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持続可能的計画経済論[統合新版](連載第35回)

2025-01-03 | 持続可能的計画経済論[統合新版]

第2部 持続可能的経済計画の過程

 

第7章 計画経済とエネルギー供給

(4)エネルギー消費の計画管理
 持続可能的計画経済におけるエネルギー供給計画は、末端需要者のエネルギー消費のあり方にも影響を及ぼす。当然にも、資本主義経済下のように需要者が欲するだけ無制限に消費できるということにはならない。
 特に二次エネルギー源の中でも最も重要な電気の消費は厳正な計画供給制となるが、その場合、事前告知による計画停電のような全体統制的な方法とリミット制のような個別規制的な方法とがある。
 計画停電は大災害時等の非常措置としてやむを得ない場合もあるが、日常的にこうした全体統制的な供給体制を採ることは、電力供給システムが整備されている状況では不必要である。
 そこでリミット制が選択されるが、その適用方法は一般世帯と企業体のような大口需要者とでは異なる。大口需要者については、電力事業機構との個別協定により日量のリミットを設定するが、一般世帯では個別協定ではなく、予め通知された約款で定められた日量上限を超えた場合、事前警告のうえ自動的に停電するという方法によることになるだろう。
 実際、持続可能的計画経済が確立される将来には、こうした厳格なリミット制を支える技術革新が進み、末端需要者が電力使用量をリアルタイムで正確に把握でき、リミットに接近すれば警告されるような測定装置が一般世帯にも普及すると予測され、厳格なリミット制に現時点で想定されるような煩雑さはないものと思われる。
 同様のリミット制はガスにも導入されるが、持続可能的計画経済はオール電化とかオールガス化といった消費エネルギー構成の偏向は認めず、消費エネルギーバランスが考慮される。そのためにも、電力供給とガス供給は統合的な事業体(電力・ガス事業機構)を通じて包括的に行われることが望ましい。
 とはいえ、こうしたエネルギーの大量供給体制はいかに計画化を進めても環境的持続可能性にとって十分ではないから、エネルギー自給システムの普及も併せて考慮されなければならない。具体的には自家発電装置の常備や地方集落では薪火のような伝統的発火手段の復活・併用などである。

 

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持続可能的計画経済論[統合新版](連載第34回)

2025-01-02 | 持続可能的計画経済論[統合新版]

第2部 持続可能的経済計画の過程

 

第7章 経済計画とエネルギー供給

(3)エネルギー事業体
 一般世帯と企業体その他のエネルギー需要者に対するエネルギー生産・供給を任務とする事業体(エネルギー事業体)のあり方は、生産様式一般とも無関係ではないが、必ずしも必然的な関係にあるわけではない。
 すなわち資本主義生産様式にあっても、天然資源の共有化政策によりエネルギー事業体に関しては国有などの公企業体の形態を採ることはままあるし(特に石油などの資源事業体)、電力自由化以前の日本の旧電力事業体のように株式企業ではあるが、地域独占企業体としての特権を国から保障された公認独占企業体の形態を採ることもある。
 しかし、近時のいわゆる新自由主義的なイデオロギーはエネルギー生産・供給の自由化にも及び、特に電力事業の民営競争化を志向する傾向が強まっている。
 これに対して、エネルギーの民際管理に基づく供給計画化が図られる持続可能的計画経済下のエネルギー事業体は、社会的所有型の公企業を基本とする。具体的には、後に改めて見る生産事業機構の形態を採ることになる。
 例えば、電力であれば、電力事業機構である。このような企業体は地域ごとに分割するのではなく、全土統一的な事業体として設立されるが、いくつかの地方管区ごとに地方事業所が置かれ、一定の分権的な運営は図られる。
 また民際管理される石油をはじめとする一次エネルギー源は、商業的な輸入によるのでなく、各領域圏ごとの供給枠に従い計画供給されることになるため、その統一的な受け入れ窓口となる事業体が必要である。
 その点、前回指摘したように、経済計画会議の下部機関としてエネルギー事業体で構成するエネルギー計画協議会の直轄事業体として、供給資源の包括的な受け入れ窓口となる天然資源渉外機構を設置し、同機構が供給枠の交渉から海上輸送までを担当する。受給した資源の領域圏内での二次供給については、エネルギー計画協議会が担う。
 なお、原子力発電を用いない持続可能的計画経済は同時に原発廃止という歴史的な時間を要するエネルギー廃棄のプロセスをも含んでいる。こうした脱原発計画も世界規模で実施されるが、さしあたり領域圏内でも電力事業機構とは別途、原発廃止事業機構のような専門事業体が設置される。

