ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

戦後日本史(連載第15回)

2013-07-31 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第3章 「逆走」の再活性化:1982‐92

〔三〕労組/社会党の切り崩し

 「戦後政治の総決算」という意味深長な中曽根政権のスローガンの中には、歴史認識のような思想的な問題にとどまらず、「55年体制」を形づくってきた自民党・財界対社会党・労組という対立軸―「逆走」の鈍化をもたらした要因でもあった―を解体するという政略的な狙いも込められていた。
 実際、中曽根政権が手がけた「三公社民営化」政策の中で標的となった国鉄と電電公社はともに大労組を擁し、社会党の有力支持基盤であった日本労働組合総評議会(総評)の屋台骨でもあった。とりわけ戦闘的な国鉄労組はしばしば大規模ストを敢行し、労働運動全体の牽引役としてその存在感を示していたから、最も主要なターゲットとされることとなった。
 一方、社会党は60年代に右派が分離して民社党を結成するなど―その背後に米国CIAの介在があったことが判明している―分解の動きが始まり、70年代後半の政治経済的閉塞期にも党勢が伸び悩んでいたところ、中曽根はこうした揺らぐ社会党にどどめの一撃を加えようとしていたのだった。
 その手始めは1986年の解散総選挙であった。この時、中曽根は憲法違反の疑いも指摘された衆参同日選に踏み切り、自民党を衆議院で300議席を獲得する圧勝に導いたのだった。対する社会党はわずか85議席の歴史的大敗であった。こうして成立した巨大与党の力で、中曽根政権は国鉄の実質的な解体を意味する分割民営化を政権最後の大仕事として推進し、やり遂げたのである。
 その効果は絶大であった。中曽根政権が退陣した2年後の89年には、総評と民社党系の全日本労働総同盟(同盟)などが合流して日本労働組合総連合会(連合)に再編された。
 この戦後労働運動史上画期的な出来事は、表面上は長く分裂していた官公労組主体の総評と民間労組系の同盟との歴史的な和解・糾合というポジティブな出来事のようにも見えるが、実際のところは国鉄労組に代表されたような戦闘的な労使対決型労組から旧同盟のような労使協調型労組への歴史的な転換を意味した。スト権を自ら凍結してしまう「物言わぬ労組」の始まりである。
 他方、86年総選挙で大敗した社会党は党勢立て直しのため、伝統的な労組系ではなく、護憲・市民運動系の土井たか子を初の女性委員長(党首)に就けた。
 折から、中曽根政権を引き継いだ竹下政権の下で、消費税の導入を巡る論議が高まり、反消費税を掲げる社会党が土井の個人人気にも支えられて再生し、竹下政権がリクルート事件の影響で退陣した後の89年参院選では自民党を過半数割れに追い込む勝利を収め、翌90年の総選挙でも140議席近くを獲得するまでに党勢を回復した。
 しかし、社会党にとってはこれが最後の一花であった。専ら土井の個人人気に支えられるところが大きかった社会党ブームは結局、自民党の支配力を打破するまでには至らず、91年の統一地方選挙での敗北を機に土井が委員長職を退くと、終わりを告げた。以後、社会党は―おそらく中曽根の目論見をも超えるスピードで―5年後の実質的な解党へ向けて滑り落ちていくのである。

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戦後日本史(連載第14回)

2013-07-30 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第3章 「逆走」の再活性化:1982‐92

〔二〕第一次新自由主義「改革」

 1987年まで5年近くに及ぶ久々の長期政権となった中曽根政権は、当時まだ漠然と「新保守主義」という政治的な用語で呼ばれていた路線の流れの中にあった。
 それは主として国営企業や公社・公団等の公的経済セクターの民営化と規制緩和を通じた民間資本の市場拡大を主要な政策とし、自由市場経済をイデオロギー的に追求していく反共・反社民主義的な政治経済潮流であって、79年に発足した英国のサッチャー保守党政権、81年に発足した米国のレーガン共和党政権に続き、82年には日本でも中曽根政権がこの路線の明確な体現者となったのである。
 こうした路線に基づく中曽根政権の施政方針は、20年近くを経て、あらゆる点で極めて類似する小泉政権の下では「新自由主義」なる新たなネーミングを伴って、いっそう強力に展開されることになる政策パッケージの先駆けとも言えるものであった。従って、歴史的には中曽根政権下での「改革」を「第一次新自由主義「改革」」と名づけることができるであろう。
 ここで「改革」とカッコ付きなのは、そもそも「新自由主義」とは名ばかりで、要するにその内容は19世紀以前のレッセフェール型自由主義経済と秩序維持に役割を限局された夜警国家を範とし、20世紀以降の社会権を踏まえた社会的な自由ではなく、古典的な経済的自由を追求する歴史的な反動思想の一つにほかないからである。
 こうした思潮はすでに前任の鈴木善幸首相の下で「行政改革」の形を取りながら始まっていたが、中曽根政権はそれをよりいっそうイデオロギシュに推進していくのである。
 それを象徴する施策が、日本専売公社・日本国有鉄道・日本電信電話公社の三公社民営化政策であった。これらはいずれも形態こそ異なれ、多数の労働者を抱える戦後日本の代表的な公共企業体であり、特に電電と国鉄は大労組を擁したことから、その民営化は次節で述べる労組切り崩し策の一環という底意も込められていたのであった。
 一方、中曽根政権下での規制緩和策の中でも、今日にまで至る重大な影響を残す施策は派遣労働の規制緩和である。中曽根政権は85年に労働者派遣法を制定し、人材派遣業を公認したのである。
 もっとも、当初派遣労働が認められたのは一部の専門的職種に限られていたが、それはその後の法改正によって逐次許容範囲が拡大され、小泉政権下の04年にはついに製造業にまで拡大されるに至る蟻の一穴だったのである。
 こうした労働市場における規制緩和策は、派生的にリクルート社のような人材情報サービス産業の成長を促進する一方で、同社を舞台として複数の現職事務次官のほか、中曽根政権の官房長官の収賄にまで発展した汚職事件(リクルート事件)を引き起こした。
 また85年のいわゆる「プラザ合意」後の円高不況対策という消極的な狙いからとはいえ、中曽根政権末期に導入された金融緩和策は、中曽根退任後に無規律な投機ブーム・バブル景気を発生させ、結果として90年代初頭のバブル経済崩壊とその後の長期不況の原因を作り出した。

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戦後日本史(連載第13回)

2013-07-29 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第3章 「逆走」の再活性化:1982‐92

