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近代革命の社会力学(連載第483回)

2022-08-30 | 〆近代革命の社会力学

六十七 ウクライナ自立化革命

(5)革命の帰結
 2014年の革命は中和的な結果に収斂した一方で、ウクライナに深刻な内憂外患をもたらすことなった。その要因として、革命を通じてウクライナ民族主義が大きく台頭したことがある。
 ウクライナ民族主義はソ連邦解体以後、独立ウクライナの根底に常在していた要素ではあるが、ロシアからの自立を志向した2014年革命の原動力ともなったことで、前面に浮上してきた。とりわけ、言語政策である。
 親露派ヤヌコーヴィチ政権はロシア語その他の少数言語を地域言語として承認する多言語法を制定していたところ―その最大の眼目はロシア語の承認にあった―、2014年革命はこの法律の廃止を導き、ウクライナ語を唯一の公用語とする単一言語政策への転換が図られた。
 こうしたウクライナ至上主義は、ロシア語話者の多いクリミア半島や東部ドンバス地方の強い反発を招いた。元来、これらの地域は西部の親欧派主導による革命に否定的であったが、革命後は明確に反革命派の拠点となった。
 中でも、元来からロシア系住民が多いため、ウクライナからの分離志向が強く、自治共和国としての特別な地位が認められていたクリミアの離反は決定的となり、革命直後から分離主義勢力が蜂起し、地方庁舎などを占拠した。
 3月には、クリミア議会が革命を支持した自治共和国首相を罷免し、親露派首相にすげかえると、ロシア軍がロシア人保護を名目として軍事介入する中、ロシアへの編入の是非を問う住民投票が実施され、96パーセントの賛成多数をもってロシアへの編入が決定された。
 しかし、このロシアの介入下での住民投票には公正さに疑問も持たれ、その後の併合プロセスを含め、ウクライナ中央政府と国際社会はクリミアのロシア編入を承認していない。
 一方、東部ドンバス地方はクリミア半島ほどではないが、やはりロシア語話者ないしロシア系住民の多いところで、ヤヌコーヴィチ前政権の支持基盤でもあったため、2014年革命には反発が強く、3月以降、親露派の反革命武装勢力が蜂起した。
 中でも、ドネツク州とルガンスク州の武装勢力は州庁舎を占拠して事実上の地方政権の樹立に成功、それぞれ「人民共和国」を称して実効支配を開始した。「人民共和国」といっても、実態はロシアの傀儡政権であり、最終的にはロシアへの編入を目指していると見られる。
 しかし、ウクライナ政府としても、石炭や鉄鋼などの産業基盤があるドンバス地方の分離・ロシア併合を容認するわけにはいかず、政府軍を投入して掃討作戦を展開したが、奪回できず、「ドンバス戦争」と呼ばれる長期内戦に突入した。
 一方、ポロシェンコ政権は「浄化政策」と銘打って、ヤヌコーヴィチ前政権下の高官の追放、さらには独立以前の旧ソ連共産党幹部の遡及的な追放にも及ぶ大々的な公職追放政策を断行したうえ、NATO加盟方針に傾斜した。こうした反露政策は、当然にもロシアを刺激した。
 ポロシェンコは周辺での汚職疑惑も響いて、再選を目指した2019年の大統領選では、芸能界出身のウォロディミル・ゼレンスキーに敗れたが、ゼレンスキーも対露関係の改善には成功せず、2022年からのロシアによるウクライナ侵略戦争につながっていく。
 こうして、2014年革命はウクライナに一定の民主主義を樹立したが、かえって国の地域分断と亡国危機を招き、世界情勢にも影響する地政学的な不安定要因を作出する結果となった。

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近代革命の社会力学(連載第482回)

2022-08-29 | 〆近代革命の社会力学

六十七 ウクライナ自立化革命

(4)民衆革命への急転と革命の中和
 ヤヌコーヴィチ政権が欧州連合との連携協定への調印を見送りとしたことへの国民的反発には政権の想定を超えるものがあり、政権が方針を決定した2013年11月21日には、早くも最初の抗議行動が首都キエフの独立広場で発生した。
 これを呼びかけたのは、ティモシェンコ・ブロックの中核を成す野党の全ウクライナ連合「祖国」であったが、同月24日には2004年の民衆蜂起以来の大規模な抗議デモに発展した。これに対し、政権が30日以降、警察特殊部隊ベルクトを投入して弾圧を開始したことを受け、「祖国」その他の野党勢力が「国民レジスタンス本部」を設置した。
 この後、12月に治安部隊と抗議デモ隊の攻防が激化していく中、政権が同月17日、ロシアとの間で、ウクライナに供給する天然ガス価格の低減などを取り決めた二国間行動計画に調印したことは火に油を注ぐ結果となった。
 同月22日には、新憲法の制定を通じて新しいウクライナを建設することを目指す超党派の政治団体として、マイダン(広場)人民連合が結成された。これは未だ革命政府として整備されたものではなかったが、未然革命における対抗権力に近い組織であった。
 明けて2014年1月に入っても抗議行動が収束しない中、同月16日、与党・地域党主導のウクライナ議会は、抗議活動をより強力に取り締まる根拠法となる反抗議法を制定した。
 しかし、このような弾圧立法はかえって、さらなる抗議行動の拡大をもたらし、親欧派拠点である西部地域では多くの地方庁舎が抗議デモ隊により占拠される中、2月21日、ロシアと欧州連合の仲介により、ウクライナ政治危機の解決合意が締結された後、ヤヌコーヴィチは首都から脱出した(ロシアへ亡命)。
 これを受け、ウクライナ議会はヤヌコーヴィチの罷免とオレクサンドル・トゥルチノフの議長兼大統領代行への就任を決議した。トゥルチノフはティモシェンコ・ブロック所属であり、この新体制は事実上の革命政府となった。
 暫定政権は、2004年の未遂革命の後に施行されながらヤヌコーヴィチ政権が覆した大統領権限の縮小を軸とする憲法修正条項を復活させたうえ、2014年5月に新たな大統領選挙を実施した。
 その結果、無所属のペトロ・ポロシェンコが、革命後に釈放されたティモシェンコを破って圧勝した。ポロシェンコは裕福な実業家で、元は親露派の地域党の結成に関わりながら、ユシュチェンコ、ヤヌコーヴィチ両政権下で閣僚経験を持ち、2014年大統領選では親欧派として売り込んだ複雑な人物であった。
 このように、革命後最初の大統領選挙が意外な結果に終わったのは、革命の混乱を収束させ、平穏を取り戻すためには、急進的なティモシェンコよりも安定感のある中和的な人物を選択する国民の意思が働いたためと見られる。

