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こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2013年4月30日 火曜日 「2013年4月末日」

2013-04-30 22:42:36 | 雑記帳

「黄金週間」とやらに無縁なじぶんは、今日も365分の1日として働いて帰る。
じぶんの高校時代の友人に、実家が手打ちのおそば屋さんで、今ではそば一筋で生きている人が居るので、ようく分かるが、彼らは月~金仕事の者たちが、横柄な態度で休みを謳歌(しているようには見えないが)する中、サービスする側で身を粉にして働いている。
お互いは50:50なのに、横柄な態度をする者を、じぶんは蔑視する。

***

深夜番組のホラーであった「トリハダ」。
ここには「人間なるモノが如何に(この世で一番)残酷な生き物か」が描かれている。
その一話に、横柄な態度でタクシーに乗るビジネスマン。運転手に対してあっちだ・こっちだ・早くしろ・・・と言いつつ携帯片手に偉ぶるが、運転手は言うことを無視した道を行き・人をひき殺す。それは、別れた女房(だったような・・・[記憶違いかも])。

元々、リストラ(というねじれて解釈されているコトバ)で、タクシーの運転手をやっている人は、現代では多い。そして、給与も雇用形態も過酷。/一方では、昔ながらのいい加減な運転手も居るが。
そんな時代の断面を示した、リアリティある回だった。

***

じぶんの住む街には、まだ共同体の要素が残っているので「あれ、このおばさん、どこかで出会ったよなあ?」と思うと、スーパーのレジとコンビニエンスストアのレジを掛け持ちしていたりする。
また、制服姿のスーパーの女性や100円ショップの女性に、不意に電車で出会ったりするが、女性らしい私服姿で仕事場での顔とは違う「素(す)」の面を見て、いろいろと感じるところがあったりする。
共に優しい人だが、それぞれの方には、生活・家族等々の背景がある。当たり前のことだ。
しかし、ヒトはそれを忘れて「役割を果たす」労働面のみを見て、ああだのこうだの、まるで機械のように過剰に偉ぶる場面に出会う。
サービス過剰な現代の日本では、悪しき「お客様は神様」的、とてつもない勘違いをする馬鹿家族が絶えない。
いくら、この世が芝居を演じる劇場だとしても「お客様は神様」ではないのに。。。

そんな話をしたかった訳ではなかったのだが、こーいった「連休」とやらにかこつけて、やりたい放題している誰かが、今もどこかで何かをやらかしているのは事実だろう。
「カネさえ払えば、何をやったって許される」という資本主義の下で、ガキがコンビニやファーストフード店でやりたい放題している様はよく見る光景。
そうでは無いことは、もうここまでねじれて逸脱してしまい、遠くに来てしまった世界では、実際刺されないと、じぶんが何をしているかさえも分からないのだろう。
■トリハダ 「拭えぬ罪悪感と客観性の存在」■

今日は、4月30日。気がつけば1年の1/3を生きたことになる。
だからといって、明日なにが起きるかなんか、誰にも分かったものじゃない。
カネが回ることだけが資本主義の道だから、モラルを規定することは義務として付随していない。これが悪い方に回った様が、今のありさま。
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2013年4月28日 日曜日 「たおやかなる島・たおやかなる小宇宙」

2013-04-28 19:16:38 | 写真日和

【荒木経惟さんの写真と田村隆一さんの詩を組み合わせた『花の町』】

この一週間の疲労はなかなか取れず。ひたすら金曜夜から寝ていた。
リハビリテーションを兼ねて、午後カメラを持ってぶらぶらと散歩へ。
やかましい遠くの街へは行きたくない。近所の小世界をうろちょろする。
イナカモンたちがたぶん、空塔/すかいつりーに集まって群れているだろう中。

中学3年生~高校1年生のころ、レゲエ、ダブ、ハイチ、民族音楽等々にハマっていた。
やたらと晴れた中、外に出ると日差しが夏のように強い。
その陽光を浴びているうちに、すりこまれた記憶が、その頃を想起させる。
よく聴いたグレイス・ジョーンズの「リヴィング・マイ・ライフ」(1982)が脳裏に浮かぶ。
■Grace Jones 「アップル・モーニング(Apple Stretching)」1982■



