〔一〕右派・中曽根政権の登場

 ロッキード事件後の政治・経済的閉塞状況を打開する体制引き締めの任務は、1982年に鈴木善幸首相の後任となった中曽根康弘に委ねられることとなった。
 中曽根は戦前の天皇主権国家の内政・治安面の要であった旧内務官僚の出身であり、こうした出自の点でも、20年余りにわたって停滞していた「逆走」の流れを再活性化させるにはまことにふさわしい人物と言えた。
 とはいえ、「闇将軍」田中角栄の影響力はなお絶大であり、党内少数派閥の長にすぎなかった中曽根の首相就任に当たっても田中の支持が決定的であったため、政権の支配人役たる内閣官房長官には田中系の後藤田正晴を起用する異例の配慮を示した。
 しかし、その後藤田も中曽根とは肌合いが異なったとはいえ、旧内務官僚にして戦後は警察庁長官を歴任した警察官僚であったため、中曽根政権は結果的に旧内務省コンビが官邸を主導する形でスタートし、このことが「逆走」再活性化の上でも効いてくる。
 中曽根は「逆走」のアクセルを再び踏み直すに当たって、「大統領型トップダウン」を掲げて官邸の主導性を追求し、特に内閣官房の強化を図った。この点でも50年代の「逆走」始動期のワンマン宰相・吉田茂型の政治手法の復活とも言えた。
 中曽根はかねてからの確信的な改憲論者にして、防衛力増強論者でもあり、特に防衛政策に関しては防衛費をGNPの1パーセント枠に抑制する不文律をあっさりと撤廃し、その後の防衛力増強の流れに道を開いた。
 また中曽根政権は旧内務官僚出身者を閣僚に多く擁する旧内務省系政権にふさわしく、治安管理の強化にも踏み出した。中曽根政権下では、政権発足直前の82年6月に反体制的な社会運動に対する治安取締り強化方針を打ち出した警察庁長官訓示を踏まえ、それらの団体・関係者に対する軽犯罪法まで動員した検挙が活発化した。
 同時に、中曽根は「司法のオーバーラン」を口にして司法部の違憲審査権の積極行使を牽制し、70年代以降の「司法反動」をいっそう推進する構えを見せた。
 中曽根はまた「戦後政治の総決算」を政権スローガンに掲げ、歴史認識の点でも、帝国主義的過去を相対化する歴史修正主義的な立場に立ち、閣僚の靖国神社公式参拝に関する政府の憲法解釈を緩め、85年8月15日には公式参拝に踏み切った。ただし、この行動に対して78年に国交を樹立した中国(中華人民共和国)が反発すると、中曽根は以後公式参拝を控えた。
 こうした中曽根の右派的傾向は、親米を軸として内政においては「逆走」を推進していく事大主義的な親米保守の路線内にあった。実際、中曽根は当時のレーガン米大統領と親密な関係を築き、いわゆる新保守主義的な政策を共有し合いながら、日本を米国の「不沈空母」と規定して、軍事的にも対米協力を積極的に行う姿勢を示した。

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戦後日本史(連載第12回)

2013-07-17 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第2章 「逆走」の鈍化:1960‐82

〔五〕成長の終焉と政治閉塞

 1960年以降、「逆走」のスピードダウンによる経済開発優先路線によってもたらされたいわゆる高度経済成長は、第四次中東戦争に伴う石油危機(第一次)を機に終焉した。その経済成長がマイナスに転じた1974年は、ちょうど時の田中角栄首相が不明朗な政治資金問題―いわゆる「田中金脈問題」―を指摘され、退陣した年でもあった。
 先に述べたように、田中は60年代以降の経済開発優先路線を象徴する人物でもあり、「列島改造」を掲げ、全土を徹底的に開発の対象としていく野心的な政策プログラムを展開しようとしていたが、そうした路線が生み出した金権体質に自らが染まっていたのだった。
 田中自らが主犯格となったロッキード事件は、その象徴的出来事であった。76年、前首相の逮捕という史上初の衝撃的なクライマックスを見ることになるこのアメリカ発の国際的な汚職事件は、しばしば日本側の捜査を主導した検察当局の果敢さを示す武勇談として記憶されているが、実際のところ、田中退陣後の与党・自民党内で激化していた権力闘争を強く反映していた。
 当時、反田中の急先鋒は二代後に首相となる福田赳夫であったが、田中の後任首相には、党内の「裁定」により少数派閥を率いる三木武夫が就いた。三木は元来中道政党・国民協同党の流れを汲み、「クリーン」をもって任ずる人物であった。その三木が後任に就いて政治浄化を掲げるようになったことは、田中にとって明らかに不利な情勢であった。三木が田中逮捕にゴーサインを出したことが、検察の「果敢な」行動に道を開いたのである。
 しかし、党内基盤の弱い三木内閣が長続きすることはなく、ロッキード事件後ほどなく退陣、後任には満を持して大蔵官僚出身の福田が就いた。福田は岸信介の流れを汲む党内右派の代表格と目されており、ここで久しく鈍化していた「逆走」の流れが再び本格化するかに思われたが、そうはならなかった。
 その理由は様々考えられるが、一つにはロッキード事件後に国民の政治不信が高まり、それを背景として76年には党内の一部が離党して新党・新自由クラブを結成するなど、党分裂の兆しすら見えていたことがある。また田中逮捕後も勢力を維持していた田中支持派からの巻き返しも激しく、福田内閣は腰をすえて政権運営に当たる余裕がなかった。
 結局、福田内閣も長続きせず、田中派の支持を受けた同じ大蔵官僚出身の大平正芳に首相の座を譲るが、大平内閣では党内抗争はいっそう激化した。80年には野党・社会党が提出した内閣不信任案に党内反大平派が欠席する形で事実上同調、可決させる事態となった。
 これを受けて行われた解散・総選挙の渦中、大平首相は病気で急死した。結果的に、この選挙で自民党は大勝し、大平派の鈴木善幸が首相に就任して党内融和に努めることになるが、この頃から、離党した刑事被告人の身ながら田中角栄の隠然たる党内支配力が強まり、いわゆる「闇将軍」として首相の人選にも影響力を行使するようになった。
 こうして、経済成長が終焉した74年以降は、79年の第二次石油ショックによる世界的不況にも直撃され、日本経済が下降期に入っていく中、政治的にも閉塞した状況が続く。80年代に入ると、ブルジョワ・ヘゲモニーは表面上強力に見えながらも、過去20年来の「逆走」鈍化の流れを転換し、体制引き締めを図るべき時機にさしかかっていた。

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戦後日本史(連載第11回)

2013-07-16 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第2章 「逆走」の鈍化:1960‐82

