こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年3月31日 火曜日 「1982年1~2月の断片」5

2015-03-31 22:28:47 | 音楽帳
エレヴェーターを出ると、トーキングヘッズが、フル・ヴォリュウムで、私を打ちのめした。
メイドが何か言ったが、何を言っているのか、まるで聞こえなかった。私も何か言ったが、私自身、何を言っているのかよく聞こえなかった。私がポケットから探偵免許を出して、彼女に翳(かざ)した。

それを持って、彼女が奥へ消えた。
ステレオの音がやっと止まった。


こんな朗読が深夜23時を回り、午前0時を指す間際にラジオから流れていた。
矢作俊彦がシナリオを書いた「マンハッタン・オプ」の一節。
当時、FM東京の15分番組で、ハードボイルド小説のラジオドラマとして月曜日から金曜日まで放送されていた。

こういった小説の中に出るくらい、トーキングヘッズは(康夫ちゃんの「なんとなくクリスタル」ではないが)使われるアイテムだった。康夫ちゃんと並べるのはいかがか?と思うが、場を表現する一つのアイテムであった。
元々、この小説はニューヨークはマンハッタンを舞台としているので、トーキングヘッズが欠かせないアイテムだったが、ただの”ふぁっしょん”じゃなかった。

イラストレーターの吉田カツさんは、ニューヨークをよく描いていたが、彼の話しを聞いてうなづいたのが、スラム街を歩いていると道端で鳴るラジカセからトーキングヘッズが掛かり、黒人が踊り狂っているというシーン。
こういった話しはほかの人の話しにもよく出てきており、当時のトーキングヘッズがどのような「イカす」存在だったかが現実に分かったものである。ニューヨーク文化の一端を彼らはになっていた。

ヘッズヘッズと盛んに言っているが、その作品は当然「リメイン・イン・ライト」のことである。
1980年、歴史的レコードとライヴ。

■トーキングヘッズ 「シティーズ」1980ライヴ■

1981~1982年への流れの中で、YMO3人が分裂をあらわにしていくように、トーキングヘッズも個々の活動に入っていく。
デヴィッド・バーンはトワイラ・サープの舞台音楽に入り込み、ジェリー・ハリスンは「赤と黒」というソロアルバムを出す。そして。。。ゆくゆく結婚するクリス・フランツとティナ・ウェイマスは”トム・トム・クラブ”というユニットを結成する。

トム・トム・クラブは、ウェイマスと姉妹の3人の女性を中心としたかわいらしいユニット。
そのヒットシングル「おしゃべり魔女」を初めて聴いてエアチェックしたのは、1981年12月~1982年1月のこと。ラップとテクノやファンクが合体したこのヒット曲は、(「リメイン・・・」における)トーキングヘッズ的であり、ダンスミュージックとしてもすぐれたもので、未だ多くの人に聴かれている。

トム・トム・クラブは、実質2枚のアルバムを発表した。
すぐれた曲も「んんん~」と琴線には触れない曲もあったが、未だによく聴く曲があり、mp3プレイヤーから時折顔を出す。

キング・クリムソン、ピンク・フロイド等々聴き込み、どっぷり暗黒世界に入り過ぎたときには、サーモスタットとしてこういう音楽を聴く。
あまり苦悩ばかり抱えていると、眉間のシワもよりひどくなる一方なので、緩和剤としている。

■トム・トム・クラブ 「悪魔のラヴソング」1981年12月■












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2015年3月30日 月曜日 「・・・」

2015-03-30 23:59:59 | 音楽帳

社会も人もがちゃがちゃし始めた。
黙って静かに咲いた花たち。それを黙って見させてくれない。
自然が満ち潤いながら、その風景・視野に“見切れる”ように入ってきてしまうノイズ。

今ある状態から動かす必要も無いのに、“革新だ”“刷新だ”“リニューアルだ”と大ウソ八百・適当な言い訳をしながら、ガラガラポンと意味無く繋がったり・引き裂かれたり。。。数パーセントの利権者とそのドレイ者たちの風景。

今日昼なにごともなく、みんなでお弁当を囲んで雑談と笑い話しに興じる。いつもの顔ぶれ。
しかしあと2日・水曜4月1日になれば、まったく異なる場所に行ってしまう人がいる。でもそれを思わず大笑いする。

思えばいつだってそうだった。
幼稚園にはじまり、学校生活の節目節目等々・・・今日まで「ふだん通りに」一緒に遊び・笑いしていた仲間は、唐突な終わりの日を迎えて、その翌日からは永遠に顔を会わせなくなる。
会おうと思えば会えたのだろうし、“また、連絡するよ”などと言いながら、怠惰に任せて“また、いつか”と封印したときから、会わない日が数百・数千単位で続いて今日を迎える。