地蔵坂の西むらで、おまんじゅうを買う。





























グレイス・ジョーンズ「リヴィング・マイ・ライフ」。

豆苗。
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2013年4月27日 土曜日 「ひと山越えて、ここにおいて然」

2013-04-27 08:28:00 | 雑記帳

毎年、三月・四月は仕事のヤマ。昼にお弁当を食べるときだけ着く仕事場のテレビ「ひるおび」。
そこでは「大型連休」「ゴールデンウィーク/黄金週間」と騒いでいる。
平日が三日も挟まれるというのに、それをも休んでバカンス出来る人は「士農工商・・」では、上で利権収奪するごくごく一部の富裕層だけ。
もはや市井の人々との乖離激しい、相も変わらず死滅すべき地上波TVは、意味不明なウソを放映し続ける。

メールチェックをすると、ほとんど捨てるメールマガジンは「まだ間に合う!GWの旅!」。
「まだ間に合う」とは何を意味しているのだろうか?お前らに焦らされるつもりは毛頭ない。
なぜ、連休だと遠くに行かねばならないのか?未だ不思議である。まだ2年しか経たない3・11すら忘れてしまう日常光景。今の日本の光景には、首をかしげる「不思議な光景」がより一層増している。

ただでさえ弱っている状況の中、今週一週間は突貫工事で、毎夜珍しく遅くまでコンを詰めた。休みも仕事に割いていたのは、はるか遠くの時代。なにがなんでも休むと決めた以上、月~金での任務完了を目指した。
2年前は徹夜したが、今年はなんとか昨日の日が変わる前にデータを放り込んだ。
「とりあえず突破すること」「とりあえず終わらせること」は実に重要。精度が伴わなくとも。

今週が乗り切れたのは、Q&PコーワゴールドAと複数のドラッグというありがたい存在のおかげだった。どんな手段を用いても、「彼ら」に死を送られることだけにはNOと言いたい。



昨日は、朝からつくばで会議。
朝の電車から見える雲が、まるで夏雲の様相。



一緒に出た富裕層は「お前、またやせたんじゃないか?」実際、この四月で5kgは減っただろう。しかし、その要因の一部たる者に罪の意識なく言われる覚えは無いので、無駄な対話を流して捨てる。
つくばでの会議が終われば、即都内にUターン。買ったおにぎりをほおばり・おいしい東京都水道局の水道水を飲みながら、中断していたパソコン作業をひたすら黙々と続ける。











Q&P、ドラッグのチカラを借りながらも、帰り道ではヘルニアによる首肩背中腰の痛みがキツイ。











【ひぐまのパッチョくん】



【怪しい「ルナ(狂気)を孕んだ月夜】
深夜帰宅す。つい優しいモノを求めて、志村けんさんのコントを見て、優香ちゃんの写真を眺めていた。ぼうっっと。



(幸福の瞬間)痛飲とたばこ、それにほうれん草とニンニクのラーメンを平らげ、深夜2時に消灯したが、かわいい鳥たちと朝日の中、5時半に目覚める。日が開けるのも早くなった。
■坂本龍一 「エチュード」1984 From「音楽図鑑」■


















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2013年4月25日 木曜日 「疲労の中の浮遊感」

2013-04-25 23:56:23 | 想い出かたちんば



■リントン・クウェイシー・ジョンソン「LKJ IN DUB」より『リアリティ』1980■
1979年洋楽を聴きはじめ、ポリスに出会い、源泉のひとつたるレゲエ(ボブ・マーレー、ブラック・ウフル、アスワド、スティールパルスなど)の心地良さにたどり着く一方で、1980年の教授の「B-2UNIT」経由で知ったXTC/アンディ・パートリッジ、「テイク・アウェイ」、リントン・クウエイシー・ジョンソンの「LKJ IN DUB」。。。
今夜、疲労の中でたまたま選んだ23スキドーの1984年の「アーバン・ガムラン」。そこを経て「LKJ IN DUB」に向かう目舞う夜。
アンビエントもダブも、疲れたじぶんが身をもたれかかれる音。
ときにはファンクや民族音楽も良いのだが。。。
言語・概念・論理のガシガシした世界の外側にある音を求めて。




















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2013年4月23日 火曜日 「安らかなる迷宮の森へようこそ」

