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近代革命の社会力学(連載第104回)

2020-05-12 | 〆近代革命の社会力学

十六 中国共和革命:辛亥革命

(5)革命の横領過程
 一般に、革命ではその成就後に革命政権内の権力闘争が激化し、最終的に内部崩壊の形で挫折するケースはしばしばあるが、中国共和革命は、それとは異なり、革命が革命勢力外の第三者によって横領されていくという特異な経過をたどった。
 前回見た通り、中国共和革命は革命勢力と本来は清朝側の執権者である袁世凱が密約することによってひとまず成就したのであったが、それ以前に1911年の段階で、中国同盟会は南京を本拠に孫文を臨時大総統とする革命政権を発足させていた。しかし、この段階では首都北京をまだ落とせておらず、清朝政府と並立する未然革命の段階にとどまっていた。
 この二重権力状態を解消するために、マキャベリスト袁世凱の力に頼ったわけであるが、このような術策が革命にとっては命取りとなった。袁世凱は革命を利用して自身の独裁権力掌握を目論んでいたからである。結果として、この後、袁が病死する1916年までは彼が革命の成果を言わば横領していく過程となってしまった。
 その過程を見ると、袁がかなり計画的に革命の横領を図ったことが窺える。密約に基づき孫文に代わって臨時大総統の地位を得た彼は孫文らがいわゆる三民主義をベースとする暫定的憲法典としてまとめた臨時約法を無視する形で北京に居座り、臨時革命政府の本拠であった南京に赴かず、二重権力状態をあえて生じさせた。
 この状況に対して、革命勢力は選挙を急ぎ、1912年末から翌年初頭にかけて初の国会選挙を実施した。その結果、同盟会から政党に改組された国民党が衆参両院を制して第一党となった。これにより、袁に対する牽制力を期待したのであるが、老獪な袁も策を用意していた。
 それは、当時の国民党内で党首の孫文を抑えて実権を持っていた宋教仁を暗殺したことである。この過激策により、国民党を弱体化させることを狙ったのである。策は当たり、1913年5月には国民党に対抗し、袁を支持する進歩党が結成された。
 こうした袁世凱のなりふり構わぬ権力志向に対して、1913年7月、国民党は武装蜂起するが、準備不足ゆえに袁政府により即時に鎮圧された。通常、これを「第二革命」と呼ぶが、その実態は革命というほど熟しておらず、早まったクーデター的決起であった。
 袁はこの反乱を奇貨として、10月には正式に大総統に就任したうえ、国民党を反乱関与のかどで強制解散に追い込んだ。これにより、国民党幹部の多くが亡命し、あるいは投獄処刑され、革命派は打撃を受けた。
 袁はこの後、共和制を廃して自ら皇帝に即位する策動を隠さなくなり、1915年12月には翌年からの帝政復活を予告宣言するに至った。袁による反革命宣言と言うべき新局面である。
 このような経過を見ると、袁世凱という人物は18世紀フランス革命当時のナポレオンに擬すべき人物のようにも見えるが、ナポレオンが革命軍の将校として革命派内部から現前し、革命を止揚する形で帝政樹立に至ったのに対し、袁は旧体制の内部から現前して、革命を外から横領して帝政復活を目論んだ点で立ち位置が異なっている。
 ただ、袁は自己の権力ばかりを追求していたわけではなく、彼なりの仕方で中国の近代化を構想していた。それは列強からの借款によって近代的なインフラストラクチャーの整備を進めるというもので、そのような方向は清朝末期に自ら主導して実施しようとした改革策と一致していた。しかし、それはまさに清朝に時代を揺り戻すものであった。
 成功するかに見えた袁による革命の横領であるが、早まった帝政復活宣言は失策であった。このような明白な反動に対して各地で反袁派による蜂起が発生したばかりか、権力基盤の北洋軍閥内部からも離反者が出るに及び、帝政復活の取り消しという異例の事態に追い込まれた。
 しかも、袁は失意からか発病し、1916年6月に急死してしまう。これにより、袁の革命横領過程はあっけなく終焉したのであった。反帝政復活運動は結果的に袁の命まで奪ったことで「第三革命」と呼ばれることもあるが、その実態は革命というよりは抗議デモであった。
 とはいえ、袁世凱独裁体制が意外に早く取り除かれたことで、1911年辛亥の時点まで巻き戻して革命過程を再び始動させるチャンスの到来であったが、事態はそうならず、むしろ革命の挫折が進行してしまうのであった。