全てとさよならしてきて、今や大学時代の友人以外、誰がどこで何をしているのかさえ分からない。
森山大道さんのトークショーで買ったサイン入り本「通過者の視線」。そのタイトルを思い出した。
こういうことを繰り返し、記憶と忘却とのはざまで事実はあいまいになり、証人不在となり、そうしてひとつひとつ泡のように消えていく。

これを書いている最中、数曲の音楽が脳内を流れた。
サイモン&ガーファンクル「四月になれば彼女は」、アッコちゃんがカバーした細野さんの「終りの季節」、幸宏さんの「SAYONARA」など。。。どれも愛する曲。
しかし、今言った「明日になると、今日までのことがいきなり寸断される」不思議には、感傷的でお涙チョウダイで欺瞞的な感覚は含まれていない。

草木生き物と相反する世界に嫌悪する人間社会の春風景がある。どうせ、今年もその世界に進歩はない。懲りない連中とかいろいろ。
「新生活」とダマされ・着慣れず・折り目が付いたままの服を着た者&それらを煽る者たちの引き起こす、周囲を巻き込む騒音や公的犯罪。それに拍手応援をするフリをしながら、今までのことを平気で捨て去る者。悪事の密の味を味わう者たち。カネと私利私欲にまみれ、クソにまみれ生きるドレイたち。

そんな者やコトなどには一切関心がない。
私は花粉症ではないが、吐き気をもよおすことが多くなる季節はつらい。へどが出る。

今日の音楽夜話
1980~1981年、PILやトーキングヘッズなどがリズムをキーとした素晴らしい作品を出す中、ロバート・フリップはリーグ・オブ・ジェントルメンなるユニットを作る。その名義でのLPレコード作品を1981年購入するが、当時、大枚はたいた割の中身の悪さにがっかりした。(このLPレコードは中古屋さんにその後売る事にした)
数曲はある程度メロディーやリズムも面白かったが、それ以外は「何とかしてリズムを繰り出せないか?」という「頭でっかちな脳で考えた」リズムへの実験そのもので、決して面白いとは言えない作品だった。フリップの狙いは分かっていた。

この頭だけでリズムと悪戦苦闘する白人的ありさまは、その直後意外な形で変化する。
それがキング・クリムゾンの再結成であり、フリップがリーグ・オブ・ジェントルメンで突き抜けなかったリズムへの挑戦は、トーキングヘッズチームだったエイドリアン・ブリューを引き入れることで展開した「ディシプリン(規律・訓練・鍛錬)」である。
多くの者がいきどおり・文句を言った再結成作品「ディシプリン」。
「これはキング・クリムゾンじゃない。」「フリップはエイドリアン・ブリューを利用し、自らの行き詰まりを打破した。そんなところだろうか。」と言った具合にして、“レッド”までのファンや評論家がみなそう言う。
そんななか、初めてリアルタイムでクリムゾン新譜に立ち会えた自分は困惑するが、(難解な部分もあれど)その新生キング・クリムゾンの音を楽しみ・聴いていた。

■キング・クリムゾン 「ディシプリン」1981■

この頃、白人音楽と黒人音楽との関わり合い、音楽の在り方が論争となっていた。
そんな中、フリップはリズムを獲得すべく、白人が決して越えることが出来ない黒人音楽を越える一つの方法として「ディシプリン(規律・訓練・鍛錬)」という方法論を展開した。
当たり前と思われるかもしれないが、ひたすら訓練を続けることで道は開かれる。渋谷さんは当時そう言っていた。
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2015年3月28日 土曜日 ~ 29日 日曜日

2015-03-29 22:10:02 | 音楽帳
3月28日 土曜日

■「カラムーチョ」CM(池田清彦さん「まともじゃない」篇)■
今の私はテレビを見ないので知らなかったが、偶然古本屋で出会い・今読んでいる池田清彦さんは、よくテレビに出ておられるらしい。

ピンクフロイド「炎」「エンドレス・リヴァー」(新譜)、クリムゾン「レッド」なぞをmp3プレイヤーに追加詰め込んで歩いた。

歩いてシャッターを切りながら、不意に意識せずに始まった「エンドレス・リヴァー」。西日の射すなか。途中で目をすがめて表示を見ると”ピンクフロイド”。昨年一回目の作品印象・思い込みとの違いに気付く。どうもこの作品はフロイドの新譜ではない。
まるでマーク・ノップラーのソロ作品みたいで、デイヴ・ギルモアの流麗で浮遊するギターとエコーの洪水。という言い方をすると悪いように思われるが、そうではなく心地良い音である。

