こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2013年6月30日 日曜日 「大祓(おおはらえ)の日の旅」

2013-06-30 21:48:55 | 写真日和

眠りと食事でかなり疲れを取り、今日・日曜日の午後は散髪を兼ねて、迷走の旅へ出た。
いつもの七つ道具を袋に詰めて、帽子・Tシャツ・短パン・ズックで・・・。
風がさわやかで涼しい、そんな午後は夜にまで続いた。

メロンちゃんは、ふんっと相手にしてくれない。いっつも帰ると、近づいてくるクセして。

今日は、6月30日。
一年の半分の境の日。大祓(おおはらえ)の日。
わたしの土着した地での鎮守の守り神・白鬚神社でも、茅の輪くぐりが行われる。
2013年におけるじぶんの意識では、「祭り」は電通さんが大好きな「単なるえべんと」と成り果てた。
よその地から、神輿担ぎに来たり、どうも「にぎやか」というよりも「うるさい」としか感じない。
荘厳なる由緒や神事への敬意のカケラもない。出来れば「単なるえべんと」は回避して、嫌悪すべき類のニンゲンさまには出会わずに過ごしたい。祭りとは異なる神事としての大祓。

旅の最後に、白鬚神社に寄ったのち、帰って聴くは、細野さんのトロピカル三部作の1つ・「泰安洋行」。
このアルバムを聴きながら、行く先々で出会ったシーンにシャッターを切った写真を整理していた。
大祓の夜に、この「泰安洋行」のアルバム・タイトルでもある「泰安洋行」を掛けながら、今日出会ったシーンのほんの一部を掲載する。

■細野晴臣師 「泰安洋行」1976■







いつもの隠れ家に住む友人に、カリカリをお供えする。
























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2013年6月30日 日曜日 かたちんば徒然日記

2013-06-30 09:51:35 | 雑記帳



■ハロルド・バッド&ブライアン・イーノ「鏡面界」(The Plateaux of Mirror)1980
(イーノのアンビエントシリーズの2枚目より)■


さくりんさんへのお返事
今週かなりキュッキュッとキツイ日が続いて、仕事が毎晩遅くならざるを得ない事態となり、疲れやすいじぶんは参っていました。
そんな中、すでに木曜日の夜にはガス欠。
朝までの限られた時間もありますが、おなかはグーグー鳴れども食せるエネルギーも残っておらず・休む以外は何も欲するのは無い中、アンビエンスな音が流れる空間で横になりました。

「音を聴く」というよりも、聴こえたり・聴こえなかったり。
かつて、高校生の頃、心身共に疲労した中でプレイヤーを回したレコード、ブライアン・イーノのアンビエントが、光のような「救済の音楽」に視えた感覚が漂っていました。

普段、服用する睡眠薬など必要もなく、落ちていく感覚。
ひさびさに、深い眠りに入りました。

その翌日、金曜日を超えた帰り道。
ネコたちと出会い・カリカリをおすそ分けして・夜に佇む。
帰ると、自動筆記のようなことを記す。

***

『ぼくは地球を見たことがない。』
ヒトは、日々メディアを通じて入ってくる「情報」を元に、あたかも地球や世界が見えているかのような錯覚にマインドコントロールされている。

わたしは、自殺者が増える背景の1つに、こんな錯覚が作用しているように思います。
「バブル」と呼ばれた80年代後期。
わたしには、一切の実感は無かった。

ノイローゼの末、分裂病の表記にある幻覚が現れ出した1985年から自死までの間。
CUEを・救済をあらゆるものに求めた中、鴻上尚史さんの本「Say-Sho(セイショ)」にエンピツで線を引きながら、まさに「聖書」のように、何度も何度も読み返しました。

「降りなさい、その場から」と鴻上さんは繰り返します。
あなたが視ていると錯覚しているものは、あなたの事実世界では無い、と鴻上さんは言います。

遠くにあるものを身近に感じて/近くに事実あるものが遠くにあるように思える「ビョーキ」。
それは、ヒトがよくおちいる、理想と現実とのギャップを埋めるには遠いことから/理想が美しく・現実のじぶんがあまりにもみじめゆえ。
そこから一気に、ヒトは理想にしがみついて、必死にそこに現実を刷り込みさせようとする。
その2つの乖離が、逆に自らを責めるが、いまさら現実を容認して・そこに降りれなくなる。
2つの世界に引き裂かれる。
1985年4月8日、可愛かった岡田有希子ちゃんの飛び降り自殺も、その時代空気と背景に拠るものであり、あの夜、それを聞いて眠れない苦しい夜を過ごしたのも、そことつながっている。

