こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年2月28日 土曜日 桜舞う前

2015-02-28 13:12:27 | 音楽帳

休日働いたぶんの休みを昨日取った。
この頃になると想い出し、脳内に聴こえてくるもう1曲。この曲を聴きながら平日の路を歩いた。

■Dream Academy 「Indian Summer」1987■













インディアンサマーには、小春日和と共に”落ち着いた幸福な一時期”という意味があるという。
みうらじゅんさんに言わせれば”グレイト余生”というもの。




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2015年2月26日 木曜日・深夜 

2015-02-27 01:16:57 | 雑記帳

2月25日 水曜日
連日連夜深く眠れないのが続いている。
単なる宵っぱりともいえるが、妙に神経が立ってしまいようようと眠りに落ちない。
それを過去のように、朝悔いたり落ち込んだりもしないのは、明らかに今違うことでもある。

ラジオや音楽を聴く、本を読む、じっとなにかを眺める、どれも大事なこと。
昨夜はパスタをゆでて食べた。そんなこともそのうちの一つ。

今日は、朝夕なぜか電車も外も群集が少ない。25日だからなのか?理由は不明。
かわりに、都内ホテル街からガラガラを引きずった集団とよくすれ違った。それは週末からよく見てはいたのだが、朝夕の勤め人が少ない分目立って分かったのだろう。
春節は終わったはずだが、まだ滞在している人を見かける。

朝夕、イーノの「空港のための音楽」をカバーした楽団の音源を聴いていた。
イーノが偶発性が産み出す音の連なりを音楽に仕立てたものを、この楽団は忠実に演奏で再現しようとするのだ。
その静寂感、ビートの無い世界が耳から脳に伝わるせいで、少し穏やかな夜である。

帰り道、いつもの公園の暗がり。
草むらにネコたちが丸くなって散らばっている。また、そこから歩いて帰る道では、遠い一本道をクロちゃんが小走りに掛けて、公園に戻ろうとしている。
外で眠ったり、かなり離れた場所まで夜遊びに出かけるなんて。
そういう季節になったのか。

花は、梅につばきに水仙に。
花たちは鮮やかだが、どうもこちらはぼんやりした一日。

2月26日 木曜日
終日雨が降ったりやんだり。そぼ降る・・・という程度のおしめり。
温度はやわらいでいる。
深夜、帰路を辿ると、おぼろ月夜が浮かぶ。

たかだか数十年前の今日(というか、既に昨夜)、事件が起きた日は雪が降っていたという。
事は重大だったが、東京の市民は、意外とそんななかでもふつう通りに過ごしていたという本を読んだことがある。

■坂本龍一 「After All」1989■

2011.2.28 コチャコ

2012.2.25 コチャコ

2013.2.26
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2015年2月23日 月曜日 ”Change Of Season”

2015-02-23 21:47:33 | 音楽帳

2月22日 日曜日 
朝から雨と共に曇るどんよりした空。ガラス窓を時折ななめにキズ付ける雨粒。
土曜までの疲れがひどく、起きても薄明かりの茂みの下でお茶を飲みラジオを聴いていた。
午前中苦しむだるさも一定程度落ちてきて、午後外に出る。傘を持って出たが、使う機会は無かった。

雨のあとというのに、公園に行くと珍しくねこたちみんな勢揃い。活発的に遊んでいる。
しゃがんで布袋をがさがさすると、これまたみんな素早く周囲にやってきて、カリカリを早く出せと目でうったえる。

春のマグマが地下でふくらみつづけ、その息吹きはついにはち切れそうなまでになった。
街を歩きめぐるなかの空気にそれを感じる。樹々や草花や大地などから教えられる。
ひさしぶりに、昨日いつもの場所場所でネコたちにたくさん会ったのも、彼らのアンテナが春のおとずれを感じているのだろう。