予想通り晴天・温度上がり、桜開花を伴い、ラジオでやたら街に出ている者の多さ(花なんか見ちゃいない)花見をするヤカラの多さを告げていた。上野等々その手合いの者ががちゃがちゃするノイジー場所を回避した道を選んで歩いて行く。

3月29日 日曜日
深夜まで、録音やダウンロードしたラジオ聴いていた。そのせいで調子悪い。眠ったとは思えぬ中、光が目に入る8時目覚める。眼痛。
ラジオまでもが無益な番組改編。10時、いつもの安住さんじゃなく大沢悠里さんの声。

晴れていたのは朝だけで、次第に曇りになり、午後外に出る頃にはポツポツ雨が来る。
遠出を思っていたが、降り出した雨、それに、昨日歩き過ぎて傷んだ腰の痛みから、島周辺を回遊する。

身体が弱っているせいか、朝から聴き出したモーツァルトが素晴らしく響く。そのせいで外に出る時間が遅れた。外に行っても、mp3に入れたモーツァルトを聴いていた。
クラシックに積極的じゃなかった自分に、今日初めて知ったアンネ・ゾフィー・ムターの演奏が素晴らしく良い。ずーっと聴いたまま歩いた。

ヴァイオリンという楽器は元々好きだったが、それはクラシックということではない。
”クラシック用の楽器”と思い込んでいたところ、それを取り込んだニューウェイヴの曲に発見したものだった。大きな契機は、何よりもウルトラヴォックスだろう。

クラシックと言えば、教授経由で出会ったバルトーク等々、イーノ経由でのサティ、ピーター・バラカンさんが掛けたショパンなど気になるものを中心に聴いてきた。クラシックのテープやCDもありながら熱心でなかった。そんな自分にとって、今日の音の聴こえ方は貴重なものである。

■アンネ・ゾフィー・ムター 「ヴァイオリン協奏曲第3番」(モーツァルト)■














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2015年3月27日 金曜日 「しゃかいにんげんの春/新ねんどまでのこり4にち」

2015-03-27 22:34:29 | 音楽帳

私が仕事上担当でかかわっている会社の社長さん。6つ上(兄と同じ年)の社長さんは、実に若くて、ほがらかで人当たりの良い方である。
思えば2年前、親の病気で苦悩する中相談に乗ってもらい、心の整理がついたのもこの社長さんの言葉だった。なぜ彼の話しがリアリティを持つのかは、彼自身が親の病気と面した経験を持っているからである。

昔は自分が大阪/彼が東京で、電話で業務相談をしてはお世話になり・・・今はお互い異なる会社・立場で5~6年一緒に付き添って頂いている。
彼は単身赴任で一人暮らしをしているので、ときどき、お酒をごちそうになる。
“今夜は、ごはんでも食べて帰りましょう”といつものごとくほんわかした言い回しに誘われて。
そうしてお店に入ると“ちょっとごはん”はどこかに行ってしまい、どっぷり話し込みどっぷり酒を呑む。そして二日酔いになる。きたない酒呑みではない。上品な呑み方。

その彼とお酒を呑んでいるときのこと。
私「いつ死ぬか分からない、ということが今何かをするときの基軸になってしまってます。元は一人で居る事や孤独を愛する性格ですが、それにしてもここのところは深い孤独感に包まれることがあります。
身近に素敵な人が現れるとすぐ恋をしてしまうので、四六時中恋ばかりですが、独りの家で死にそうになったとき、だあれも居ないなぁ、と思ったら、やっぱり伴侶が。。。と今思ってます。」

彼「大丈夫。心配しなくても。結婚をしている/していないなんてのは形式だけですよ。ときどき家に帰ろうかと思って妻に連絡を入れると“なんで帰るの?帰って来なくていいわよ”と言われる。帰っても、なんだか落ち着かないし。カタチ上は妻・息子・娘、なんだけど、だからと言ってね。。。やっぱりみんなひとりなんですよ。
だから、あなたも心配することないですよ。どこで倒れようが、既婚者や家族持ちだから救われるわけじゃないんでね。」

そう言っては、マメな彼は、毎晩食材を買って料理を作る楽しみを語ったりする。
その片方で、園芸の仕事を立ち上げようとなどと話す。テスト的にある場所で始めた園芸研究を毎度見ているうち、自分も影響を受けて野菜を作ったりし始めた。思えばそれはお互い毎日連絡を取り合い、死ぬ思いで仕事をした3・11という起点の後。それが大きくお互いに与えたもの。

