こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

冬の100曲:YUNDI「Nocturne No. 14 in F-Sharp Minor, Op. 48 No. 2」2010

2025-02-27 22:30:00 | 音楽帳

(もうすみだ川端のモクレンが咲きそう。残り1.2日という感じ。)

今日もリハビリへ、、チャリンコ走らせる。

終わった後、我が家のネコさんのあれこれ用事すませに向かう。
カラダ動かした分、小腹がぐぅぐぅー鳴るので、コンビニのイートインはやめ、今日は贅沢して好きな純喫茶へ。

最近できた作為だらけのカフェではない純喫茶。
”作為の無い”懐かしいそのままの内装も”ごまかしのない”美味しいコーヒーもうれしい。

人生色々深い絶望感に包まれることが多いが。。
下町で生まれ育ったものの、あっちだこっちだ・・と途中振り回され長い長い年月 迷走させられたものの、
再びそんな下町での暮らしに戻れたことは、自分が自力で奪回できた数少ない些細なよろこびだろう。

コーヒーを飲みながら、今日はこんな音楽を聴いた。
昔からの自分に戻るひとときを過ごす。

・マウリツィオ・ポリーニ 「ショパン:24の前奏曲」より
「Chopin: 24 Préludes, Op. 28: No. 15 in D-Flat Major "Raindrop Prelude" 」
・ユンディ・リ 「ショパン:ノクターンズ」より
「Nocturne No. 14 in F-Sharp Minor, Op. 48 No. 2」
・ユンディ・リ 「ショパン&リスト:ピアノ協奏曲第1番」より
「Piano Concerto No. 1 in E minor, Op. 11 - 2. Romance (Larghetto)」

 

■YUNDI「Nocturne No. 14 in F-Sharp Minor, Op. 48 No. 2」2010■

すきな名画パーフェクトデイズをおもいだす。

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写真日和:三連休

2025-02-25 23:00:00 | 写真日和

たまには写真でも。。。

もうリーマンではないので、世間的な三連休とは関係がないのだが、この数日の振り返り。

三連休、というタイトルなのに、21日/金曜日の写真。

河津桜のつぼみがほころんだ。

もうここから数日経ったので、今日はもっと花開いているだろう。

春は花も自然も美しいが、そこに群がるうるさい人間も一緒に湧いて出てくるのが難。

22日/土曜日は、町屋にお茶を飲みに行く。

日差しの美しい日だった。

お店のネコちゃんには会えたが、あまりに寒くて毛布から出て来ず、いっしょに遊べなかった。

23日/日曜日は、いつも通りリハビリへ。

24日/月曜日、数少ない知り合いのマッサージを受けに、浅草橋まで行く。

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冬の100曲:広瀬豊「Nova」1986

2025-02-20 21:30:00 | 音楽帳

日誌+ 今日は休みで、遅く起きては、いつも以上にアタマが回らない。起こされたとき、数年前に潰された実家まわりの夢を見ていた。
男まさりの亡き母親がメシ喰いに行こうと言うから、引越し荷物の片付け途中で現場から離れる。ゴミが山積みの玄関を抜け、先に歩く母親と縁切近くなった兄弟の後を追った。自分は家を離れ、振り向きざま、数枚カメラのシャッターを切った。よく見る機会もなかった実家。数メートル離れて全体がフレームに入るようにしながら、その家をじっと見た。こんなカタチをしていたんだな、と数十年目にして初めて知る。
そこで声を掛けられて、夢は中断した。

回らないアタマで昼過ぎまで身の回りにある本やCD等雑多なモノにまみれ、PC内の未整理のファイル、それにアタマの中にあるごちゃ混ぜの考え、これらとない混ぜになって、鉛のような重さが脳内を満たし始めた。こんな膠着状態で室内に幽閉されていくと、大抵は何もかもが未解決で片付かないまんま、どんよりした一日になる。
今日はそのパターンに気付き、家人に「少し出てくる」と適当な誤魔化しをして外に脱出した。
出る時のTV画面で、根岸季衣さんが細い目で渋い顔をしていた。(2時間サスペンス最後まで見られず。)