昨日は終日くもっていて光にとぼしいので、ゆっくりした歩み始めだった。
そう言いながら、島から歩いているうち、秋葉原までくねくねして辿りついてしまった。

2月23日 月曜日 
昨日、九州・中四国・北陸に春一番が吹いた、とのこと。
歩くさなかイヤホンを通してラジオから流れた天気予報では、夜には東京にも南風が吹くと言っていたが、実際は風吹かなかった。
深夜、毛布にくるまれたなか、気温が高く寝汗をかいてたびたび起きた。
疲れすぎもあり、ろくに眠れないまま月曜朝へ突入し、睡眠不足のふらふらのまま仕事に向かった。
朝の空は、この陽気に反応してぼんやりとなっている。春ぼらけだ。

今日20度近くまで気温が上がった東京は、曇りに始まり、昼には晴れ間も見えたが午後には雨。
帰路傘を差すが、島に着いたら雨は止んでいた。

こんな空気になり出すと聴く一曲。
仕事を始める船出間際の1991年浅い時期。
あの空気と同じ匂いを感じるたびに、めぐる季節のなかこの曲を毎年聴く。

■ホール&オーツ 「Don‘t Hold Back Your Love」1990■
ダリル・ホールとジョン・オーツの音には、いつも2人のスピリッツを感じる。
ひとでなしの心にもずしんと響いてくる。
ゆっくり始まり次第に高みに向かい、サビを通り過ぎた部分でダリル・ホールがシャウトする。
そこに絡み合ってくるアコースティックなギター。音が織り成すさまの官能。
それを感じたくて何度も繰り返し聴いてしまう。



今どうしても聴きたい一枚。これからの発売(3月中旬)だけど。

春は自然の輝きは美しいが、うじゃうじゃ人間が湧いてくるノイズと嵐が間もなくやってくる。今はそんな嵐の前の静けさ。

忘れがちなことはわかっている
きみのシンプルな夢といっしょに残されて
でも夢がすぐに消えようとも、戻りくる夢というものはない
夜眠れなくて、次の日まで起きていても、それもすぐに終わってしまう

もしきみが時間が、きみのことを忘れると考えるなら
ぼくのひとみをよくごらん
時間をふたりが共有してるのがわかるだろう (Don‘t Hold Back Your Love)











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2015年2月21日 土曜日 この・淡い・溶けてゆく・水のような

2015-02-21 23:33:04 | 音楽帳

短い眠りのあと、いつもより相当早いアラームに苦しみながら起きて仕事へ。
晴天青空。
地方都市へ向かう電車はウィークエンドでばらけていて、圧度低く落ち着く。

現場を歩き回るほぼ肉体労働。
肉体だけの疲れはいつも心地良い。その感覚を忘れていた。

出張先で労働者に配付された幕の内お弁当がおいしい。
たらふく喰ったら、午後一週間+今日の疲れがどっかと押し寄せ、睡魔にとらわれ数分堕ちる。

帰路、美しい夕暮れ。イーノの「2オーヴァー2」が脳内に自動生成される。
都内に戻る電車の車窓は藍色を深めていく。

都内に戻る。
同郷のヒトに逢いに行くかどうかを迷っているうち、心身ともにへたり、今夜はあきらめて家に戻る。
宇宙のほうまで一方通行の想い。それがつのる。
トイレに行く際に見えた顔。眼の下にくまが出来ていた。

イーノの曲を経由して、頭に浮かんだ高木正勝さんの「Journal For People」を掛けてお湯割りを呑む。

■高木正勝 「ピアノ」2002■














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2015年2月20日 金曜日 「雪の朝の幻想」

2015-02-20 21:46:39 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ

mp3再生機の中身入れ替えを繰り返しているうち、聴く音楽は次第に移ろっていく。
教授と青葉市子さんの心音に昨年からずっと耳を傾けつつも、シンディ・ローパーからデペッシュモード・ヤズーなどのアルバムに移り、その後デヴィッド・ボウイ70~80年代の音に向かう。
ボウイのアルバムは室内で聴き狂ったことはあれど、歩きつつ聴いたことはほとんどなかった。

朝の地下鉄内という移動する精神病棟。本人たちは社会人とかビジネスマンとか輸入語を使い、プライド高そうな態度で「その気」でいるが、すべてかごの中の精神病人たちが妄想に浸る世界。
チョコみたいな板の表面に指をシュッシュするシュッシュ族。最近増殖するウイルス患者。
指を動かすと、ご利益があるとのことだ。そう彼ら彼女らの間では信じられている新興宗教。ウイルス汚染はひどく、車内の八割がこの患者となっている始末の朝。
彼ら彼女らはオナニーみたいにしてシュッシュ行為に夢中。危害を加えられることはないが、しょせん病人なので日常茶飯事の迷惑行為は受ける。しかし目をつむるしかない。