〔四〕「司法反動」の始まり

 1960年以降、「逆走」は長い鈍化の時代に入るが、「逆走」が完全に中断されたわけではなかったのは、一つの日頃目立たない領域においては、むしろ「逆走」が加速化していたためである。その目立たない例外的な領域とは司法であった。
 法秩序に関わる司法は占領=革命における改革の最も中心的なターゲットとされていた。その結果、司法制度全体に改革の手が入り、戦前の司法省を頂点とする行政主導的で独立性・中立性を欠いた抑圧的な司法から、最高裁判所を中心とするより独立性・中立性の高い司法へと変更されたのである。
 最高裁判所は新憲法の下、「憲法の番人」として立法・行政に対する違憲審査権という大きな権限を手にしていた。それに伴い、法曹界は保守層の「自主憲法制定」路線に対抗して、新憲法を擁護する護憲派の一大拠点となっていった。その象徴が、54年に結成された若手護憲派法律家の横断的な団体「青年法律家協会」(青法協)であった。
 この団体は60年代に入ると、多くの裁判官会員をも擁するようになり、司法部内部にも浸透して一定の潜勢力を持つようになった。それは、「逆走」が鈍化する中で高まりを見せていた革新・革命運動とも底流では結ばれた動きでもあったろう。
 青法協の影響力は元来保守的な最高裁そのものを大きく変えるまでには至らなかったとはいえ、最高裁の判断傾向にも一定の変化を与えるようになり、最高裁は60年代半ば以降、特に公務員の労働基本権を巡る裁判で、比較的リベラルな解釈を提示するようになってきた。
 こうした司法部の「左傾化」に危機感を抱き始めたブルジョワ保守層は、かれらが「左傾化」の大元とにらんだ青法協への攻撃を開始する。その最初の犠牲者は、北海道で航空自衛隊基地の建設に反対する住民が起こした行政訴訟で初めて自衛隊違憲判決を出した札幌地裁の福島重雄裁判長であった。
 自身青法協会員であった福島判事に対しては、上司に当たる札幌地裁所長から、判決前に自衛隊に対する違憲審査を回避するよう私信の形で圧力が加えられた。このように憲法で保障された裁判官の独立を侵害する明らかに憲法違反の裁判干渉をはねのけ、あえて違憲判断に踏み切った福島判事を、司法当局はその後の人事でも冷遇し続けたのである。
 以後70年代にかけて、青法協会員裁判官への脱会工作や、会員裁判官の再任拒否、会員司法修習生への裁判官任官拒否や修習生罷免などの徹底した「青法協排除」が断行されていく。
 それと平行するように、73年以降、公務員の労働基本権を巡る最高裁判決で、従前のよりリベラルな解釈が次々と覆され、こうした反動的な判決が今日まで基本判例として維持されているのである。
 実際のところ、司法領域においても、50年代の「逆コース」の影響は及んでいたのであるが、司法における「逆走」が加速を始めるのは60年代以降のことであって、こうしたいわゆる「司法反動」は後れてきた「逆コース」と言うべきものであった。
 要するに、政治経済面では鈍化した「逆走」のスピードが、その遅れを補うかのように、法秩序の面においては、逆にスピードアップしたのが、この時期であったのである。

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戦後日本史(連載第10回)

2013-07-03 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第2章 「逆走」の鈍化:1960‐82

〔三〕革新・革命運動の高揚と限界

 「逆走」のスピードダウンの意図せざる副産物として、60年代以降、左派の革新・革命運動の高揚という政治・社会現象が発現した。
 直接的には60年安保闘争を源として学生運動が活発化した。青年主体の運動によくありがちなように、学生運動は急進化して革命運動となった。その沸騰点は、世界的な学生運動の高揚が同時多発的に起きた68年であった。日本では69年初頭、急進的学生運動家らが東京大学安田講堂で機動隊と衝突した「安田講堂事件」に象徴された。
 しかし、大学進学率が低かった当時、大学生は中産階級以上の家庭から出た少数エリートにすぎず、学生運動は労働運動との結合がないまま、徒に急進的なスローガンを叫ぶ独善的な運動に走り、当局の力による鎮圧を招いた。
 そうした抑圧によっても刺激されたビジョンなき革命論は、爆破やハイジャックのような過激手法で社会不安を引き起こす派生的な過激集団を生み出し、一般民衆の支持・共感を得ることはできなかった。
 一方、60年代以降、地方自治体レベルでは社会党や共産党の支持を受けたいわゆる革新系首長を多く生み出した。67年に当選したマルクス経済学者出身の美濃部亮吉東京都知事はその象徴と言える存在であった。
 これら首長に率いられた革新自治体は国の政策よりも踏み込んだ福祉の充実や公害対策を訴え、一般民衆の支持・共感を得た。しかし一方で、こうした「革新勢力」は議会政治に順応して急進性を失い、資本主義を基本的に受容する社会民主主義的路線に収斂していった。日本共産党の穏健化もそうした流れの中にあった。
 こうした議会主義的な「革新勢力」の大衆的支持基盤となっていたのは労組であったが、日本の労組は占領期のGHQの政策転回以降、組織率が急落・低下傾向にあったことに加え、企業別の性格が強く、産別労組が未発達で横の連携がとりにくいうえ、労働界でも官公労組が指導的地位を占める官民格差が見られるなど、労働運動の広がりにも限界があった。
 それでも、当時最大の労組センターで社会党の支持基盤でもあった「日本労働組合総評議会」(総評)は、比較的高い団結力を示し、社会党を通じてブルジョワ・ヘゲモニーに対する主要な対抗勢力として無視できない影響力を発揮していた。
 このように、60年安保闘争で生じた「逆走」のスピードダウンがもたらした左派勢力の運動は60年代から70年半ばにかけていっとき高揚を見せるが、そこには後々退潮・瓦解の要因ともなる限界も内在していたのである。

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戦後日本史(連載第9回)

2013-07-02 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第2章 「逆走」の鈍化:1960‐82

〔一〕60年安保闘争

 1950年に始まり、10年に及ぶ「逆走」をスピードダウンさせる契機となったのは、60年安保闘争の民衆パワーであった。前述したように、岸内閣が最大使命とする日米安保条約改定は、日本が米国の戦争政策に巻き込まれることを懸念する国民の強い反対に遭い、安保改定反対闘争は空前の盛り上がりを見せたのだった。
 国会内では日本社会党が反対の中心にあった。同党は50年代を通じて着実に議席を伸ばしたが、自民党と拮抗するまでには至らず、55年体制下では政権にありつくことのない「万年野党」であったとはいえ、「逆走」を鈍化させるだけの力量は備えており、当時がこの党の全盛期でもあった。
 特に自民党が掲げる「自主憲法制定」に関しては、同党が憲法上改憲に必要とされる衆参両院での三分の二以上の議席を獲得することを阻止するうえで、社会党の対抗力は確実に効いていた。
 60年安保闘争は、こうした社会党を議会内センターとしつつ、議会外の幅広い勢力が結集して、空前の国会包囲デモに表出される民衆パワーを示した。戦前の民衆パワーの極点が1918年の米騒動だったとすれば、その42年後の60年安保闘争は戦後民衆パワーの極点であったと言えるであろう。
 しかし岸内閣はこうした民衆パワーを警察力や闇の反社会勢力まで動員して抑圧し、60年6月15日にはデモに参加していた女子学生一人が死亡する事態となった。
 結局、60年5月に衆議院で強行採決され、可決していた新安保条約(現行条約)は同年6月、参議院での審議すらないまま自動成立するという非民主的な形で実現を見た。しかしアイゼンハワー米大統領の記念すべき訪日は警備上の理由から中止となり、岸内閣は一連の政治混乱の責任を取って総辞職したのだった。
 こうして、「逆走」を完成させるべく登場した岸内閣は、日米安保改定の強行という“成果”を米国に差し出しつつも、内政面では民衆パワーの前に道半ばで挫折したのである。 