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近代革命の社会力学(連載第103回)

2020-05-11 | 〆近代革命の社会力学

十六 中国共和革命:辛亥革命

(4)地方蜂起から密約革命へ
 文人・知識人主体の革命組織である中国同盟会が武装蜂起の度重なる失敗を越えて共和革命に成功するに当たっては、清朝末期に台頭してきた二つの新しい人的要素の加勢が鍵となった。すなわち、民族資本家と中国初の近代的軍隊である新軍である。
 民族資本家は、19世紀末以降、主として漢民族の中から台頭してきた近代的な資本家層であり、紡績や製塩、海運などの分野を中心に短期間で財閥を築き上げた。かれらは本業のほかに、ナショナリズムの思想から、外国資本に握られた利権の回復を進めるいわゆる利権回収運動にも乗り出し、かなりの成果を上げていった。
 同時に、民族資本家層は旧来の豪商財閥であった山西商人などとは異なり、近代的な工業を基盤とする資本家層として、開明的な思想に目覚め、保守的ながらも議会制度を通じた参政意志を持った。江蘇省の紡績資本家・張謇はその代表格であり、彼は共和革命のプロセスにも深く関与し、後に清朝最後の宣統帝の退位詔書起草者ともなった。
 もう一つの新軍は、清末、清朝自身による近代化改革の過程で創設された西洋式軍隊組織であった。そうした経緯から、当然にも新軍の役割は清朝の防衛にあり、当面は革命の鎮圧に投入されることを予定していた。とはいえ、統一された国軍組織とは言い難く、指導的将官個人の手に委ねられた軍閥組織の色彩が強かった点に限界があった。
 一方、清末には物価高騰と増税が重なり、農民や都市細民の生活は圧迫され、庶民層は打ちこわしや減税を求める暴動など旧来の一揆的手法で抗議運動を活発化させていた。かれらはまだ近代的な革命意識に目覚めていなかったとはいえ、下からの革命の機運を高めることに寄与した。
 そうした中、最末期の清朝が犯した二つの失策が、革命の時期を想定以上に早めることとなった。一つは、鉄道国有化政策である。一見すると社会主義的にも見えるこの政策の真意は、西欧列強借款団に対する担保として差し出すための措置であり、言わば身売りに等しいものであった。
 この措置は利権回収運動を進めていた民族資本家層を憤激させ、とりわけ鉄道国有化反対運動の拠点となっていた四川省では、1911年9月の暴動に発展した。これが革命の導火線となり、湖北省の新軍が反旗を翻して決起し、清朝からの離脱を宣言したのを皮切りに、他省にもドミノ倒し的な決起と離脱宣言が相次いだ。
 もう一つの失策は、そうした各地の革命的蜂起を受けて、新軍軍閥であった袁世凱を内閣総理大臣に任命したことである。内閣総理大臣は清末の近代化改革で新設された政府首班である。清朝は新軍中最強を誇る北洋軍閥総帥の袁に全権を与えることで革命の早期鎮圧を期待したが、彼は野心に満ちたマキャベリストであった。
 革命に利用価値を見出した袁世凱は、革命を鎮圧すると見せて、裏では革命派と通じ、清朝の廃止と共和制移行を手助けするのと引き換えに、自身を共和国元首である大総統に就けることを密約させたのであった。
 かくして、密約に基づき、1912年2月、清朝第12代の幼帝・宣統帝が退位し、清朝は終焉した。通常ここまでの過程を「第一革命」と呼び、袁世凱が独裁化していく中で、反袁派が起こした二つの政変を第二、第三の革命ととらえるが、共和革命そのものと言えるのは、第一革命のみである。
 この革命の特徴は、如上のように、まずは地方における革命的蜂起に始まり、最終的に体制派軍閥との取引で全土革命が実現したという特異なプロセスである。しかし、袁世凱のマキャベリズムに頼ったことは、間もなく革命の挫折という代償を支払わされる結果となる。

