こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

航海日誌:そして また ふたたび、ね ことくらす

2024-01-30 18:30:00 | 雑記帳

備忘録。

気がつくと いつなんどきでも過去の出来事が走馬灯のように脳内で自動再生・反芻されている。
例えば、朝。意識して覚醒したとき、あるいは、その数分後 もう会社に行かないクセに焦ってしゃかしゃか歯を磨いているとき。そんなときに ほぼ絶縁状態に近い親兄弟への怨念、過去の出来事と人物、とかが勝手に反芻されて脳内に充満し 私にダメージを喰らわす。
朝一番から 若い日の全てが負の出来事に満たされた人生であったかのように思えてきてしまい、絶望し、そのガスが脳内を満たす。ビルで言えば足場になるところがグラグラになっている感じがし出す。そんな足場の上でぐらつきながらアクロバティックにバランスを取りながら、いま進行する「今」を生きねばならない現実・難問に、朝一番でぶち当たる。しかし、過去に何が起きようとも、ダメージを喰らおうとも、遅れている者がいても、そんなことは関係なく「今」は進行し、どこに向かうのか?時も船も黙って航行していく。

そんな朝一番の内部葛藤の中、目や頭は実際じんじんと痛み、しばし数十ッ分その苦しいトンネルの中にいることになる。何も朝に限らないが、それが毎日続く。
それでも人生を航海していくには仲間や伴侶が必要だと思う。だから、という三段論法じゃないけど、新しい出会いと流れの中から、十数年ぶりに ふたたびネコと暮らすことへ至った。決意とか決断とか、そんな大仰な言い回しや概念的な発想でそうなったわけではない。いきがかり上そうなっただけである。

数年前、ドクターストップで休職、その後 がたがたあったのち ほぼ自由業状態へ至り。
人生、まずは半世紀を全部一回 完全にリセット。そして新しい段階へ入り、新たに出会った人と交流しつつ、きっかけあって 外でかまっていたネコを部屋にむかえることになった。人生とは不思議な航路を描いていくものだな。

体内の病魔をごまかしつつ、新しい小さい家族とコミュニケーションを取ろうとする。
彼らとともに死なずに生きる作戦を考える。



■細野晴臣「住所不定無職低収入」1973■

美味い煙草をくれないかい
紅い色の炎をつけて
からだの奥が冷えているから
燃える炎をからだにつけて

うまい話はないのかな
宝島の地図が最後の望み
キャプテンクックの様に俺は今
住所不定無職おまけに低収入

今夜の夢見が良かったら
明日は海原ふらつく予定
そこで女神にめぐり会い
珊瑚の上で ララララランデブー

うまい話はないのかな
宝島の地図が最後の望み
キャプテンクックの様に俺は今
住所不定無職おまけに低収入

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航海日誌:映画 福田村事件

2023-09-29 12:00:00 | 雑記帳

連休に映画「福田村事件」を観に行った。
関東大震災に起きたこの事件のことを知ったのは、今回がきっかけだったが、私がこの映画を見る導火線は別にあった。

約10年前、いつものごとく下町を歩き倒していた時。それは日没後の暗い荒川の脇道で、何か奇妙な空気が一帯を支配していた。家と家の間にポッと開いた草むらの奥に、記念碑を見つけた。その石碑の両わきには大きな真紅のゆりだの、ずい分となまめかしい色の花。血のような色の花がそなえてあった。暗やみでほどんど見えず、肉眼をこらしながら草むらの細道をたどり、石にひざまついて文字を読んだ。その後、脇に見つけたコピーチラシを読み、さっき感じた奇妙な気配の源に触れた。その場所は震災時、朝鮮人虐殺が起きたと言われる場所であり、石碑は有志によって建てられたものだった。石碑の建立は2009年。「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼碑」という名前がついている。歩いてこの場所に立った夜は、石碑建立からたった数年後のことだった。

その後、図書館で事件周辺のことを調べる一方、散歩の日には途中で何度も同じ道を歩いてみたが、異様なエネルギーをその地には感じた。全国さまざまな地で同じような事件があったことを知る。警察そのものが関わった側面もあり、時の流れの中でうやむやになってしまったから、全容は未だ不明瞭な部分はあるが、証言を集め調査を行った専門家等により、実態がある程度明らかになり、そこでの事件はおおむね史実として語られるようになった。
福田村事件については、被害者が被差別部落出身の方で、遺族が仕方が無いと黙って諦めていた面があり、おおやけに知られるようになったのは21世紀になってからと言われる。