今夜の写経と音楽
「・・・キング・クリムゾンのメッセージは、ハードロックに限界を感じ、それだからどうしたんだ、と疑問を感じていたファンに新しい角度からロック衝動を分析して見せ、新鮮な衝撃を与えた。
プログレッシヴ・ロックとは言葉を換えて言うなら批評的ロックである。全てに対し批評的であろうとしたロックである。だからハードロックに対しても批評的であった。

プログレッシヴ・ロック、あるいはキング・クリムゾンはハードロックに対し、破壊の後には何もないとはっきり言っている。破壊の根拠さえも否定しているのだ。またロックそのものに対しても「偉大なる詐欺師」といった表現で批判している。まさに手あたりしだいの批判である。そして、そうした批判の根拠となったのが「混乱こそ我が墓碑銘」という認識だ。何もわかっていないのに、軽々とわかった振りをして、いいかげんな事をやるなというわけだ。

”21世紀の精神異常者”のメッセージも、自らが正気であるところの根拠を失った者の、価値観の崩壊をテーマにしている。そして、その狂気の側の論理をキング・クリムゾンは歌い続けたのである。
逆説的な言いかただが、狂気の側から正気の側に向けての「狂っているのはお前達の方だ」という批評といえる。

クリムゾンはひとつひとつ既存の価値や論理を検証していき、その欺瞞性を暴いていった。全てをコンフュージョンの中へと落下させていったのだ。」(1980年・渋谷陽一 「ロックミュージック進化論」より)


■キング・クリムゾン 「レッド」(ライヴ)■








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2015年3月25日 水曜日 「1982年1~2月の断片」4

2015-03-25 23:22:10 | 坂本龍一のサウンドストリート

朝、ペンキでまんべんなく塗りたくられた青。空の色。寒の戻りで外したマフラーを戻す。
夜の帰路、北風強く、工事現場の足場と防塵幕が揺れていて「これが崩れたら」と恐れる。

ホワイトファンクという言葉を意識したのは、ミュージックマガジンの中。今野雄二先生。
ア・サーテン・レイシオがまず、そう語られていた。(実際は白人・黒人混合)彼らの曲では1982年2月16日「ウォーターライン」。
中古レコード屋めぐりをする中、彼らのLP・12インチ・ミニアルバムを沢山見ながら、手持ち金は少ないので買えず。じゃあFMで・・というと掛かる番組も無かった。

ミュージックマガジン1982年2月号、1981年ベストアルバムに今野先生が「To Each・・・」を選んだり、1月号”ファンク”特集を読み、気にしながら。現実的にア・サーテン・レイシオを聴き出すのは、教授が掛けてくれた「ウォーターライン」に出会って以降。

ホワイトファンクでは1982年春以降、登場したABCまでがそう語られたが、それは違うのでは無いかと思っていた。
むしろ1981年ファーストアルバムの後、シングル「チャントNo.1」を創ったスパンダー・バレエを聴いた夏の夜。サウンドストリートで掛かった1981年8月18日夏の夜。
どこにカテゴリーすれば良いか不明のクロスオーバーな感じが素晴らしい名曲。
「とぅる~」以降”泣きメロ”演歌に成り果てる彼らとはまだ無縁の冒険が大成功したシングル。

ア・サーテン・レイシオが女性ヴォーカルを入れてブラジル的音を鳴らすのを聴いた「FMトランスミッション/バリケード」放送時点では、”このバンドは終わっている”と即直感的に思った。

これは(今となっては)危険だが、音の向こう側で、何かとんでもない意志や思想がうごめいている。そんな不気味で得体の知れないものを、ア・サーテン・レイシオの音楽に感じ、興味津々だった。それが彼らの魅力だった。

CD時代になって購入した「Early」2枚組。
今から知る人なら、このCDか「To Each・・・」を聴いたほうがよいだろう。



■ア・サーテン・レイシオ 「フライト」■
















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2015年3月24日 火曜日 「地下室と外界をつないで」

2015-03-24 23:28:22 | 音楽帳

帰るとパソコンをつける・お湯割りを呑む・・そのクセがついているのをやめる。
という理由は、今夜胃痛と鬱が来ているので。

よくテレビ世代と言われて自分らには”チャンネル権”はなかった。家族が集まる居間の1台しかテレビはなく、ある程度自由を与えられた「わたしの部屋」は地下室みたいで静かだった。
そこにあるのは紙媒体(雑誌)とラジオのみ。それも今みたいに目まぐるしく変わりゆくものでもなく(いや、目まぐるしい80年代だった)。ただ世界との直結度合が低いせいで、深い夜の時間を味わい、深く入り込むことはしばしばあった。

