じぶんはこどくなうちゅうじん
どういうことかちきゅうというしまにおりてきた
みのわというしたまちのうえで
かたちんばというなまえをつけられて
ちきゅうじんのからだをあたえられて
そのなかにすまうことになった
ぼくはずいぶんとちきゅうじんふうに
みんなのまねをしながら
なじもうとしてきたけれども
やっぱりもとはこどくなうちゅうじんで
ちきゅうじんになりきれない
たにんにはそうだんはできないことで
やっぱりこどくなことにはかわりない
41年ちきゅうじんのふりをしてきたけど
こどくなことにはかわりない
***
ぼくはちきゅうじんにみならって
しごとをしている
このちきゅうではおかねというものがひつようで
おかねがないとたべものやいるいもかえない
しかし まねごとだから
ちきゅうじんみたいにしごとがうまくできない
「しんどい」おもいをしている
にくたいろうどうははっきりしているけれども
じぶんは かいしゃで そうではないしごとをしている
やっかいなのは そしきとにんげんかんけい
こどくだけでいられれば それはないのだけど
おかねをもらうのには そのなかにはいって
しごとをしないといけない
こどくといいながらこどくにはなれないむじゅん
ちきゅうでの旅は まだつづくから
まだまだ「しんどい」のはつづきそうだ
どういうことかちきゅうというしまにおりてきた
みのわというしたまちのうえで
かたちんばというなまえをつけられて
ちきゅうじんのからだをあたえられて
そのなかにすまうことになった
ぼくはずいぶんとちきゅうじんふうに
みんなのまねをしながら
なじもうとしてきたけれども
やっぱりもとはこどくなうちゅうじんで
ちきゅうじんになりきれない
たにんにはそうだんはできないことで
やっぱりこどくなことにはかわりない
41年ちきゅうじんのふりをしてきたけど
こどくなことにはかわりない
***
ぼくはちきゅうじんにみならって
しごとをしている
このちきゅうではおかねというものがひつようで
おかねがないとたべものやいるいもかえない
しかし まねごとだから
ちきゅうじんみたいにしごとがうまくできない
「しんどい」おもいをしている
にくたいろうどうははっきりしているけれども
じぶんは かいしゃで そうではないしごとをしている
やっかいなのは そしきとにんげんかんけい
こどくだけでいられれば それはないのだけど
おかねをもらうのには そのなかにはいって
しごとをしないといけない
こどくといいながらこどくにはなれないむじゅん
ちきゅうでの旅は まだつづくから
まだまだ「しんどい」のはつづきそうだ
なぜ亜子ちゃんは死んだのか?
どうして、メディアは、川田亜子ちゃんの死を騒ぎながら、
それ以上のことを言わないのか?
不自然ではないのか?
亜子ちゃんは、間もなく荼毘にふされる。
何も述べぬまま、何もせぬまま、ただ大騒ぎして、
メディアは終わりかい?
おかしくないか?
どうして、メディアは、川田亜子ちゃんの死を騒ぎながら、
それ以上のことを言わないのか?
不自然ではないのか?
亜子ちゃんは、間もなく荼毘にふされる。
何も述べぬまま、何もせぬまま、ただ大騒ぎして、
メディアは終わりかい?
おかしくないか?