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共産法の体系(連載第34回)

2020-05-10 | 〆共産法の体系[新訂版]

第6章 犯則法の体系

(6)少年処遇の諸制度
 刑罰制度を持たない共産主義的犯則法は、結果として成人に対する処遇と少年に対する処遇の区別を相対化させるため、いわゆる少年法に相当する特別法を別途用意する必要がない。
 とはいえ、成人と少年を完全に同等に処遇するという極端な政策は採らず、発達途上にある少年の特性を考慮し、少年に対する処遇に関しては相応の特例が設けられる。
 少年処遇における基本的な理念は、未成年ゆえに人格的な成長可能性を残す可塑性(柔軟性)の尊重である。このことは、刑罰制度を前提とした少年法においても理念としては否定されていないが、刑罰制度の例外として措定される少年法では、重大事犯ほど犯人たる少年への厳罰欲求が高まり、可塑性の理念は脇に押しやられがちとなる。
 これに対して、共産主義的な少年処遇にあっては、可塑性の尊重は例外なく貫徹される指導理念となる。そのためにも、「少年」の概念は法律上の成人年齢で形式的に区切られるのでなく、生物学的・医学的な発達段階に応じて決定される。
 従って、例えば法律上は成人年齢に達していても、発達障碍や知的障碍などから発達段階上は未成年とみなすべき者は、「少年」として認定・処遇されることになる。
 反対に、法律上は未成年であっても、発達段階上は成人に準じた段階にあると判断される者―法律上の成人年齢に近接する未成年者ほどそのように認定されやすいであろう―は、「成人」として認定・処遇されるのである。
 このように少年の概念を柔軟化したうえで、少年認定された犯則行為者に与えられる処遇は「教育観察」と「矯導学校編入」の二種である。
 「教育観察」は反社会性向の低い少年向けの少年版保護観察と言うべき処遇であるが、成人の保護観察よりも教育に重点が置かれる。
 「矯導学校編入」は、「教育観察」では更生が困難な反社会性向が高い少年向けの拘束的処遇の一種であるが、成人の矯正施設とは異なり、矯正と学業とを両立させるものである。
 なお、犯則には該当しない特定の問題行動(非行)をして補導された少年や単品の万引きのような軽微初犯の少年に対しては、少年処遇のルートから外し、直接に然るべき少年福祉機関に送致して福祉的な保護対応がなされる。

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共産法の体系(連載第33回)

2020-05-09 | 〆共産法の体系[新訂版]

第6章 犯則法の体系

(5)矯正処遇の諸制度②
 前回触れたように、矯正の必要度が高い反社会性向の進んだ犯則行為者には矯正施設での矯正処遇が実施される。この矯正処遇の細分類については、政策的に様々なものを想定できるが、処遇制度は簡明かつ人権上も配慮されたものであるほど望ましい。
 その点、共産主義的犯則法における矯正処遇は刑罰とは異なり、罪の重さに比例した懲罰ではないので、その期間ははじめからx年、y年・・・・というように数字的に提示されるものではない。
 しかし、人権の観点からすべての処遇を無期限とすることも適切ではないので、予め法定された期間を一単位=タームとし、矯正の進展度に応じてタームを更新していく「更新ターム制」が適切と考えられる。
 ここで、タームは予め法律で期間を定められた矯正プログラムの一単位を意味する。そしてタームの基本単位は対象者の矯正の必要度に応じて第一種から第三種まで三段階のランクが設けられ、ランクが上がるごとに1タームの年数も二年きざみで長くなる。
 例えば、第一種矯正処遇のタームは一年、第二種矯正処遇のタームは三年、最大級である第三種矯正処遇のタームは五年といった按配である。このタームを矯正の進展に合わせて、更新していくことになる。
 こうした矯正の必要性の度合いに応じた細分類と同時に、個々の犯則行為者の犯行原因として精神疾患やパーソナリティ障碍のような精神医学的要因が認められる否かを基準とする細分類が与えられる。
 鑑別の結果、それらが認められない場合をA処遇、認められる場合をB処遇と名づけるとすると、上掲各級の矯正処遇のそれぞれをA処遇とB処遇とにふるいわけるのが、最も細密な分類となる。
 最大限の矯正処遇をもってしても社会復帰可能な程度にまで矯正が進まないケースを想定して、対象者を終身的に拘束する終身監置は矯正処遇の限界点を示すが、これとて終身刑のような刑罰とは異なるので、一切の矯正的働きかけを放棄することなく、矯正が進んだ時点での社会復帰の余地は残される。