福田村事件は、香川県から全国でクスリを売り歩いていた15人の行商団が、関東大震災9月1日の日にたまたま通りすがった福田村(現:野田市)で被災し、足止めをくらったことに始まる。情報の届かないムラの中で起きた関東大震災。パニック状態から巨大に膨らんだデマや妄想の中、自警団が結成され、井戸に毒を投げ込んだ鮮人を「排除セネバナラナイ」という盛り上がり方をする。
朝鮮人差別と被差別部落という2つの差別がこの事件の周辺に漂っていることを描き、匂わせながら、9月1日関東大震災という有事を境に各々はムラ内部という閉ざされた世界の結束に呑み込まれていく。映画は史実に基づいたプロセスを描きながら、そこにフィクションを交えることで、エンターテイメント映画として構成力強い作品に仕上げている。
テーマの重さゆえ、大手メディア、スポンサーが付かないため、寄付によって成立した映画作品。
森達也さんの初めての長編映画作品、ということで、数十年ぶりにJR大森駅で降り、近くにある映画館まで気合入れて観に行った。

コロナ禍により、森監督と参加した役者さんとのやりとりは余り出来なかったそうで、ほとんどの役作りは役者さんが自主的に行ったものと言う。個人的に好きな俳優さんが多く、テーマは重くても「映画としての面白さ」は抜群で、ずっしりとした手ごたえを感じる映画だった。細かい映画評論は、もう色んな方がネット上で語っているので、そちらを拝見してください。ただ、出来るだけ情報の無い状態で見た方が良い映画で、(当たり前ですが)各々がたった一人で観て・感じるもの思います。
関東大震災から100年目となる9月1日から上映中。
音楽はムーンライダーズの鈴木慶一さん。サントラ出るといいなあ。。。


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2020年6月 ラジオ少年と久米さんと「ラジオなんですけど」と

2020-06-25 23:00:00 | 雑記帳


6月6日(土)いつも通り、13時から久米宏さんのラジオ番組「ラジオなんですけど」を聴き出すと、唐突にこの番組が6月末で終了する、と久米さんが言った。
キツネにつままれたように唖然となる。
その感じは、皮肉にも、2013年9月7日東京五輪が決まったニュースを見て、寝耳に水となった日にそっくりだった。
まるで夢のような感覚とでもいおうか。
絶望や落胆だけでなく、揺るがない決定が知らない間にウラで動いていた不気味さが共通していた。

「ラジオなんですけど」この番組の第一回目は、13年半前の2006年10月7日。
午後1時の時報の後、出てきた久米さんは、野外・晴天の下から少々上ずった声で話していた。
突き抜けるような秋の青空を伝える久米さん。自分も同じその空を見ながら聴いていた。
それをよく覚えている。
外からの中継を経て、テーマ曲が流れる。
この日から来週の最終回まで13年半変わらなかった番組冒頭のテーマ曲は、とてもさわやかで、未だに2006年10月7日の秋空の高さと青さを思い出させる。

***

ウィークエンドの始まりである土曜の昼下がりを、どれだけハッピーに過ごすか?
それにこだわっていた者に対して、「ラジオなんですけど」は、21世紀に入ってからの新しい風を運んでくれた。
青少年の時期ももはや遠くなると、自らを進めるためのガソリンというのはそういったものだ。

この13年半、用事があった週はやむなく聴けなかったけれど、それ以外は何らかの形でこの番組を聴いてきた。

311を経た2012年以降は、毎週土曜早めの時間から外に出て、街を一人で歩きシャッターを切りつつ、イヤホンで聴いた。
(AMの永六輔さん・15時~の宮川賢さんの番組も好きで、それを含めると土曜8時半~17時までがTBSだった。)
当時はラジコが無いので、ごくごく普通の携帯ラジオで聴いていた。
電波が届かない地下鉄等に乗ることを避け、バスやJRを使いながら毎週土曜の放送を楽しんだ。

***

久米さんは、良く言う人と悪く言う人に分かれる。
では自分は?一体どちらかわからない。
というのも、数十年付き合いながら、久米さんの言葉の背景に貫かれる何か?が一体何なのか?充分に理解できていないのだ。

しかし、たぶん、それでも好きなんだろう。
振り返ってみれば、久米さんが関わった番組の多くを楽しみに見聞きしてきたことに気付く。
「ラジオワイドTokyo」「料理天国」「おしゃれ」「ザ・ベストテン」「テレビスクランブル」「ニュースステーション」そして「ラジオなんですけど」。