単に疲れたので、今夜部屋で静かに丸まっていて、ペンを走らせているだけなのだが、いつものせわしない雑多な夜ではない。(中断・再開)特に変なものを食べた訳は無いのに、ハラが張り、痛みに耐えかねトイレに行くとハラを下した。
緑茶を入れ直し、寒の戻りにハロゲンヒーター、ミニラジオから「オレーラ」が流れている。ラジコではないAM音質の優しさで聴こえるか聴こえないかレベルで。BGとして。

部屋じゅうのゴミを捨てる「勇気」を持てないでいる。だが、その多くは「いつか」「コラージュに」「使うため」。多分その日は来ないから捨てる方向で・・と思う。別室のカビが生えだしたポスター丸巻きも処分しよう。荒魂等神保町に寄付する分と捨てる分。それを始めるが、目まぐるしくなってやめる。ちぢこまっている安定に戻る。一部座った周囲のチラシ類のみ、それを始めカメラで撮った上で捨てるのと、そのまま捨てるもの。選び抜くべき。

池田清彦さんの本を読みつつ(朝・夜)渋谷陽一さんの「ロックミュージック進化論」をめくった往復車中。渋松対談を収めた「40過ぎてからのロック」をロッキンオン誌で見ながら買うのをちゅうちょして買わずに来た。しかし、自分には遠いと思っていた当時を過ぎ、今、その本を昼に想い出し、アマゾンで見て不覚の視野に飛び込む。とうに自分は40代、と雪降る下に遠い目をした渋谷さんのイラストを見てうなる。

キング・クリムソンはファースト・アルバムで「混乱こそ我が墓碑銘」と歌っている。これが彼らのスタート点であった。つまり僕らは何もわかっていないという事をわかっている、それが唯一の正しい認識だ、というわけである。
A面の1曲のタイトルは”21世紀の精神異常者”だ。僕らはこの世界において一人の狂人でしかない、そう彼らは言っている。

キング・クリムソンのテーマは、こうした全てのアイデンティティーを失った個人が、何んの根拠も持てずにフラフラしているというものが多い。最も偉大なる知性は、全ての合理性を否定し、混乱へと向かうのである。

混乱こそ我が墓碑銘
明日を恐れる僕は
泣くより術(すべ)がない(エピタフ)

キング・クリムソンは一貫してこのテーマを追求し続け、結局

星もない暗闇
我々に見えるのは黒いバイブルのみ(スターレス)

という言葉を残し解散してしまう。キング・クリムソンがロック・シーンに残した功績は、全て曖昧で楽観的な認識を、ひとつひとつ黒くぬりつぶした事といえるだろう。(1980・渋谷陽一)


*ノートに記したペン文字の書き起こし終わり。
渋谷さんの独壇場。
あまりに強引なまでの断定に反感を抱いたり魅かれたりしていた当時。

これを書いたからといって、キング・クリムソンの音楽にはそれだけではない解釈・側面がある。
暗黒にだけ落ちていくわけにはいかない。今夜聴いていたファーストアルバム「宮殿」の中でも特に好きな一曲。多くのミュージシャンがカバーしているこの曲を。

■キング・クリムソン 「風に語りて」1969■






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2015年3月23日 月曜日 「きのうのこと、きょうのこと」

2015-03-23 23:44:43 | 音楽帳

22日 日曜日
写真を撮る、パソコンを操作する。いずれも”頼り”としているが、それあって成立する記憶というのはどうも頼りない。そう言いながら、こうして写真やパソコンに頼っている事実。要は”かたちんば”である。

本屋で偶然出会った小林弘幸さんの著「”あきらめる”健康法」。立ち読みして、ここに何かがあると魅かれてYOUTUBEでラジオ放送を聴く。
すると、声や話し内容から既に知っていたことに気付く。日曜日TBSラジオのお昼に(大阪時代お世話になった)道上洋三さんの放送を流しているが、そこにゲスト出演したのが小林さん。数週間前のこと。

「私は健康オタクではない」と言いながら、それでも気にしている。その一方で読み始めた(これまた偶然出会った)池田清彦さんの著「やがて消えゆく我が身なら」の2つ目のエッセイに『ガン検診は受けない』という章。
2010年・薬で肝臓を壊した自分が知った事実、2013年・親の看護で垣間見た医療の現実。そこから日本を包みこむ大きな巨大利権(製薬会社・健康食品・医療”業界”・介護ビジネス等)ダマシのえげつなさを知るが、池田清彦さんは達者な文章であからさまに・明快に核心をずばっと書いている。

