こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

冬の100曲:甲斐バンド「ラヴ・マイナス・ゼロ」1986

2024-12-30 21:30:00 | 音楽帳

1974年にデビューした甲斐バンドを初めて聴いたのはかなり遅くて、「Hero」(1979年)というヒット曲が始まりだった。ちょうど「ザ・ベストテン」の時代で、毎週TVの前にかじりついてノートを付けながら見ていた。そんな季節だった。バンドはその後もヒット曲を飛ばし、自分も一曲一曲はTVで聴いたが、アルバムLPを通して聴くわけではなく、その頃は甲斐バンドそのものの良き理解者ではなかった、といえる。当時の少年の心境を振り返れば、とっつきにくく、怖そうな面々で、かかわるとやっかいなんではないか?とその頃思っていたふしがある。
そのうち自分は70年代の終わり頃暗く偏屈な中学生になり、背伸びして「洋楽のみを聴く主義」に無理矢理変更した。

その後、時代はすぐに1980年/80年代になって、私で言えばYMO時代をむかえ、音楽機材も含めて フォーク等々70年代的なものが古く見え始めた。音楽の価値観が全く違う世界に突入し、ミュージシャンはみなその流れを無視しては生きていけない状況になった。そんな80年代は甲斐バンドにとってもアウェイだったであろうし、厳しい時代だったかもしれない。

そんな80年代、甲斐よしひろはサウンドストリートのDJでもあった。教授が火曜、甲斐が水曜レギュラーの時期、教授が1984年「音楽図鑑」を発表したときは甲斐の番組ゲストに出演。まるで水と油というスタイル違う2人だったが、2人の対談は実に面白く、広く異分野の音楽を理解する 甲斐よしひろという人の度量の深さがにじむ放送回だった。

***

海外で言えはニューウェイヴが終焉をむかえ、また新しい未知の時代へと動き出した1986年。そんな1986年に甲斐バンドは解散する。解散間際に流れていた「メガロポリス・ノクターン」そして最後のライヴの最終曲「ラブ・マイナスzero」が今でも好きだ。長年のファンからは、これらの楽曲は甲斐バンドの本筋ではないと言われるかもしれないが、個人的にすごく好きな曲で、一回聴きだすと延々と繰り返し聴いてしまう。
サウンドを追求した結果依頼したボブ・クリアマウンテンのミックスはロキシーのアヴァロンを想起させる美しさ。歌詞を一節一節ひとつごとに切り分け、揺れる声でしっかり圧を語尾にかけるように歌う。そんな甲斐よしひろの魅力的な声と歌い方は、時代を一回りした末のところですごく自分の心に響く。
70年代らしい楽曲から始まったものの、失速せずに泳ぎ切るために時代変化に応じてカタチを変え、全く違う世界に変化してみせた甲斐よしひろの対応力と粘り強い胆力。決して男っぽさや荒々しいチカラ強さだけではなく、アクロバットに変わってみせたしなやかさ、その跳躍距離の長さに"あっぱれ"と思った。

昨日、師走も終わろうとする上野付近をチャリンコで走った。日没の残照を遠くに見ながら、この曲「ラブ・マイナス・ゼロ」を10回近くは聴いたと思う。
アメ横じゃ今年も賑やかに威勢の良い叩き売りが行われてるだろうが、そこは通らずに帰った。あっという間に年末、こうして今年も暮れてゆく。。。

■甲斐バンド「ラヴ・マイナス・ゼロ」1986■

月あかり高鳴る時間は終わり
通りを洗い流すほどの激しい
嵐の中 今夜二人いる

君の海岸へと流れ着き
強く抱きしめようと手をのばすと
霧が行手を隠してしまう

LOVE MINUS ZERO
君から愛をひけば
LOVE MINUS ZERO
二人から愛をとればZERO

孤独なままの夜のくり返し
俺の胸をくもらせてしまった彼女
逢える時まで時間は止まったまま

身体合わせても夢さえ見られずに
叫びだけが夜に突きささる
あれは魂が愛を奏でる音

LOVE MINUS ZERO
俺から愛をひけば
LOVE MINUS ZERO
二人から愛をとればZERO

月あかり高なる時間は終わり
憎しみのあとの愛はげしい姿が
だけど俺を捕らえて離さない

OVE MINUS ZERO
俺から愛をひけば
LOVE MINUS ZERO
二人から愛をとればZERO

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冬の100曲:ペイル・コクーン「繭」1984

2024-12-22 12:40:00 | 音楽帳

昨日12月21日冬至をむかえ、まさに冬本番になった。日中は相変わらず雲の切れた晴天が続いているが、昨夜は風速15mの強い北風が吹き荒れて、野外の自転車は総じてなぎ倒されていた。そして今朝もその強風は続いている。