***

昔、鶴瓶さんがとある番組で、こんなことを言っていた。
「ニュースステーションで、久米宏が笑った後CMに行く際、切替のタイミング遅れで、怖い表情を見てしまった。
あの人の影の顔を見たと思ってしまい、もう見た(く)ない、と思った。」
あるいは、キッチュが「朝まで生テレビ」をパロディにした「朝まで舐めてれば」で、ホクロを付けて失笑する久米さんの真似をしていた姿も浮かぶ。

当然、そんな例を挙げるまでもなく、久米さん自身に何の思惑も無いはずもない。
ダーティーなイメージを背負う理由は十分理解できる。
しかし、だからと言って、周りに合わせて適当なところで話しをまとめる人への不信感を思うと、同調圧力を無視して話しをしていく姿は痛快だった。

***

たとえば、一握りの利権者以外、誰も得もしない東京五輪。
某広告代理店が関わったしつこいプロパガンダ。
2020へ向けその勢いを強めていった「たぶらかし」
それに対する久米さんの語りクチは何とも絶妙だった。

世間が東京五輪万歳と言い、決まったからには応援、と戦時中同様に硬直化していく中、ラジオメディアは自由だった。
久米さんは、五輪以外も含めて、タブー化されていくことに動じず、「ラジオなんですけど」で率直な意見を述べ続けていた。
それはどれもきわめてまっとうな意見がほとんどであった。

***

モノであれ何であれ「そこにある」という安心は、「そこにいつまでもあるものだ」という思い込みと変わる。
雨の日も曇りの日もあるのだが、毎週土曜があのさわやかなテーマ曲と共に明けるのが楽しみだった。そんな番組も終わってしまう。

久米さんは、番組終了について、元々1月に決まってたんだけど・・・つい言い忘れていた、と言った。
久米さんらしい切り出し方だな、と思った。

先日亡くなってしまった小島一慶さんに夢中になってから40年以上聴いてきたTBSラジオ。
それも、永六輔さん・宮川賢さん・そして久米宏さんの番組が無くなるとなると、かなり意味が薄くなってきた。

「ラジオなんですけど」が終わることは非常にショックでさみしいが、約14年続いた番組の最終回・6月27日のゲストが伊集院光さんということが、最後の救い、と思っている。

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2016年5月16日 月曜日 「均質化する国と世界」

2016-05-16 21:30:00 | 雑記帳
今ニホンと呼んでいる世界と東京のありさまにどの程度の違いがあるか検証しようもないし、その2つの距離感は分からない。
しかし、少なくとも大多数が東京と呼んでいる2016年の世界はひどく荒廃している。今後も五輪を言い訳にもっと荒廃していくことは確実だろう。

この数年行けたところは福岡・京都・大阪・名古屋・福島・札幌だけだが、どこも都市部が均質化している。
都市部はどこに行っても同じ金太郎アメのように同じ顔をしている。
同じ店があり、同じような風景があり、同じような建物が立っているだけ。

知り合いと話していたら、瀬戸内海の美術関連の場所も、もはや人だらけで作られた形式世界が出来てしまったという。
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2016年3月30日 水曜日 備忘録

2016-04-01 14:36:31 | 雑記帳

3月30日 水
朝、5時台の早起き。快晴なり。
5時台から動き出すのは、この十年で指数えるほどのこと。朝一番でお医者さんの予約を取るため。

前日29日も医者通い。

この一ヶ月さまざまな部位に異常が出ていたが、周囲に黙っていた。黙って改善努力を重ねたが好転せず、じぶんにとってのSOSと察知して医者に向かった。
身の上に生じている部位と症状を結び付けていくと、脳や心臓への負担から突発的事態になる可能性を否定できない。

案の定、同じことを医者に言われる。さらには、眼のひどい痛みから、緑内障や網膜剥離の可能性も示唆される。火・水それぞれ半分の日を使って検査。

***

最初びびったが、結論としてはおおごとではない確認が取れた。
それは結果そう言えるから言っているだけのこと。

突然消えた三十代半ばの同僚のことも含め、いろんな覚悟を必要とされる近時。
同年代の人たちは今何を思い、どんなことをしているんだろうか。みな元気でいるだろうか。。。などと、つい弱い気分になる。

会う先生はみんな「メンテナンスですよ、メンテナンス・・・」そう言ってくれる。

医者と患者という関係は不思議だ。
患者には「あの先生は良い人だから」という理由で、先生を選ぶ人がいるが、医者に人柄は関係ない。

確かにこころのケアは大事だし、そんなことならそうすればいいが、医者は病気を発見し・治すか緩和させる道筋をつけるのが役割。逆にキツい人のほうが良い場合も多い。

科から科に回る中、とある先生から「じつは転勤で。。。」と告げられる。
「先生、とにかく仕事なんかより、カラダ壊さないように元気で。」
と声を掛け、先生のほうが「ありがとう。」どっちがどっちかわからない。