小林弘幸さんがラジオで、自律神経を整えるために”一日をたった三行で日記とする”重要性を説いていて、すぐ試そうとする腰軽い自分はやってみたが、ふだん長々と書いてしまうので確かに容易にまとまらない。「なるほど」と思うと同時に、情報や機器”頼り”世界から逸脱しようとしながら、それでもペンを持って三行で”くくろう”とすると、内観不足。

日記やメモはペンで書いているものの、それは随時であって、一日の終わりに「振り返って集約してみろ」と自らに問うてみると難しい。

それで、結果煮詰めたうえで22日をくくるなら。。。
バスも活用して街を歩いた中で、やたらと人が湧いて出た日であり、人ゴミ嫌いな自分には穏やかではなかった。
しかし、近所のいつものお寺に行った際、初めて会ったお寺のワンちゃんの寝顔が、何とも言い得ぬ穏やかさだったこと。お蔭でお寺の奥さんと知り合いに。公園では、おなじみのネコみんなの食後の昼寝姿。さわやかな風。「生き物たちには幸福でうららかな春の日」だったのだ。





歩くさなか聴いていた坂本龍一先生の「VRIOON」。エレクトロニカが産まれた2000年前後以降の教授作品はやはり素晴らしい。80年代YMO周辺の音に親身じゃなかった記憶の渋谷陽一さん。その渋谷さんが教授と対談していたラジオ番組で、(当時の)新譜「サンドル」を絶賛していた。
風の音が鳴る収録曲を聴いていた日を、歩きながら想い出していた。2人が会話する空間と「サンドル」の音が心地良かった手触りがよみがえる。



■クリスチャン・フェネス&坂本龍一 「HARU」2007■

23日 月曜日
朝快晴。朝風呂のせいもあり、コートを着ての外出を暑く感じたが、夜北風と冷え込みに逢う。ヘルニアから来る指のしびれ出た。
朝と夜、同じ道でソメイヨシノの花が開いた姿を見上げた。帰って放出するCDを選びごそごそしているとピシッと一瞬揺らぎ。そばのラジオから埼玉で地震の放送、その後これを書いていたら岩手で地震の放送あり。土日歩いた足の痛み、眼・首の痛みがつらいので風呂沸かす。
明日は紙に書いたメモから自動変換を借りずに、書き起こしたい。

PS:全然、三行にならず。修行足らず。
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2015年3月21日 土曜日 「春分の日」

2015-03-21 23:59:15 | 写真日和

師走に「一年は早いですねえ」という常套句を”あいそ”で必ず使う者ほど信用ならない人はいないが、それは別として、個人の体内感覚として、今年の月日の速さは異常である。
もう3月が終わろうとしている。

つぼみはふくらんでいたのだが、やっと近所のもくれんもきれいな花を開いた。赤紫と白。
梅は場所によっては、こないだの雨で散っているけど、種類によってはこれからが本番という樹も多い。



昨夜帰宅が0時を回った。好きなインパルスのコントを暗闇で見て明け方になって眠りに堕ちた。
いざ目覚めると、一週間の溜まった疲れが押し寄せて立ち上がれない。
朝、TBSラジオで堀尾さん&長峰さんの放送を掛けながら横になってお茶を飲みウトウト。
次に目覚めると、永さん&外山さんのラジオになっている。

悶々と寝たり起きたり苦しんでいるうちに昼。
不調感から脱せられず、そのまま久米さんの「ラジオなんですけど」に突入。
ごはんを食べて、お風呂に入り、外にやっと出られたのは15時。
外は春特有のぼんやりした陽気。不明瞭で調子狂う。最近またもや現れ出した離人感覚の一部はこの陽気のせい。

カメラを持って歩き出すが、いまいち精神がドライヴしない。
バスを使いつつ街を歩くが、色も風景もぼんやり濁っている。歩いているうち、腰痛がひどくなり歩けなくなる。





夕方、店員さんの真面目さが好きでよく入る古本屋さん。二冊買う。

読みたいと思いつつ見送ったものをメモする。ドストエフスキー、河合隼雄、田辺聖子、宮台真司、小林弘幸、”ぶたぶたの本屋さん”、アッコちゃん、丸尾末広、寺山修司。

池田清彦さんという方と、本を通じて初めて出会う。構造主義生物学の路を歩く教授。
お店で本を選ぶとき、ぱらぱらとめくったページの文章に、今日買うべきと判断した一節。