寒い中、チャリンコを走らせ、雑念吹き飛ばす。使い捨てカイロをギュギュっと握りしめる。

ひどく寒い。それもそうで、日本海側は再びの大雪。東京も今年一番の冷え込み。
しかし、外の陽気に春の訪れを感じる。それはたぶん日差しの光線の色合いや青空の色味、空気の肌会いによるものだろうか?。
冬が持つ不思議は、冷え込み厳しい1.2月に、冬至を離れて日照時間がどんどんと長くなっていく、という相反するバランスにある。
そんな今日、チャリンコで走る片方だけのイヤホンから流れるのは広瀬豊さんの「Nova」、1986年作のアンビエント。自然に流れる音に混じり、水音、鳥や虫、生き物たちのざわめきが絡んでくる。カイロを握りしめ青空に風を切りながら、しばらく時を忘れて、春の音世界に漂う。

 

■広瀬豊「Nova」1986■

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冬の100曲:Marianne Faithfull「Times Square」「Morning Come」1983

2025-02-19 21:30:00 | 音楽帳

先日、マリアンヌ・フェイスフルが亡くなった。

自分が彼女の存在を知ったのは、1982年4月。これまた当時購入していた雑誌「ミュージックマガジン」でのことだった。この雑誌広告に、アイランドレコード創立20周年を記念して 過去の作品を一律2,000円で販売するキャンペーン広告があり、対象レコードのジャケット一覧がのっていた。その中の一枚がマリアンヌ・フェイスフルの「ブロークン・イングリッシュ」だった。ジャケットでは、タバコを持つ手が目のあたりにかぶさり、その陰影で彼女がどんなまなざしか?わからない。まるでまぶしいみたいにひさしにした手。裏の写真ではその手を外し、こちらに睨みを利かせて、メンチ切ってる。その姐御のモノクロポートレートがすごく印象的だった。その後も1982年には「愛の戯れ」が日本国内発売になり、興味をかきたてられたが、おこづかいと優先順位の兼ね合いで聴く機会を逸したまま時が過ぎた。

そんなマリアンヌ・フェイスフル の実際の音楽にやっと触れたのは、翌1983年10月秋だった。深夜23時、クロスオーバーイレブンにて選曲された曲をエアチェックすることになり、1983年の新譜「聖少女」から2曲。「タイムズスクエアの彷徨」「朝来たりても・・・」を聴いた。

80年代当時、彼女は“元ミック・ジャガーの恋人“ということと”元はアイドルのような声だったが・・”という2点がよく語られた。妖精のようだった彼女が数年経ったら、全く違う姿で皆の前に現れた。その激変ぶりがかなりショックだったことは、話す方々の文面からよく伝わってきた。

自分はそんな先輩たちが経験した可憐な姿を知らず、「聖少女」で彼女に出会った。精神の病、それにアルコールとドラッグ中毒を経て死の淵から戻ってきた彼女のしわがれて潰れた声にすごく優しさを覚えた。自分は当時まだ17歳だったが、親や荒廃した家庭、学校やそれを取り巻く社会に振り回されて、既に痛みと苦しみでぼろぼろに疲弊し切っていた。そんな自分にとって彼女の声と歌は同類の仲間と感じさせた。随分と一方的な想いだが、似ていると思った。こういった感覚は理屈ではない。音楽というものは、発語したたった一つのせりふだけで、その声の背後にあるその人の魂のありかみたいなものがわかってしまうから。

***

1983年10月25日出会ったのは2曲だったが、聴いて瞬時にその声に同じ匂いを感じ、どうやって生きていけばいいのかわからず、立ち往生している自分のココロに響いた。

そこから長い時間か流れたが、いまだにどう生きればいいか全くわからない。10代から解消できぬまま抱えた抑うつや倦怠感を引きずって、50代の下り坂を転がっていく。そんな道の途中で、自分のありかを探して彼女のアルバムを取り出して聴くことが未だにある。(ここ一二週はチャリで走らせながら「シークレット・ライフ」を聴いている。)