***

今のじぶんが、そこから得たものは、じぶんは世界も地球も視たことがない、という事実。
マスメディアに操られることを切断し、動植物や親兄弟やなかまとの目の前の日々。そういった当たり前の暮らしを中心に据えることを、特に最近心がけて生きる。

10人のゴーヤくんは、相も変わらずレフェリーを無視して、お互い遊んだり・ケンカしたりの中、ぐいぐいとその生命力を発揮している。
朝お水を上げて、夜帰ると「あらら」という様に出会う。
「お前ら、いないあいだに、何をしていたんだ!」と、夜のお説教をしますが、そんな言葉を彼らは意にかえさない。

水を上げながら、葉を整理しようとするが、それでは全然追いつかない。
お互いが絡み合って、レフェリーはゴングを要請する。
彼らの生命力の強さは、死にかけのじぶんよりも上。
葉や茎をさわったり・いじると、その指にかかる断固とした意思の強さを感じる。

***

夜にもうろうとしながら、自動筆記された言葉が、あたかも他人が書いたように思えて、読み返すと、どうやら目線を低くして過ごすうちに、じぶんがいつの間にか憧れのネコになっていきつつあるのだなあ。。。と感じた次第。
「ネコになりたい」とは永遠の希望でしかないですが、そこに一歩でも近づけているのかもしれない。
そんな風に想う次第です。
「島」とは、愛しの東向島を指しています。

PS:昨日は、疲れが取れずに、一日、ひたすら室内でごろごろしていました。
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2013年6月28日 金曜日 「ぼくは地球を見たことがない。」

2013-06-28 23:58:43 | スケッチブック

ぼくは毎日、まちと言われる、にぎやかなところに行くのが日課。
お散歩とパトロール。
でも、夜には、てくてく歩いて、みんながいる島にもどる。

島はとてもおだやかで、しずかなジャングルみたいな場所。
不思議と、そこに戻ると、気持ちが落ち着く。

夜の島の道を歩いていると、このところ、虫の鳴き声が聴こえてくる。
すれちがうもの。
知っているものも、初めて見たものもいたりする。

ぼーっと、そんな相手を見ていると、夜のなかで静かに佇むものあり、眠るものあり。
みな、お地蔵様のような、おだやかな表情をしている。

この、ぼくたちの島。
それは、見たことがない「地球」という場所の一部なのだろうけども、それは想像しか出来ない。
「地球」には、たぶんたくさんの何かがあるのだろうなあ。

島で出会うなかまから、おはなしを聴くことはあるけれども、「きみは、それを見たことがあるのかい?」と、いつもの茂みで会ったキジトラくんに聞いてみる。
「ぼくも見たことがないんだけど、そんな景色があるんだってさ。」

「ふぅーん。」
キジトラくんの匂いを嗅いで、情報交換をしてわかれた。
そこから、島を、あてどもなく歩いた。

「きょうはココにしよう。」という気に入った場所で、横になった。
地べたが、つべたくて気持ちがいい。
「うん・・・。悪くないなあ。」

草木の匂いがする。
風が吹いてきた。
花が揺れている。

まるで落下していくように、おだやかに意識が薄らいでいくよ。
死んだことはないけれど、死んでいくみたいだ。

ふたたび、目覚めなくても良いかなあ。
べつに。
































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2013年6月25日 火曜日 Chari Chari 「Aurora」'02

2013-06-25 23:56:45 | 音楽帳
音楽をナメてはいけない。そう想う夜である。
じぶんの音楽体験が80年代のニューウェイヴ/テクノが核の中、自死しそこねた1987年以降の二度目の「再生」後の生命において、全ては日々の追い掛けを捨てた・偶然の出会いと述べてきた。

偶然、とあるキーワードで今夜画像検索していたら、ステキなジャケット写真に出会った。それがコレである。

都会の電線の合間を縫って、朝であろうか?まだ、社会の歯車が空気を染め成していない・静かな中を、飛んでいく鳥たち。
「サマー・レイン」。
朝、ゴーヤくんたちに水を上げながら、雨が降ることをひたすら待ちわびながら、ボツ・・・ボツ・・・とは降れども、彼らのカラダを満たすには至らなかった今夜。