〔二〕経済開発優先路線への転換

 岸の後任となったのは、大蔵官僚出身の池田勇人であった。吉田茂の流れを汲む池田は本来リベラルとは言い難い人物ではあったが、60年安保闘争後の状況下で、当面体制維持のために何が求められているかを理解していた。
 池田内閣がぶち上げ、今日でも60年代を象徴するキーフレーズとして記憶されている「所得倍増計画」は、以後「改憲」に帰結される「逆走」のスピードを落としてでも経済開発を優先し、国民の生活水準全般を引き上げることを目指すというブルジョワ支配層の新戦略の表現でもあった。
 その裏には、60年安保闘争で表出された民衆パワーを削ぐうえでも、国民の所得水準を高め、政治への不満を逸らすという「ガス抜き」の意図も込められていた。
 こうした新戦略は、池田内閣以降、佐藤栄作内閣、田中角栄内閣の三代14年にわたって展開され成功を収め、この間に日本はいわゆる「高度経済成長」を達成したのだった。佐藤内閣時代の68年には、当時の西ドイツを抜き、資本主義陣営ではGNP規模で米国に次ぐ第二位の経済大国にのし上がった。敗戦から20年余りのことであった。
 この時期は同時に、自民党の全盛期でもあった。当時の自民党では岸の流れを汲む右派が後退し、代わって穏健中道派が党を掌握していたため、自民党自体が三分の一くらい社会民主主義に傾斜していたと言ってよかった。岸内閣時代に着手されていた社会保障制度の整備が―限界や欠陥を蔵しつつ―前進したのも、この時期であった。
 改憲は取り下げられることこそなかったが、棚上げにされた。定着しつつあった自衛隊も「専守防衛」が国是とされ、佐藤内閣時代にはいわゆる「非核三原則」が打ち出されるなど、改憲の最大標的憲法9条にも配慮が払われていたのである。
 ただ、こうした自民党の変化はどこまでも政権保持のための戦略の域を出るものではなく、本質的な変化ではなかったことはもちろん、経済開発優先路線は多くの開発利権を生み、政・財・官が癒着する構造的汚職体質の形成を促した。
 こうした社民主義の衣を被った「利権保守主義」は、70年代に入ると、現職総理大臣・田中角栄の収賄という前代未聞の汚職事件(ロッキード事件)を引き起こすまでにエスカレートし、70年代後半には国民の政治不信から自民党政治を行き詰まりに直面させることになったのである。

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戦後日本史(連載第8回)

2013-06-18 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第1章 「逆走」の始動:1950‐60

〔三〕親米保守主義者の台頭

 1950年に始まる「逆走」、とりわけ集中的な「逆コース」施策を終始日本側でリードしていたのは吉田茂であった。彼は46年から47年にかけて短期間首相を務めた後、48年に首相に返り咲いてから占領終了をまたいで54年まで首相の座にあった。
 自由民権運動の闘士を父に持つ吉田は、戦前は日米開戦に反対した穏健な職業外交官であり、戦後は公職追放を免れたが、本質的には保守主義者であり、占領=革命に対しては復古的な勢力の代表者として実力を伸ばした。
 外交官出身で交渉術にも長けた吉田は、理念転回した後の占領当局にとっても好都合な人物であり、実際、彼はGHQの意を体して日本政府をとりまとめ、米国による反共の砦化戦略にも積極的に協力した。
 その吉田が退任した翌年の55年にはいわゆる保守合同が成り、自由民主党(自民党)が結党される。新たな時代を画するこの新局面は、その直前に社会党が分裂していた左右両派の再統一により最大政党化する兆しを見せたことに対するブルジョワ保守層の危機感を背景としており、その背後には社会主義政党の躍進が反共の砦化戦略の遂行上妨げとなることを恐れた米国の意図も働いていたことは確実である
 自民党はその一見リベラルな党名とは裏腹に、日本国憲法を占領下で「押し付けられた」ものとみなし、事実上の憲法廃棄を意味する「自主憲法制定」を大きな課題として掲げ、社会党・共産党等の「階級政党」の排撃を公然と唱導する保守反動政党としてスタートした。
 この党は内部に若干の路線差を蔵しながらも、反共保守層を広く糾合し、以後93年に比較第一党の座を維持したまま一時下野するまで、38年にわたって政権党の座にあり続け、この間の「逆走」の全プロセスをリードしていくことになるのである。
 政治制度上は社会党や共産党のような社会主義・共産主義政党の存在を容認する多党制の下で、ブルジョワ保守政党が徹底した組織動員選挙を通じて継続的に政権党の座を維持するこの体制―ブルジョワ・ヘゲモニー―こそが、「逆走」の政治マシンである。
 このいわゆる「55年体制」の支配層として台頭してきたのは戦前軍国期の反米保守主義者ではなく、米国の庇護を受けて米国の国益に奉仕しつつ、米国の黙認の下に戦前的体制を順次復活させる事大主義的な傾向を持った親米保守主義者たちであった。
 こうして戦後登場した新たなタイプの保守主義者を糾合するアンブレラ政党として、事実上の世襲を伴いつつ世代を継いで今日まで機能し続けているのが自民党であると言える。

〔四〕右派・岸内閣の登場

 55年の保守合同をまたいで最初の自民党首相となった鳩山一郎が56年に退任した後、二代目の自民党首相に就いたのは、意外にもリベラル派の石橋湛山であった。
 石橋は戦前はリベラル保守主義者として自由主義的な立場で論陣を張った経済ジャーナリスト出身であった。このような人物が逆コース渦中に首相に就いたのは、逆コースの行き過ぎに対する保守層内部からの警戒感の表れとも言えた。
 しかし石橋は就任後間もなく病気で倒れ、わずか1か月ほどで退任する。歴史に仮定は禁物と言われるが、あえて禁を破って石橋が健康体で政権を維持したと仮定しても、リベラル派の政治基盤は弱く、「逆走」の流れを止めることはできなかったであろう。すでに逆走する車は動き出していたのである。
 石橋の後任となったのは、旧商工省官僚出身の岸信介であった。岸は戦前、満州経営にも関わった経済官僚として戦後は戦犯容疑で逮捕されたが訴追は免れ、一時公職追放されていた、そうした出自からも、岸は自民党では右派の代表格であった。その岸を政権の主とする内閣が登場したことは、「逆走」がいよいよ佳境に入ることを意味していた。
 岸内閣の最大使命となったのが、日米安保条約の改定問題であった。52年発効の旧安保条約はいまだ表向きは「非武装」である日本を米国が保護的に防衛するという片務性の強い内容であったが、これでは反共の砦化戦略にとって不十分であったため、日本自身も自国防衛義務を負うという双務的な形を取りつつ、米軍の協力組織としての自衛隊の存在と活動を承認する新たな内容に改定する必要があった。
 58年から交渉に入った安保改定はしかし、最大野党・社会党をはじめ、民衆の強い反対を受け、安保改定反対闘争を激化させることになった。これに対して、岸内閣は大衆運動を徹底的に抑圧する方針で臨み、60年に新安保条約の調印に漕ぎ着けた。
 岸内閣は抑圧的な治安政策とともに、国民皆保険・皆年金のような社会保障制度の整備にも着手し、「アメとムチ」政策によるセキュリティー統治を本格的に試み、長期政権化するかに見えた。