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近代革命の社会力学(連載第481回)

2022-08-24 | 〆近代革命の社会力学

六十七 ウクライナ自立化革命

(3)親露政権の抑圧と対露従属化
 2010年大統領選挙の結果、成立したヤヌコーヴィチ政権の性格は、2004年以前のクチマ政権の流れを汲む親露政権であり、その政策や手法は類似しており、振出しに戻る形となった。しかし、ロシア追従や権威主義的な統治手法ではクチマ政権を上回る部分もあった。
 後者に関しては、決選投票でも争ったティモシェンコ首相を議会の不信任決議で追放したばかりでなく、2011年以降、職権乱用や横罪、脱税その他複数の容疑で逮捕・起訴を繰り返し、政敵のティモシェンコ追い落としを開始した。
 ティモシェンコをめぐっては元来、経済犯罪の疑惑があったが、ヤヌコーヴィチ政権による集中的なティモシェンコ疑獄捜査は政権による政治的な動機も疑われ、ティモシェンコ自身も一連の捜査をスターリン時代の大粛清になぞらえて、ハンストで抵抗したが、結局は有罪が確定した。
 また、90年代から存在し、人権侵害で悪名高い内務省特殊部隊(ベルクト)に対してユシュチェンコ政権が課した監督制度を撤廃し、再びこれを活用して反政府派の抑圧に投入した。
 しかし、2014年の民衆革命により直接的につながったのは、対露従属政策であった。親露政権である以上、ロシアとの接近は予想されたところであったが、その対露政策は「親露」を超えて「従露」と呼ぶべきレベルに達した。―ヤヌコーヴィチがそれほどロシアに忠義を尽くしたのは、自身が民族的にウクライナ人ではなく、ポーランド・ベラルーシ系の血も引くロシア系であったことも影響しているかもしれない。
 その第一弾は、政権発足年の2010年、ロシアが安全保障上重視するクリミア半島のロシア海軍黒海艦隊の駐留を2017年の期限切れから、さらに25年間継続することを認めたことである。これは、ソ連邦崩壊後にロシアと独立したウクライナの両国間で取り決めた駐留期限を撤廃する大きな政策転換であった。
 ロシアにとっては、クリミアのセヴァストポリを基地とする黒海艦隊を2042年まで継続運用することが可能となり、ウクライナを同盟国としてつなぎ止め、NATOに睨みを利かせるうえでも大きな足がかりを得たことになる。
 より決定的な第二弾は、2013年、仮調印を終えていた欧州連合(EU)との連携協定の正式調印を見送ったことである。これは、ウクライナを含む旧ソ連諸国との連携を深めるEUを警戒していたロシアがウクライナに経済制裁を科したことを受けての対応と見られた。
 連携協定はウクライナのEU加盟を直接に目指すものではなく、より緩やかな連携関係を構築するものに過ぎなかったが、ヤヌコーヴィチ政権がロシアの圧力を受けて調印を見送ったと受け止められたことは、ウクライナ国民の民族感情を刺激する結果となった。

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近代革命の社会力学(連載第480回)

2022-08-23 | 〆近代革命の社会力学

六十七 ウクライナ自立化革命

(2)親欧政権の分裂と親露政権への交代
 2014年民衆革命の要因はひとえにその十年前の未遂革命の結果誕生した親欧政権の内部対立と分裂にあり、それなくしては革命も、また革命後の内戦とロシアの侵攻もなかったと断言できるほど、近時のウクライナの激動の引き金を引いた力動である。
 ユシュチェンコ政権は親欧保守政党「我らのウクライナ」を与党としていたが、実際のところは、ソ連邦崩壊後、資源分野のオリガルヒとして台頭してきた女性実業家ユリヤ・ティモシェンコが率いるより急進的かつ民族主義的な個人政党であるユリヤ・ティモシェンコ・ブロック(以下、ブロック)の連立で成り立っていた。
 2004年の未遂革命ではユシュチェンコ‐ティモシェンコの連携により当時のクチマ政権に再選挙を実施させ政権獲得に成功し、ティモシェンコはウクライナ史上初の女性首相にも任命された。
 しかし、ユシュチェンコ‐ティモシェンコ体制が亀裂を来たすのに時間はかからず、2005年にはティモシェンコは早くも首相を解任されたが、大衆迎合的な政治姿勢から彼女の国民的人気は衰えず、2006年、2007年の連続議会選挙でブロックは議席を伸ばし、再び首相に返り咲いた。
 しかし、ティモシェンコの第二期首相時代には天然ガス輸入価格の抑制などをめぐりロシア寄りの姿勢をとるようにさえなり、ユシュチェンコ大統領との対立は深まったが、解任されることなく、2010年の大統領選挙では自らユシュチェンコの対抗馬として立候補した。
 この選挙では、支持が低迷していた現職ユシュチェンコが第一回投票で惨敗する中、ティモシェンコは第二位につけたが、一位の親露派ヴィクトル・ヤヌコーヴィチとの決選投票に敗れ、その後、議会の不信任決議により首相を退任した。
 これにより、一転して親露派のヤヌコーヴィチ政権が成立することになったが、ヤヌコーヴィチの属する地域党は議会選挙では2006年、2007年と連続して比較第一党となっており、選挙結果に現れた「民意」においては最も支持されていた政党であった。
 このことは、2004年の未遂革命後の結果と矛盾するように見えるが、ユシュチェンコ現職の惨敗に見られるように、親欧政権の混迷に有権者が辟易し、再び親露政権の安定性に期待するようになっていたことを示すものとも言える。