それが井上薫の作品のジャケットと知る。Chari Chari(チャリ・チャリ)とも名乗りながら、EP-4の彼も随分と変化したものだ・・・と勘違いしてMIX-CDを中古屋さんで買ってから「ああ、あれは佐藤薫だった」と気付いた。
まるで、これでは爆笑問題のラジオコーナー「妙に変だなあ~」そのもの。

そこから辿って、YOUTUBEで「オーロラ」という、じぶん好みの曲に惹かれて聴いている夜。
「おとうさん、世界は広いんだねえ」と言ったコドモにかつて出会った、文京シビックセンターの展望屋上のシーンすら想い出すような、美しい曲との出会い。
■Chari Chari 「Aurora (Acoustic Mix)」2002■

この井上薫の曲を聴きながら、再度「妙に変だなあ~」と、どこかで聴いた響き。
そこから調べると、かつてその頃に出会ったポート・オブ・ノーツ(ヴォーカル:畠山美由紀)のギターの人が参加していた。

この曲は、井上薫の「イン・タイム」というアルバムに収められているとのことである。
これが、今夜、ボロボロ島で出会った、中島らもさん曰くの「わたしの神」である。

【アルバム「イン・タイム」】





















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2013年6月23日 日曜日 山下達郎 「War Song」'86

2013-06-23 12:35:30 | 音楽帳

■山下達郎 「THE WAR SONG」1986■
先日、掲載したとたんに消されてしまった「風の回廊(コリドー)」を収めた1986年アルバム「ポケット・ミュージック」より、今日行われている東京都議選なる「選挙ごっこ」へのイヤミをも込めて、達郎さんの「ウォー・ソング」を贈る。

***

今朝、夢の中で印刷現場の鉛の写植職人さんの作業するさまを見ていた。
もはや、デジタルの時代になり、印刷業界はバタバタと倒産していくしかない運命。
印刷業界と言われているものは、ほぼDとTという2社の寡占状況。そこから長く下に繋がる家族経営の印刷会社に及ぶまでがつながっているが、ほとんど死滅状態にある。倒産、返せない借金、自殺。
DとT、と述べたが、お札やカード類まで作る会社ゆえ、この「一応」「日本」と地図上に記された国土における権力は絶大である。とてつもないカネが流れ込んでいる。また、それは当然、海外印刷物・海外工場含め、他国の領土まで及んでいる。
それ以上は、じぶんが言うまでもなく、みなさんの方がよくご存知であってしかるべきだろう。

***

じぶんは、親父との戦い・葛藤を繰り返してきたが、相手は80代・こちらは40代となり、もはや過去のような殺してやると言う感情は無い。
そして、家族の長たる親父、という家族の側面とは別に、彼は戦後、日出ずる地・出雲から大学時代に上京して、貧しい中、大学時代を過ごし、印刷業界で苦労した歴史があった。
その断片を、じぶんは目の当たりにしてきた。三ノ輪の近所のみんなに内職をばらまいて、我が家でもその作業をしていた様は、じぶんの記憶の一部である。

あるいは、戦後、レントゲン撮影が国内で当たり前になりつつあった中、そのフィルムと伴う印刷用紙、これは。。。と親父と当時の社長2人で奔走し、それを様々なところに売り込みをかける。そんなシーンの断片を親父の話から聞いてきた。
親父の話は、イコール、戦後の経済の中で、貧しいながらも、明日や可能性があった時代の営業活動の一端。

***

夢と半分起きた横になるさなかで、いろんな映像とシーンが回想された。
昭和20年、東京はアメリカからの集中攻撃に拠って、10万人の非戦闘民が惨殺された。計画上は、皇居にも攻撃するはずが、結果的に変更された。
3・11の東日本大震災で亡くなった人は、約1.6万人である。あの6倍の人が一夜にして苦しんだ事件。

8月15日に敗戦となったが、東京は爆撃後の無残なる荒れ果てた地の様にあった。
歴史は、その後の成長ばかりを述べるし、確かに何も無いところからの出発は経済上の成長に至った。そこには確かに、何も無くなったから復活への可能性があり、アメリカが長きに渡ってコントロールしてきた結果だ、と言ってしまえばそれはそうかもしれない。
では、焼け野原の東京で、残った者の神経・精神状態を、なぜ、東日本大震災後に残った者の神経・精神状態のように語る、語り部が居ないのか?
絶望は、3・11だけではない。

そして、様々な諸条件下で経済成長を語る者は多い。「あたりまえだ」という口調で。
B-29が来るたびに、家の明かりを消して伏していたお袋さんの話。
東京大空襲を経た上で残った一般の者たちが自殺もせずに、日々のくらしに苦心しながら「生きた」「くぐった」「突破した」ことをなぜ語らない?