「彼ら彼女らは病人なのだから」と最初は自らに言いきかせるが、そういうこっちだって別の類の病人と思い起こす。
そう解かると「同じように病人なら、お互いルールを犯してはならないじゃないか」そう説教したくなる。
だが圧倒的な「ちょー」多勢に無勢だから、下手な説教でもしようものなら、彼ら彼女ら病人から集団リンチに会う。
だから見えないふりをするしかなく、目をつむるしかない、にたどり着くわけである。

17日火曜日の朝。
やはりボウイの中でも想い入れの強い「ヒーローズ」「ロウ」の2枚に向かう。イーノとの共同作業から生まれた作品。
「ヒーローズ」A面冒頭のボウイのうなり声、硬質なサウンド、ナイフのようなエッジの効いた空間。
シュッシュ族が占める群衆光景を見やる側から聴こえるボウイの音は、リアリティと怒りを持って風景に切り裂きを入れる。覚醒する意識。

Something In The Day
Something In The Night(Beauty And The Beast)

降る雪の中「ロウ」のB面を聴く。「ワルシャワ」からの流れ。
せめて私の中でだけでも、可能な限り邪教汚染を回避しながら生きていこう。そう思う。
雪の中を歩くと、雪で曇って行く視界と「ロウ」の組み合わせが、欧州に居たときの記憶と幻覚を引き起こす。それが現実を浸食し凌駕する。

■David Bowie & Brian Eno  「Warzawa」 From ”By The Wall” , Berlin 1977 ■

1981年秋から年を越えてゆく1982年春にかけて「ヒーローズ」「ロウ」を聴いていた。兄が貸してくれたLPレコードからカセットテープに落として。寒かった冬の記憶。





”ワルシャワの幻想”では、ポーランドの田舎を音楽風景で撮ってみようという、実に積極的アイデアがあった。だけどそれをブライアンにはいわなかった。あの曲の作り方は、ほんとにきわめてシンプルだった。

ぼくはいった。「ねえブライアン、ゆったりした曲を作りたいんだ。
だけど、それでいて、大きな感動を呼ぶ、ほとんど宗教的といってもいいような感じを加えたい。
今のところ君にいっておきたいのはこれくらいだけど、始めるにあたって何かアドヴァイスあるかい?」

するとブライアンはいった。「指を鳴らしたのを録っとこうぜ」
そしてま新しいテープに、そうだな、430ばかりもパチンパチンと指鳴らしを録音した。それからそれを、点にして紙におこして、全部にナンバーを打った。そして、ぼくはぼくで、ブライアンはブライアンで、まったくの気紛れで点の断片を選び取った。

そのあとブライアンはスタジオにもどってコードを弾いた。
番号のところにくるとコードを変えるんだ。そんなふうにして自分の分を作っていった。ぼくも自分の領域で同じことをした。それからパチンという音をはずしてできた音楽を聴いてみて、小節の長さに合わせて頭の部分を作った。
(中略)
そういうと、ずいぶん数学的で冷たいように聞こえるだろうが、そんなことで、究極の音楽的インパクトはブチ壊されはしない。
インパクトとは、何らかの情緒的力の配列と提示で決まるんだ。そいつが胸を打つんだ。
(デヴィッド・ボウイ 1977年6月)


このインタビュー文章に出会ったのは、本屋さんで見つけた新刊、1986年12月30日発刊「異星人デビッド・ボウイの肖像」(シンコーミュージック)。この時期は、自死そこねた後の苦しいリハビリに入ったばかりのこと。
自分は、何か救いになる言葉を求めて、発見した寺山修司さんら数冊の本に書かれた字づらを追っていた。
長い文章は余計に脳内の混乱を招くので、数行で自分に響く言葉を探していた。