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近代革命の社会力学(連載第479回)

2022-08-22 | 〆近代革命の社会力学

六十七 ウクライナ自立化革命

(1)概観
 ウクライナでは、2000年代初頭のユーラシア横断民衆諸革命の一環として、2004年に不正選挙疑惑を契機とする民衆革命(未遂)を経験し、再選挙の結果、親欧派のユシュチェンコ政権が発足したが、この政権は内部対立などから間もなく分裂し、政争が激化する中、ユシュチェンコは再選を狙った2010年の大統領選で惨敗した。
 その結果、一転して親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ政権に交代した。ヤヌコーヴィチ政権下では、当然ながら対ロシア関係が改善されたのみならず、力関係から言ってもロシアの影響力が強まり、事実上ロシアの属国となる恐れが急激に生じた。
 そうした中、ヤヌコーヴィチ大統領の任期途中の2014年2月に再び民衆蜂起が発生し、ヤヌコーヴィチ政権は短時日で崩壊した。革命後には憲法改正が行われ、新たな大統領選挙の結果、再び親欧派政権が発足するという再逆転が生じた。
 こうした経緯から、2010年のウクライナ民衆革命は2004年の未遂革命から時間を置いた二次革命とも言えるが、2004年当時と比べ、ロシアへの従属状態からの解放を主要な目標としていた点からは、2005年のレバノン革命とも共通要素を持つ自立化革命という新たな革命の形態と言えるものである。
 ウクライナでは、2010年革命を、民衆蜂起の拠点となった首都キエフの独立広場にちなみ、「マイダン(広場)革命」と呼ぶのも、そうした対ロシア自立化を意識した呼称である。実際、この革命後は、現時点までウクライナに親ロシア派政権は出現しておらず、継続的な効力を持ち、ウクライナの歴史の方向性を決する画期となる革命であった。
 一方、ロシアにとっては、革命によりウクライナの離反と欧州志向を招き、自国勢力圏の縮小を結果したため、地政学的な観点からも革命には当然否定的であり、以後、ウクライナへの軍事的な干渉を強めていく。
 ウクライナ国内でも、クリミア半島や東部など親ロシア派の地盤では革命への反発が強く、これがロシアの思惑とも結びつく形で、クリミアのロシア編入、さらに東部地域での分離独立派の蜂起と事実上の独立政権の樹立という反応を招いた。こうした革命後の力学が現在進行中のロシア‐ウクライナ戦争につながっていくことになる。

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近代革命の社会力学(連載第478回)

2022-08-19 | 〆近代革命の社会力学

六十六ノ二 ロジャヴァ・クルド革命

(4)革命自治体制の制度と政策

〈4‐1〉民主的連合主義
 ロジャヴァ・クルド革命によって樹立された革命自治体制の制度は2014年制定のロジャヴァ憲法によって規定されているが、その内容は現時点の世界の諸憲法の中でも先進的で、中でも「民主的連合主義」と規定された統治システムはユニークなものである。
 この仕組みにおいては、ロジャヴァ自治域がスイスの州名称にちなむカントンと呼ばれる行政区に分けられ、各行政区には選挙制の地区評議会と市民評議会とが設置される。
 地区評議会はカントンの中核機関であり、男女各一名ずつ選出された共同議長の下、カントンにおける行政及び経済運営に関する決定権を持つ。市民評議会はカントンにおける社会的・政治的権利の増進を担う啓発的機関である。
 ただし、カントン全体をとりまとめる行政府としての執行評議会及びクルド人以外の少数民族も参加するシリア民主軍の政治部門かつ自治域全体の立法機関としてシリア民主評議会が存在している。
 執行評議会はカントン間の調整や自治域全体の外交・軍事を担当し、かつ中央省庁を管轄する機関で、ここでも男女各一名ずつの共同議長制を採る。
 執行評議会は革命の中心を担った民主統一党が主導しているが、その他の諸政党も参加しており、複数政党制に基づいている。しかし、西欧流の議会制とは異なり、与党が主導する政府ではなく、合議制執行機関である。
 こうした「民主的連合主義」の制度は、地域の諸勢力の均衡とトルコの侵攻による自治域の縮小に応じて流動的で、現時点ではカントンがより広域の地域圏に包括され、地域圏には単独の首相が置かれるなど、「連合主義」の基本がやや型崩れし、西欧型の連邦制に近いものに変化してきていることが注視される。

〈4‐2〉協同経済体制
 ロジャヴァ・クルド革命をユニークに特徴づけるもう一つの要素は協同経済体制である。これは協同組合と私企業を組み合わせたある種の混合経済体制であるが、旧ソ連型の中央計画経済ではなく、私有財産と起業の自由は保障され、カントンごとの地区評議会が経済を管轄する分権型の経済体制である。
 しかし、自治域の全財産の三分の二は公有化され、協同組合が広範に活用されており、特に農業生産の大部分は協同組合による協同農場で行われる。また全生産活動の三分の一は労働者評議会の管理下にあるなど、自主管理社会主義に近い制度が施行されている。
 一方、通商に関しては、石油、小麦や綿に代表される農産物の輸出とそれによる関税収入が自治域全体の主要財源となっている。域内の直接税や間接税は存在しなかったが、一部のカントンでは所得税制を導入している。
 こうした協同経済の成果として、ロジャヴァ自治域内の賃金や生活水準は、長期の内戦により疲弊し大量難民化が生じているシリア国内の他地域に比べて高いレベルにあるが、これも、シリア内戦の帰趨とトルコの動向に依存した地政学的な情勢と自治体制の持続的な存続可能性いかんにかかる。