***

最近「相も変わらず、じぶんはバカだなあ」と思っていたのが、歴史教科書に載っているモノ全てが、事実かどうかは実に疑わしい、ということ。「新しい歴史教科書」なんかで足りるものではない。
江戸・明治以降の記載にこだわる人々は多いが、それよりも前にある歴史すら、当然会ったことも・事実も定かに分からないのであるので、全てはフィクションだとも言える。それは、日本に限らず全世界共通のもの。
逆に言えば、この100年間すら事実が明確ではない中、卑弥呼、聖徳太子、元寇、本能寺の変、天皇継承そんなものはいくらでも改ざん出来る。

80年代初頭に糸井重里は「世の中、ぜーんぶコピーなのだ」という名言を吐いた。それは80年代の経済・商業の幕開けを、コピーライターというアコギなプロパガンダを指して言ったものか?と言えば、そうでもなくて、歴史そのものにも言える言葉。

北朝鮮からミサイルが、日本に向かって飛んだ、という事実をニュースで述べるが、どこに落ちたのか・映像も含めて語られることは無かった。
そういう大事な事実は語らず、それ以外のニュースになだれ込むことで、希薄化させるコントロール。
全ては、見えないところでのシナリオに沿って、時には抹消されたり、隠蔽されたり、改ざんされる。そんな歴史を繰り返し行っているのは、昔も今も似たようなものである。

自ら経験してきたこと以外・何も分からないのであれば、それを独自で勉強すると共に、「今」「この瞬間」生きている中、路地や人(仲間)や動植物との出会いのほうが絶対的に重い。もうモノは、食料以外とうの昔に満たされた。モノで何かが回ることはない。
じぶんの目で見た・感じたものの大事さ。
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2013年6月22日 土曜日 「ネコさんとわたしとゴーヤくんとのくらし」

2013-06-22 11:36:30 | 写真日和

この一週間は、かなり様々な仕事をしたように思う。
昨日、トイレに行って・手を洗っていると、イヤでもそこには鏡が有って、エイリアンとしての「わたし」の外形を映し出す。
ヒゲも少ない髪もぼーぼー。顔が蒼白い。

昨夜は、深夜に帰宅して缶ビールを1本呑んで横になると、仮死状態に入る。
脳がリセット機能として、自己保持回路として持っている睡眠なるもの。
いつの間にか堕ちていた。

朝日が真正面から刺す光に目覚めると、心地良いリセット感。
白いカラッポの脳、そしてそこにある正しい白痴(・_・)状態。
緩急付けて生きるには、キチガイと正気をうまいこと組み合わせる必要がある。
起きた時点では、言語が心身を犯していない。概念が肉に食い込んでいない。
三島由紀夫曰くの「太陽と鉄」が言語化されない立ち上がりの幸福感。
■今朝の一曲 Art of Noise 「Robinson Crusoe」1989■

「るてるて坊主」のおかげか?それなりに降ってくれた雨が、集団生活・同居をしているゴーヤくんたちに、どんな作用をもたらしているのか?
毎朝、そのゴーヤくんの変化をみるのが、朝の楽しみの1つ。

お互い勢力争いとケンカをしながらも、元気な子は、天を目指して伸びている。
えこひいきなく、全員に育って欲しいので、全員にお水と栄養剤をあげる。

天は、晴れたり・曇ったり・・・いずれにしても、過ごしやすい朝。
涼しくて、心地良い、ウィークエンド。

せっかくの朝の幸福感をのがすまいと、岩合光昭さんの動画を見る。さまざまな生き物を、80年代初頭のデビューから撮り続けてきた岩合さんに、近時、特にスポットが当たっている。
生き物を撮影した岩合写真の持つ神がかり的な生物愛、素晴らしい生き生き感。
■岩合光昭写真展ビデオ 「ねこにカメラを向けるとき」■

もしココロが萎えている人がいたら、岩合光昭さんのBSで撮された世界のネコ様たちを追いかけた番組を見て欲しい。あるいは、岩合さんの写真集をじっくりと眺めて欲しい。
創価学会・真如苑・幸福の科学などの、本や講演に行くヒマとカネがあるのなら、むしろ「みずからの神」をそこに設定した方が良い。それが、生き物としての自然体の姿であること。そこに目覚めるはず。(しかし、学会員で、性格がまっとうな人に出会ったことが無い。なぜだろうか?企業宗教とは一体なにか?を感じる瞬間。)

