1996年3月末に、第二のふるさととなった大阪から、引き裂かれるように、再びシャバ=東京に戻ったじぶん。
それからしばらくは、元々東京の者であるにも関わらず、大きな違和感を覚えながら、何か浦島太郎のような気分で居た。
聴く音楽の方は・・・と言えば、毎週聴き始めた深夜番組「電気グルーヴのドリルキングアワー」と共に、1997年発表のアルバム「A(エース)」で、初めてきちんと彼らの音楽に対峙する。
そんな事件もあったが、80年代の1日1日がめまぐるしい、という世界ははるか遠くにあり・・・・・
また、初めての異国の地・大阪で、生きるために死にモノ狂いだった1991.4~1996.3の、密度濃い20代後半の激動の日々にもサラバを言い・・・・・
砂を噛むような「終わりなき日常」がひたすら続いていた。
1996年4月8日。
コチャコから産まれた、まみちゃん・正ちゃん・シロちゃん・ウリちゃんの、生命の息吹と共に過ごす幸せが、いきなり始まりはしたのだが。。。
それとは別にして、戻った「よそいきの顔をした」東京への違和感は、しばし容易に去らないものであった。
改めて、魔界・東京の街への放浪を続ける中、毎週のように通る神保町。そこでは、ひさしぶりのジャニスに、よく立ち寄っていた。
そして、21世紀に入って、お店で偶然に掛かった音との出会い。
ウルリッヒ・シュナウスのファーストアルバム「FarAwayTrains Passing By」(2001年)。
じぶんの中に広がる解放感、そして、新しい時代のテクノの息吹を感じた。
そのジャニスで初めて知った用語「エレクトロニカ」。
そして「細野さん、何も制約が無い中で、音楽を創りたいな・・・」という幸宏。
ソロで行き詰まった中、細野さんは幸宏の要望に応えるような形で、リハビリテーションを兼ねて「スケッチ・ショー」という2人のユニットを作る(2002年)。
しかし、しばらくの間、じぶんはそれを遠ざけてきた。
元々、石野卓球の師であったYMO。
そのYMOの中の2人が組んだユニットを、彼主催の「ワイヤー」なるテクノ・フェスティヴァルに「新人」として出演させたのも含めて、大きく時代が変わってしまったことを目の当たりにし、むなしくなった。
それが、わたしの本音だった。
YMOでは無い・片手落ちの感が、しばらくは否めなかった。
ビートルズのマニアが、その夢の時代の再現を願って、うなされるように心に抱いていた「再結成」。それは、ジョン・レノンへの銃弾と共に砕け散った。
決して「単なる再結成」などという安っぽいものが、じぶんの心を癒すとは思えなかったが、だからと言って、欠落してしまった「何か」を埋める代償が無いまま、じぶんも時を刻んでいた。
「それでも!」と、スケッチ・ショーのアルバム「オーディオ・スポンジ」を聴き込み、その後のシングル「Ekot」を聴き、YMOでは無いけれども、ここには現在進行形の2人の姿があると認めるにいたった。
そして恵比寿のオールスタンディングのスケッチ・ショーのライヴを聴きに行ったじぶん。
そこで知ったアオキタカマサくんのエレクトロニカに「目を覚まし」。。。(「シンプリー・ファンク」には特に。)
同時期ごろに、出会った高木正勝さんのアルバム「Journal For People」(2002年)を聴いて、「目からウロコが落ちた」。
(ジャニスで借りた、その前の作品「Pia」には、特に響くものが無かったが。)
「Journal For People」は音だけではなく、映像作家としての高木正勝さんの優秀さも光る一枚。
その後、2003年に突如現れたデヴィッド・シルヴィアンの新譜。
ジャケットのイラストも、そして、音楽の中身にも「ええっ?」というびっくり。
それまでのデヴィッド・シルヴィアン像から、大きく変化した名作「ブレミッシュ」の誕生。
その「ブレミッシュ・ツアー」(2004年)を昭和女子大学・人見記念講堂に見に行くと、ぬあんと、予約した席は、一番最前列のセンター。
目の前に、デヴィッド・シルヴィアン、スティーヴ・ジャンスン、そして、映像とキーボードを担当した高木正勝さん。
その当たりから、どんどんとエレクトロニカへとじぶんは傾斜していった。
■高木正勝 「J.F.P.」2002■
単に「エレクトロニカ」とカテゴライズされたものではなく、音楽としての芯があるので、10年経って聴いても、今でもこのアルバムは心地良い。