〈4‐3〉女性科学理論と実践
 ロジャヴァ自治体制全体の特徴として、先進的なジェンダー平等主義があるが、それは域内全統治機関メンバーの40パーセントを女性に割り振るクウォータ制、執行評議会やシリア民主評議会を含めた政治機関における男女共同議長制などに現実化されている。
 そればかりでなく、各地域に女性の権利を擁護する一種のコミュニティセンターとして「女性の家」が設置され、社会政策の面でも女性に焦点を当てた施策が実施されている。
 こうした取り組みは、単に啓発的な政策のレベルのみならず、女性を単に抑圧された性別として評価することを超えて、社会の原動力としてその活動を民主的社会の柱に位置づけるジネオロジー(jineology):女性科学と呼ばれる理論に基づいている。
 ジネオロジーは、クルド語で女性を意味するジン(jin)から派生した造語で、クルドの女性解放運動の中で形成された独自の理論であり、イスラーム教徒が多数を占める中でのクルド人の先進性を示すものである。

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近代革命の社会力学(連載第477回)

2022-08-18 | 〆近代革命の社会力学

六十六ノ二 ロジャヴァ・クルド革命

(3)革命自治体制の樹立と地政学的展開
 前回見たように、2012年7月に始まるロジャヴァ地方でのクルド革命は、シリア政府軍の戦略的撤退の結果、ほぼ不戦勝の形でひとまず成功し、同年8月初旬には、クルド人民防衛隊(YPG)が制圧した各都市ではクルド人政治組織が自治を行う旨の発表がなされた。
 ただし、この発表はアラブ系左派系政党の連合組織である「民主的変化のための全国調整委員会」名義で行われた。この組織はその名称にもかかわらず、事実上はシリア政府の協調組織と見られており、そうした組織による自治容認の声明は、シリア政府の意向を代弁したものと考えられる。
 政府軍の戦略的撤退の方針と併せてみると、これはシリア政府がロジャヴァのクルド人自治を黙認したとも取れるところであり、実際、これ以降、ロジャヴァ地方は面的にもYPGの支配下に置かれていった。
 こうして、情勢が比較的安定する2014年まで、ロジャヴァ地方は軍事組織であるYPGによる事実上の軍政下にあったが、同年1月、YPGは正式に自治体制―北東シリア自治体(Rêveberiya Xweser a Bakur û Rojhilatê Sûriyeyê)―の樹立を宣明し、ロジャヴァ憲法を制定、同憲法に基づき各行政区域(カントン)の民衆自治組織による施政が開始された。
 とはいえ、ロジャヴァを含むシリア北部にはイラク側からイスラーム過激組織・イスラーム国(IS)が侵入、勢力を広げ、2014年9月にはクルド革命発祥地であるコバニがISに包囲されたが、イラクのクルド人自治区軍ペシュメルガとの共同作戦によって撃退した。
 この作戦では、アメリカ軍も共通敵ISに対抗するため、空軍を投入してYPGを支援しており、ロジャヴァ自治革命体制はIS及びシリアのアサド体制双方と敵対するアメリカからも事実上の承認を受けたことになる。
 ちなみに、このコバニ包囲戦を機に、YPGを軸としてアラブ系やキリスト教徒系も加わった新たな合同民兵組織・シリア民主軍が結成され、2017年9月にはISが「首都」を自称していたラッカを攻撃してISを駆逐する成果も上げた。
 より複雑なのは自治を黙認しつつも要衝奪回の意図は放棄していないシリア政府との関係で、2015年にロジャヴァ地方に属する都市ハサカで政府軍との武力衝突が生じたが、これはロシアの仲介を得て鎮静化された。
 続いて2016年以降は、ロジャヴァ革命がトルコ国内のクルド人勢力に波及することを恐れるトルコが数次の侵攻作戦を開始し、国境沿いに数百キロに及ぶ「安全地帯」と称する実質的な占領地を切り取ったため、クルド自治体制の支配領域は縮小を余儀なくされた。
 こうして、ロジャヴァ自治体制はシリア北部の複雑な地政学に直面し、その帰趨は予断を許さないが、トルコへの対処の過程で、シリア政府軍の支援を求め、シリアもこれを応諾して以来、アサド体制との協調関係が生じており、この限りでは革命性を喪失し、アサド体制の一部に取り込まれつつある。
 一方で、トルコの侵攻作戦に際してアメリカが和平工作に動くなど、アサド体制と敵対するアメリカの支持も引き続き受けながら、アサド体制の後ろ盾であるロシアともパイプを持つなど、対外的にも「非同盟」に似た複雑な関係性に置かれている。

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近代革命の社会力学(連載第476回)

