコードを買う。そういう流れ。

金持ちではなかったぼくの音楽体験は、オムニバスカセットとトータルアルバムの両方にまたがっている。
今、音楽を聴く十代もそんなにお金を割ける自由がないから、デジタルツールをあやつり無償で音楽をダウンロードするのである。現れ方は違うが、似て非なるもの。
そうは言えども、昔のLP盤やオーディオツールの価格と、今の経済を指標化するなら、冷静にとらえても昔の方が絶対的にお金と不自由のカベは厚かった。

■memo4
じゃあ問題は、それでもCDなりアルバム全体を買って聴くか否か?だろうか?。
その部分は、正直わからない。確かに音楽業界を成り立たせるには、音に対する対価を払わねば、支えるすべを失い、音楽そのものも失ってしまうだろう。

どうしてもお金を払ってでも手に入れたいと思うだけのなにがしかが、その音楽にあるのか無いのか。。。

ただ、それが音楽を愛する測量計でもないと思う。
今では息子たちがCDコンポやソフトをプレゼントする流れとなった音楽好きの80代のお袋が、ぼくらが小さいころどうしていたか?
服を創るためにミシンを踏んで、夜なべをしながらFM東京を朝まで聴いていた光景。

息子たちはお小遣いで音楽ツールを買うなか、そんな余裕もなく、かといえ、ラジオを聴いては生き生きしていた。

■memo5
渋谷さんのラジオ番組は、最後にピンクフロイドのデイヴ・ギルモアのシングルカットを掛けた。
こないだは、政則さんの土曜深夜のFMで特集が組まれて、そこでも聴いた新譜「飛翔」からの曲。

異論はあるだろうが、ぼくにはなかなか良い作品の匂いがした。
政則さんのラジオでは、デイヴ・ギルモアのインタビュー付きで、興味深いものだった。

■David Gilmour 「Rattle That Lock」2015■
YOUTUBEで今のギルモアの映像を見てしまうとそれがジャマしてしまうから、音だけを聴くほうが良い。

午前0時を過ぎて、ラジオは、TBSに切り替え・菊地成孔さんの番組を聞き終えた。

PS:今夜はやたらとラップ音がする。
久しくそれなりの地震が来ていないなぁ、と思う夜である。ストレスは小割りにしてほしいものだ。
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2015年10月8日 木曜日 十月の旅人

2015-10-08 23:18:37 | 音楽帳

【レイ・ブラッドベリとアラーキー。共に偉大なるロマンティスト。】
80年代後期“ゆーろびーと”等ダンスミュージックからの進化系としてハウスが生まれ、染色体エラーのように(ブライアン・イーノ言語ではない)別のニュアンスのアンビエントが生まれた90年代初頭。
それまで行き詰まっていた音楽は、また新たな鼓動と刻をきざみはじめた。なんかそんな感覚。

その後いろんな音楽に出会ってきたけど、再度染色体異常発生。
2000年に現れた「エレクトロニカ」には、「ああ、そうだったのか」とヒザを打つような盲点を突かれた想いがあった。ダンスフロアと無縁でありたいじぶんみたいな者へも、そのスティルに身近に寄り添ってくれる音がたくさん産まれた。

無言の共鳴を、音の響きで伝えてくる。いつも見上げてしまう空みたいな領域が、そこには広がっていた。
植物のような音は枝葉を広げていく。大きな森を成していく。

エレクトロニカと一言では書けても、そこには実にさまざまな表現があって、素晴らしい作品はたくさんあった。じぶんが買ったり聴いたりしているのは、その一部にしか過ぎない。

細野さんが90年代アンビエントを「オーシャニック・フィーリング」(大洋感覚)と語ったのは、メディスンコンピレーションが生まれた1993年のことだが、そんな言い方をぼくはむしろエレクトロニカが産まれて以降の中に思う。

***

身近な人への贈り物に秋冬用のCDを作りたいと思って選曲をしているうち、おすすめエレクトロニカ曲集にするかな、と当初の趣旨を変更しつつある。
最初は赤い公園やアナセマなど、ここ数年のなかで出会った曲を拾い集めてCDにしようとしていたのだが、繊細で美しいエレクトロニカには秋や冬という季節にぴったりなものが多いので、贈りたい音もそっちに傾いてきてしまった。

まだ決定はしていないが、数曲をまずはクリッピングした。教授の2000年以降の素晴らしい作品、デヴィッド・トゥープ、Bvdub、Loscil等々・・・そして逸脱していく。
CDに焼く分数や曲順など全体をまとめる必要もあるから、これがこのまま1枚にはならないけれど。。。。
エレクトロニカ、と言うとあたかも新しいように思えるが、根底にある魂のうるみはイーノならびにヨーロッパ音楽と水面下でちゃんと繋がっている。そこがなおいっそう心に訴える。

■Boards of Canada 「Under the Coke Sign」2005■
この曲を聴くと、大竹伸朗さんの『全景』展を観た東京都現代美術館の外に出たときのシーンが甦る。
そのとき耳内に鳴っていた音。

季節は秋で陽はすでに短くなっており、外に出るとすでに周囲は暗く、えらくさぶかった夕暮れ後。
そんな道を歩きながら、夜のとばりのなか明滅する信号機や通り過ぎるクルマのランプがにじむさまを視ていた。

その頃聴いていたCD、ボーズ・オブ・カナダの「トランス・カナダ・ハイウェイ」。
クラフトワークの「トランス・ユーロッパ・エクスプレス」を模したタイトル。
このミニアルバム全体が軽やかなショックだったが、1分ちょっとの曲になびく風の音は今でも自分的にはインパクトの強い曲であり続ける。




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