■Cyndi Lauper 「True Colors」 (The Body Acoustic)■
この日、初めて作品「ザ・ボディ・アコースティック」をお店で見て手に取った。
シンディ・ローパーが自分自身の曲をセルフカバーした作品集。
比較や理屈などなく、この人の存在と声が好きである。
彼女は山瀬まみちゃん同様かわいい女性である。偏愛と言われて構わない。
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2016年3月14日 月曜日・深夜 その日の神性、その日の天使

2016-03-14 18:14:27 | 雑記帳
雑誌やチラシ類を”あとで見るから”などと積み上げてきたけれど、”あとって、いつなのよ?”。
というわけで少しづつ捨てるものと捨てないものとを分ける作業に昨年より入ったが、この言い方すらが、すでにダメだ。

「少しづつ」もダメだし、「分ける作業」自体がぜんぜんダメだ。
正直とんでもない時間と工数を喰い、疲れる。むしろ面倒なことになってしまう。

そんな折、ためになる言葉に出会う。
”強迫的ため込み”。
そうか、とひらめく。

断捨離だ、シンプルライフだ。。。最近ではミニマリストだ。。。
どれもこれも言いたい核心は同じことと思うが、
どれもこれもカネのにおいがあからさまにプンプン漂う。
どれもが結局みうらじゅんさんいわくの「ない仕事」を作るために、言い換えたみせかけ上の(新)コトバ。
とりあえず、こういった方々とグルは、参考程度として加担せず・無視したい。。。と、今夜も独り座禅を組む。

***

その日そのとき目の前のもので、気になったらちぎってノリで貼る。
残りはすべて捨てる。日や時間で判断はまったくことなるだろうが、捨てたものを後悔しない。

「2016年は、日記をちゃんと形に」と思ったが、ヒマな主婦じゃないので、そんな時間はない。
小林先生の「三行日記」のように、 その日をその日じゅうに何らかの形で記す。。。のはそうできれば良いが、そんな「理想=非現実」予定調和にいかない。
よけいに無理をじぶんに強いるだけのことで、精神衛生上、逆に追いつめられるいっぽうだ。

ここ数週間、手当たり次第身近にある何もかものゴッタな紙類を適当にちぎる。
飽き飽きする「いかにも」な撮影方法の食べ物の広告写真、取ってあった無料風俗雑誌の女、勝手にポストインされるチラシ。
意味や脈絡などルールはない。もともと大して価値のないもの。それが良い。
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2016年2月3日 水曜日 雑記帳

2016-02-03 23:55:30 | 雑記帳

月一回の定期健診に行った。
勝手に「定期健診」と呼んでいるのは、いわば定点観測みたいなもので、大きく心身に問題が起きているわけじゃない。ヘルニアや腫瘍アリ、肝臓も決して良くはないが、何とかバランスをキープしている。この「何とか」とダメとの数ミリの幅は大きな違いだ。

こころの問題もその一つ。
もともとこころはカタチもないし目に視えない。果たしてこころなんて存在するか否かも不明だ。
診療面談・対話は、自分のような者には禅問答的になっていく。受け取る方が一歩間違えば妄想となるはずだし、視えないからこそ対話言語の源流を受け取れない限り、永遠に2人の会話は水に流れていくだけだ。
形式的に「具合はどうですか?」「わかりました」。そんな話した証拠記録担保だけを残して、処方箋を出すのみに終わる。クスリだけでこころは救われない。
日々引き直される等高線が織り成す地形とカオスの中で、何らかひとすじのCUEを誰もが掴みたいと思っている。

最近主治医と会話の源をめぐるキャッチボールが成立している。
お互いの歯車が合ってきた。そう思える。

***

昨日は、こんな話から始まった。

どうもこころの疲れが大きい。
親の病気への心労も多少はあるが、そのせいではない。

眠れない。
眠らない、と言ったほうがよいかもしれない。

親を見ながら、愛する生き物のありさまを視ては天命の短さを知る。
まさかこんな時間が早く過ぎようとは、そう強く思う。焦る。
毎日が勝負、を強く意識する。
今・ここのみがある。
眠りを削ってでもやりたいことをしたい。

それで毎夜、寝るのが3時近い。
まあ、幼いころからよくあることで、それが続いているだけでもありますが。。。

先生は、どうですか?
日々患者相手で疲れるでしょ。
先生「じつは、同じこと、いま思っているんですよ」。
珍しい表情と会話。ほぼ事実の吐露と聞こえた。
おあいそじゃない、彼の心情風景。