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戦後日本史(連載第7回)

2013-06-04 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第1章 「逆走」の始動:1950‐60

〔二〕「逆コース」施策の開始

 いわゆる「逆コース」施策が本格的に始まるのは、1951年のサンフランシスコ講和条約(以下、サ条約)で日本が法的に主権を回復し、占領が終了する翌52年のことである。従って、「逆走」の発端となった朝鮮戦争が勃発した1950年から52年までの占領末期は、「逆走」の序走期とみなすことができる。
 「逆コース」施策の中で中心を成すのは、やはり軍事政策であった。「逆走」の言わば号砲として50年にGHQの指令に基づき創設されていた警察予備隊が52年に保安隊と改組・改称され、54年には新たに自衛隊として再編・強化された。
 こうしてあたかも幼虫からさなぎを経て成虫となる昆虫のような形で誕生した自衛隊は、指揮系統、階級、司法手続き等の点でなお軍隊とは異なる要素を残していたものの、陸・海・空三部門を擁し、日本の国土防衛を主任務とする専門的な常設武装組織として立ち現れたから、自衛隊の発足は事実上の再軍備に等しいものと言ってよかった。
 自衛隊の存立根拠は新憲法には全く見えず、直接的にはサ条約と同時に締結された日米安全保障条約(旧安保条約)及びそれを補充する54年のMSA(相互防衛援助協定)に置かれていたから、これらの日米条約は理論上はともかく、政治的には日本国憲法よりも上位の規範文書とされていたのである。
 さらに、占領=革命下で地方自治と符丁を合わせて分権化された警察組織を再び中央集権的に再編する新警察法の制定も自衛隊発足と同じ54年に成った。これに先立ち、戦前の悪名高い秘密政治警察として廃止されていた特別高等警察(特高)を引き継ぐ公安警察が創設されたことと併せ、政治的かつ集権的な国家警察組織も立ち戻ってきた。
 さらに52年7月には同年5月1日に皇居外苑でデモ隊と警察部隊が衝突して多数の死傷者を出した「血のメーデー事件」を契機として、破壊活動防止法が制定されている。
 同法は特高が政治犯取締り法規として濫用し、特高とともに廃止されていた旧治安維持法よりは穏健な内容にとどめられていたものの、支配層の思惑の上では同法の復刻版と言うべき治安法規であって、その所管・執行機関として法務省に公安調査庁が設置された。
 これはすでに51年に戦前における思想弾圧の中心を担った思想検事の流れを汲む公安係検事が創設されたこととも合わせ、治安面での「逆コース」の要であった。
 こうして軍事・治安分野での「逆コース」と同時に、国民形成に関わる教育分野も「逆コース」のもう一つの主要な舞台となった。その出発点はやはり自衛隊発足年の54年、公立学校教員の政治活動を広範囲に禁じたいわゆる「教育二法」の制定であった。さらに56年には米国の制度にならって教育行政の分権化・民主化の目的で導入されていた地方自治体教育委員会の委員公選制が任命制に切り下げられた。
 以上のような上部構造に係る「逆コース」に比べ、下部経済構造に係る「逆コース」の開始はやや遅れるのであるが、それでも53年には大資本中心の経済体制を復活させるべく、企業結合の規制緩和を柱とする独禁法改定がなされ、55年には財閥解体を目指した過度経済力集中排除法も廃止となった。
 こうした「逆コース」を追い風として早くも憲法改正問題が浮上し、54年に吉田茂の後任として首相に就任した戦前の文部大臣経験者で、いったんは軍国主義者として公職追放されていた鳩山一郎の下で、改憲準備組織の性格を持つ内閣憲法調査会が設置されることとなった。
 結局のところ、この時期の改憲は実現しないのであるが、改憲問題の提起は「逆コース」の始動を明瞭に象徴する出来事であったことは間違いない。

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戦後日本史(連載第6回)

2013-06-03 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第1章 「逆走」の始動:1950‐60

〔一〕「逆走」の発端‐朝鮮戦争

 占領=革命理念の反共・保守的な転回はすでに1947年の冷戦開始時に起きていた。よって、占領=革命の成果を逐次反故にしていく「逆走」の開始時点を1947年とみなしてもあながち誤りとは言えない。
 とはいえ、この年の5月3日には占領=革命の一つの法的な結晶である新憲法が施行されており、47年はその他の一連の革新的な新施策の裏づけとなる法体系が整備された年でもある。具体的に言えば、家父長制を廃し両性の平等に立脚する新民法、不敬罪や大逆罪等の神権天皇制時代の政治犯罪条項を削除した刑法改正、地方自治の確立を目指す地方自治法や警察の民主化の要となる警察法、財閥復活を阻止する独占禁止法などがそれである。
 こうして47年から50年までの占領第二期は、革命的な流れと反革命的な流れとがせめぎ合う期間だったと言えるが、後者の反革命的な流れを決定づけた出来事が、50年6月に勃発する朝鮮戦争であった。
 ソ連を後ろ盾とする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が米ソの朝鮮半島分割支配ラインである北緯38度線を越えて米国を後ろ盾とする大韓民国に進攻して朝鮮半島の武力統一を目指したことをきっかけに始まったこの戦争は、東西冷戦の構造が実戦の形をとって現れた最初の国際戦争であり、終結したばかりの第二次世界大戦に続く第三次世界大戦の危険性をも孕む画期的な出来事であった。
 米国にとっては、日本を反共の砦として再構築する新戦略が早速実際に試される出来事でもあった。GHQは出来たばかりの新憲法の目玉である日本の非武装化を早くも見直さざるを得なくなった。
 開戦から2か月後の50年8月、GHQは憲法9条に対する最初の修正要求となる新たな武装部隊の創設に係る一つの重大な指令を発する。ただし、あらゆる戦力の不保持を明記した9条との形式上の整合性を担保するため、武装部隊の名称は「警察予備隊」とされた。
 「警察予備隊」というと、一見警察力を補完する重装治安部隊のような組織とも思えるが、実のところ、この新組織は占領軍が朝鮮戦争に出動し空白となった日本の防衛を目的として創設された準軍隊と呼ぶべき武装部隊であった。要員募集も当初こそ旧日本軍軍人は回避する形で行われたが、隊員の経験不足が問題となり、間もなく旧日本軍の軍人経験者も採用されるようになった。
 これをきっかけとして、先に公職追放されていた軍国体制要人らの追放解除が51年から52年にかけて実施される反面、50年以降、共産主義者に対する公職追放が行われた。朝鮮戦争は、こうして軍国の亡霊を呼び戻す結果となった。
 いわゆる「逆コース」施策は1950年にはまだ本格的に開始されないが、「逆走」自体はこの年を起点とすると理解されるのである。