あの1983年に聴いた2曲は、あれから40余年経った今でも自分のココロを震わせる。昨年ブログに書いたハロルド・バッド同様、マリアンヌ・フェイスフルにも長くに渡ってお世話になってきた恩義がある。底に居る安定感とでも言うのか、彼女の音楽に漂う倦怠感は優しく自分には響く。他人にとってどうかは分からないが、“売れる”音楽、“高尚な”音楽よりもはるかに、自分にとって魂の支えや救いになる音楽だと思っている。

 

■マリアンヌ・フェイスフル「タイムズスクエアの彷徨」1983■

ひそかに聴くアルバムたち

 

PS:

20250219梅はとうに咲いている

20250219河津桜もあと数日だろうか

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冬の100曲:石井明美「バラード」1997

2025-02-11 23:40:00 | 音楽帳

雑録+   90年代は高橋真梨子さんのヒットが続いていたけれど、果たしてどこで自分が「ごめんね」を聴いたのか?記憶に定かでなかった。しかし、言われてみれば確かに「ごめんね」は火曜サスペンスで一番多く繰り返し刷り込みされていたのかもしれない。今は亡き母親がサスペンス好きで、火曜夜はテレビからこの曲が流れていた。「ごめんね」が流れる中、仕事帰りのごはんをよく食べていたような気がする。
「ごめんね」がヒットした90年代後半はもうCD時代だったが、そのCD等々を自分は持っていない。ただ高橋真梨子さんのCDなら母親の遺品で自宅にあったような気がするが、自宅丸ごともうなくなってしまったのでゆくえは不明。今回CDで聴きたいなあ、と思ったタイミングに、図書館でこんな2枚組CDがあることを知り 借りて聴いている。この2枚組CDを見ると、あれもこれも火曜サスペンスのテーマ曲だったんだな、と改めて知る。この中で自分が好きでよく聴く曲のひとつは、石井明美さんの「バラード」。

彼女のヒット曲と言えば「CHA-CHA-CHA(チャチャチャ)」。自分はそれくらいしか知らなかったが、これが掛かっていた時代も、掛かっていた流行りのドラマも、こんな浮かれた曲も、それをもろて挙げて喜んで見聞きしていたアーパーでにぎやかな連中も、そんな安っぽい世界全体が自分は〇き気がするほど嫌いだった。苦々しい思いで耳を塞ぎ、鼻をつまみ、そんな時代をやり過ごした記憶が強い。
そんな背景を持つ自分が、家人に付き合って平野ノラとかその手の芸人が出る音楽番組を最近いくつか見てしまった。悪しき腐臭放つバブル時代のありていな側面をまるで美しい時代であったかのように振り返る番組構成が実にうそくさかった。その中でもう還暦の石井明美さんが若作りした当時のまんまの姿で踊り、「CHA-CHA-CHA」を歌っていた。

自分の人生と無縁な反対側の世界にある歌と歌い手。。。石井明美さんが居た世界を陽としたら、彼らと無縁な反対側の世界で過ごしてきた自分。そして、あれから数十年後、昔の火曜サスペンス再放送で「バラード」を聴いた。良い曲だなあ、と思ってクレジットを確認して、その曲を歌っているのが石井明美さんだと初めて知った。
正直、石井明美さんがこんな良い歌を歌える歌唱力があるなんて想定外だった。ひょっとして「CHA-CHA-CHA」が売れてしまったが為にランバダのカバー曲など「そんな路線」を行かざるを得なくなったのだろうか?。TVメディア中心の世の中だった過去、生き残るには歌手には”この一曲!”が必要で、彼女にとって「CHA-CHA-CHA」はそんな必殺の切り札だったのだろう。
「バラード」を聴いて、『そんな路線ではない石井明美さんの曲』が聴いてみたくなった。ただ「CHA-CHA-CHA」が「そんな路線」であるように、『2時間サスペンスのテーマ曲』もそれはそれで一つの路線。岩崎宏美の最初のヒットが生まれてから2つ目3つ目の「柳の下のどじょう」を探し続けた路線上に「バラード」はある。
そんなことを悶々とぐるぐる思ったすえに、一周して、何者にもなっていない自分の身に意識は戻ってきた。
「バラード」は、リーマンをやめてからのこの4~5年、よく聴いている。