私「でも、先生はまだ若いから。私もですが(笑)」
先生「いや、そういうことじゃなくて。経年時間じゃなくて。」
先生は自分より一回り以上下の30代真ん中。年齢を質問したのは初めてだった。
苦労しているせいか、そうは見えない。
案の定、私の反応に対し、
先生「ふけてますかね?」
私「いえいえ」

先生「論文なり、研究なり、趣味なり、あれをやりたいな、やらねばな。
そう思って取り組むんだけど、それ以外に忙殺されて、一日があっという間に終わってしまう。それが一年単位でも同じ思いがして、この一年でどれだけ進んだんだろうか、やばいな、と思ってるんですよ。
もっと無駄なものに時間を掛けずに、やりたいことにまい進するにはどうしたらいいんだろうか。。。」

そこから長く話した。
先生「かたちんばさんで言えば、夜に音楽を聴く、絵を描くといったこと。。。それすら、ほんとうに好きでやっているんだろうか?実はそうではないんじゃないか?」
私「たしかに、そんな場合もありますね。
いつも“やりすぎてしまう”性分だし、自らでドツボにはまるみたいなこと多いですね。仕事以外で仕事をしちゃう。」
先生「しかし、こう言っていくと、じゃあ、いったい何が『やりたい』んだろう、って振り出しに戻っちゃう。答えが見つからない迷宮に入っていくわけなんですが。。。

少なくともこの2人が同じことを考えている、悩んでいるんですから、多かれ少なかれみんなも同じことを思っているんでしょう。
ただ、いずれにしても馬鹿らしいですよ。馬鹿らしいな、と思うわけです。・・・」

【スクラップブック(たぶん2002年頃)より】
音楽を何とか時間の経過に従って「整理して、伝えること」をしたいと思ってきた。それは自分のためであり、数少ない方へ多少なりともの明かりであれば。そう思っていた。
最近の結果は、途中まで書いて放り出したボツ原稿の山。
いろんなものが目減りしていくだけで、なんかうまくいかない。

ここから分かるのは、時系列に何かを理路整然とするなんざ、無理、ってこと。そんな残り時間もない。

ということで、勝手に作り上げたルールを壊す。そのときそのときに好き勝手なものを描いたり書いたり撮ったり黙ったり・・・脳の働きと同じように。
タイトルもいい加減(「仮題」でもいい)、文章も途中で切れていていいし、作りかけを載せるのもイイ、写真なんてあとから足せばいい。
こう書くといい加減だな、となるものだが、何もいい加減さを目指しているわけじゃない。それが一番自然であり、一番まっとうな姿なんじゃないか。例えば絵が描くにしたがって目指したところから逸脱していく、その逸脱したところに、自分すら意識しなかった何か、あらがったひっかきキズが勝手に浮かびあがってくる。そんなもんじゃないだろうか?

これは音楽で言えばイーノも・絵で言えば大竹伸朗さんもおんなじ言い方をしている。
あるいは、石野卓球さんがテクノを、意図しなかった意識からこぼれ堕ちるスキマ性と指したことだったり。

☆今夜の一曲☆

■ケミカル・ブラザース(フューチャリング・ベック) 「ワイド・オープン」2015■
最近好きな一曲。
歩きながら、あるいは電車のなかで、繰り返し繰り返し聴いている。

いろいろあるけど、それでも淡々と前に進むよ。
そう言っているかのような調子とハーモニー。そこに、何かとても励まされる。


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2016年1月10日 日曜日~14日 木曜日 備忘録 -Out Of Noise-

2016-01-14 23:59:45 | 雑記帳

1月10日 日
冬至あたりに比べれば、春に向けて陽は長くなってきた。師走にはすでに湯島やこの島で梅が咲くのが見られた。
それでも日の長さは短く、早い時間に外に出ないと、陽はあっという間に沈んでしまう。
外に出る出だしが遅れた。歩き過ぎで足も傷んでいるので(休みは乗らないよう努めている)電車でショートカット。

祝日法が無理矢理結合した世間の連休。
この日もどこと決めずに歩き出し、十条から板橋のあたりへ。

正月の余波が続き、神社仏閣も祭り一色のやかましさ。ノイジーな御利益場とその周辺があるばかり。しかし、そこを離れれば、ちゃんと昔とつながった変わらぬ空気がある。

五輪を口実にした東京の破壊が進行する中、北区・板橋区あたりは人肌感ある場所が多く残っている。いつも一息つかせてもらっている。
歩く最中聴く音楽は、クリムゾン、フリップ、ボウイ、NoNukesにおけるYMO、クラフトワーク、ボズ・スキャッグス、陽水、砂原さんと移り変わっていく。
その日の旅が終わりつつある陽が沈んだ夜道では、昨年出会えたガウシアン・カーヴの「Clouds」。