***

先日書いたペイル・コクーンは11月くらいから聴いている。デビュー作である4曲入りレコード「青空の実験室」(1982年)以外に、1984年に発表された「繭」を聴いている。最近は、寒空の下チャリンコで走る中聴くこの「繭」がとても心地良い。

「繭」は当時カセットブックの形で発売されたもの。カセットテープ好きの自分は欲しい一品だったが、「欲しいなあ」で止まったままこれも買えずじまいで時間が流れていった。

当時は「カセットブック」そのものが「新しい」音楽形態みたいに扱われていたから話題にはなったが、失礼ながらそんなに数が売れなかったはず。。。その「繭」が2020年に初のレコードとCD化となった。私が「繭」をやっと聴けたのもここ数年のこと。

<当時聴けたらもっと良かっただろうなあ、という名盤。>

こんなセリフはよくレコード評につきものだが、これはよくある饒舌なウソではなくて本音。すごく良い曲が多い一枚。自分にとってはまさに2024年の名盤なのだ。

クレジットを見ると曲目はすべて英文字。その文字を立ち止まってようく読んでみる。

A面

  1. Sora
  2. Shunmin
  3. Musoukyoku
  4. Mizutamari
  5. Onshits
  6. Kumoatsume

B面

  1. Toy Box
  2. Laboratory under the Bluesky
  3. Room=Manhole
  4. Automatic Doll
  5. Microscorp
  6. FLALORM

A面始まりから・・空・春眠・夢想曲・水たまり・温室・・・。勝手に日本語に置き換えてみると、このアルバムの世界がよく伝わってくる。今は冬の風吹く中チャリンコで聴いているが、聴いていると雪解けして水ぬるむ季節のぼんやりした春の風景が見えてくる。

歌詞は聞き取れる箇所もあるけれど、過剰なほどエコーがかかった音像の中に歌う声は波紋のように広がって正確には聞き取れない。それがとても心地良い。歌詞なんてわかったって仕方がないのだから。。。あえてぼかしてあると推測する。

また、このアルバムではデビュー作「青空の実験室」の曲が装幀を変えて登場する。A4「Mizutamari」は「水たまり (Brain To Vain)」のリメイクだし、B2「Laboratory under the Bluesky」は「青空の実験室」の、B4「Automatic Doll」も「自動人形」のいわばダブヴァージョン。機材も予算も限られた中だっただろうが、仲間たちの手を借りながら「創意工夫」の末に創られたサウンドは、デモテープの延長線上にあり(←これは褒め言葉)音質的にも決して良いものではないけど、ぼんやりした音の森は実に魅力的。どんなカネの匂いぷんぷんな音楽よりもはるかに美しい。

 

■Pale Cocoon「Sora」1984■

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冬の100曲:Japan「My New Career」1980

2024-12-15 21:20:00 | 音楽帳

晴れがずいぶんと続いていた。まっさおな青空が美しく、そこに映える紅葉も美しい日々が続いた。しかし、その紅葉ははらはらと散り終えつつある。落ち葉は乾いて、カラカラと木枯らしのなか舞っている。陽の長さは日に日に短くなり、あと一週間程度の冬至に向かって傾いていく。
金曜は長らく続いた連続晴天から一転して、真っ白い曇り空になった。もう冬だろう。その日に感じた。
そして、金曜曇りを挟み、昨日も今日もまた絶好の晴れとなった。

こんな日々が続く中、朝の布団を離れるのは9時から10時のあいだ、という具合。別に寒いからじゃない。晴れた日はせっかくの日光なのにと思うのだが、半世紀以上朝は苦手。立ち上がりの悪さやふらふら感は変わりない。
長らく「はぐれ刑事純情派」の再放送(今は1994年第7シリーズ)を9時から見ることを楽しみにしてきたが、昨年以降2巡目に入り気力落ちた為に9時前に起きる必死さが無い。理由はほかにもあるが、TVは無理矢理な動機付けには格好の材料だが。。
歯磨き、湯沸かし等々の雑事終わってTV付ける頃にはじゅん散歩〜おおしたさんの番組の流れになる。
別に寝坊でも何でも無い。ネコのことなら彼らの要望に応じて、深夜から明け方も含め24時間対応はしている。外用事は午後から済ませるだけのことだ。

この12月某日で、ドクターストップがかかってから丸5年をむかえた。まさか、と思う。驚くべき時間の速さ、人生の短さを痛感する。
この5年のあいだに、コロナ禍を通過、仕事は休職を経てがたがたやり合いの末に時間切れの形になった。その後、一生に一回の転期と考えた。カネの為に身を削り、我慢辛抱して奴隷として働くという日本人的労働観を捨て、残る時間はそれまでと違う新しい生き方をしようと決めた。