この本も、当時繰り返しめくっては、気になったページに紙をはさんだり鉛筆でアンダーラインを引いた。
自分にとってデヴィッド・ボウイの存在は、単に音のみのことでは無く、彼が発する言葉や考え方、世界へのアプローチ方法、それに、エイリアンとして産まれてしまった男がいかにして苦難を越えてSurviveしていくか、という道先案内人の一人だった。

それはYMO三人の生き方もそうであり、ほかの敬意を抱くアーチスト全般にも言えることである。

ときどき、ひょっとしたら自分は、ひどく冷たくて感情のない人間なのではないかと感じる。そうかと思うとまた、精神的にこうまで”もろく”なければいいのに、と思う時もある。
時として、外側から眺めるような傾向が強くある。それが弱点なのか、はたまた強みなのかはわからない。

アウトサイダー的視点が役立ってほしいと心から願っている。
それがぼくの気持ちだ。完璧に内側に入り込んでいる人間よりも、とまではいかなくてもね。
(デヴィッド・ボウイ 1973年6月)
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2015年2月19日 木曜日 「1982年1~2月の断片」3

2015-02-19 22:53:33 | 音楽帳

夜=ブラックホールを漂う
NHKFM「ふたりの部屋」(23:05~:15)『夢の10分間』
BGM:
*テーマ曲 ジャン・ミッシェル・ジャール 「磁界パート2」
*エンディングテーマ曲 ジャン・ミッシェル・ジャール 「ザ・ラスト・ルンバ」

1月13日(水)
1・スプリット・エンズ「インドのアルバートへ」
2・ゲイリー・ニューマン 「ジムノペディ」(エリック・サティ)

1月14日(木)
1・リーグ・オブ・ジェントルマン(ロバート・フリップ) 「インダラクティヴ・レゾナンス」
2・ペンギン・カフェ・オーケストラ 「カッティング・ブランチーズ・フォー・ア・テンポラリーシェルター」
3・ペンギン・カフェ・オーケストラ 「ピタゴラスのズボン」

1月15日(金)
1・YMO「灯」(テクノデリック)
2・坂本龍一 「ジ・エンド・オブ・ヨーロッパ」(B-2UNIT)
3・ヴィサージ 「ザ・ステップ」



■Gary Numan 「Trois Gymnopedies (First Movement)」1980■
ゲイリー・ニューマンの「ジムノペディ」は、FM東京(*)23:45~55の10分番組のエンディングテーマ曲だった。このブキミさこそが、当時のゲイリー・ニューマンらしいカバー曲。
番組名は忘れたが、当時やっていた「マンハッタン・オプ」が始まる前の番組だったように思う。

(*)・・・当時NHKとFM東京、2つしかFM局は無かった。





1982年1月のアッコちゃん
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2015年2月17日 火曜日 「1982年1~2月の断片」2

2015-02-17 23:02:12 | 音楽帳

2月16日 月曜日
朝、青空。前夜の嵐は過ぎ去っていた。
やたらとすじ雲が出ている。ブルー一色の空にアクセントをつけるストライプ。

2月17日 火曜日
今朝、駅に向かおうと外に出るとはらはらと粉雪が舞い出した。
都内中心部に出ると、粉雪は大きな雪へと変化していた。
そんな雪もすぐにやんだが、雨に変わりぼそぼそと今も降っている。

□ラジカセとコンポ□
当時持っていた音楽再生機は2つ。
1つはモノクロ再生・録音のカジカセ。三ノ輪の家のななめ向かいの電気屋さん。
その店頭ガラス張りから見えた一品。欲しくて欲しくて、お小遣いを貯めて買った初代ラジカセ。

もう1つは、通信販売で買った3万円位したレコードプレイヤーにラジカセがくっ付いた設置型タイプのもの。2つの小さいスピーカーが付いていた。(とてもコンポとは呼べない原始的なものだが、ここではコンポと呼ぶ。)
1979年頃以降多くのラジオ番組は、この後者で録音した。前者は、寝床でラジオやカセットテープを聴いて寝るとき用だった。
□アンテナ□
後者のコンポは、三ノ輪に居た頃は屋外アンテナが無かったので、機器の後ろにコードを接続して、T字型にかべにコードを画びょうで止める簡易アンテナを張る。その日その日の電波状況でFM放送の「シャーッ」「ピューッ」というノイズや音のクリアさが変わるのを、アンテナや設置の配置など数ミリの世界で調整していた。