2013-04-23 23:46:35 | 雑記帳

鶴見済さんの「脱資本主義宣言」読了。初めて知ることも、知っていたこともあったが、鶴見さんが自己省察をし・悩んだ末にたどり着いた境地の道筋が極めてよく分かる温かい本だった。
そして、じぶんとも体温や水位が近いことも分かった。

というと、鶴見さんはフリー・・・一方、かたや「かたちんば」は一応社会の隅っこにかろうじてひっかかっている違い。
そんな自己欺瞞は重々承知のうえ。そこを中島義道さんの「人生を半分降りる」で補完しつつ、言い訳がましく、耐えられるところまでは社会人のフリをしながら、エイリアンは生きる。

目の前に、どうしようもない通行禁止のストップが掛かれば、そこで「人生を全部降りて」フリーになるだけだ。

■Depeche Mode 「Shake The Disease」1985■

素浪人の頃、ひそやかに夜な夜な聴いていた「シェイク・ザ・ディッシーズ」。
「Disease」
●(人間・動植物の)病気
●(社会状態などの)不健全な状態・病弊・弊害

じぶんにとって、素浪人のときが異質だったのは、どこにも所属していない、という宙ぶらりんの不安とプレッシャーと一文無し状態。
「学生」とも「社会人」とも定義づけられない、放置された無所属の、いわばこの世では居ても居なくてもどーでもよい「役にたたない」「空気吸うだけ」の存在感覚。
居場所が無い居心地の悪さ、というか迫害されゆく難民の心境だった。
中学から破壊され出した心身に、とどめを刺すような時期であった。ゆえに自害したが失敗に終わった。
当時、それまでギリギリのラインで規律があったタガが外れて、24時間の胎内時計は完璧に壊れ、本来予備校さんに居るはずに時間に「笑っていいとも」や荒川強啓さんの「らくらくTOKYO」なる番組を見ていた。そんな棒に振る日があるたびに、アリ地獄に引きづり込まれていく悪循環。

今夜、古い本棚から1冊取り上げたのは、森本哲郎さんの「そして、じぶんへの旅」。
裏をめくると、1988年2月に読んでいた記載。

1986年の自害未遂を経て、同時代進行形の音楽を捨てたじぶんは、ドラッグでラリリながらも、1つだけ大学受験に引っかかり、MZ師・ハブ噛み師匠に出会うことになる。
大学時代(1987年4月~1991年3月)は、砂を噛むような空白の時代だった。何も掴むことの出来ない空虚そのものだった。

森本哲郎さんの本を買うに至ったのは、当時TBSラジオがオトナ向けに方向転換し、夜は荒川強啓さんが番組を持ち、その1コーナーが森本哲郎さんの語りだったせいである。
ノイローゼから心理学・精神医学の本を読みあさり、その後に哲学に向かう中、森本哲郎さんのお話しは実にすんなりとじぶんの心に入ってきた。
当時、TBSラジオにハガキを書いて、森本哲郎さんの新刊が当たったりもした。

物欲には遠くなり、近時では性欲すらも無くなり、食欲は昼食+つまみだけの生活。
過去、英語のコメントで「お前はお前という迷宮から永遠に抜け出せないよ」という・カフカの小説「城」のような皮肉を送られたが、「それは誰もが同じ」。
しかし、最近、近所しか歩き回らないじぶんは精神的には前より向上している。
ラビラント(迷宮)と呼ばれる旧・玉ノ井、現・東向島。
そんな誰もが迷い、細い道とランダムに広がる路地の織り成す街は、1つの森を思わせる。
そこは「行きはよいよい・・・」ではないが、容易に全体像が見えないがゆえに、ヨソ者は入って来ず、動植物と最低限の物資で過ごす優しい人だけが形成する森なのではないのか?と思わずにはいられない。