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共産法の体系(連載第32回)

2020-05-08 | 〆共産法の体系[新訂版]

第6章 犯則法の体系

(4)矯正処遇の諸制度①
 共産主義的犯則法は刑罰制度を持たない代わりに、犯則行為者の矯正及び更生を促進するための処遇諸制度を用意する。それらはいくつかの観点から分類整理することができるが、まずは対象となるものが人か物かにより、対人的処遇と対物的処遇の区別がある。
 このうち対物的処遇は没収のみである。没収は不法に取得された物を取り上げることにより一定の訓戒を与えて更生を促す処遇であり、万引きのような単純窃盗や禁制品の所持に関しては没収のみで足りる。なお、罰金に相当するような金銭的な剥奪の処分は貨幣経済が廃される共産主義社会では存立し得ない。
 没収以外の各種処遇はすべて対人的処遇である。これを処遇が実施される場所の観点から分類すれば、矯正施設で実施される拘束的処遇と一般社会で実施される非拘束的処遇とに分けられる。そのふるいわけは矯正の必要性、すなわち反社会性向の進行度による。
 大部分の犯則行為者は反社会性向がさほど進んでいないため、非拘束的処遇に相当するであろう。非拘束的処遇の代表は保護観察であるが、保護観察下での社会奉仕労働もこれに加えることができる。
 また、精神疾患を抱えるが、反社会性向は進んでいない犯則行為者に治療を義務付けつつ、観察下に置く医療観察も例外的な非拘束的処遇として用意される。
 これに対して、矯正施設で集中的に矯正する必要のある一部の者が拘束的処遇の対象となる。これは現行の懲役刑の制度に外見上は類似するが、あくまでも「処遇」であって、「刑罰」ではないので、端的に「矯正処遇」と呼ばれる。
 このような矯正処遇にも、対象者の反社会性向や精神疾患ないしパーソナリティ障碍の有無などの特性に応じて、さらに細分類が存在するが、これについては次回稿を改めて論じる。
 ところで、通常の矯正処遇をもってしては矯正し得ない矯正不能者に対する究極の処分としての致死的処分の制度を持つべきかどうかであるが、「矯正不能」の科学的・医学的証明は不可能に近く、過誤のない公正な処分としてこのような制度を運用することは困難であるので、致死的処分の制度は除外される。
 ただし、極めて矯正困難な反社会性パーソナリティ障碍が認められる者に関しては、矯正処遇を打ち切り、社会防衛上終身間にわたり拘束する終身監置の制度が用意されるが、矯正処遇の技術を研究開発する矯正科学の発達につれ、これに該当する者はごく例外的となるだろう。
 
:ただし、ジェノサイドのような反人道犯罪を組織的に、かつ指導的または主導的に実行した者に対しては致死的処分が与えられるが、これは反人道犯罪の再発防止を徹底する趣旨から、民際的な世界法に基づいて行われる根絶処分である(第6章(1)の脚注参照)。

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近代革命の社会力学(連載第102回)