2022-08-16 | 〆近代革命の社会力学

六十六ノ二 ロジャヴァ・クルド革命

(2)クルド人勢力の糾合と決起
 「国を持たない民」であるクルド人は、トルコやイラクのほか、シリアでも少数民族として北東部のロジャヴァ地方に集住してきた。とはいえ、アラブ系主体のシリアではクルド人は異分子であり、歴史的に迫害・差別を免れなかった。
 特に深刻なのは、シリア国籍が与えられず、無国籍状態に置かれているクルド人が多かったことである。無国籍では外国人と同様の扱いであり、社会サービスの多くも受けられず、無権利状態で放置されるからである。
 このような法的・社会的な被差別状況は、クルド人をしてそもそもシリア国民という意識を希薄にし、シリア革命の早い段階から、クルド人勢力に独自行動の道を歩ませるという作用をもたらした。
 シリアのクルド人勢力としては、「アラブの春」に先立つ2003年に発足したクルド民主統一党(PYD)が既存していた。この党はトルコ国内で長年武装闘争を続けてきたクルディスタン労働者党のシリア分派として結党されたもので、当然ながらトルコ側政党の影響下にあった。
 PYDは2004年にロジャヴァ地方の中心都市カーミシュリーで発生した民族衝突事件を機に固有の自警団的民兵組織としてクルド人民防衛隊(YPG)を創設していたが、本格的な武装蜂起はシリア革命開始後のことである。
 一方、PYDとは別に、クルド民族主義者により、シリア革命渦中の2011年10年にクルド民族評議会(KNC‎‎)が結成された。この党は多数の政党の寄り合い組織であったうえに、トルコ政府寄りと見られており、PYD支持者からは多くの批判を受けた。
 KNCはシリア国民評議会にも参加していたが、クルド人自治をめぐり国民評議会主流派のアラブ人勢力との間に溝があった一方、PYDとの対立も激化したため、イラクのクルド自治区の指導者マスード・バルザニの仲介を得て、2011年6月、同自治区の首府アルビールにて、PYDとKNC‎‎の糾合とクルド最高委員会の創設が合意された。
 このアルビール合意は、一つの転換点となった。ロジャヴァ地方でも2011年3月以降、民衆の抗議行動は始まっていたが、小規模なものにとどまっていたところ、同年7月、如上最高委員会の指揮下に編入されたYPGが決起し、まずトルコ国境の町コバニを占領したのに続き、主要都市を点状に制圧・占領していった。
 こうして充分な兵力を擁しないYPGの軍事行動が円滑に進んだのは、自由シリア軍と対峙するシリア政府軍がロジャヴァ地方から戦略的に撤退していったためであり、言わば不戦勝であったが、結果として、武装組織によりつつ、ほぼ無血の革命が達成されることになった。

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近代革命の社会力学(連載第475回)

2022-08-15 | 〆近代革命の社会力学

六十六ノ二 ロジャヴァ・クルド革命

(1)概観
 「アラブの春」の一環としてのシリア革命は未遂に終わったが、革命過程で、シリア北部のロジャヴァ地方では少数民族クルド人が2012年7月に武装蜂起し、政府軍も反政府軍・自由シリア軍をも排して独自の革命自治体を構築することに成功した。
 このロジャヴァ・クルド革命はシリア革命の副産物ではあるが、革命を担ったのは、クルド人の連合組織及びその軍事部門であり、シリア革命そのものとは独立した力学から派生した一種の地方革命である。
 シリアにおける少数民族として長く迫害・差別されてきたクルド人主体の革命という点では民族革命としての色彩も強いが、シリアからの完全な独立を目指すものではなく、あくまでも地方自治の枠内のものである。
 しかし、長引く内戦によりシリア政府のロジャヴァ地方への実効支配は及ばなくなっており、現時点でのロジャヴァ地方は事実上の独立状態にあり、シリア政府もまた事実上現状を容認し、協調関係にあるという点では、メキシコのチアパス州におけるサパティスタ自治体制と類似の状況にある。
 理念的な面でサパティスタと直接のつながりは認められないが、ともに民族解放組織を基盤としながら、直接民主主義的な要素を取り入れ、協同経済を志向するアナーキズム系社会主義に傾斜した独自の政治経済システムを営む点で、共通項も認められる。
 ただし、ロジャヴァ・クルド革命では政党の結成が先行したため、自治体制も基本的に選挙に基づく代議制システムによっており、政党なき直接民主主義を実践しているサパティスタ自治体制に比べれば、直接民主主義的な要素はより希薄で、西欧的な代議制民主主義に近い。
 また、サパティスタ自治体制はすでに連邦政府との内戦も終結し、30年近く持続しているのに対し、ロジャヴァ自治体制は依然終結しないシリア内戦の流動性に加え、隣接するトルコが長く紛争関係にある国内の少数民族クルド人とロジャヴァ自治体制の連携を警戒し、2016年以来、たびたび侵攻、一部地域を占領しているため(拙稿)、支配領域の縮小を余儀なくされている。
 それゆえ、今後の持続性については予断を許さないが、現時点において、ロジャヴァ自治体制は、サパティスタ自治体制と並び、地球上で最も先端的な理念と制度を備えた持続的な脱国家的革命体制として注目すべき存在となっていることは確かである。

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近代革命の社会力学(連載第474回)

2022-08-12 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(11)革命の総体的挫折:アラブの冬
 「アラブの春」は事象全体の収束時期を特定することが困難であるが、それは「アラブの春」が総体として挫折し、一部の諸国では現時点でも終結のめどが立たない内戦に陥ったためである。とはいえ、遅くとも2015年までにはほぼ全域で革命としての過程は挫折的に収束し、政治的には冬の時代に入ったと見てよいようである。
 内戦に至らずさしあたり安定的に収束したエジプトでも、2013年の軍事クーデターでムルシ―政権が転覆された後は、クーデター首謀者でもあったアブドルファッターフ・アッ‐スィースィ将軍が多くの政党にボイコットされた2014年の大統領選挙で95パーセントを超える得票で当選すると、以後、旧ムバーラク政権に類似した権威主義体制が復活した。
 また、唯一の成功例とされるチュニジアでも、2019年に当選したカイス・サイード大統領が2021年以降、新型コロナウイルス対策等をめぐる首相との対立を背景に、議会を停止し、独裁統治を開始するなど、革命前の権威主義体制への回帰事象が見られる。
 「アラブの春」は、その広範囲な継起性から見て、1989年に始まった中・東欧の連続革命に匹敵するドミノ革命事象と言えるが、ルーマニアを除けばほぼ無血のうちに成功した中・東欧革命とは対照的な結果に終わった。
 そのような相違が生じた要因として、アラブでは政権と革命勢力の対話・協議を通じた体制移行ができなかったことが大きい。これは、独裁とはいえ、共産党または他名称共産党によるワンパーティーの集団的独裁が主流であった中・東欧地域とは異なり、アラブ地域では単独のワンマン独裁が主流で、独裁者の政権への固執意思が著しかったという構造的な相違がある。
 また革命の主体となった民衆の側でも、第二次大戦前にある程度の民主主義の歴史的な経験があった中・東欧地域とは対照的に、アラブ地域では独立の前後ともに民主主義の経験を欠いており、民衆蜂起が民主的な体制樹立に向かわず、暴動や武装蜂起に転じたケースが多く、当局による武力鎮圧を招いた。
 一方、「アラブの春」ではその約20年前の中・東欧革命当時には存在しなかったインターネット、中でもSNSが活用され、「怒りの日」などと銘打たれた特定の象徴的な日付で大規模な抗議行動を動員するという手法で大衆運動のうねりを作り出したことが注目され、以後、世界中の大衆抗議行動の新たな先例ともなった。
 このように先端的な情報通信ネットワークを通じた大衆動員はある意味で手軽に民衆蜂起を現出させることができる反面、未組織の大衆による理念を欠いた一過性の蜂起に終始しやすいという問題点も浮き彫りにした。そのことは、平和的な体制移行の協議に結びつけることを困難にした技術的な要因を成してもいるだろう。
 連絡手段と言えば原始的な伝言くらいしかなかった―電話は盗聴、信書は郵便検閲される恐れがあった―中・東欧連続革命の時代のほうが平和的に革命を成功させることができたというのは皮肉であるが、この事実は先端的情報通信の無効性ではなく、革命運動におけるその有効な活用法を再考する契機となるかもしれない。