川田亜子ちゃんを初めて意識したのは、「爆笑問題のバク天」であった。
爆笑問題自体も今も大好きだが、亜子ちゃんの可愛さを見るのも、疲れた独身男の、密かな毎週土曜日の夜の楽しみだった。
番組の企画で「女の子の甘えはどこまで通用するか?」というものがあって、亜子ちゃんがいろんな所で甘えるというものだったが、それが実に、このヒトの可愛さを出していて、記憶に残ってる。
UFOキャッチャーの景品が欲しいと訴えた店員さんには「今回だけですよ」とこそっと景品を渡され、レストランでは間違って、昼だけのランチを食べたい一心でそのお店に来たという甘えには、「今回は特別に」とランチを作ってもらう始末。
あの大きな優しい目に見られたら、みんなイチコロだったのが、妙に微笑ましかった。
***
しかし、ラジオでは、フリーに転向するのを悩んでいるとき、太田光さんに会った際にはげまされて、わんわんと崩れるように泣き出した、という話を聞いて、明るく見えているけれど、繊細でナーヴァスなヒトなんだと知った。
「ほんとに、太田さんに会った時に、すっごく悩んでいて、顔を見ただけで…」と言っていた。
今思えば、そのような心境が続いていたのかもしれない。
しかし、本当の自殺の理由は死んだ本人しかしりえないのだが・・・。
***
今夜、ネットのニュースで、最近撮影したという写真を見て、ショックだった。
あの目から生気が失せ、うつろな目で、頬はこけた死相が出ていたからだった。
見たくはない姿だった。
***
あんなにも若くて美しいヒトが自殺すると、なんともやり切れない暗澹たる気持ちになる。
ただ、生きていて欲しかった。
そういう自分は、皆も程度の差こそあれ、同じだろうが、死ぬ勇気もないまま、今ある不安な状況に包まれて、不安な明日に対峙して、ここにいる。
この向こう側とこちら側の違い、彼岸と此岸のはざまは、近くも遠くも感じられる。
爆笑問題自体も今も大好きだが、亜子ちゃんの可愛さを見るのも、疲れた独身男の、密かな毎週土曜日の夜の楽しみだった。
番組の企画で「女の子の甘えはどこまで通用するか?」というものがあって、亜子ちゃんがいろんな所で甘えるというものだったが、それが実に、このヒトの可愛さを出していて、記憶に残ってる。
UFOキャッチャーの景品が欲しいと訴えた店員さんには「今回だけですよ」とこそっと景品を渡され、レストランでは間違って、昼だけのランチを食べたい一心でそのお店に来たという甘えには、「今回は特別に」とランチを作ってもらう始末。
あの大きな優しい目に見られたら、みんなイチコロだったのが、妙に微笑ましかった。
***
しかし、ラジオでは、フリーに転向するのを悩んでいるとき、太田光さんに会った際にはげまされて、わんわんと崩れるように泣き出した、という話を聞いて、明るく見えているけれど、繊細でナーヴァスなヒトなんだと知った。
「ほんとに、太田さんに会った時に、すっごく悩んでいて、顔を見ただけで…」と言っていた。
今思えば、そのような心境が続いていたのかもしれない。
しかし、本当の自殺の理由は死んだ本人しかしりえないのだが・・・。
***
今夜、ネットのニュースで、最近撮影したという写真を見て、ショックだった。
あの目から生気が失せ、うつろな目で、頬はこけた死相が出ていたからだった。
見たくはない姿だった。
***
あんなにも若くて美しいヒトが自殺すると、なんともやり切れない暗澹たる気持ちになる。
ただ、生きていて欲しかった。
そういう自分は、皆も程度の差こそあれ、同じだろうが、死ぬ勇気もないまま、今ある不安な状況に包まれて、不安な明日に対峙して、ここにいる。
この向こう側とこちら側の違い、彼岸と此岸のはざまは、近くも遠くも感じられる。
1. I Advance Masked
2. Under Bridges of Silence
3. China - Yellow Leader
4. In the Cloud Forest
5. New Marimba
6. Girl on a Swing
7. Hardy Country
8. Truth of Skies
9. Painting and Dance
10. Still Point
11. Lakeland/Aquarelle
12. Seven on Seven
13. Stultified
ロバート・フリップ&アンディ・サマーズ「心象風景」82