 

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年頭雑感2025

2025-01-01 | 年頭雑感

このところ、地球環境、地域紛争、物価高騰その他内外の多くの問題が未解決状態で積み残され、年越しとなる事態が続くため、年が明けた気がせず、前年の続きに過ぎない感覚である。この雑感コラムも、毎年同内容の繰り返しとなりつつある。

そうした中、昨年目についたのは、選挙を通じたいわゆる「極右」勢力の躍進現象である。まず欧州議会選挙(6月)、続いてフランス国民議会選挙(6‐7月)、ドイツ地方議会選挙(9月)、そしてアメリカ大統領選挙(11月)でのトランプ返り咲き再選もその亜種現象である。

さしあたり欧米において顕著な現象ではあったが、従来、民主主義の手本を自他ともに任じてきたはずの欧州連合とその二大主導国の仏独両国に米国でこのありさまなら十分過ぎるほどであり、いずれは中南米、アジア、アフリカなど欧米外にも類似現象が追随的に拡散していく可能性は大である。

メディア上では漠然と座標図式的に「極右」とくくられるが、より具体的に見れば、これは反移民政策を基軸とする国家主義的かつ権威主義的なファッショ勢力の躍進現象であり、それをとりわけ労働者階級有権者が支えている。

反移民ファッショ勢力の共通した特徴として、インターネットを巧妙に活用して、虚偽・誇大政治宣伝を展開する大衆迎合/扇動戦略があり、これに労働者階級有権者がはまる傾向を増しているのである。アメリカでも、衆愚政治という言葉が聞かれるようになっている。

結果として、一般大衆が平等に参加する普通選挙が、ただでさえ民主主義の制度としてはより直接的な民主主義に比べ過渡的で不完全な間接民主主義を没却し、ひいては権威主義・独裁政治を正当化する手段と化してきている。現代の選挙過程は反民主主義への道程である。なぜそんなことに?

その点、経済界や富裕層がかれらの総利益を代弁する保守系ブルジョワ政党を支持する傾向は20世紀から変わっていない。変わったのは、労働者階級有権者の投票行動である。

20世紀の労働者階級は労働党、社会党、共産党その他党名は様々ながら、労働者の階級的利益を擁護・代表することを唱道していた政党に所属労組を通じて集団的・自動的に投票する傾向があったが、20世紀末頃から労組組織率の低下が進み、労働者階級が集団投票をしなくなってきた。

皮肉にも、資本主義先進諸国で労働者代表政党が議会で地歩を築き、時に政権政党ともなることにより、労働者階級の生活水準が向上し、中間層に食い込むことができるようになったことが労働者の労働運動への関心を低下させ、労組組織率の低下を結果したのである。

ただ、元来、集団投票(いわゆる組織票)は一人一人が熟慮して良心に従い投票するという一人一票の投票の自由原則に反する習慣ではあったのだが、労組を通じた集団投票に支えられた労働者代表政党が議会で安定的に議席を占めることは議会制を通じた代議政治を健全に保つ効用は発揮していた。

ところが、そうした集団投票習慣が廃れたことで労働者階級の投票が個人化され、毎回投票先が変わるようないわゆる浮動票が多くなると、大衆迎合/扇動戦略に長けた勢力への傾倒現象が生じやすくなる。これが反移民ファッショ勢力躍進の一因と考えられる。

実はそうした傾向を90年近く前に先取りしていたのが、ナチスの勝利であった。ナチスが当時としては民主主義の手本とみなされていたドイツのワイマール共和国の自由選挙を通じて誕生したということは忘れてはならない教訓である。

現代なら、ナチスの反ユダヤ主義を反イスラーム主義―欧米における反移民政策の核心である―に置き換えれば、現代版ナチスを作り出すことは難くない。さしあたり、ナチス復活阻止のための厳格な法的諸制度を維持してきたドイツの今後の動向に注目したい。

同時に、アメリカの第二次トランプ政権がアメリカご自慢の民主主義をどれほど掘り崩すのか、それとも古典的な合衆国憲法に阻まれて意外に掘り崩せないのか、も今年の注目点である。

日本の過半数割れ保守政権の状況はやや特殊であるが、この弱体政権がもはや労働者代表政党そのものが消滅した日本では多数派と言ってよい浮動層有権者の大きな失望を招いたとき、日本版「極右」の躍進もあり得なくはないだろう。

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