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近代革命の社会力学(連載第473回)

2022-08-11 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(10)イスラーム主義の伸長
 「アラブの春」はイデオロギー色の薄い民衆の自然発生的な蜂起によって継起した連続革命であったが、その中心諸国が世俗主義的‐社会主義的な共和制であったことを反映し、反動として復古的なイスラーム主義勢力の伸長を結果した。
 そうしたイスラーム主義の発現の仕方は各国で異なり、合法的な選挙を通じたものから、武装蜂起あるいは外部からの軍事侵攻によるものまで、各国革命の力学状況により様々であった。
 「アラブの春」全体の端緒となったチュニジアでは革命直後の制憲議会選挙では解禁されたばかりの穏健イスラーム主義政党・覚醒運動が第一党となり連立政権を形成した。同党は新憲法下での各総選挙で議席を減らしてきているものの、以後も連立与党には継続的に参加し、保守的な影響力を保持している。
 エジプトでは、1952年共和革命以来、しばしば弾圧されてきたムスリム同胞団系の自由公正党が革命後の議会選挙で躍進し、2012年の大統領選挙では決選投票の末、同党のムハンマド・ムルシ―が当選、同胞団系政権が合法的に成立した。
 しかし、ムルシ―は就任するや、大統領権限の強化を画策し、批判派への弾圧を開始、さらに経済政策でも失敗するなど、たちまち国民的な支持を失い、抗議行動に直面する中、元来関係が険悪な軍部のクーデターを招き、わずか一年余りで失権、軍事政権が復活した。
 以上のような合法的な形での伸長とは逆に、非合法な形での伸長が見られたのはイエメンである。ここでは宗派対立及び旧分断国家における南北対立を背景に、シーア派武装勢力(通称フーシ派)が首都サナアを制圧して世俗主義政権を放逐したことで、イランを背後する同派の北部政権と、南部アデンに遷都し、サウジアラビア・アラブ首長国連邦を背後とする世俗主義政権との分裂、長期内戦の端緒となった。
 一方、リビアでは革命後の合法的な選挙でイスラーム主義派は敗北したが、世俗派に反発するイスラーム主義勢力が武装蜂起して首都トリポリを制圧したため、トリポリ政府とトブルクに遷都した世俗派の東西分裂・内戦に突入した。
 革命勢力が多岐に分裂したシリアでは、より過激な形での伸長が見られ、アル‐カーイダ系武装勢力が革命勢力の中核に台頭したことに加え、政府の実効支配が及ばなくなった北部では隣国イラクでアル‐カーイダから派生した武装勢力・イスラーム国が侵入してイスラーム国家を樹立するに至った。
 また、半革命により議院内閣制が導入されたモロッコでも、憲法改正後の総選挙で穏健イスラーム主義の公正発展党が第一党に躍進し、継続的に政権を形成する状況が見られた(2021年総選挙では惨敗・下野した)。
 総体として、革命後に合法的な選挙制度が確立された諸国では穏健イスラーム主義の伸長が見られ、確立されなかった諸国では過激なイスラーム主義が伸張し、国家分裂や内戦を助長するという対照的な経過が観察される。

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近代革命の社会力学(連載第472回)