永井荷風
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2013年4月21日 日曜日 「春冷え」

2013-04-21 22:06:36 | 写真日和

土曜日。雨が降る春冷え。
食材が尽きたので、北海道のお米を2kg、それに何品かの材料を買って戻る。いくらか散歩をしつつ。

ちいさな魚たちは、藻に囲まれながら、ひっそりと泳いでいる。なかまたちと。

■Brian Eno 「Little Fishes」(From「Another Green World」1975)■

最近、藤の花を見るようになった。藤は形といい・においといい、古き日本を思わせる。もうすぐ、梅雨とあじさいの季節も近い。

日がしだいに沈んで、暗くなっていく部屋で、キャンドルに灯をともす。
ご飯が炊き上がって、食事をしたら、延々と眠ってしまう。。。





日曜日のお昼まで、断続的に寝てしまう。午後、実家の老母の身の回りの片付けに出かける。







いろいろ迷ったが、両手・腰が不自由なので、スプーンで食べられるものを作る。

小松菜・にんじん・油あげをきざんで炒める。ゴマをまぶし、砂糖・ダシしょうゆ・お酒を少々。そこにゴマ油を垂らす。
これを温めたご飯に混ぜて、菜(な)めしを作る。

また、ひじきの炒め物もたんまり作る。

マメとコンニャクも入れれば良かったなあ、と後になって思う。
一緒に夕飯を取り、帰路を辿る。
すると、夜の帰り道で、真冬に公園で遊んだキジトラちゃんに出会った。

元気で遊び好きなキジトラちゃんは健在。なでるとカラダががっしりしている。ゴロゴロいいながら・尻尾をふりふり、後を付いてくるので、しばらーく遊んだ。



めまぐるしく動くので、なかなかうまくは写真には撮らせてくれない。



いつまで遊んでも尽きず、歩くといつまでも付いてくるので、途中で「今日はバイバイ」と手を振って別れた。

■Brian Eno 「Becalmed」(From「Another Green World」1975)■
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2013年4月20日 土曜日 「われわれ」と「彼ら」の距離

2013-04-20 11:18:22 | 雑記帳

くたくたになって23時に寝て、9時半に寝覚めた朝。
起きて、いっぱいに両手を伸ばす。いつの間にか寝ていて、睡眠薬無しで眠っていた。
かなり良い感じ。とはいえ、ヘルニアマンによる左首から肩・背中への痛みがキツイ。

【コーヒーの苗】
4月5日の、仕事場からの帰り道。橋を渡ったら、渡りきったところに、クマのお嬢様がポツンと居た。

誰かが落としてしまったものを、誰が拾い上げて置いたのだろう。
夜のしじまに、鮮やかな色彩で独りぼっちのクマのお嬢様の光景。
風が吹いたら川に落ちてしまうし、雨が降ったら濡れてしまう。と言い訳をしながら、お嬢様を家で保護することにした。

今では、みんなの仲間入りしている。

今週前半は暑いくらいに温度が上がったが、後半は急激に寒くなった。
地球の動向は、過去データをいくら分析しても「想定」「未来予測」など出来ない。それに対して「お前が立てた予測は、当たらなかったじゃないか」とクレームを付けるキチガイども。
じぶんは、4月から仕事の内容が増えて、この「未来予測」をやるハメになった。過去からさまざまな本を読み・研究してきたが、結論としては「クレームつけるヒマがあったら、目の前の事態に対して、さっさと動け」ということになろう。
いつでも動ける準備をせい、としかじぶんには言いようが無い。
「未来予測」は仮想値なので、そこから大きく逸脱し始めたら、それに対して・それぞれが補正をしていくこと。これに尽きる。
昔の人たちは、良いことわざを残したきた。この事象を表現するなら「天にツバを吐く」となるだろう。
オレは占い師でも無ければ、超能力があると断言する幸福の科学の大川隆法でもない(なぜ?超能力がある彼が3・11を超能力で予言出来なかったのか?。それがじぶんにはナゾだが。)

今朝、寝起きに頭に浮かんだ、ラジオで聴いた実話。
わたしにとっての80年代には1988年は含まれないが、その年にヒットしたフラワーロックというおもちゃ。
音が鳴ると、それに反応して、からだをくねくねさせて動き出す。
とある家でおじいちゃんが亡くなった。その家の中で(今のような葬儀場という場ではなく)、お坊さんを呼んでお葬式をした。
すすり泣く人たちが、お坊さんの背後で喪服姿の中、静寂が包む空間の中で、お坊さんの木魚を叩く音に従って、その畳の部屋に置いてあったサングラスをしたフラワーロックたちが、うれしそうにガンガンからだをくねらせてロックンロールをしてしまう。
まだ生と死が隔離されていない地域での出来事。笑うに笑えない中、フラワーロックはからだを躍動的にくねらせている。