過去にも言ったかもしれないが、ネコという不思議で妖艶な生命体は、過去エジプトで神として大事にされた。亡くなった際にも、名残惜しさと愛から、さみしかろうと・・・亡くなったネズミさんと一緒に箱に入れられ土葬された。
それくらいに魅了されてきた人々とネコの長い長い関係。

岩合さんは、ネコが生きづらい時代・・・とさりげなく言う。
しかし、公的発表されないネットワークは、ネコに魅了され続ける人たちの間では、エジプトから脈々と未だに生き続けている。ユダヤ・アメリカ・中国朝鮮の歴史とは別世界で。

【ありし日のコチャコさん。楽しかった、忘れえぬ家族の一員との暮らし・日々。】
じぶんには、とてもではないが岩合さんのような写真は撮れないが、プロではないので、出会えた瞬間に対して、日々、共に暮らす中でシャッターを切ってきた。











【先日、実家で会ったノラクロさん】

【公園にいるキジトラさん2号。元気がなさそうなので、カリカリをおすそ分けして。】

















おまけ:街歩きの中で、ゆきずりの中で声を掛けて、一緒にお茶を飲んだ、ネコのように可愛かった女の子。
その可愛さや空気が、写真だけでは伝わらないのは、じぶんの力量不足。
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2013年6月20日 木曜日 南佳孝 「日付変更線」'78

2013-06-20 23:58:28 | 坂本龍一のサウンドストリート
今では、そんな元気も無いのだが、肝臓を壊す前までは、兄との「CD文通」のようなことをしていた。
おたがい共に、いつ果てるか分からない中、音楽が重要な好物である仲で、そのとき・そのときに好きな曲を収めたオリジナルCDを、季節の便りにかえて、交わい合い・会う機会があれば渡しあったりしていた。
現在では、兄からもらうCDはあれども、じぶんから兄に渡すCDがない状態が続いている。

***

かつて、まだ壊れる前のSONYのCDウォークマンで好きなCDを掛けながら・好きな東京街歩きをして・好きなシーンにカメラを向けていた頃。
南佳孝さんのアルバム「サウス・オブ・ザ・ボーダー」は、夏の重要な一枚だった。

ジャケットは、故・池田満寿夫さんの作品。
南佳孝さんに初めて出会ったのは「モンローウォーク」「憧れのレディオ・ガール」「スローなブギにしてくれ」といったシングル盤であった。
そういった大ヒットシングルとは別に、後に1982年の「坂本龍一のサウンドストリート」の「渋リク(=渋いリクエスト)」の日に、教授がかけた『常夜灯』に、引導された。
「サウス・オブ・ザ・ボーダー」のジャケットは、当時よく見ていたが、そこに大きな宝物が埋まっているとは思いもしなかったので、素通りしていたのを、逆戻しさせた。

時を経て、CDウォークマンで「サウス・オブ・ザ・ボーダー」を聴いて歩いていた夏。
秋葉原の橋のたもとで休憩をしている折に、心地良くなって短パン&Tシャツ姿で、そこに横になって、青空と流れる雲を眺めながら「サウス・オブ・ザ・ボーダー」を聴いていると、心は南洋に行くことが出来た。

【そのCD「サウス・オブ・ザ・ボーダー」は、相変わらず遭難中。
写真は、右が「憧れのレディオ・ガール」を収めた1980年作品『モンタージュ』。
左は2002年作品『ブルー・ヌード』。】


この夏に、兄に渡したCDには、「サウス・オブ・ザ・ボーダー」の中でも、特に好きな曲「日付変更線」を入れた。
音楽への知見の深さも、じぶんは兄に叶わないのだが。。。そんな兄からメールが届いた。
「日付変更線は、イイねえ~。」そんなメールをもらうのは珍しいことだったので、その後、アマゾンでCD「サウス・オブ・ザ・ボーダー」を購入して、兄の家に贈った。
「イイでしょう~」と誇らしげに浮かれて。。。

***

数日前に、山下達郎と坂本龍一の組み合わせを意外と。。。と書いたが、南佳孝と坂本龍一の組み合わせも意外と感じる方も居るだろう。
しかし、南佳孝さんと教授は、当時友人同士で、教授は、南佳孝さんのアルバムのアレンジャーとして一緒に音楽を創っていた。
南洋に恋していたミュージシャンたちが創った名作LP「パシフィック」に限らず、この頃は(その後の)YMO&周辺ミュージシャンの心は、南洋のトロピカルな世界に向いていた。(故・加藤和彦さんの「パパ・ヘミングウェイ」も、その中の一枚)