2022-08-09 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(9)革命の余波
 「アラブの春」の余波は大きく、アラブ諸国のほぼ全域で何らかの騒乱を誘発したが、半革命となったモロッコを含め、前回までに見た諸国を除けば、革命に進展することはなかった。とはいえ、複数の諸国で一定の改革がなされたケースは少なくない。ここでは、そうした革命余波事象を総覧する。
 まず端緒となったチュニジアの隣国アルジェリアでは1990年代に政府軍とイスラーム主義勢力との内戦を収束させたアブデルアジズ・ブーテフリカ大統領の権威主義的な政権に対して、2010年12月から抗議行動が開始された。
 しかし、独立以来の民族解放戦線による支配体制は強固であり、革命に至ることはなかったが、内戦開始の1992年以来、恒常的に敷かれ、人権抑圧の法的根拠となってきた非常事態宣言が解除されたことは一つの成果であった。
 一方、専制君主制が林立するアラビア半島では、ヨルダンで大きな騒乱が見られた。ヨルダンは英国から独立した第二次大戦後に預言者ムハンマドと同族のハーシム家を王家とする立憲君主制が成立しており、湾岸諸国とは異なる状況にあったが、2011年1月から、主として失業や食糧価格高騰など経済問題を要因とする抗議デモが発生した。
 抗議行動は次第に国王権限の縮小など政治的な民主改革も求めるようになり、国王側の譲歩により、議院内閣制や比例代表制による選挙制度の創設などの改革が約束され、収束に向かった。こうした限局性の点でモロッコの半革命と類似する状況であったが、モロッコよりは限定的な規模の事象であった。
 湾岸諸国では、2011年2月以降、バーレーンで騒乱が発生した。バーレーンは専制君主制が林立する湾岸諸国にあって、2002年に国民投票により立憲君主制に移行していたが、人口上は多数派をシーア派が占めていながら、同派が政治的経済的に劣位にあるという特有の社会構成を背景に、主としてシーア派が蜂起した。
 そのため、騒乱は王政の打倒を求める動きを示したことから、バーレーン政府は湾岸協力会議に支援を要請し、2011年3月にサウジアラビアとアラブ首長国連邦(UAE)が合同軍事介入し、鎮圧に乗り出したことで、騒乱は収拾された。
 こうした合同軍事介入は自国への波及を恐れる湾岸諸国の危機感を反映していたが、中心国サウジアラビアやUAEでは極めて厳格な社会統制が敷かれてきた結果、散発的な抗議行動あるいは署名運動にとどまった。
 しかし、クウェートでは社会サービスへのアクセス権を持たない同国特有の無国籍部族民が開始した抗議行動が全国的な規模の抗議行動に発展したものの、最終的には鎮圧された。
 湾岸諸国で最も大規模な騒乱となったのは、サウジと並ぶ典型的な専制君主国オマーンであった。ここでは2011年2月以降、民衆蜂起が革命的な規模のものとなりかけたが、年金引き上げなど経済的な懐柔策や諮問機関に過ぎない議会に立法権を付与するなどの限定的な譲歩をもって収束した。
 なお、イラクでは2003年のイラク戦争を機に長年のバアス党支配体制が崩壊した後、複数政党制に基づく議院内閣制と並立する大統領共和制が樹立されており、西側諸国の軍事介入という外圧を契機に「アラブの春」がある意味で先取りされていたが、治安の悪化や汚職、失業などに抗議するデモが2011年2月から年末にかけて隆起した。
 また、シリア北部では、シリア革命の渦中で政府の支配権が及ばなくなったロジャヴァ地方のクルド人勢力が自由シリア軍からも独立して、アナーキズムに影響された独自の理念に基づく事実上の革命自治体制を樹立したが、このロジャヴァ革命についてはアラブの春の独立した派生事象として別途扱う。

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近代革命の社会力学(連載第471回)

2022-08-08 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(8)モロッコ半革命
 2011年に始まる「アラブの春」連続革命は北アフリカを含むアラブ世界の独裁的な共和制国家で継起したが、アラブ世界にはいまだ数多い専制君主制国家にも波及した。その大半は革命に至らない騒乱のレベルで収束したが、北アフリカ唯一の君主制国家モロッコでは革命的な民衆蜂起が生じた。
 ただし、国王の廃位や君主制そのものが廃止される共和革命に進展することはなかったが、最終的に国王側の相当な譲歩を引き出し、憲法改正を通じた一定以上の民主化が達成されたため、この事象は半革命とみなすことができる。
 モロッコでは、17世紀以来、フランス・スペインによる分割統治下での一時的な中断をはさみ、預言者ムハンマドの子孫と伝わる豪族アラウィー家による君主制が続いてきたが、1961年に即位したハッサン2世時代に築かれた抑圧的な専制君主制の仕組みが1999年のハッサン2世没後、王位を継承したムハンマド6世の代でも基本的に維持されていた。
 とはいえ、ムハンマド6世は父王の専制的な統治をある程度緩和し、自由化を進めたものの、「アラブの春」の波及を阻止するには不十分な限定改革であった。その結果、2011年2月(以下、日付はすべて2011年中)に首都ラバトで抗議行動が開始され、3月には全国の主要都市に拡大していった。
 ただし、抗議活動は君主制の廃止ではなく、国王権限の縮小を軸とする民主的な憲法改正、汚職追放、失業問題など、君主制枠内での政治経済改革に重点を置いており、初めから穏健なものであった。
 これはアラブ世界でも最も古い17世紀以来続くアラウィ―王朝への国民的支持が依然根強く、時のムハンマド6世のある程度まで改革的な統治にも一定の信頼があったことを示しており、その意味では、モロッコにおいては初めから完全な革命に進展する土壌はなかったと言える。
 民衆蜂起に直面した国王側の対応もすばやく、3月には、包括的な憲法改正のための委員会の設置と国民投票の実施を公約した。6月に改めて、憲法改正案の詳細と7月の国民投票日程が発表された。
 改憲の軸は従来国王が任命してきた首相が議会多数党派から選出され、首相が閣僚の任命権や議会解散権も有するという西欧諸国における議院内閣制の導入であり、さして真新しいものではないが、長く専制君主制が続いたモロッコでは大きな前進ではあった。
 そのほか、女性に政治的のみならず、市民的・社会的にも平等な地位を保障し、すべての国民に思想・理念の自由を保障するなど、イスラーム世界ではリベラルな内容も盛り込まれた。
 一方で、国王は軍最高司令官や閣僚会議議長、最高安全保障会議議長を兼任し、政治的な実権は保持するという折衷的な内容であり、一部の急進派には不満を残し、国民投票ボイコットの呼びかけもあったが、改憲案は7月1日の国民投票で98パーセントという高率をもって承認された。
 この後、11月に改憲後初の議会選挙が実施され、穏健イスラーム主義の公正発展党が比較第一党となり、同党を中心とする連立政権が発足したことで、モロッコにおける半革命は収束した。
 こうして、モロッコでは穏健な民主化を求める民衆と国王の妥協によって、完全な革命が阻止されたが、国王が象徴的存在に退いたわけではなく、立憲君主制としてはなお権威主義的な面を残していることや、汚職や失業など経済問題は積み残されているため、革命へのマグマは消滅し切っていない。

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近代革命の社会力学(連載第470回)