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戦後日本史(連載第5回)

2013-05-23 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

序章 占領=革命:1945‐49

〔四〕冷戦と占領理念の転回

 1947年、いわゆる東西冷戦が幕を開けると、連合国の占領=革命も重大な転機を迎える。言わば占領第二期である。
 米国はソ連と接する日本を対ソ連との関係で「反共の砦」として再構築する地政学上の必要性に直面した。結果、占領=革命の理念も反共的な転回を見せる。
 その最初の徴候は労働運動の抑圧に現れる。占領政策の重要な柱の一つであった労組の助長は公務員の労組結成の自由化を実現し、官公労組を戦後労働運動の主役に押し上げようとしていた。その最初の高揚が47年2月1日に予定されていたゼネストであった。しかしGHQは2・1ゼネストを禁止する命令を発し、封じ込めを図ったのである。
 それでも、同年4月の総選挙では戦後合法化された旧無産政党を結集した日本社会党が第一党に躍進し、同党委員長・片山哲を首班とする史上初の社会党系内閣(中道保守系政党との連立)を成立させた。
 この出来事はまさに占領=革命の一つの政治的所産と言えたが、一方で片山内閣は賃金抑制と大量解雇を容認する企業整理を後押しし、これに対する労組の地域闘争が活発化すると、これを「山猫スト」とみなして厳罰で臨む姿勢を鮮明にするなど、この史上最初にして最後となる社会党主導の左派政権は転回し始めた占領=革命の理念に強く制約されていた。
 結局、片山内閣はほとんど唯一の「社会主義的」な政策であった炭鉱国家管理政策をめぐる政権内の混乱などから48年3月に総辞職し、連立与党の一つであった中道保守政党・民主党の芦田均総裁を首班とする内閣に交代した。
 この芦田内閣の下、GHQの意向を受けた政令をもって公務員の争議権が禁止され、同内閣が48年10月に疑獄事件を機に総辞職した後、政権に返り咲いた保守系・吉田茂を首班とする第二次吉田内閣の下で国家公務員法が正式に改定され、公務員の労働基本権を厳しく制限する現行制度の骨格が定まる。
 職業外交官出身の吉田は以後、52年の占領終了をまたいで54年まで首相の座を維持するが、その間、彼は占領当局の反共政策を体現し、その忠実な代理人として次章で見る数々のいわゆる「逆コース」施策を独特の強いリーダーシップを駆使して推進していくことになる。
 占領当局=GHQ内部においても主導権の交替が起きていた。当初、社民主義的な諸改革を主導していたのはGHQでも左派色の強い幕僚部民政局であったが、冷戦開始後は反共・保守色の強い諜報担当の参謀第二部(G2)が主導権を握るようになっていた。
 G2からすると、民政局の面々は「レッド」(共産主義者)とは言わないまでも、「ピンク」(容共主義者)と映っており、日本を共産化という危険な方向へ誘導しかねないことを憂慮していたのだった。
 49年に入ると、下山事件・三鷹事件・松山事件と、いずれも当時大量解雇の嵐の中、最も戦闘的な労組として台頭しつつあった国鉄労組に関わる謀略事件が立て続けに発生する。
 これら三事件の真相は―三鷹事件のように主犯とされた者の死刑判決が確定したケースも含め―今なお不明であるが、今日ではいずれも国鉄労組の切り崩しを狙った政治謀略事件であった疑いが濃厚となっており、こうした謀略事件の背後にG2の関与があったものと見られる。
 これに先立つ48年における財政均衡政策を中心とする経済安定九原則とそれに基づくドッジライン、翌年の大企業減税を柱とするシャウプ勧告は民間企業・行政機関双方での人員整理を強い、大量の失業者を産み出すことになったが、これに対する官民労働者層の抵抗が強まると、占領当局とその意を受けた日本政府は力による抑圧で応じたのである。
 こうした冷戦開始以後の占領=革命の理念的転回はしかし、当初の理念と完全に断絶されたものではなく、その一つの必然的な転回方向であった。
 前にも指摘したように、占領=革命はワイマール体制を産み出した1919年ドイツ革命と同様に、リベラルなブルジョワ民主主義革命の域を出るものではなかったから、労働運動が占領当局の許容限度を超えて隆起した時、折からの冷戦の開始という国政情勢の変化にも後押しされて、資本制護持のための抑圧政策へと容易に転回していったのである。

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戦後日本史(連載第4回)

2013-05-22 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

序章 占領=革命:1945‐49

〔三〕占領=革命の理念〈2〉

 連合国の占領は、前回見たように内容上は社会民主主義的なブルジョワ革命の性格を持っていたが、主権の所在の変更が実現されたことで形式上も革命的性格を帯びるに至った。すなわち天皇主権から国民主権への転換である。
 占領当局は先の「五大改革指令」とは別途、政体に関しても46年2月のGHQ改憲案(いわゆるマッカーサー草案)の形で、国民主権・象徴天皇制を明示した。
 この草案は、当初占領当局の示唆を受けて日本側が独自に作成した改憲案(いわゆる松本私案)の中で明治憲法上の天皇主権の大原則を維持しようとしていたことをGHQが不満とし、事実上日本側のこうした保守的な態度を拒否して、明確に政体の変更を要求したものにほかならなかった。
 これはポ宣言受諾の時から「国体」の護持に固執していた日本支配層にとっては受け入れ難いことであって、マッカーサー草案に対しては国民主権の原則を極力骨抜きにするような修正文言を加えて抵抗を示したものの、結局草案の線で妥協が成立したのであった。
 このような経緯から窺える占領当局の政治的理念は、ブルジョワ民主主義の表現である国民主権論にあったと言える。逆言すれば、より革命的な人民主権ないし民衆主権の理念は否認されており、天皇に代わる新たな主権者は無産階級ないし草の根民衆ではなく、ブルジョワ市民階級であることが含意されていた。
 一方、天皇制の存廃をめぐる占領当局の考え方は当初定まっていなかったようであるが、結局ストレートに天皇制廃止・共和制移行へ突き進むことに伴う政治的な混乱を恐れ、天皇制の枠組み自体はこれを温存しつつ、その実質を変更する方針で固まっていく。
 その結果、天皇制護持だけは譲れない日本側との妥協が成立し、象徴天皇制に落ち着くわけであるが、この制度は結局のところ、西欧的な立憲君主制の相応物であった。
 しかし、君主の権能が憲法上厳格に制約されながらも、なお一定の政治的権能を留保する国家元首の地位を保持していることが多い西欧立憲君主制とも異なり、新憲法に現れた天皇は一切の政治的権能を有しない純粋に象徴的な存在とされ、君主=国家元首としても明示されないという点で、西欧立憲君主制よりもいっそう徹底した名目君主制の一形態である点に特質がある。
 こうした点を見ると、国民主権に立脚した象徴天皇制とは限りなく共和制に近いブルジョワ民主主義の特殊な産物であり、ここに占領=革命のブルジョワ的な政治理念が深く埋め込まれていると言えるであろう。