2020-05-06 | 〆近代革命の社会力学

十六 中国共和革命:辛亥革命

(3)近代的ナショナリズムと中国同盟会
 清朝は、アヘン戦争後の西洋列強の攻勢に直面する中、武力で対抗することの限界を補うべく、政治・社会制度の西洋化という文化戦略によって対応しようとした。こうしたいわゆる洋務運動の延長上の改革として、19世紀末、若い光緒帝の承認の下、戊戌変法と呼ばれる政治・法律制度全般の近代化改革が発動された。
 しかし、これは当然にも、清朝体制護持を前提とした上からの改革にすぎない一方で、当時の清朝にとっては急進的すぎる改革であったことから、時の最高実力者・西太后の不興を買い、彼女を奉ずる保守派のクーデターにより挫折させられた。
 しかし、いったん着手された近代化改革は、多くの近代的な知識人青年を生み出していた。この世代の中からやがて近代的革命家が輩出される点では、西の青年トルコ革命の過程とも類似している。ただ、青年トルコ革命では、近代的な軍の青年将校が台頭していくが、清朝では軍の近代化が遅れたため、青年革命人士は文人であった。
 そうした新世代の革命人士の中には、やがて共和革命の理論的・精神的支柱ともなる孫文や黄興もいた。こうした新世代知識人の間では外国留学、とりわけ近場の新興国家であった日本に亡命を兼ねて留学することがブームとなった。
 そのため、孫文をはじめ、間もなく共和革命の中心を担う革命人士の多くが日本留学組であり、ある意味では、日本が中国共和革命のゆりかごともなったと言えるほどである。かれらは、日本の明治維新をモデルとしつつも、清朝の排除と共和制の樹立を構想し、様々な革命団体を結成した。
 当初は統一されず、林立状態だった革命諸団体を糾合する役割を果たしたのが、孫文である。彼は1905年、東京で新たに中国同盟会(以下、「同盟会」という)を立ち上げた。これは政党というより、名称通り盟約団体に近いもので、内部には多くの分派を含んでいた。
 そのうえ、日本側では右翼人士が仲介の労を取ったこともあり、日本の右派国粋主義勢力との結びつきが強いものとなった。日本の国粋主義勢力が同盟会を支援したのは、彼らが奉じていた日本を中心とするアジア主義の構想に取り込む狙いもあったからであろう。
 同盟会の綱領としては、孫文のスローガンである「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」が採用されたが、このうち、前半の「駆除韃虜、恢復中華」とは、19世紀の「滅満興漢」を言い換えたものに等しい。その点、中国共和革命は何よりも漢民族の自主権を近代的な仕方で奪回するという近代的なナショナリズムを原動力としていた。
 その反面、後半の「創立民国、平均地権」は、革命成就後の民主主義国家の樹立と土地の均等配分という政治経済的な民主化を含意していたが、こうした革命成就後の政治社会体制の構想に関しては同盟会内部でも十分に練られていたとはいえず、革命後の混乱と挫折の要因ともなっただろう。
 とはいえ、同盟会は清朝打倒という一点では高い凝集性を見せ、短期間で中国内外にネットワークを広げ、大衆啓蒙活動も展開した。その一方で、武力革命路線も採用し、各地で武装蜂起するも、知識人中心であるため、軍事戦略も民衆的な支持もなく、失敗を繰り返し、革命の機運は遠のくかに思われた。

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近代革命の社会力学(連載第101回)