2022-08-05 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(7)シリア(未遂)革命

〈7‐4〉革命勢力の多岐分裂と革命の挫折
 「アラブの春」の一環としてのシリア革命のピークをなすのは、2012年7月の自由シリア軍による大攻勢を経て、同年11月に自由シリア軍を軍事組織として位置づける新たな革命組織としてシリア革命・反体制諸派連合(以下、連合)が樹立された時と言える。
 しかし、逆説的なことに、これを機に革命は成功ではなく、かえって挫折に向けて転回していくこととなる。そのような経過を辿った要因として、国民連合・自由シリア軍ともに明確な理念を欠き、反アサド体制の一点のみで一致した諸勢力・グループの寄せ集めで成り立っていたことがある。
 連合について言えば、この組織は大小の反体制組織及び個人が加入する寄合所帯であるうえに、カタールのドーハで結成され、国外で活動するある種の亡命政府の性格を有し、シリア国内に十分な支持基盤を持たない。
 また連合の軍事組織として位置づけられた自由シリア軍にしても同様で、政府軍離脱者を中核とする諸々の武装勢力・グループの寄せ集めで成り立っており、創設者のアサアド大佐も強力な求心力を欠いていた。
 一方で、自由シリア軍が宗教勢力とのつながりを持っていたことは短期間で勢力を拡大する成功要因であったと同時に、イスラーム過激派の浸透という新たな問題を抱え込む要因ともなった。
 実際、自由シリア軍はシリア(及びレバノン)におけるアル‐カーイダ系組織であるアル‐ヌスラ戦線と共闘するようになっており、このことは同組織をテロ組織とみなす欧米諸国の自由シリア軍への支援を躊躇させる要因となった。
 元来、指揮系統が統一されず混乱ぎみの自由シリア軍に代わり、イデオロギー的な忠誠心で結ばれ、作戦面の統一も取れたイスラーム過激組織が、内戦の長期化に伴い反体制勢力の中核にのし上がっていった。
 2013年に入ると、国民連合・自由シリア軍の対抗力が一層弱化する中、政府側は父アサドの出身部門でもある強力な空軍をベースに、化学兵器まで投入した苛烈な反乱鎮圧作戦を展開するようになり、次第に優勢を回復していく。
 その結果、自由シリア軍は2013年末にはシリア国内の拠点を喪失する一方、シリア政府の実効支配が及ばなくなっていた北部には、隣国イラクに登場した新たな過激組織・イスラーム国(IS)が侵入し、イスラーム国家の樹立を宣言するなど、革命運動は実質的な崩壊に向かう。
 2014年6月に内戦渦中でアサド大統領が三選を果たしたのに続き、8月にはISが北部のラッカを制圧したことは、革命の挫折を象徴する出来事となった。革命派が勢力を回復する可能性も残されてはいるが、ロシア軍の支援も受けて強化されたアサド体制打倒の現実的可能性は遠のいたと言える。
 こうした結末は、アサド一族体制成立以前の1960年代から半世紀以上にわたって続くバアス党支配体制の岩盤化された支持基盤と、その反面としての野党・反体制勢力の未発達・断片化という現代シリアの政治社会構造の特徴から説明できるであろう。

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近代革命の社会力学(連載第469回)

2022-08-04 | 〆近代革命の社会力学

六十六 アラブ連続民衆革命:アラブの春

(7)シリア(未遂)革命

〈7‐3〉武装革命組織・自由シリア軍の結成と展開
 アサド政権が一党支配体制の放棄という歴史的な譲歩を示した後も、政権移行の協議は進まない中、2011年7月末、シリア政府軍を離脱したリアード・アル‐アサアド空軍大佐が反体制武装組織・自由シリア軍の結成を発表した。
 アサアド大佐はこれより前、同じくシリア軍離脱将校によって結成されていた自由将校団運動に加入していたが、自由将校団運動は世俗主義的な革命派将校の運動体であったのに対し、自由シリア軍はイスラーム主義のムスリム同胞団との関わりが強いという相違があった。
 その点、イスラーム主義との結びつきから宗教保守勢力を取り込むことに成功した自由シリア軍は結成から短期間でメンバーを急速に殖やし、9月には自由将校団運動も自由シリア軍に合流することとなった。
 自由シリア軍は自らの性格を反体制運動の武装部門と規定し、その目標を軍事的手段によってアサド体制を打倒することに置く武装革命組織としての性格を強調しており、平和的手段による体制変革には否定的であった。
 一方で、2011年9月にはムスリム同胞団を含む多様な野党勢力を束ねたシリア国民評議会(以下、評議会)がトルコのイスタンブルで結成され、アサド体制崩壊後の政権受け皿が用意された。
 評議会は、2012年1月に自由シリア軍と提携し、その活動を承認したが、平和的闘争を旨とする評議会は武器の提供はせず資金提供にとどめるなど、両者の関係性は微妙で、革命武装組織と革命行政機構との遊離状態が生じたことはシリア革命の先行きに不安を残した。
 そうした中、2012年に入ると、政権側は3月、反体制派の拠点となっていた西部の都市ホムスを包囲・制圧したうえ、5月には新しい政党法に基づく複数政党制による議会選挙を実施する。この選挙では多くの野党がボイコットする中、バアス党を中心とする従来からの翼賛与党連合・国民進歩戦線が議席を減らしながらも勝利する結果に終わった。
 こうして政権側が軍政両面で優勢に傾くと、7月以降、自由シリア軍はイラクやトルコとの国境地帯で大攻勢を開始し、イラク国境地帯を占領するとともに、首都ダマスカスでも政府側弾圧作戦の指揮所である保安司令本部に対する爆弾テロを実行し、国防相をはじめ、軍や保安機関の高官4人を殺害した。
 一方で、自由シリア軍は人口上シリア最大の都市アレッポでも攻勢をかけ、他の武装組織と協調しながら市内東部を制圧した。しかし西部は政府軍が押さえ、補給路を確保していたため、アレッポは以後、政府軍との間で激しい攻防が繰り広げられる最大の激戦地となった。
 こうして、平和的な革命の可能性は潰え、内戦の様相が強まった。これに対し、トルコを含む西側が自由シリア軍に肩入れする一方、アサド政権は旧ソ連時代から友好関係にあるロシアに依存するようになり、代理戦争の性格も増していった。

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