街の放浪は幼い頃からの癖だが、ここ数年は極端でやり過ぎてしまい足を傷めることが多い。
音楽をより多く聴くのは、インドアから街を放浪しながらの方へ、より傾く。あてない通りに佇むとき、音楽は余分な装飾をとっぱらい丸裸で聞こえ、それが放浪の中での伴侶となり解放感を生む。
行くたびに常に新しい顔をして待っていてくれる街のありさま。それを視てシャッターを切り歩くことが、今のボクの楽しみであり生きる喜びとなっている。その視聴覚ないまぜの瞬間瞬間はいつも自分を励まし、よく気分が落ち、疲弊と掴み難い鬱感に包まれていく自分を、生き生きした方向へ軌道修正してくれる。
1月11日 月
この休みも歩いていた。ある地点まで快調だった。

1月12日 火
朝、寝起きラジオを点けるとボウイの曲が流れていた。DJはヴァンスKさん。
室内がやけに薄暗い。パソコンを点けニュース・ページに行くと、雑誌・女性自身みたいな見たくもない記事とコメント。見ないふりしてすぐ消す。一切の情報を閉ざし、いつも通り緑茶とパン、そして朝風呂と一式終えて外に出る。

雨が降っていた。冷え込みからこの冬初めてのコートを着込む。
仕事場に断りをいれ、待ち合わせ駅で兄と落ち合い、親の転院先候補の病院に行く。
朝から何杯もコーヒーを飲んだ。行きがけの喫茶店、一仕事終え病院を出て別の喫茶店と。

兄と途中駅で別れ仕事場に行くと、じぶんのためにインターFMが点けてあった。そんな同僚たち。

1月13日 水
雨はやみ空は晴れたが、東京はこの冬初めての氷点下。
午後から仕事で地方都市に向かう。その車中「ザ・ネクスト・デイ」を聴き、車窓を流れる風景に眼を凝らす。時折シャッターを切る。たっぷりの日差しと音は気分をハイにさせる。
情報を遮断した中で、死んだなんてウソであるように現実のリアリティは遠ざかる。そこに果たして事実から逃れたい脳の働きがあるか?音楽は相変わらず踊りたくなるような鮮度を呈している。

わだかまりと不自然さと整理付かなさと。
ローカル線の駅でタバコ吸いぼうっとしているうち、たまにしか来ない電車に乗り遅れた。電車は行ってしまった。そのおかげで約束の時間に間に合わず。

昨日次から次へボウイの曲が流れたが、そこには普段通り音楽としての良さで、感慨深いというよりも良い時間が流れていた。いつもどおり。だからと言ってくたびれ果てて帰った後、音楽棚から引っ張り出して聞く力はなかった。

まるでフリップ&イーノの「イブニングスター」、そんな美しい日没を視る。
その後と帰路の冷え込みはさらに厳しかった。帰ってはおでんを煮る。

1月14日 木
夜、食材を買って帰る。ノイズの無い島と空間。
がさごそカセットテープの山を探索し、1982年「ソニー・サウンドマーケット」を見つけた。繰り返し聴いた大好きなカセット。
マンハッタンのイーノを立川直樹氏が訪ねたインタビュー。CMをカットし、ダビングを行って編集したが、それによって音質は相当劣化した代物。

まだちゃんと回ってくれた。イーノと仲間たちという中盤、別の機会に立川氏がボウイにインタビューした録音が挟まる。
立川氏「レコーディングの間に、どんなことをしていますか?」
ボウイ「Sometime i get up・・・hahaha!・・・。
起きた時に2つ3つ頭の中で考えることを決めて、その日でその考えがまとまれば、その一週間はうまく行くし、うまくまとまらないとその一週間は、その考えをぐしゃぐしゃ考え続けて嫌な一週間になってしまう。
考えが浮かばないときは、イーノに電話して考えを借りる。
彼は自分では使い物にならないアイデアを2つ3つ貸してくれる(周囲の笑い声)。」


■ボウイ&イーノ 「アフリカン・ナイト・フライト」1979(アルバム『ロジャー(間借人)』より)■
イーノが描いたプリペアド・ピアノのループをベーシックトラックにして、その上にボウイのラップ等々の音が乗っかってくる。2人のコンビネーションから産まれたこの曲が持つエネルギーと革新性。他にはどこにもない音像。未だに大好きな一曲。