じぶんは、「ロック」というコトバ自体が嫌いなのもあり、フラワーロックは買わなかったが、家には「ひだまりの民」はいつも光に反応してうっつらうっつらしている。

同じように、光に反応して動く花も、いつもの場所でゆらりゆらりしている。

今週、鶴見済さんの「脱資本主義宣言」を読みながら、「われわれ」と「彼ら」の距離を思っていた。
「われわれ」側には仲間の動植物が居て、「彼ら」というより「ヤツら」と呼ぶべきだが・そこには残りの殺すべきニンゲンがいる。
「彼ら」は別段政治家や上層部のみでは無い。身近にいる連中も含まれる。それは、あなたの横に住んでいる人も含まれるかもしれない。

■Ulrich Schnauss 「Between Us And Them」2001(From Album「Far Away Trains Passing By」)■












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2013年4月17日 水曜日 坂本龍一&糸井重里 「ぼくのかけら」'81

2013-04-17 23:22:05 | 音楽帳

じぶんの家は、過去にもなんどか話したが「ゴミ屋敷」だ。
とても、他人をお招き出来るような空間ではない。ネコさんなら遊びがいのある空間だろうが。
本、レコード、CD、カセット、おもちゃ、小物、昔書いた絵など・・・・そして、ゴミ。
さまざまなものが、混沌とあちらこちらに散乱している。
ゴミとは、ボク自身にとってはゴミでは無いが、他人が見たら「ゴミ」と認識するのも含む。

いっとき「片付けられないどうたらこうたら・・・」とかいうのを、病理とカテゴリーにした本や思想(とは呼べないハヤリ物)が、ああだのこうだの言われた。「断捨離」と言えば、ハヤリ物でそこになびく。
そーいう意味では、じぶんも「片付けられない者=ビョー人」の中の1人として切り捨てられるだろう。

CMやら何やら・・・あたかも「楽しい生活空間」などで、笑っている家族の姿があるが、どうしてそこまでウソを付かねばならないのか理解しがたい。暮らす空間が、小奇麗過ぎるのは不気味でしかない。
かつてアッコちゃん(矢野顕子さん)が、ラジオで「ライフでは無くて、”暮らす”という言葉を添えたいなあ」と言っていたことが、とても印象に残っている。

いくら可愛い・キレイな女の子でも、ウンコもオシッコもオナラもする。背中をボリボリ掻いたり、目やにやハナクソも取ったりするだろうし、よだれ垂らして寝たりもするだろう。
それでも、外に出るときには・出勤時や仕事場では、あたかもそういった表層を覆い隠そうとする。それは男も女も無い。
しかし、東京という都市や社会は「表層」「浄化」を大事にして、露呈する「本性」があらわになることを忌避しようと必死である。「3・11」という生命の境界線に立ってすら、そのザマ。
オトナ子供社会(=幼稚社会)の「いじめ」に合わないようにばかり、気が行っている。

都市や社会という方の顔に引きづられて、病的なまでに「キレイ/きたない」の二項対立論で、「きたない」と認定したものを”暮らし”から徹底排除するシステムが、ヒトの内部を洗脳し・家族の”暮らし”を引き裂いていったのは、80年代という分水嶺以降のなれの果て。エイリアン的じぶんも、ずいぶんと叩かれて・いじめられて来たものだ。

こちらは既に、20代前半の若かりし頃、先輩に「おまえは、縁側のじじいだなあ」と、よく大阪でいじられていた。そう言われて「凹む」か?と言えば、笠智衆さんや細野さん的世界にあこがれが強かったので、むしろ嬉しかった。
あるいは、色川武大さん・中島らもさん・つげ義春さん・みうらじゅんさん・伊集院光さんなど「フツーのヒトなんか存在しないのさ」とばかりに、それぞれのフィールドで悩みながら・カベにぶち当たりながらも、朴訥と失敗だらけをしながら生きる様の方たちに惹かれてやまない。
あるいは、永井荷風先生や西部邁さんのように、むしろ嫌われてもじぶんを貫きながら、変人扱いされることを恐れず生きる様にもシンパシーを感じる。