引っ越し先では、屋根にアンテナを付けてもらった。
そのアンテナから来るコードの先端を、コンポの後ろから繋いだのだが、あんまり電波を拾ったとも思えなかった。
勉強机の後ろ側の窓付近にコンポを設置したものの、電波との格闘を日々していた。

納得できない状態での録音は消してしまっていたが、あれはあれでとっておきたかったもの。しかしカセットテープをふんだんに買えるほどのお金は無かったので、失敗として上から別の録音をしてしまっていた。
□留守録□
高校に上がるまでは、タイマー機器を持っていなかった。留守録をする、深夜放送を録音して後で聴く、という芸当は当時不可能だった。
ふたりの部屋「夢の10分間」は、クロスオーバーイレブン録音の準備をしながら聴いたが、下のような夜中3時の番組は当時聴くことが出来なかった。

「マイ・サウンド・グラフィティ」新譜特集
(FM東京・深夜3:00~:45 DJ:ウィリアム・ジャクソン)
1月11日(月)ジャパン 「錻力の太鼓」(1982年12月5日日本発売)
1月12日(火)アダム&ジ・アンツ 「プリンス・チャーミング」(1982年12月日本発売)
1月13日(水)プリテンダーズ 「プリテンダーズⅡ」(1981年10月25日日本発売)
1月14日(木)エルヴィス・コステロ 「オールモスト・ブルー」」(1981年11月28日日本発売)
1月15日(金)ストレイ・キャッツ 「GONNA BALL」(1981年11月日本発売)

この番組が凄かったのは、ほぼアルバム一枚丸ごと掛けてくれた点。(と言っても当時は聴けない時間だったが)この番組をエアチェックしていた人は多かったと思う。
後にタイマーを買い・聴くようになって分かるのは、深夜は深夜ゆえに余計なノイズが無くてクリアな音であった点。

新譜特集と言っても、すでに1981年11月頃から発表されたものばかりだが、それくらい幅がある方がよい。なにせ、実際、海を渡ってやってくるものだったのだから。

プリテンダーズは、1982年2月に来日することとなる。
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2015年2月15日 日曜日 「1982年1~2月の断片」1

2015-02-15 23:31:04 | 音楽帳

昨日土曜日28,400歩。
何が正しいかも分からないのに、健康病に憑りつかれて、道端の草木や街並すら見ないで歩くウォーカーを悪しき者と捉えながらも、古い型式の携帯電話に付いた万歩計の歩数はメモしている。日別変動を見ていると、そこから見えてくるものがあってのこと。

最近歩き過ぎ。今日もカメラ片手に外に出たが、歩く途中でギックリ腰の時と同じ嫌な痛みが出始めたので、中断した。

今日は春めいてきたせいで、風景の鮮度が落ちたぼんやり感が漂っており、少々舐めていた。
歩く途中、尋常ではない突風が時折吹いた。それも北風である。帽子を深々とかぶり直す。
だが、穴だらけになっている今の東京・工事現場から土埃は舞うは、ガラガラと音を立てて自転車は崩れ、道にはゴミが散乱。
深夜になっても嵐は外を吹き荒れている。

辺見さんのブログは一日一日同じ記事に対して更新追加していく。同様のことをかつてしていた時期があったのを想い出した。
私的なことばかり書いていてはいけないと思い、1982年1月の断片を書き起こしてみる。

1982年1月11日(月)~
NHKFM「ふたりの部屋」(23:05~:15)『夢の10分間』開始

BGM:
*テーマ曲 ジャン・ミッシェル・ジャール 「磁界パート2」
*エンディングテーマ曲 ジャン・ミッシェル・ジャール 「ザ・ラスト・ルンバ」

1月11日(月)
1・スクエア 「かわいいテクノ」
2・シリコン・ティーンズ 「レッド・リヴァー・ロック」
3・ジョン・アンダーソン&ヴァンゲリス 「ステイト・オブ・インディペンデンス」
4・YMO(細野さん) 「マス」