ごく一部、本のイントロ。
「小学生の頃、夜中にふと目が醒めて、やがて自分も死んでしまうんだと思ったら、恐ろしくて涙が出てきた経験をおもちの方は案外多いのではないだろうか。案外どころではなく、この国では一度としてそういう経験をしなかった人の方がむしろ稀かもしれない。大人になって日常の様々な雑事にまぎれているうち、人はだんだん純粋な死の恐怖を忘れてくる。いや、そういう言い方は正確ではないな。正確には忘れたフリをするようになると言うべきか。
五十歳を過ぎても、純粋に死ぬのがこわいと言い切れる哲学者の中島義道のような素直な人は別格として、多くの人は、死ぬのがこわいと口にするのは何となくはばかられるような気持ちになってくる。社会というのは純粋な恐怖と純粋な欲望を隠蔽する装置であるから・・・」

自分の中で、この数年よみがえってきた事柄とリンクする。
今、半隠遁できているのも含め、影響を受けた中島義道さんを引き合いに出していることも、この本を手に取った理由の一つ。







歩き出したときはコートも暑いくらいだったのが、夕方からは着てきてよかったという具合の冷え込みになる。

■The pop group 「We are all prostitutes」1980■

おれたちは娼婦だ
あらゆる人に値段がついてる

おれたちはみんな娼婦
みんな値札をぶら下げている

生き延びるために、いつわりを学ぼうとする
侵略 競争 野望 消費者ファシズム

資本主義は、地上で最も野蛮な宗教
デパートはわれわれの時代の大聖堂
自動車の大群もその大義に殉じる殉教者

子供たちはおれたちに反抗し、立ち上がるだろう
なぜなら、おれたちは責められるべき者
なぜなら、罪があるのは、おれたち一人一人だから

かれらはおれたちに新しい名前をさずけるだろう
おれらの名前は、偽善者・偽善者・偽善者


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2015年3月20日 金曜日深夜 音楽備忘録:イーノへの想い

2015-03-21 01:03:11 | 音楽帳

ブライアン・イーノの「アナザー・グリーン・ワールド」を、先週末から聴いている。
久しぶりに聴く作品だが、相変わらずの「天上の音楽」ぶりで、時を越えた素晴らしさを覚えた。
14~15歳に、イーノに出会った時から何も変わっていない。

この作品に出会ったのも、1981年から1982年への流れの中でのこと。
1981年秋に親父からの指令で、兄が弟である自分に勉強を教える、という夜を過ごしていたが、深夜のつくえ・灯りの下を囲んで、お互いの反目するわだかまりが溶け、次第に音楽の話しばかりをする夜となっていった。
そこで当時イーノに興味を抱いていた自分に兄が貸してくれたのが、「アナザー・グリーン・ワールド」「ロウ」「ヒーローズ」といったLPレコードだったり、「リメイン・イン・ライト」「ブッシュ・オブ・ゴースツ」「ビフォア&アフター・サイエンス」のカセットテープだったりした。

「アナザー・グリーン・ワールド」は小品集とでもいおうか、短い曲がたくさん入った作品。それら一曲一曲が、すべてイーノにしか出来ないアイデアを凝縮した実験の産物であり、作品の時代は逆だが、教授の「音楽図鑑」みたいである。

***

よく実験音楽という言葉を使うと、まるでそれは楽器が持つ機能の披露発表会だったり、実験過程そのものを楽しむというものが多いのだが、イーノにとっての「実験」は意味が異なる。

オルタナティヴ・ワールド、異界に入り込むために、さまざまな実験道具を作り・用いて、イメージに描いた音楽に辿り着くための慎重なセッティングをスタジオで行う。その過程を経て、偶発性・予測外の出来事というチカラを引き込みながら、自分以外の要素とまじわった経過が音となっていく。
その1つは、テープレコーダーの研究から作ったテープループやそこにエコーやリヴァーヴといったエフェクターを絡めて自動生成される音楽。これが一番最初にアンビエント作品となった「ディスクリート・ミュージック」へと結実した。
それは、エリック・サティが夢見て創った“ナイフとフォークと混じりあうようなドリーミーな音楽”を想起させるもの。

住む環境や文化がいくら異なろうとも、音に込められたスピリッツは、意思として伝わってくる。音楽というものはそのようなもの。
イーノとの出会いは、同じような想いを抱いて生きている/生きてきた方々との邂逅の場と回路を開いてくれた。