こんなときほど自らに向かい合うために同調せず、個人としてちゃんと眼耳を澄ませたい。
そうして情報を遮断した中、数少なく手に入れたものと言えば渋谷さんのブログから教えられたこと、そして長い友であるくもおさんのコメントとブログ。「同調せず」と言いながら、共に熱く、共に情動を掻き立てられ、そこに惹き込まれてしまった。

明日夜は渋谷さんの「ワールドロックナウ」。
こんなヘヴィな状況下で、いったい渋谷さんは、こんな「ナウ」に対してどんなことを話されるのだろうか?
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2015年12月11日 金曜日・深夜 「雑記帳 パースペクティヴ」

2015-12-12 01:46:43 | 雑記帳

たけしさんがかつて言っていた言葉が記憶に残っている。
その言葉は雑誌で読んだものだが、その雑誌がどこの何かは忘れた。忘れたくらいに遠いが、咀嚼されて体内に在る。

人は生きていく中で、いろんな選択肢が現れ、それらにまたがって多種多様な興味ある全てを構っていたいんだけど、ある道を選んで他を捨て去らねば前に進めないときがくる。

実際はこう言ったわけじゃないないのだろうが、じぶんとして解釈するとこうなる。
たけしさんがテレビを引いて、やっとやりたかった映画に熱中する50代入ってのことと、勝手に思っている。それが妙に最近しっくりくる。

***

たけしさんのような能力とガッツのある人とは違う・・・という自己卑下の言い回しはあるが、それでもそんな言い方はしたくない。じぶんをはぐぐみ・労を費やしてくれた方、数少ないながらもこんなじぶんを未だ愛してくれる人や逢えなかったおじいちゃんやその前のことを想うと、そんな言い方はすべきでない。

そういう夜に、渋谷(陽一)さんのラジオを録音回して聴きながら、もう要らない雑誌を分解してゴミに。生真面目になってペンチを握り、中綴じのホチキスを曲げている。ある人にはどうでもいいことでも、じぶんが今までの怠惰を含め堆積させてきた紙ゴミを「処分、処分」。

***

他人が見ればゴミ扱いの堆積物はとてつもないが、取捨選択の基準は大竹(伸朗)さん曰くの「グッとくる(きた)もの」以外は正直いらないのだろう。それは音楽も同じ。
80年代だけにこだわっていると勘違いする人も周りに居るのだが、90年代も21世紀以降も出会いがあった。あるいは70年代からさかのぼること広大な領域。
それらはたくさんあり過ぎる。だからと言って、それを捨てるという意味ではない。

削っていくと結果的に80年代のものの分量は多いのだろうが、心に響いたのはそれだけじゃない。砂に埋もれていては路が見えなくなりつつあるので、そういったノイズを除去したい。

コトをリアルな私生活に落とせば、「冷えた愛でも夫婦という形式」で付き合い続けられない性(さが)は、世間体ではガキそのものと嘲笑されても、そんな相手と付き合い続けられないのがじぶんである。相手だってつらいだけだろうし。
今は今で一番肌合いが近い人と付き合っているが、来年どうかなどは解からない。

***

生きていくといろんな障害が目の前に立ち現われる。生きれば生きるほど。
30代の終わり頃から、それまで知っていた点と点が線や面となるようにして解かり始めることが出てくる。ある意味、驚きだった。視野が広がり「歳を取るのは良いことだ」と思った。それを心身ともに体温として感じた。

だが、どうもそれも40代後半になると気付き過ぎてしまい、黙ってしまうことが多くなっていく。気付いてしまった現実を目の当たりにすると、その一割も言葉に出来なくなる。まさに障害ばかりが立ち現われる。それはあくまでじぶんのケースであり、何も変わらずのペースで居られる人もいる。

ここでまた、再度三島さんが言っていた言葉や、なぜあの歳で自らを絶たねばならなかったのかを巡る会話がよぎる。社会的に置かれた状況の側面、その一方、あくまで個人としての三島さんの姿、二つがあるのだが、今は後者の方のこととして。
この2つが交錯し合うので、なぜあんな亡くなり方を。。。という事は混乱を産む。

今朝朝風呂に入る時間、武田鉄矢さんのいつもの”三枚おろし”を聞いていた。
そこから偶然「また」「例の」三島さんのハタチまでの成り立ちが流れた。何度も、それを聞きたくはないのだが。