最近合った昔の同僚の先輩は、十数年後のじぶんのヒゲハゲ姿を見て「おまえに、縁側のじじい、と名付けたのは正しかったな」と大笑いしていた。一緒に大笑いした。

■坂本龍一 「ぼくのかけら」1981(アルバム「左うでの夢」より)■

作詞:糸井重里
作曲:坂本龍一
編曲:坂本龍一

『あげるよ ぼくのかけら

ありがとう キミのかけら』


ようく動植物との付き合いに置いて、これはなになに性のこういう系統の生き物と、犬で言えば血統書がどうしたこうした。。。
そーいうニンゲンとは一生相容れない。
ニンゲンそのものが、極めてテキトーな不具者であるにも関わらず。
そんなヤツには「じぶんは、道端の雑草や雑種のノラネコの方が可愛い」と言ってやりたい。
いったい何様のつもりだかわからないが、安っぽいヒューマニズムやエゴやスノッブ皆無の上、生命はそれぞれである。それぞれの在り方があるだけのことだ。

相田みつをの「にんげんだもの」やSMAPの「世界に一つだけの花」などは、ヘドが出るほど嫌いである。
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2013年4月12日 金曜日 「なぜ、本を『買う』のか?」

2013-04-13 00:41:41 | 詩、セリフ・・・そして、コトバ

「人生いろいろ」と言い切った小泉純一郎みたいな役者にコトバを言わせてしまうと、その「営業力」に押されて終わってしまうし、「他人に干渉するな」「なにをしたって、いいじゃ~ん」となる。

【八重桜】
よく電車の中で本を読む人に、図書館で借りたシールが貼られていて、その本の内容とその人の様を見比べてしまうことが多い。
図書館を活用する理由には、経済的な面(お金がない)・買ってまで読むに足りない・モノを所有することから放たれたい・・・など「人生いろいろ」だろう。

他人に強要するつもりは無いが、じぶんは本を『買う』。
なぜだろうか?と辿ると、コドモ時代は「所有欲」やマニア的要素があったが、中学時代以降は異なる意味合いを持っている。

さくりんさんへも語ったが、じぶんの根っこに言語・理論的要素は無く、幼少の頃は、色と絵の鮮やかさにしか本への興味が無かった。文字にはいっさい興味がなく、差し込まれた写真やイラストだけに惹きつけられていた。
兄が文学少年だったのと真逆な者だったので、親父からはバカ扱いで「本を読まない・文章が書けないヤツ=バカ」という扱いだった。

そこから遠ざかった地点で、初めてみずからの意志で本を読み出した。

中学時代にYMOの写真集「OMIYAGE(おみやげ)」で、教授が本棚に・ピンと反応した本をざあっと買い揃え、それを辞書的に読みながら、ひっかかった箇所をノートに記している、というのにも影響を受けたのもある。

本を買う、という行為は「一回読んで、ハイ終わり」でブックオフ行きだったら、買う意味は確かにない。
誰か・宗教に暗示を掛けられたカルトのように、新刊が大騒ぎになっている(かのように)洗脳されて本を買うに至る、経済活動の片棒を担ぎたくもない。
ふらふらと写真を撮り、街歩きする中で、本屋・古本屋に吸い寄せられて、テキトーに回っているうち、ピピっと反応をした本を開いて見て、そのときの時点じぶんに「何か」があれば買うという感覚のみ。
じぶんが、本を『買う』理由は、社会人になって以降、より意味合いが異なってきている。
読みながら、じぶんがピンと来た箇所にえんぴつで線を引く。

その後、読み終えた本は積み上げられていくが、生きていく中で、紆余曲折悩みながら歩く旅のさなかで「ああ、あの本にこんな箇所・ヒントがあったな」と思い、その積み上げた中から引っ張りだして、再度その箇所を読む。
読みながら、改めて気付いたことを書き込んだり・新しい箇所に線を引いたり。。。
それは、じぶんには電子媒体ではダメで、パピルスとしての本でないとならない。

三島由紀夫がどこかで書いていたが、古本屋で本を買うと、読んでいるうちに、前の買い手がアンダーラインを引いた箇所があって「このヒトは、ここに何かを発見したのだな」と想像して面白い、と言っていたが、そう言った要素もある。