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戦後日本史(連載第3回)

2013-05-21 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

序章 占領=革命:1945‐49

〔二〕占領=革命の理念〈1〉

 連合国の占領政策が革命的な内容を持つことが明らかになってきたのは、1945年10月に連合国軍最高司令官マッカーサーによって発せられたいわゆる「五大改革指令」においてであった。
 その内容は(1)婦人の解放、(2)労働組合の助長、(3)教育の自由主義化、(4)圧制的諸制度の撤廃、(5)経済の民主化の五点であるが、中心を成すのは「経済の民主化」である。
 具体的には「所得並びに生産及商工業の諸手段の所有の普遍的分配を齎す[もたらす]が如き方法の発達に依り,独占的産業支配が改善せらるるやう日本の経済機構を民主主義化する」とされたが、これはいわゆる社会民主主義を示唆する命題である。つまりは、資本主義的経済構造は本質的にこれを温存しつつ、独占・寡占資本には一定のメスを入れるとともに、二番目の標語にあるように、労働基本権の保障を通じ、それまで粗野なままであった労使関係を改革して労働者の地位の向上と生活改善を図るというものである。
 こうした社民主義のテーゼが連合国、なかんずく米国から提示されたのは、当時の米国がニューディール政策(以下、ND政策という)を導入した民主党のローズベルト政権を継承するトルーマン政権の下にあったことと無関係ではない。
 ND政策は西欧生まれの社民主義の米国的な文脈における再解釈とも言うべきものであって、当時の米支配層は日本民主化を企画するに当たって、このND路線の適用を念頭に置いていたのである。
 さしあたり占領当局が優先課題としたのは、農地改革と財閥解体であった。このうち前者の農地改革は全般に不徹底に終わる占領=革命の諸政策の中では比較的徹底しており、その効果が永続したプログラムであった。
 その内容はもちろん農地国有化ではなく、大地主所有に係る農地の小作農への分配と小規模自作農の育成という典型的にブルジョワ的な、しかし大多数の農民の要望に合致するものであった。これにより戦前期日本農業の特徴であった寄生地主制は解体され、農民のプチブル中産階級化が実現し、かれらはやがてブルジョワ保守支配の最も基盤的な支持層となっていくのである。
 二番目の財閥解体は反対に、占領=革命の不徹底さの象徴であった。占領当局は持株会社の禁止を軸とした独占禁止政策を主導し、戦前の主要15財閥の解体を図るが、財閥の中核を成す大銀行は温存したため、大銀行を核とする「企業系列」の形態を経て、半世紀後の「金融ビッグバン」に際し、大銀行を中心とした財閥の再興につながっていく。
 一方、労働基本権の保障、特に労働組合活動の自由化はこの時期の大きな施策である、その効果は今日まで持続しているものの、占領当局は当然ながら労組に基盤を置いていたわけではなく、あくまでも「経済の民主化」と関連付けられた政策プログラムの一環としての労働組合の育成策を主導したにすぎなかった。
 とはいえ、労働基本権は新憲法にも明文を持って書き込まれ、当時のブルジョワ憲法としては最も充実した社会権条項を持つ新憲法は、起草過程で大いに参照されたアメリカ合衆国憲法とも異なる社会民主主義色の濃厚なブルジョワ・リベラル憲法に仕上がっていった。
 そうした憲法に基づく新体制は、戦前ドイツのワイマール体制に類似しており、新憲法体制は―共和制ではなかったものの―日本版ワイマール体制と呼んでもよさそうな実質を有していた。
 従って、そこにはドイツのワイマール体制と同様の限界が認められた。すなわち所詮それは下部構造の部分的手直しと上部構造の改革にとどまるブルジョワ革命の域を出ないものであった。ただ、ワイマール体制とも異なり、占領=革命ではもう一つ、カント的な恒久平和論が反映された交戦権放棄と軍備廃止というラディカルな変革が目指されたことは特筆に値する。
 こうして、戦後の占領は言葉の厳密な意味での「革命」ではなかったけれども、内容上は外国の介入による「横からの革命」と言うべき変革を画したのである。

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戦後日本史(連載第2回)

2013-05-15 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

序章 占領=革命:1945‐49

〔一〕占領=革命の開始

 1945年8月14日、ポツダム宣言(以下、「ポ宣言」と略す)の受諾により大日本帝国は事実上崩壊した。その体制を産み出した明治維新から起算すると一世紀は持続せず、およそ80年の命脈であった。
 現在の日本からはなかなか想像もつかないことであるが、大日本帝国は戦争にはめっぽう強かった。明治時代における二つの大戦、日清・日露両戦争での勝利に続き、大正時代の第一次世界大戦も側面参加にとどまったとはいえ、勝ち組に身を置き、戦争景気と戦間期における経済成長・高度資本蓄積のきっかけを掴んだ。
 ところが、第二次世界大戦では過去の戦争政策での成功体験ゆえの過信からか、無謀な戦略のために初の敗戦を喫した。それも人類史上初の原爆投下という手痛い破壊を伴う木っ端微塵の敗北であった。
 ポ宣言の受諾により主権もいったん没収され、米国を筆頭とする連合国の占領を受け入れなければならなかった。その結果、45年以降占領下での諸改革が開始される。本連載ではこうした連合国による占領を一種の革命ととらえるところから出発する。実際、占領下での憲法改正を伴う改革は、ゆうに革命と呼んでよい内容を伴っていた。
 特に焦点の憲法改正では天皇主権から国民主権への変更が実現された。この点で、明治憲法から昭和憲法への変移は通常の意味での「改憲」ではなく、旧憲法の廃棄と新憲法の制定という革命的なプロセスであった。そこで、明治憲法体制から昭和憲法体制への変革を画したポ宣言の受諾を一種の革命とみなそうという「8月革命説」という理論が、当時の有力な憲法学者であった宮沢俊義によって提唱された。
 だがこれは法学的なロジックにすぎず、ロジックとしても8月14日に革命が起きたと仮定するのは適切でない。ポ宣言は、日本に対して軍国主義勢力の排除と民主主義傾向の復活を要求してはいるが、体制変革については黙しており、ポ宣言受諾の時点では、どこまで体制の根幹にメスを入れられるか不明であった。天皇主権の変更にとどまらず、社会経済構造にまで及ぶ連合国側の根本的な体制変革の意思が明確になるのは、翌46年に入ってからのことであった。
 それまでまだ法的には存続していた大日本帝国の支配層主流は部分的な憲法改正と政策変更程度の手直しで容赦され、再出発できると高をくくっていたのだった。ただ、ポ宣言の受諾までに時間がかかり、その間に原爆投下を許したのは、戦前からの官僚主義的な「決められない政治」のゆえばかりではなく、「決められない理由」もあった。
 実際、ポ宣言の内容解釈をめぐり、体制変更の趣旨を含むのかどうかについての不安が支配層内部にあったことは事実である。すでに革命的介入の予感がしていた。実際、ポ宣言は間もなく開始される、支配層にとっては受け入れ難い占領=革命の序曲であった。