■石井明美「バラード」1997■

20250205

20250208

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冬の100曲:高橋真梨子「ごめんね」1996

2025-02-04 21:50:00 | 音楽帳

250129スカイツリー

 

先週月曜日・27日には、いつも通り大竹さんのラジオで森永さんの声を聞いていた。その森永さんが亡くなったことを知ったのは、翌火曜日・28日夜のこと。実際は13時30分に亡くなったそうだが、知らせを聞いて「えっ」と絶句した。前日昼にはお話ししていたのに。
年明け後確かに調子は悪いと聞いていたが、森永さんのことだから、また波をこえたら調子は戻るはずだと思い込んでいた。しかし、それは甘かった。実際は相当ギリギリのところでラジオに出ていたのだ。そんな当たり前のことを忘れていた自分の思い込みの迂闊さを知った。

大竹さんのラジオではいつも月曜、阿佐ヶ谷姉妹と森永さんの歌声で始まるのが(いつからか)恒例になっていた。それが番組冒頭のなごやかな空気を作っていた。その冒頭の歌に「いただけない」という反響メールが多数占める回もあれば、「すごくうまく行き過ぎてつまらない」という日もあった。妙にクセになるその番組オープニングは「なんだかなぁ〜」な日もあったが、何はともかく月曜日は森永さんの不安定なボーカルで明けていた。こちらは月曜午後からの仕事前、「さて現場に入るか・・」というまでの数十分毎週聞いていた。

***

昨年11月文化放送の浜祭りでは、ゴレンジャーみたいな真っ赤な衣装を身にまとい黒のサングラスをして、歌合戦に臨んだ森永さんの姿を目の前で見た。森永さんはサービス精神旺盛な方で、みんなが「なんて格好してるんですかあ」という中、「これでカンペキに準備は整いました」あとは歌うだけと、高橋真梨子さんの好きな歌「ごめんね」を歌った。
その歌は高橋さんの曲が持つ色気は当然みじんもなく、ゴレンジャーの姿と曲が持つ雰囲気が全くマッチしていない違和感だけがそこには有った。やっぱり「なんだかなぁ〜」という空気が漂い、みんなの印象に残るステージ姿だった。

浜祭りが終わった後のインタビューで森永さんは、やるからにはバットは振り切らなければならない、メディアに出る人はそうであらねばならないといったことを言っていた。そんな姿を回想しながら、ここ数日高橋真梨子さんが歌う正規の方の名曲「ごめんね」を聴いていた。

***

森永さんは優秀だから、お金で困ったことはないだろうけど、それでも、ひたすら堕ちていき苦しくなっていく日本の中で、こんなやりくりや過ごし方があるよ、と私みたいにカネ無き人にもためになる話しをよくしてくれた。マネできることもよくあった。

その一方マネできないのは森永さんの最後の日々だった。ギリギリまで走り続けてパッと息絶えた姿はまるでドラマみたいで、そんな亡くなり方をした人を見たことがない。ガンがわかってから一年少し、最後の走り込み方は凄まじいものがあった。毎週ラジオでよく話していたが、本を何冊も並行で走らせながら、寝る間を削ってやらねばならないことをやり切った。こんな生き方はなかなか出来ないだろう。

ある年齢を超えるとつらくて仕方がないばかりで出口を失うことも多い。自分もそんな現実の渦に苦しむことは多い。しかし、森永さんみたいにはいかないかもしれないが、好きなものに夢中になること中心で余生を生きたいと思っている。(元々リーマンみたいな奴隷生活送ってる場合ではなかったのだ。)自分は果たしてどうなるか分からないが、そんな心境の今を過ごしている。

 

■高橋真梨子「ごめんね」1996■

241104増上寺

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