「日付変更線」という曲の心地良さには、大貫妙子さんの透明感あるバックコーラスの美しさも、大いに含まれている。
■南佳孝 「日付変更線」1978■


もう、あっという間に10年近く経ってしまうのだが、まだ営業車を転がしている頃に、偶然FMで昼間に掛かった南佳孝さんのスタジオ・ライヴ。
南洋色・サウダージの匂いは、更に深い磨きをかけていて、鳥肌が立つほど感動した。
録音機械を積んでいなかったので、リアルタイムでしか聴けなかったが、実に貴重な放送だった。
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2013年6月19日 水曜日 細野晴臣 「ホタル(ルミネッセント)」'82

2013-06-19 23:01:13 | 音楽帳
今夜も、梅雨ならではのねっちょりした蒸し暑さ。22時半時点で、室内の温度計は28℃を示している。
そんな中、パンツ1枚にうちわで、ビールを呑む。

朝は暴風が吹き、ゴーヤくんたちが心配でならなかったが、お水を上げた。
昨夜、達郎さんの美しい曲「風の回廊(コリドー)」をYOUTUBEにリンクを貼った時点では、そこに有った曲は、朝起きたら著作権の問題とやらでリンク切れしていた。

【なんとか、キレイな黄色い花が実を結びました。】

6月は「水無月」(みなづき)と呼ばれている。
アジサイに梅雨・・・そういった6月を、なぜそう呼んでいるのか?
は、神道の本を実家に置いてきてしまったので不明だが、言葉が変容して「水無月」となったように書いてあったはず。
しかし、2013年6月は、本当に水無月が続いてしまっている。
そんなことで良い訳はなく、じぶんは「るてるて坊主」で雨乞いをしている日々。

こんなにも蒸し暑いと、ひたすら涼しげな音楽を聴きたくなる。
今夜は、細野さんの定番「フィルハーモニー」を聴いている。
「はらいそ」以降、「YMOをやる中では決してソロアルバムを創らない」と言っていた細野さんが、1982年春にYENレーベルを設立し、その第一弾として5月に「フィルハーモニー」を発表したのは、YMOが実質解散したのを意味していた。

1981年「テクノデリック」という後世に残るアルバムで、世界初(では実質無いのだが)の全面サンプリング導入をしたが、その際に使用していた数秒しかリピートできない松武秀樹さんが持ち込んだ機械ではなく、その後に発売されたイミュレーターⅠにて「フィルハーモニー」は創作された。
それは、横尾忠則さんとインドへの旅を行った際に創作された「コチン・ムーン」に近いニュアンスを感じさせた。

これまた、当時のあらゆる音楽雑誌は「フィルハーモニー」をことごとく批判をしていた。この時代は、新譜にインネンを付けることが、まるで「音楽評論家」なる・中身の無い者たちの必殺技のようなものだった。
今のようなネット社会では無いので、我々が頼ったのは、音楽雑誌・FM雑誌・ミニコミ・仲間内でのレコードの評判や貸し借り・・・そんな世界だった。
聴く者側からのストレートな発信は実に困難であり、というかほぼ不可能であった。
それゆえに、渋谷陽一が仲間たちと「ロッキン・オン」を学生時代から自費・借金をしてまでして、雑誌の立ち上げをしたのであるが。

ブライアン・イーノからの影響、そして、その源流たるフィリップ・グラスなどの現代音楽からの影響を、モロにストレートに反映させたアルバムが「フィルハーモニー」だった。
元々、現代音楽が一つの源流であった教授・こと坂本龍一は、あまり良い感情は抱いていなかったであろうが、個人的には好きな曲がたくさん収まった不思議感いっぱいのアルバムだった。

個人的思い入れを述べれば、これまた尽きないのだが。。。
今夜は、このアルバムのA面3曲目に入った「ホタル」という曲を聴いて涼しくなりましょう。
ちなみに、この曲のタイトルは、当時のTVドラマ『北の国から』における、名子役だった蛍ちゃんから来ている。
ガムランの響きが心地良い。
■細野晴臣 「Liminescent / Hotaru」1982■
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2013年6月18日 火曜日 山下達郎「風の回廊(コリドー)」'86