しかし、そうは言ってもやはりカネが一文無しでは生きていけない。四苦八苦しながらさまざまな取り組みをしている。
だが、つくづく今の日本社会は、会社員中心に出来ていて、社会的手続きや所属員への優遇など、会社に属している人のメリットだらけ←/→社畜的奴隷制度から脱してもデメリットだらけ。それでも、もうカネだけのために生きる無様な生き方はしたくないので、この病んだサークルの外側にいま私は居る。

かつて会社に寄生してはチューチューチューチューあらゆるカネ目のものを吸い取り、社内外に毒をまき、依存的生き方をしていた連中の、愚劣でえげつない化け物顔がときおり浮かぶ。。。彼らはたんまりカネを得て、さぞご満悦だろう。

***

何はともあれ、かつて居た場所を離れ、自分は見知らぬ飛び出た場所にいる。私は新しい生き方、新しい道の上にいる。もう後ろに戻る道は無いし、戻らない。それは格好つけてるわけでも突っ張ってるわけでもなく、事実なのである。

ココロには中学三年生15歳の自分が、暴風の中新しい道へ歩き出したときの姿が浮かぶ。決してその後の道がハッピーエンドに向かったわけではない。むしろその反対だが、それでもなんとか難局を超えて生きていくことを選んできた。

15歳の頃、すり減る程に聴き込んだJAPANのアルバム「孤独な影」。孤独な中、周りのしがらみに翻弄され腐りながらも、自らが思う道を歩こうとするデヴィッド・シルヴィアンの姿が自分を後押ししていた。全曲あり得ない完璧さをもっているが、最近またこの曲(マイ・ニュー・キャリア)を聴いている。
このアルバムとの出会いから約43年。心の深い深いところに届く数少ないこのアルバムから、多くの励ましを得てきた。 JAPANは私にとって唯一無二の存在。特にこのアルバムは、この後も一生を通じて聴くことになるだろう。

 

■Japan「My New Career」1980  (Old Grey Whistle Test, Dec. 1980)■

ひとりきりになりたいなんて
思ったことはなかったくせに
とにかく僕はそっと家を抜け出して
ここまで来てしまったんだ

南に住む人々は
些細な人生の浮き沈みを繰り返しながら
まっすぐ前を向いて歩いてる
確かな足どりで

彼等が僕たちの唄をうたってる
外の人々には何も聞こえないけれど
彼等が僕たちのうたをうたってる
僕の新しい人生のはじまりに

やっと気づいたんだ
違う生き方もあるということに
船が港に着くたびに
出発の時はやってくるのだから

南へ行けと彼等は言うよ
太陽は僕の町には沈まない
僕を物憂い気分にさせるのは
この熱風の中の疾走

僕は誰ひとり傷つけたりしていない
ことに 君を傷つけるような真似は

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秋の100曲:ペイル・コクーン「青空の実験室」1982

2024-12-10 21:20:00 | 音楽帳

昨日朝、おおしたようこさんの番組見てたら”いよいよ冬本番”と言っていた。初霜、初氷となり、例年より14日早いんだとか。
今年は猛暑のせいですべてが季節遅れだったが、いきなり逆転したらしい。
私の中ではまだ晩秋だったんだけど、、そして「まだ秋」と言ってふんばりたいけど。。もう冬の到来を認めねばならないのかもしれない。

***

秋と冬の境目はどこなのだろうか?などとずっと考えていた。試しに家人に質問してみたら、そんなこと考えたこともない。ずいぶんと小さなことを相変わらずぐるぐる考えてるんだね、といなされた。そうだ、私はこの手のことをふだん四六時中考えている。

秋と冬の境目を「月」でわけて考えるのが気象庁で、11月までか秋、12から2月が冬としているらしい。あるいは、冬至から春分までを冬とする考え方もある。
自分としては、やっとおとずれた紅葉が散って、裸の木立ちがあらわれ出したら冬、としたい気分。
そうしたら、この数日で美しい葉々がはらはら散り出した。やっぱり冬がもう来たのかもしれない。。手足などの末端を中心に冷え性だから用心してきたが、、「今年は大丈夫だよ」と無意識に自分に言ってきたが、むしろ例年以上に気をつけねばならないのかもしれない。

***

そんな寒い中、音楽を聴きながら、土、日、1日空けて火曜とチャリンコを走らせ、紅葉が散り行くさまを見てきた。
最近取り出したのはペイル・コクーンの4曲入りミニアルバム「青空の実験室」。(「取り出した」と言ってもiTunesに入れたものだけど。)