2020-05-05 | 〆近代革命の社会力学

十六 中国共和革命:辛亥革命

(2)前段階的ナショナリズム
 20世紀初頭の中国で共和革命が勃発するまでには、19世紀後半期におけるかなり長い前段階的プロセスを必要とした。その過程では、二つのナショナリズムの潮流が動因として相次ぎ興隆している。初めの一つは、満州人(女真族)に支配された異民族支配王朝である清朝に対する漢民族のナショナリズムである。
 この漢族ナショナリズムは、かつてモンゴル人の元朝に対する抵抗運動に際しても動因となったものであり、この時は最終的に漢民族系の明朝の成立として実現したのであるが、清朝に対する漢民族の抵抗はいささか変則的な形で現れた。それが、1853年から64年にかけ、南京を占領して清朝の権力が及ばないある種の解放区を形成した太平天国である(拙稿参照)。
 太平天国はキリスト教の影響を受けつつ、中国土着の宗教を習合させた新興宗教結社である拝上帝会を中心とする宗教的ユートピアであったが、軍を組織して決起するに当たり、「滅満興漢」のスローガンを掲げたことが成功要因となった。
 清朝成立以来、明確に清朝支配の打倒を掲げた運動が地方的とはいえある種の革命に結実したのは、これが初めてであった。とはいえ、太平天国はその理念において万民平等や男女平等などの革新性を示しはしたものの、最高指導者で教祖の洪秀全が「天王」を称して君臨する一種の宗教王国であり、近代的な共和制には程遠いものであった。
 最終的に洪秀全が病死すると、間もなく清朝軍の掃討作戦により滅亡に追い込まれ、結局全国的な体制となることなく太平天国の夢は潰えた。同時に清朝がなお健在ぶりを示したことで、「滅満興漢」も現実性を失ってしまった。
 一方、この時代の清朝はアヘン戦争敗戦後にあって、英仏をはじめとする西洋列強からの攻勢にあい、租借の形で領土を蚕食されている最中であった。その延長上で、19世紀末にはフランスや日本との戦争にも相次いで敗れ、中国は半植民地化の状態に陥っていった。
 こうした中で、新たに対外的な関係で清朝を救い、国の独立を回復しようという方向のナショナリズムが興隆する。これを象徴するスローガンが「扶清滅洋」であり、それが一気に対外戦争として表出されたのが1900年における「義和団の乱」であった。
 この戦争は、従来のように清朝対列強という国家間戦争ではなく、民衆蜂起の形を取った抵抗戦争であった点に特徴があり、それを主導したのが新たな新興宗教結社の義和団、またの名を義和拳教であった。義和拳教は宗教性を帯びた武術団体を基礎とする宗教結社で、拝上帝会のようなカリスマ的教祖を持たない自然発生的な民衆組織であった。
 義和団の蜂起はこれを時の清朝最高実力者であった西太后が支持したため、事実上清朝対日本を含む列強八か国間の戦争に発展したが、このような多国籍軍を相手とすれば、清朝に勝算はなかった。
 清朝が態度を一変して義和団を反乱軍と認定し、鎮圧に動くと、朝廷の裏切りに失望した義和団は「掃清滅洋」にスローガンを変え、清朝と列強双方の打倒を目指すようになった。ここから、改めて清朝打倒の動因が再生されたのである。
 とはいえ、「滅満興漢」にせよ、「掃清滅洋」にせよ、それは近代的なナショナリズムとは異質の思想であり、その運動を担う勢力はいずれも前近代的な思考になお係留された宗教結社であったことに本質的な限界があった。「掃清滅洋」が近代的な革命運動に結晶するには、別筋からのナショナリズムの台頭を待つ必要があった。

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近代革命の社会力学(連載第100回)