「アナザー・グリーン・ワールド」におけるイーノが神がかり的なのは、顕微鏡を覗くように細かく聴けば多重構造で同じフレーズが演奏されているのだけど、まったく「実験」という感覚からは遠く、有機的な「音楽」に昇華されているので、そういった機械的なものを感じないところ。
「樹」を見て、さらに「森」までも見てますよ、ということがよく分かる。
構成部品のちぐはぐさを残さずに、一つの有機的整合性が保たれた、永久に劣化しない音楽。

A面、B面、それぞれ完璧なまでに曲順構成が考えつくされており、見事な配列となっている。大きな川の流れのようにストーリーがあり、頭脳で作られたものではない自然さがある。

「アナザー・グリーン・ワールド」には数曲、イーノ自らが歌うヴォーカル曲も入っている。イーノのヴォーカルは決して「うまい/ヘタ」というたぐいのものでは無いけども、素朴な味わいがある。
イーノの音楽に時折見られる素朴さは、歌謡曲・流行歌を知らずに育った坂本龍一の「左うでの夢」などに顔を出す素朴さにもよく似ていて味わいあるもの。
イーノが持つ牧歌的な側面、生地(せいち)のフォークロアの匂いがする。

イーノはインテリなのだが、知的なものを度外視したところで音は穏やかに鳴っており、優しさや温かみまである。

■Brian Eno 「Everything Merges With The Night」1975■











ロザリー 一晩中あなたを待っていた
いや、いつからかはっきりとはし得ぬ程

何年もの夜を過ごしたことだろう
過ぎてゆく時を数えながら すべては夜の中に融けてゆく

私は海辺に立ちつくしていた
これまで出会った人々の違いを 思い出そうとして成さずに

あの去年の9月より前に起こったことを 私は何一つ思い出せない

火山の麓のサンティアゴは
海に浮かぶクッションのように漂って

未だにそこでは私は眠ったことが無いものの すべては夜の雷鳴だ


ロザリー
私達はあの夏をずっと語り過ごした

服についた麦藁を互いに取りあっては
ごらん、そよぐ風は 何とやわらいできたことだろう

すべてはあの夜に途切れてしまった
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2015年3月17日 火曜日 「水ぬるむ」

2015-03-17 22:46:33 | 音楽帳

今日も朝に夜にコートを着ていたが、正直「脱いでもいいかな」と思った。
最高気温は20度まで上がり、どう考えても春の到来。もう逆戻りはしないように思う。(そういうと戻るのだが)

相変わらずおでこのシワを気にしていたり、甘いものが欲しくなったりもあって、仕事をしながらイヨカンを食べたり、帰途でトマトとアボガドを買って帰ったり。パスタをゆでて、それと食べようと思って。
そう言いながら、土曜が仕事だったせいで中途半端にたまった衣類を洗濯する。

ずいぶんと行動が身軽。
帰った室内は19℃を指している。気温や季節が変わると、人の行動や暮らしは自然と変わるもの。

水ぬるむ、という言葉があるが、水が手に痛かった時期を過ぎ、つべたいけどその水のつべたさが心地良い温度に変わった。それこそが春の訪れ。
四季を与えてくれたこの地での幸福は、毎年こんな境い目を味わわせてくれること。季節が変わるたびに、出会えたものたちへの記憶と感覚を呼び覚ましてくれる。

■ジョニ・ミッチェル&ウィリー・ネルソン 「Cool Water」1988■
アルバム「レインストームとチョークの痕(あと)」より


大学時代はほとんど自分自身に向かい合う精神治癒とリハビリの旅期間で、音を遠ざけていた。そんなこの時期出会えた数少ないひとつが、ジョニ・ミッチェルのこのアルバムだった。
当時、明かりを消した真っ暗な部屋で椅子に座って、この曲を聴いていると気持ちが沈静化した。

初めてジョニ・ミッチェルを意識したのは、渋谷陽一さんの著書「音楽が終わったあとに」に記された文章。
渋谷さん自身がこの文章の最後に書いているが「まるでラヴレターのようになってしまった」という言葉に出会って、高校時代の自分はグッときてしまっていた。

あるいは、もう一つの記憶。
最高潮まで上り詰めたジャパンを自ら解散させ、自らの孤独を背負う覚悟を決め、その道を歩き出したデヴィッド・シルヴィアン。その彼が1984年秋・初めてのソロアルバムを出した際、教授のサウンドストリートにゲスト主演したときのこと。
選曲した1曲目がジョニ・ミッチェルの「トーク・トゥ・ミー」だった。ジャコ・パストリアスが弾くパオパオするベースが、なんとも印象的な一曲。

それ以来、渋谷さんやシルヴィアン同様、ジョニ・ミッチェルへの魅力は未だ体内で続いている。
微細な音の触感、波紋のように広がる世界。


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