そんなことをしているうちに、本は色あせていくし(古代の人は、摩滅しにくい石に文字を刻んだが)、ぼろぼろに傷んでいくが、じぶんは本のコレクターではないので、こういったスタイルが今のじぶんと本との関係・在り方になっている。

じぶんが死んで、遺品整理で本を例えばブックオフに持ち込んだら言われるだろう。
「お客様、値段(カネ)が付かないので、お持ち帰りになりますか?それとも、こちらで『処分』いたしましょうか?」

兄だったら判断して、次世代に繋がる本は、神保町という文化の共有財産場所に納骨してくれるだろう。

■YMO 「CUE」 1982 on TV Live■


手がかりを下さい
もうすぐ近づけそうだ

手がかりを下さい
手掛かりは到る所にある

音楽のしらべ 空気のざわめき
音楽のしらべ 地球の回転する音

変わり様の無い混沌はもうウンザリだ!
この袋小路から抜け出す方法はある!

音楽のしらべ ボク自身の声
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2013年4月11日 木曜日 「Deep Blue Sea」

2013-04-11 23:57:58 | 雑記帳

躁(そう)となったら、鬱(うつ)が来る。これを躁鬱病と言う。
高校―素浪人―・・・と、昼・夜の違いのように、大きな波があったが、ようよう手なづけて来たものだったが、久々にそんな状態になった。
波動が、じぶんのベースを鬱に置いてから、大きく波打つことは減っていたのだが、昨夜、あんなことを書いたら、今日はローギア。

なぜそうなったのか?を思うと、理由はいくつか思い当たる。別に昨夜の幸福感が理由ではない。

月曜日は、特に問題は無かった。
火曜日。外でお酒を呑むのを回避してきたが、身近に後輩が転勤してきたので。。。と止む無く歓迎会に行った。肝臓を壊してから、年数回しか外でお酒を呑まないできたが。
肝臓関連の数値が戻っても、じゃあ本当に戻ったのか?と言えば、一回打撃痕の残った肉体は弱体化する。まざまざと、体内感覚としてそれが分かっている。
行けばセーヴしながらも、元々食をせずに酒を呑む体質のじぶんは、それなりに呑んでしまう。また若い世代が居る中、申し訳がないと思い「1杯だけ」と残った者で、一杯ごちそうする形となった。
結果、終電にて帰宅し、倒れ寝る。

そして、昨日・水曜日、朝起きれば鏡に写る顔は、真っ赤っか。
それでも茨城に向かい、打ち合わせ三昧で、夕方にはヘタってしまい、早めに帰った。パスタを食べて横になり、録音した過去の「DIG」を耳に。



青木理さんと江藤愛ちゃんの愉しい会話。
マル激でのダンディそのものだった青木さんが、愛ちゃんに影響を受けてメロメロになっていく様を聴くうちに、気づかないまま眠りに。。。

明かりを付けたまま、夜中2時に目覚め・そのまま明かりを消して再び眠りに。
シャーっと雨の音が聞こえた。

今朝・木曜日、両手を骨折したお袋さんと電話で話せば、今度は腰痛が出始めたという。10年前胃がんになるまで「医者なんか行くか!」と豪語してきたというのに。
いろいろと煮詰まった状態で、仕事を終えて帰る。

<流れから勝手に思い当たる鬱の要因
1・週前半に相当量の酒を呑んだ。
2・後輩くんが良い性格で脳天気に明るく、この約一週間で日常環境の温度が変わった。(わたしが彼に引きづられて脳天気になった。)
3・うかつに、定期的薬服用をせずに寝た。
4・なかなか実家に出向けない中、兄夫婦にお世話を託している親不孝現状。

たぶん、そんなところだろう。
明日、同志と話し詰めて、そこでカタが付かない問題があるので、土日は諦めている。今夜は早く寝よう。

水面下の山椒魚はよどみの中に居る。

■Underwater Symphonies 「Deep Blue Sea」1995■

大阪時代の1995年。チャリンコで梅田をうろうろする中、阪神百貨店にあったCDショップ「ブリーズ」で、新譜の試聴をして買った輸入盤。
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