2020-05-04 | 〆近代革命の社会力学

十六 中国共和革命:辛亥革命

(1)概観
 中国の歴史は、古代以来、ある意味では革命の歴史であった。「革命」という漢語自体、前近代中国におけるいわゆる易姓革命論に由来する用語が、近代革命論の文脈でもそのまま流用されてきたものである。
 易姓革命論によれば、天―中国伝統宗教では「神」に匹敵する至高の采配者―は、自身の代理として王朝に地上の統治を授権するところ、地上の王朝が徳を失い堕落したときには、天が王朝を見切り、天[あらた]める、すなわち革命が生じ、姓を易[か]える、すなわち王朝が交代するとされる。
 これは儒教の政治思想に基づくものであって、西洋近代的な政治思想としての革命論とは異なるが、英語で革命を意味するrevolutionにも、revolve=回転するという含意がある限りでは、巡り巡る変動という中国的な易姓革命論とも共有する部分があると言えるかもしれない。
 とはいえ、中国の伝統的な革命論は机上論ではなくして、実際の政治においても適用され、中国における王朝交代のほとんどは中国的な意味での革命によっている。しばしば禅譲という形式を踏むことはあっても、その実態は政治的な圧力によって前王朝の皇帝に譲位を迫った結果である。
 もっとも、こうした易姓革命の歴史は13世紀、外来勢力モンゴル人が建てた元朝による中国支配をもってひとまず終焉し、その後は漢民族による奪回王朝としての明朝、さらにもう一度外来勢力女真族が建てた清朝と、漢民族と外来民族の間での王朝交代劇が続く。
 中国における革命の歴史を大きく転回させたのは、20世紀に入って1911年に勃発したいわゆる辛亥革命である。易姓革命がいずれも王朝の交代という形を取り、帝政自体は踏襲されていたのに対し、辛亥革命では清朝が打倒されたのみならず、始皇帝以来二千余年の歴史を持つ帝政自体が廃止され、中国史上初の共和制に移行したからである。
 もっとも、17世紀末以来、清朝の版図であった台湾では、日清戦争後、1895年の下関条約で約定された日本への台湾割譲に反発する官僚ら有志が共和政体の「台湾民主国」の樹立を宣言したことがあった。
 これは清朝に対する革命ではなく、独立運動の一形態ではあるが、厳密には「台湾民主国」が辛亥革命に先行する中国史上初の近代的共和制の事例であったとも言える。しかし、「台湾民主国」はその体制が固まる前に、進駐してきた日本軍によって駆逐された。
 そのため、辛亥革命は中国における近代革命思想に基づく初の成功した共和革命として位置付けることができる。この革命は、革命成功年の西暦1911年の干支を当てはめて古風に「辛亥革命」と通称されるが、当連載ではあえて「中国共和革命」と称することにするのも、そのためである。
 中国共和革命は20世紀に入ってアジア・アフリカ地域でも続発していく同種の共和革命の先駆けのような位置付けを持つ革命であり、実際にその波及性は大きく、間接的には、中国とも国境を接するロシアの1917年革命にも反響した可能性がある。
 他方において、中国共和革命は最終的に失敗した革命でもあり、その代償は各地の軍閥支配と長期の内戦、帝国日本による侵略・占領、共和革命の産物でもある国民党と共産党の台頭による国共内戦という40年近くに及ぶ内憂外患であった。

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共産法の体系(連載第31回)

2020-05-03 | 〆共産法の体系[新訂版]

第6章 犯則法の体系

(3)犯則行為の分類
 古典的な刑法では、犯罪を生命・身体・財産等の被侵害法益に応じて分類することが多いが、これもまた、犯罪と刑罰の対応関係を予め個別的に法定することに照応した体系の組み方と言える。
  しかし、処遇を矯正の必要度によって定める共産主義的な犯則法ではこのような被侵害法益による形式的な分類方式は採用されない。その代わりに、犯則行為の社会的な性質による分類が採用される。
 そのような分類として、経済事犯・生活事犯・人身事犯・政治事犯の四種を区別することができる。
 経済事犯は経済的秩序を乱す犯則であり、共産主義経済の柱となる経済計画に違反する生産・流通行為や無主物となる土地に対する不法占有などが代表例である。
 こうした経済事犯は組織ぐるみで実行されることも多いため、犯行者個人と並んで、組織体に対する強制解散や業務停止といった懲罰的処分が付加されることもあり得る。
 生活事犯は市民生活の平穏を侵害する犯則であり、窃盗のような財産犯のほか、住居侵入や盗聴・盗撮のようにプライバシーを侵害する行為など幅広い犯則が含まれる。数的には、当カテゴリーに分類される犯則が最も多い。
 とはいえ、このカテゴリーに分類される犯則は反社会性が軽微なものも多いため、全体として保護観察のような保護的処遇で済むケースが大半を占めるだろう。
 人身事犯は人の生命・身体を侵害する犯則であり、暴行、傷害、殺人をはじめ、性的犯行もここに含まれる。
 犯行者の病理性という点においては、この事犯が最も深刻で、反社会性パーソナリティ障碍(害)のような難治ケースも含まれるため、矯正処遇においては中心的な位置を占めるであろう。
 政治事犯は内乱や破壊活動のように、社会の政治的安定性を破壊する特殊な犯則ある。その犯行手段として上に掲げた三つの事犯に属する何らかの犯則が実行されるため、たいていは複合的な事犯となる。
 このカテゴリーに属する犯行者は特定の思想・信条・信仰を抱懐していることが多いが、いわゆる「思想犯」という特待的地位は保障されず、複合的事犯としての矯正処遇が与えられる。