政治家ではなかった作家としての猪瀬。
彼が細かい調査の上で書いた「ペルソナ」は、友人MZ師を通じ、NHK番組を通じよく知っている。
ラジオからは、そこに記載された、三島父子が徴兵検査でアウトとなった場から去ったありさま。
身近にいた同期が言う”彼(三島さん)は、ああいう路と真逆で、当時は可能な限り戦から離れた場所に行きたかった”としても、そんな十代終わりから四半世紀の心の変遷を想う。

■インタビュー 北野武&蓮見重彦■


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2015年11月23日 月曜日 「雑記帳 備忘録」

2015-11-23 23:53:42 | 雑記帳

11月22日(日)雑記memo
天才、坂本龍一も細野晴臣も、人の限界時間を超えたなら、もっとたくさんの作品を80年代に創ったであろう。
二人とも厳格に中途半端を許さない。それがボツ曲を産んでいたはずである。
それを拾って集めただけでも数百曲はあったはずである。
特に坂本龍一はいじればいじるほど、作品は劣化する。そうして潰してしまった曲のカケラたち。

当時の二人の脳にダイレクトに線を直結して。
時間経過とともに現れては消えていく去来するもの、そのエッセンスを鮮度あるうち、くだもののように凝縮出来たなら、もっともっと数千曲の響きが聞こえたかもしれない。

そう夢想する。

***

毎年年始におろす日記兼スクラップ帳は時間に追いやられ、白紙ページのまま師走をむかえようとしている。白紙ページを塗りつぶそうと思いながら、圧倒的雑事と時間速度はじぶんを超え凌駕していく。

昔、兄に云われた言葉を想い出す。
”負けが込んで来たら、人はどこまでも堕ちていく”。
どこかでそれを一気に挽回せねばならない、という意味として”ありていな言い方で申し訳ないが、おまえは大学に行くのが今一番いい選択肢である”。
二十歳のきちがいの頃、最後のつもりであいさつに行った兄の家で云われた。

いまやそんなことは遠く、どうでもいい。勝ちも負けもない。

細野さんが言っていた言葉、心に届いた言葉がよくよぎる。
そのときそのときで(その日どんなに不調であろうと)ベストを尽くさないといけない。三十代・四十代。。。
それが後になって効いてくる、ボディブローのように。実際そんな言い回しをしてはいないが、そう捉えている。

***

21日(土)夜、ニーチェ(100分で名著)付けたまま寝てしまっていた。灯りはつけたまま、首にタオル巻いて。眠っていたじぶんに気付き、明け方5時灯りを消す。

朝・地震で目覚めた。つぶあんぱん一個食べる。ノドが痛い。
ラジオからビージーズ「愛はきらめきの中に」。寝床で吉村弘のCDを聴きながら、ちくちくウニウニ、伝染るんですのページをめくる。
そのうち、手に本を持ったまま、また眠ってしまう。

疲労から起きると午後。お茶とパン食す。
mp3内の曲入れ替え、片付け物、入浴、そうやって時間稼ぎをするうち、夕方5時の外出となる。外はどっぷり暮れてしまった。
写真を撮る中、山谷で絡まれる。よくあることだ。それを抜け出る。指がかじかむ。

途中でバスに飛び乗る。耳からソフトヴァーディクト。
適当に降り、歩き、親の見舞いへ。

夕方以降、外で出現してきたランダムプレイリストを聴きながら、歩き、シャッターを切る。
エリザベス・ウェルチ『ストーミー・ウェザー』
柴野さつき『星たちの息子(サティ)』
ヨ・ラ・テンゴ『ブラック・フラワーズ』
ヨ・ラ・テンゴ『More Stars Than There In Heaven』
ヴァージン・プリューンズ『Sad World』
ビートルズ『丘の上の阿呆』
ウルトラヴォックス『ウエスタン・プロミス』
グローバル・コミュニケーション『14:31』
トレイシー・ソーン『スモールタウン・ガール』
ロバート・ワイアット『シップビルディング』
ポール・ヤング『愛の放浪者』
ペイル・ファウンテンズ『パーム・オブ・マイハンズ』
レイ・ヴァンピレット『ビオムタンテン』
吉村弘『ミュージック・フォー・9ポストカード』

22時過ぎ帰宅、湯を沸かす。心臓苦しい。
ラジオ点けると橋幸夫・地球楽団、お茶とあんぱん、MZ師にTEL、鼻をかむ。

1時過ぎ灯りを消し、坂口安吾の語りを耳だけで聴いていたが、眠れず明かりを付けた。
お茶飲むことをやめ、酒を引っ張り出した。
1月初旬に撮った写真を見ていた。撮ったら終わりで振り返らないことを、いやというほど教えられる。そうしているうち明け方になった。

■YMO 「ソウル・ミュージック」2011・イン・サンフランシスコ■
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