これも当時1982年には、「評論家」というやからには、評判悪かった1枚。
しかし、少年の自分は、好きな1枚だった。
名ギタリストである2人が競演した割には、期待した「融合」の出来ではなく、かなりフリップ色が強いですが。
お薦めは渋谷陽一のサウンドストリートでもかかった1・5・6。
まるでENOの「アナザーグリーンワールド」の曲をを思わせる5。
森の中をさまよっているようなシーンの音楽。
1は、その疾走感を使って、よくNHKのニュースのバックにかかった。
メロディアスでグラマラスな曲が多い。
クロスオーバーイレブンでも、よく色んな曲がかかった。
東京12チャンネルの「日立 サウンドブレイク」では、上野公園の風景をバックに、11がかかった。
いろいろ思い出深い1枚なのだ。
自分が出会ったキング・クリムソンが、このアルバムということもあるが、記憶に残るアルバムで、むしろ年とともに、逆に鮮度を増している。
このアルバムは、当時、古くからのキング・クリムソンのファンには「これはクリムソンではない」と言われていたものだが、今はそういったことは聞かなくなった。
「ディシプリン」とは、規律とか鍛錬といった意味。
渋谷陽一に言わせると、白人音楽が黒人音楽を越えるための、ロバート・フリップなりの回答が「ディシプリン」、つまり、鍛錬を積むことであるという。
***
1981年当時、音楽界ではニューウェイヴが過去のロックを解体し、他の音楽との融合を目指していた。
リズムをテーマとしたものは多く、トーキングヘッズの「リメイン・イン・ライト」、PILの「フラワーズ・オブ・ロマンス」、ゴドレイ&クレームの「イズミズム」、YMOの「テクノデリック」などなど・・。
フリップは、このアルバムの前に、リーグ・オブ・ジェントルマンというバンドを作ったが、そのアルバムは、まさに、リズムとの格闘であって、楽しんで聴けるものではなかったが、フリップが目指そうとした何がしかの音楽の視点が提示されていた。
それが、開花したのが、この「ディシプリン」だったと思う。
多様な批判はあれども、この音楽は、未だに唯一無二なものである。
***
PS:エイドリアン・ブリューは、当時、トーキングヘッズに、そしてこのキング・クリムソン、そして坂本龍一の「左うでの夢」(これも脱西洋音楽を目指した、リズムをテーマにしたアルバムだった)、果ては、スネークマン・ショーとのジョイントと、すさまじい活動を行っていた。
彼のギター・スタイルが革新的であった点も、この「ディシプリン」を輝かせた大きな理由であろう。
1996年に出会ったので、1996年と書いたが、実際は、もう少し前の作品かもしれない。
データがない。
というのも、余り知られていない作品だからだ。
FFWDとは4人のユニット。
Fはロバート・フリップとTHE Orbのトーマス・フェルマン。
あと2人は忘れてしまったが、何より重要なのは、フリップ&FFDという点なのだ。
アンビエント系のFFD軍とフリップが手を結んだ点である。
***
さまざまなSE・自然音とフリップのギターそれらが、1つのストリームになって、アンビエントやダブ的な音処理とともに仮想空間として、提示される。
1996年はずいぶんとこれをBGMにして、3月までいた大阪の熱気と、帰ってきた東京の冷ややかな冷気のギャップを鎮めるための音楽としていた。
曲ごとに色調は異なるが、1曲目を聴いた際に、その美しい音に惹かれたものである。
こういう情報で、ピンときたヒトは一聴を。
しかし、ジャケットはひどいデザイン、これを見てロック寄りの音楽を想像しないほうが良い。
こないだ、昼に、小諸そばに行ってみた。
自分は、家族性遺伝の高コレステロールで、投薬をされている。
そんな自分は、アブラものはいけないのだが、いけないと言われるものほど、禁断の味があって、つい手が伸びてしまう。
最近は、ついかき揚や天ぷらを食べてしまう。
小諸そばの「ミニかき揚丼セット」は500円。
大好きなせんねんそばのかき揚ほどの大きさもないし、ぺしゃっとしてサクサク感は一切無いが、このぺしゃっとしたものも、なんだか好きである。
本来の天ぷら好きには、たぶん、お話しにはならないものだろうが。
しかし、かき揚には、紅ショウガが合うものだ。
***
荷風は、独特の食通で、一度気に入った食べ物は、何日も立て続けに食べるクセがあったという。
自分も、荷風ではないが、自分の中で、天ぷらブームが、今、キている。