2013-06-18 21:20:42 | 坂本龍一のサウンドストリート

日本のミュージシャンで、未だにじぶんの中の「音楽の神様」であり続けているのは、YMO+3人+周辺ミュージシャン。
単発では、素晴らしい音楽を創る人たちもいるが、それを超えることは、無い。

そこに微妙に絡み合う軌道上に居るのが、山下達郎さんであり・竹内まりやさん。
アッコちゃん(矢野顕子さん)の「オーエス・オーエス」という「ラーメンたべたい」が収録された1984年。
その録音スタジオには、教授&アッコちゃんが居る、その隣で、達郎さん&まりやさんの「ヴァラエティ」が録音されていた。

達郎さんと幸福なる結婚をして、音楽シーンから一旦退いた竹内まりやさんだったが、主婦として居る中もかたわらで創りだめていた曲が良くて、達郎さんがアルバムにしたい、と録音をしたのが「ヴァラエティ」だった。
「ヴァラエティ」とは、達郎さん曰くの「幕の内弁当」。さまざまなスタイルの曲が1枚に収まったアルバム。

***

教授&アッコちゃん夫婦・達郎さん&まりやさん夫婦。
共に偶然だが結婚をしたのは、同じ1982年のこと。

教授&アッコちゃんの結婚初期の蜜なる時空がパッケージされた「愛がなくちゃね。」が、あまりにも素晴らしくて永遠であるように、達郎さん&まりやさん夫婦の「ヴァラエティ」は、当時の「山下達郎のサウンドストリート」を録音したと共に、LPレコードで聴きまくった。

じぶんにとっては「オーエス・オーエス」が余り好きでは無くLPを買わなかった一方で、1984年段階では「ヴァラエティ」のほうが断然素晴らしかった。
達郎さんが、まりやさんを大事にしている想いが音になっていた。
それは、今も変わりはない。

***

「坂本龍一のサウンドストリート」に1982年6月1日ゲスト出演した達郎さん。
「なぜ、山下達郎が坂本龍一の番組に出るんだ、というお思いの方も居ると思いますが・・・」(教授)
さかのぼる1975年に、お互い「辺境の民」として2人は出会い、友人として親交深い生活を送った。
その後のバンド「シュガーベイブ」に居た大貫妙子さんと教授が恋人同士だった時期を経て。。。
この1982年6月1日では、2人は「結婚」なるもので、いかに適当に大衆雑誌があること無いことを書きつつ・本人らのプライヴェートをさらし者にするものかを、そのひどさを、語っていた。

その後、1984年、同じ場所で録音された「オーエス・オーエス」と「ヴァラエティ」。
隣に居るということもあり、「坂本くん、ちょっと手伝ってよ」と「ヴァラエティ」収録の『結婚しようよ』でキーボードを演奏したり、日々交流があったという。

***

これは、渋谷陽一さんとの対談であったり、渋谷さんが述べたり・書いたりした評論でも明らかなことだったが、山下達郎という人の不思議な在り方。
彼自身は、音楽がとても好きで、レコードコレクターとしても、家のゆかが抜けるほどのコレクターであるが、どちらかといえばブラック・ミュージックの影響が強い彼が、自らの長い長い音楽活動をする中で、彼自身が創る音楽にはブラック・ミュージックの影は薄く、ついつい良質なポップ・ミュージックとなってしまう。

かたちんばは、彼自身が出たマクセルのカセットテープのCMで演奏された「ライド・オン・タイム」に脳天を一撃されて以降、YMOほどの熱心さでは無かったものの、達郎さんの音楽を過去から今に至るまで聴いてきた。
(むしろ彼の音楽の本質への、素直な反応としての磁力は90年代以降だったかもしれない。)
彼自身も渋谷陽一さんも述べているが、決して本人は「ミドル・オブ・ザ・ロード」を歩くつもりはさらさら無く、大衆に受け入れられるつもりでポップ・ミュージックを奏でているわけでも無いのに、結果論として、良質な音楽として、大ヒットしてしまうという構造の不思議さ。

***

そんな彼が1986年4月に発売した「ポケット・ミュージック」には、実に重い・重い曲である「War Song」が収められている。
かたちんばは、2年目の素浪人に突入時代。じぶんにとっての寄る辺・共時性進行形音楽であったニュー・ウェイヴ/テクノが終焉を迎えると共に、じぶんのイノチも終焉を迎えようとしていた頃に鳴っていた音。
初めて「War Song」を聴いたのは、日曜日の夜のNHK-FMの渋谷陽一さんの番組で、渋谷×山下対談がされた際に掛かったもの。
その頃、隣の兄の部屋からは、毎朝LPから「War Song」が流れていた。