1月12日(火)
1・YMO(幸宏さん) 「カモフラージュ」
2・チューブウェイアーミー(ゲイリー・ニューマン) 「マシーン・ロック」

1981年はニューロマンティクスの年で、この余波がこの時点で続いている。
2月には、前年のサントリーCM曲「ニュー・ヨーロピアンズ」で火が付いたウルトラヴォックスが来日することとなる。



■Jean Michel Jarre 「The Last Rumba」1981■

スティーヴ・ストレンジ

アダム・アント

ジョン・フォックス
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2015年2月14日 土曜日 二月真ん中

2015-02-14 11:53:50 | 坂本龍一のサウンドストリート

■昨夜から今朝■
13日の金曜日夜、極寒。と言ったら笑われるだろう。
夜に仕事場を出ると、身を切るような空気。耳が痛い。
しかし、しょせん”とうきょう”なぞのさぶさは、寒い地域の土の上に住まう人の比ではない。
ただ、その空気をずっと生きてきた。

ところが、島に戻ると寒さはさほどでもない不思議。煮物を温ため、お湯割りを呑む。
頭ばかりが勝手に暴走し飽和の末、くたびれて眠る。
いつだってそうだが、今日は珍しく9時間近く眠る。太りたい、そう無理をして食べると少しは体力になるようだ。

起きると、今朝も良い天気。
社会は”出口無し”の2015年世界とは思えないおだやかで静かな青空。

その世界を離れるべくワープをする。
別の意味でどん底だった1981年から1982年の年明け後。
希望は無く必死な日々だったが、救いがあった。当時は受験さなか。過ぎ去ったから比較が出来る。

■冬・1~2月■
2月は、当時も今も、春へのキャンペーンが始まる時期。
ビール会社は、クソみたいに「右にならへ!」とこの後の日々は「春ビール」広告になっていく。
まあ、テレビを見ない自分には、今ではそのしつこさは余り影響はない。

壇れいさんはかわいいと思うが、CM自体がステレオタイプでつまらない。
季節が変わろうとすることに応じて広告を打ち出し続けることには、もう何の感覚も覚えない。商売という車輪しか視えない。

そうは言っておきながら、街を歩いていて、そんな広告を見るとついシャッターを切ってしまう。
それでも病魔に憑りつかれておらず「まし」だな、と思うのは、よどんだ隣組社会の群衆のなかならぬ、解放された放浪のさなか、街でそんなポスターに出会うことくらいだろうか。

1982年1月から2月にかけた寒い時節。
スケジュールされた受験日から受験日の波間。つらい孤立無援の鬱の闇。
そんなさなかでも、一条の光はあった。
当時をひも解くために、録音したカセットテープ、それにホームページ「アルコ堂」をめくり教授のサウンドストリートのページを見ると、当時自室で録音テープを聴いていた像に近づいていく。

1月12日放送の中で、教授がCM用に作った曲を掛けてくれた。
春の化粧品「パーキージーン」。

■資生堂パーキージーンCM■
CM短秒の間に聴こえるヴォイスは鈴木慶一さん。そのバックの女性の掛け合い声はスーザン。
日本語の語りは、言うまでもない小林克也さん。

当時のコマーシャルには、15秒なり30秒の間の夢があった。
コマーシャルに出てくるお姉さんにときめいたり、映像と音楽は魅惑的だった。
ビデオももっておらず、さまざまな制約下にあって、目に焼き付け作業をしていた。








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2015年2月12日 木曜日 ~2015年冬の旅~駒込・中里あたり 

2015-02-12 21:07:42 | 写真日和

2月11日 水曜日 休暇日。
前夜3時を回って眠りに堕ちた。まだ眠っていてもよいのだが、そうは眠れないカラダは、なにごともなく7時に目覚めてしまう。月・火の長期パソコン作業が影響してひどく眼が痛む。

沁みる目薬をぴっぴっと左右の眼に入れてじんわり。
ふだんどおりにラジオ「グッモニ」を付けて、お湯を沸かす。緑茶を煎れ、脳がたゆたうあぐら姿でラジオを聞いてお茶を頂く。時間と共に室内のかべを日光がすべっていく。