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戦後日本史(連載第1回)

2013-05-14 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

序論

 1945年8月14日(ポツダム宣言受諾日)を起点とする戦後日本も70歳の古希に近づかんとしており、この歳月を「歴史」として振り返ることは不自然ではないだろう。
 もっとも、「歴史」と言った場合、少なくとも現時点から遡って四半世紀くらい過去までが厳密な意味での「歴史」となるのだろうが、本連載ではいわゆる同時代史に属する直近過去も含めて「歴史」とみなすことにする。
 そうした意味での戦後日本の歴史を、本連載は「逆走」というキーワードでとらえ返す。すなわち戦後日本はおおむね1950年(昭和25年)を起点として、あたかも高速道路をひたすらバックしていく車のように逆走を続けてきたと理解するのである。
 この点、つとに日本現代史の領域では、自衛隊の創設をはじめ、1950年代に次々と打たれた「戦後改革」の成果を反故にするような逆行的な「改革」を指して「逆コース」と呼ぶことが行われきたが、そうした「逆コース」は決して1950年代に固有の現象ではなくして、1950年を一応の起点としつつ、現時点に至るまで60年余りにわたって続いていることなのである。
 そうした「逆走」という視座で改めて戦後日本史の全体を振り返ってみると、その間の様々な事象の意味が読み解けるのではないか、というのが管見である。
 では、この二世代余りにわたる歴史的スパンを持つ「逆走」の行き先はどこなのであろうか。念のため予め述べておくと、それはしばしば想起される戦時中の軍国体制への回帰ではない。
 かの軍国体制はあくまでも20世紀前半における帝国主義的国際秩序の所産であって、世界の構造が大きく変化した現在あるいはその延長としての近未来にはもはや成立し難いものである。
 さしあたり現在の「逆走」の到達点は軍国体制そのものではなく、軍国体制を産み出す土壌ともなった権威主義的な国家社会体制ということになろう。それは天皇を戴く垂直的・権威的な社会管理体制であって、自由より秩序を、理性よりも心情を重視する保守的な社会体制である。
 戦後、連合国軍(実質は米国)の占領下で実行された諸改革は、こうした体制にかなり深くメスを入れるものではあったが、そこには理念的・方法的な限界が否めなかったことに加え、日本支配層はそうした外科手術的な改革を極力回避し、回避し難い場合でも極力抵抗して骨抜きにし、旧体制の実質を温存しようと努めたのである。
 そういう旧体制護持・回帰の意思は、実は今日に至るまで日本の政・財・官・学支配層に一貫した意思なのであって、それが60年にわたり世代をまたぐ「逆走」の理念的核となってきた。
 一方で、戦後の日本は「逆走」の開始と期を同じくして資本主義的経済成長を開始し、1970年代半ばまでに米国に次ぐ規模の生産力―大差はあれど―を誇る資本主義経済大国にのし上がった。
 こうした下部構造の「発展」もまた「逆走」の過程で生じた現象であって、結局のところ、戦後日本の「発展」とは単純に前進的な発展ではなく、後方へ向けてのねじれ発展という複雑かつ独異なものであったのである。

*****

 このような「逆走」はもちろん何の抵抗も受けずに粛々と進められたわけではなく、その開始の時点から強い抵抗に直面した。本文でも見ていくように、「逆走」は1960年以降、20年以上にわたりスピードダウンを余儀なくされたのである。
 しかし、おおむね1980年代半ば以降になると「逆走」に対する社会の抵抗力が目に見えて弱化し、むしろ多数派国民はこうした「逆走」を積極的に推進しようとする政権に喝采し、長期にわたって支持するようにさえなる。
 そこには、二度の石油ショックを経て1970年代後半以降日本経済が下降期に入り、生活苦が忍び寄る中で、日本支配層が「逆走」に「改革」の衣を着せて宣伝するようになったことが、有権者大衆に経済再生への幻惑を抱かせるようになったことが大きく関わっていると見られる。
 しかし、そればかりでなく、元来主流的な日本人の中に、濃淡の差はあれ、権威主義的な国家社会体制に対して親和的な価値観が根強く存在しており、それが1970年代後半以降の経済的下降の中で、再現前されてきているように見える。
 これを社会心理学的に掘り下げていけば、「権威主義的パーソナリティ」の問題に及ぶかもしれない。「権威主義的パーソナリティ」とは、強者の権威に対する無条件的な服従を受け入れるような社会的性格を指すが、主流的な日本人は上下関係を当然とし、上命下服を自然に受け入れる傾向性を保持している。こうした国民性は当然にも、権威主義的国家社会体制に対して親和的である。
 それはともかくとしても、本稿執筆時点では「逆走」を阻止できるような対抗勢力はほぼ皆無と言ってよい状況にある。従って、「逆走」を有効に食い止め、少なくともスピードダウンさせる手立ては存在しないというのが筆者の結論となる。
 そうすると、もう間もなくすれば「逆走」はその到達点、すなわち権威主義的な国家社会体制への回帰に行き着くだろう。その場合に懸念されることは、その体制は再び暴走を来たさないかどうかである。権威主義体制は批判を封殺するため、チェックが効かなくなり、暴走しがちだからである。
 この点、再び暴走して軍国体制が再現前するという悪夢の可能性を排除できることは、先に述べたとおりである。だからと言って安心し切れるわけではない。それではどんな事態が考えられるかについては、終章で現時点において看取され得る限りでの予兆を指摘したい。
 いずれにせよ、戦後世代が人口の大半を占めるに至った現在、戦後日本史は筆者を含めたほとんどの日本人にとっては〈自分史〉とも重なり合っている。従って、戦後世代はこの間の「逆走」の結果から逃れることはできないのである。
 そこで、「逆走」の歴史をどう受け止め、その流れに抗うか、それとも流れに乗るのか、一人ひとりが態度決定を迫られているのが現時点である。

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