この曲の重さは、別の機会にちきんと述べたい。
このところ、毎朝・毎夜、涼しさを感じたいがために必ず聴いている定番「風の回廊(コリドー)」。
「ポケット・ミュージック」に収録された愛する1曲。

日曜日「父の日」で実家に家族集合した際に、料理をするかたわらで鳴っていたベスト盤「トレジャーズ(贈り物)」からの1曲。
「なつかしいいねえ」と、達郎さんファンの兄・自分・お袋さんの3人は、3人3様の想いを抱きながら聴き惚れていた。
彼の素晴らしい音楽は、今では、時空なんか平気でひとっ飛びして、永遠を獲得した音楽ナリ。
■山下達郎 「風の回廊(コリドー)」1986■
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2013年6月15日 土曜日 「ソーイング・ザ・シード(たねを蒔く)」

2013-06-15 11:11:19 | 想い出かたちんば

80年代前半の音楽の戦いのさなかにあって、その同時代性をよく表していたのが、83年辺りに雑誌に載っていた、アナーキストであるジョン・ライドンのインタビューだった。
その雑誌も遭難中なので、実におぼろげな記憶だが、ミュージシャン同士が批判をし合っていた時代の一断面。
U2を「2つだけ素晴らしい曲を創ったが、あとはそのなでかえし」と切る一方で、プリンスを「パープルレインという曲だけはいただけなかったが、たった1曲で彼を非難するつもりはないよ。彼の絶え間なく創り続ける音楽は素晴らしい。変化していくことが重要なんだ。」
そして「PIL(パブリック・イメージ・リミテッド)は?」とインタビュアーが訊ねると、「エクスタシー」と答えていた。

「ロック」というものの概念は、時代によって変化していくし、ロックだけが音楽ではない。しかし、80年代前半の音楽は、日々(前向きに)変化していくことを要求されていた。そういう中で「ロック」なる言葉は化石・恐竜時代の言葉だった。

今週掲載したポール・ウェラーの在り方も、そんな時代の時空の中で、何かに縛られ・固執しないいさぎよさを表現していた。「パンク」という新たなる地平が開かれたとしても、それが形骸化・劣化してきたのであれば、捨ててしまうこと。
ジョン・ライドンもポール・ウェラーもプリンスも(じぶんにとってはU2も)「いや、これでは満足出来ない・不十分だ」という、より磨きをかけた何かを求めて歩く求道者だった。

そこから遠い・三十余年後の時空環境地点・2013年6月に、じぶんは「今」居る。
時々刻々と「今」と「今の気分の水位」は移ろいゆく。

朝、近隣を叫びながら走るクルマの音に起こされる。
何か?と言えば、単なる「にわか仕事」の選挙カー。21世紀というのに、何を話しているのか?耳を澄ませば、ひたすら候補の名前を連呼するだけ。
そこで、何か「一言」で人の気持ちをうならせるような「言霊(ことだま)」があれば良いが、そんなことは相変わらずある訳がない。あるとすれば、小泉純一郎に代表されるようなワンフレーズでの誘導。

毎朝、駅に向かえば「若い力(ちから)」とかいう無駄な旗を立て、連中は「それ用」のカラフル・カラーのジャンパーを来て、無駄なプロパガンダ・チラシを、電車に乗ろうとする人の行く手を塞ぐようにして、「蒔いている」。
かたわらにあった「維新」という文字・石原慎太郎、橋下徹の写真がみえて、カラフル・ジャンパー族が強要するチラシを、はたき落とした。
「朝から、ジャマだよ。お前ら支援者全員、どこか行け。」と吐いて。

まだ眠いが起きて、パンツ1枚でゴーヤくんたちに栄養剤を蒔いて、水やりをする。
雨が降って欲しいものだ、と雨乞いをし、祈りながら。
まだ涼しい方ではあるが、湿気は多く、天空は晴れたり曇ったり、日が差したり、隠れたり。。。
そんな朝聴きたくなった「今」の気分は、1985年・既に素浪人の精神病ジプシーだったさなか。当時も今も好きな高中正義さんの「渚・モデラート」。
当時、東芝のテレビCMでかかった、名ギタリストの創ったイメージソング。
■高中正義 「渚・モデラート」1985■




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