正直だるかったので、うつむいて長いラジオお茶時間を過ごした。
9時から「くにまるジャパン」が始まる。途中から大沢悠里さんの番組に替える。一方では、藤堂女史のグラマラスな魅力的ボディを環境ビデオみたいに映しだす無音のパソコン。

ロールパンをヒトかけらだけ食べる。何かをするにもとろとろしてしまい、時間経過の方が早い。

重いカラダをおして入浴。熱い湯に浸かり、その勢いをもって外に出ると、午後になってしまう。外に出ると冬らしい晴れ。さして寒くもない。ただ光のちからが弱いように思う。
しばらく歩いてわかったのは、高めの温度の空気から春が濃厚に漂っている。この光の弱さはそのせいなのだ。

島を回遊したあと、隅田川を渡り、かつて渡し船があった橋場、そして山谷である清川・日本堤あたりを歩く。どうもこのコースが最近は好きだ。途中でバスにひょいと乗り、日暮里方面へ。
絹の街付近から西日暮里、田端、駒込と歩く。シャッターを切りながら。

陽が赤くなるのが早い気がする。それに飛行機雲がやたらと空にあり、いくつもの白い線を残している。
田端から駒込・中里方面へ歩く道で、空にシャッターを切る。
小学校があり、その校内をながめていると、ゆっくり歩く白髪で品のあるおかあさんに話しかけられる。おかあさん、と呼んだが、若い人からすれば「おばあちゃん」となる。

「あたしゃ、この学校を出たんだよ。でも、もう無いんだよ。子供が少なくなったからね。
ここ通っている頃は、一学年6学級あったんだ。」そうですか、と話しが始まる。
ゆっくりの散歩に「私で良ければ、お付き合いしましょう。」
校内には、私らよりも長く生きているだろう大きな樹がある。おかあさんは、ここに通っている当時から、この大樹があったことを覚えている。

おかあさんは、昭和6年生まれ。「うちのお袋と1つ差ですね。」
「じゃあ、あんたは私の息子だ。」と言われ、笑って私の腕に手を乗せられる。
3・40分くらいおかあさんの家まで一緒に歩き、いろんなこの場所にまつわるお話しを聞いた。

「懐かしいねえ、でも変わってしまったよ。このへんはお店がたくさんあってにぎやかだったんだけど、全部なくなっちゃったよ。」
おかあさんがやたらと「道が広い」というので、おかしいなと聞いてみると、この田端駒込ライン一帯は東京大空襲のとき、全てB-29によって焼け野原にされたのだと言う。
言われてそうだと思ったのが、やけに道がゆったりと広いこと。にぎわっていた通りも一回更地になって、その後今のような道なりに変わっていった。

空襲がおそったとき、住む人たちはみんな知恵を絞って考えた。
そこで、聖学院へ「入れてくれ」と懇願し逃げた。アメリカの学校だからそこにバクダンを落とすことは無いだろうと思って。
確かに逃げ込んだおかあさんたちは生き伸びることが出来た。だが、その聖学院の校舎の上階より見やる家の方面が火の海。
「ここを歩くと、想い出しちゃうよ。」

別れる前に「もうあっち側に呼ばれたい。」といやなことを言う。
「ちゃんと自分の足で歩けていますし、お話しだって立派に出来る。お元気ですからそんな悲しいことを言わないで。」と正直に言うと「わかったよ」と頷いてはくれたが、たぶん本心。浦島太郎のように変わり果てた周囲の世界に、とことん絶望し切っているのだろう。
「それは、私も同じような気持ちだ。」と何度も告げた。それでも、生きなきゃ。
しかし、私がこのへんを知って約35年程度とすると、おかあさんはその倍の変化を見てきている。私の比ではないだろう。

「今日はありがと。」と言われ、握手をし、おかあさんの家の前で別れる。
私はまた小旅を続けた。

■ヴァージニア・アストレイ 「ル・ソング(A day, a night)」1986■
マキシム「ル・カフェ」CMイメージソング

















■ヴァージニア・アストレイ 「冬物語(A Winter's Tale)」1986■








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