このアルバムを知ったのは、雑誌フールズ・メイト1983年師走号に載ったパフェレコードの広告。アルバムリリースは1982年だそうで、翌年の紹介広告だった。これ以外でも雑誌でアルバムのモノクロームなジャケットを見たことはあり、興味は猛烈にあったが実態不明なまま40年経過。中身を聴いたのは、ここ数年のことだった。カラーの色付きジャケットを見たのは、かつて神保町にあったジャニスの店内かもしれない。日焼けしたかのような色味のカラー写真がさらにそそられる。
のちに発売されたレコードに写るメンバー2人は太ももあらわな短パン、ベレー帽姿で、まるで少年探偵団の小林少年を模していたので。。。聴く前の想像は、外界と切り離れた小学生たちの秘めた小宇宙を思い浮かべていた。その後実際に聴いた後も、そのイメージや印象に違いはなかった。

80年代初頭、みんな自宅でラジカセ等を相手に音に関するさまざまな実験を行っていた。私もそんな子供の1人で、マイクでいろんな音を録音したり、ループさせたり重ねたり・・。帰宅から母親に「夕ご飯だよ」と声を掛けられるまでのあいだ、全く生産性とは関係のない、無縁な実験行為に浸っていた。私はいわゆるそんな”デモテープ世代”であって、教授のサウンドストリートでデモテープ特集が組まれる前後の時代 夢中になっていた。
この4曲入りミニアルバムも、そんなデモテープ世界と地続きで、アナログな楽器類で構成されたくぐもった音の世界。ボリュームを上げて聴くと外気の音や見知らぬ人の声、ざわめきなんかも聞こえてくる。師走のゆらめく風景にマッチする。

 

■ペイル・コクーン「青空の実験室」1982■

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秋の100曲:鈴木さえ子「朝のマリンバ 」1983

2024-12-07 14:30:00 | 音楽帳

幼い頃から、十代、二十代、その後、と闇のなかを歩いてきた。
たとえば、高校を何とか出たところで、自分は2年も無職・浪人のときを過ごしていた。そのときには、日々悩みさまよいながら、自分が身を置ける場所がどこにもなかった。カネもなく、安堵できる家や場所も無いから、野外をほつきあるいていた。そんなにも苦しくて現実に身を置けない時代に、自分はいわば家出状態だったのだ。野外で持ち歩ける音楽プレイヤーなども無かった。そんなときには、カラダが勝手に作り出した脳内プレイヤーが活躍した。脳内の想像だけで音楽を再生し、そこに浸るというワザを身につけた。

あれからもう数十年が経った。今ではすぐれたモバイルプレイヤーがある。大してカネを持たない自分でも買えるくらいに安いものが手に入る。
でもいまだに苦しいココロを抱えて生きるのは変わらないから、持ち歩けるラジオとかプレイヤーは毎日欠かせない。毎晩眠れないから、寝る時もイヤホンをして別の世界に身をひたす。そうしないと、味気ない現実に身を侵蝕されて、生きたまま白痴になってしまうようだから。

***

”シネマ”ではなく”B-2ユニッツ”でその演奏に初めて出会った鈴木さえ子のソロデビュー作「毎日がクリスマスだったら(I wish it could be Christmas everyday)」は、少女的とも少年的ともいえるかわいらしい世界。
少年的とは、慶一氏が共同制作者だから、たぶんそれがにじみ出てきているのだろう。ほとんどの曲を二人で作っていて、二人のウエディングアルバムともいえる。

このアルバムに収録された曲には好きなものが多い。その中の1曲がアルバムB面最後に入った「朝のマリンバ」。
(歌詞はあるものの)”ほぼ”インストゥルメンタルな曲で、その雰囲気は晩秋にぴったり。この曲の数行の詞は慶一氏のもの。作曲はさえ子ちゃんになっている。
チャイムの音が印象的な曲で、これを掛けてイチョウ並木の下を歩きたい、と1983年からずーっと思ってきた。

《鐘の鳴る秋向きの曲は、いくつかあるけど。。》
できるなら、曲のアタマとお尻をうまく繋げてエンドレスで聴きたい。
先程の話に戻れば、こんな曲を周りの雑音が聞こえなくなるくらいの音量でイヤホンで聴きたい。
エンドレスに鳴り続ける音の世界にどっぷり浸り、鬱に落ちていくココロから飛び出して行きたい。

よく読書家や文学者の方のお話しで、読書で本の世界に入り込んでいるときだけは生きていてもいいと思う、といった話しを聞くことが最近特に多い。そして、この手の話しには、死んでしまいたい気分が毎日基本だが・・という補足が付くことが多い。
その話しにすごく共鳴するし、よくわかる。私もおおよそそんな状況だ。

 

■鈴木さえ子「朝のマリンバ 」1983■

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