2月11日 水曜日 休暇日。
前夜3時を回って眠りに堕ちた。まだ眠っていてもよいのだが、そうは眠れないカラダは、なにごともなく7時に目覚めてしまう。月・火の長期パソコン作業が影響してひどく眼が痛む。
沁みる目薬をぴっぴっと左右の眼に入れてじんわり。
ふだんどおりにラジオ「グッモニ」を付けて、お湯を沸かす。緑茶を煎れ、脳がたゆたうあぐら姿でラジオを聞いてお茶を頂く。時間と共に室内のかべを日光がすべっていく。
正直だるかったので、うつむいて長いラジオお茶時間を過ごした。
9時から「くにまるジャパン」が始まる。途中から大沢悠里さんの番組に替える。一方では、藤堂女史のグラマラスな魅力的ボディを環境ビデオみたいに映しだす無音のパソコン。
ロールパンをヒトかけらだけ食べる。何かをするにもとろとろしてしまい、時間経過の方が早い。
重いカラダをおして入浴。熱い湯に浸かり、その勢いをもって外に出ると、午後になってしまう。外に出ると冬らしい晴れ。さして寒くもない。ただ光のちからが弱いように思う。
しばらく歩いてわかったのは、高めの温度の空気から春が濃厚に漂っている。この光の弱さはそのせいなのだ。

島を回遊したあと、隅田川を渡り、かつて渡し船があった橋場、そして山谷である清川・日本堤あたりを歩く。どうもこのコースが最近は好きだ。途中でバスにひょいと乗り、日暮里方面へ。
絹の街付近から西日暮里、田端、駒込と歩く。シャッターを切りながら。
陽が赤くなるのが早い気がする。それに飛行機雲がやたらと空にあり、いくつもの白い線を残している。
田端から駒込・中里方面へ歩く道で、空にシャッターを切る。
小学校があり、その校内をながめていると、ゆっくり歩く白髪で品のあるおかあさんに話しかけられる。おかあさん、と呼んだが、若い人からすれば「おばあちゃん」となる。
「あたしゃ、この学校を出たんだよ。でも、もう無いんだよ。子供が少なくなったからね。
ここ通っている頃は、一学年6学級あったんだ。」そうですか、と話しが始まる。
ゆっくりの散歩に「私で良ければ、お付き合いしましょう。」
校内には、私らよりも長く生きているだろう大きな樹がある。おかあさんは、ここに通っている当時から、この大樹があったことを覚えている。

おかあさんは、昭和6年生まれ。「うちのお袋と1つ差ですね。」
「じゃあ、あんたは私の息子だ。」と言われ、笑って私の腕に手を乗せられる。
3・40分くらいおかあさんの家まで一緒に歩き、いろんなこの場所にまつわるお話しを聞いた。
「懐かしいねえ、でも変わってしまったよ。このへんはお店がたくさんあってにぎやかだったんだけど、全部なくなっちゃったよ。」
おかあさんがやたらと「道が広い」というので、おかしいなと聞いてみると、この田端駒込ライン一帯は東京大空襲のとき、全てB-29によって焼け野原にされたのだと言う。
言われてそうだと思ったのが、やけに道がゆったりと広いこと。にぎわっていた通りも一回更地になって、その後今のような道なりに変わっていった。

空襲がおそったとき、住む人たちはみんな知恵を絞って考えた。
そこで、聖学院へ「入れてくれ」と懇願し逃げた。アメリカの学校だからそこにバクダンを落とすことは無いだろうと思って。
確かに逃げ込んだおかあさんたちは生き伸びることが出来た。だが、その聖学院の校舎の上階より見やる家の方面が火の海。
「ここを歩くと、想い出しちゃうよ。」
別れる前に「もうあっち側に呼ばれたい。」といやなことを言う。
「ちゃんと自分の足で歩けていますし、お話しだって立派に出来る。お元気ですからそんな悲しいことを言わないで。」と正直に言うと「わかったよ」と頷いてはくれたが、たぶん本心。浦島太郎のように変わり果てた周囲の世界に、とことん絶望し切っているのだろう。
「それは、私も同じような気持ちだ。」と何度も告げた。それでも、生きなきゃ。
しかし、私がこのへんを知って約35年程度とすると、おかあさんはその倍の変化を見てきている。私の比ではないだろう。
「今日はありがと。」と言われ、握手をし、おかあさんの家の前で別れる。
私はまた小旅を続けた。
■ヴァージニア・アストレイ 「ル・ソング(A day, a night)」1986■
マキシム「ル・カフェ」CMイメージソング
■ヴァージニア・アストレイ 「冬物語(A Winter's Tale)」1986■