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共産法の体系(連載第30回)

2020-05-02 | 〆共産法の体系[新訂版]

第6章 犯則法の体系

(2)犯則行為の本質
 共産主義的犯則法における犯則行為は、道徳に背反する背徳行為ではなく、共同社会の秩序を乱す反社会的な行為として把握される。その点で、犯則行為者に与えられる処遇には道徳的非難の意味合いはなく、そうした非難と処遇とは本質上別個のものである。
 より詳細に犯則行為の本質に立ち入れば、それは法益侵害の物理的結果と犯則行為者の故意行為との物心複合体として把握される。この点で、共産主義的な犯則の把握は唯物論的な行為結果主義と唯心論的な行為者心理主義のいずれにも偏らない。
 このように犯則行為とは特定の物理的な被害を生じさせる故意行為を基本型とし、過失行為は基本的に犯則行為とみなされないが、過失の程度が重い重過失行為及び高度な注意義務が課せられる業務者の業務上過失行為は故意行為に次いで反社会性が強いため、犯則行為として把握される。
 一方、正当防衛に代表される防御的な反撃行為は生物として自然の反応であるから、そもそも犯則行為に該当しない。また医師による外科手術のように正当な業務行為として適正に行なわれた侵襲的行為もまた然りである。こうした正当業務行為は反社会的どころか、社会的に有益な行為だからである。
 なお、ここで言う則行為は、行政的則行為とは区別される。行政的反則行為は、行政的な取締規定に違反する行為であり、その法的効果は一定の資格/免許剥奪や公民権停止/剥奪のような行政罰であって、矯正処遇ではない。その代表例は、道路交通法規違反である。
 ところで、伝統的な刑罰制度には「責任なくして刑罰なし」という標語に象徴される責任主義のテーゼが埋め込まれている。つまり、刑罰は過去の犯罪行為に対する行為者の責任を根拠に科せられる法的反作用であるとされる。
 そのため、犯行当時心神喪失状態にあった責任無能力者は犯罪を犯しても責任を問えず、法的には無罪の扱いとなり、しばしば社会的な波紋を呼び起こすことがある。
 共産主義的犯則法にあっても、「責任」は否定されないが、それは過去の行為に対する回顧的な責任ではなく、犯則行為者が将来へ向けて改善・更生していくべき展望的な責任である。
 従って、責任無能力ゆえに無処遇という扱いはなく、犯行当時精神疾患等の影響性が強く認められたとしても、処遇が全く免除されることはないのである。後に改めて論及するように、そうした場合には、精神医学的な治療プログラムを組み込んだ治療的処遇が与えられることになる。
 ただし、犯則行為者の精神障碍や知的障碍が重度かつ回復困難であるため、矯正処遇の実質的な効果を期待できないと判断された場合には処遇不能ゆえに免除とし、医療福祉的保護措置に付せられるということはあり得るが、それはかなり例外的な場合である。

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共産法の体系(連載第29回)

2020-05-01 | 〆共産法の体系[新訂版]

第6章 犯則法の体系

(1)刑法から犯則法へ
 真の共産主義社会は、刑罰制度を持たない。刑罰は国家主権を前提としてのみ成り立つ国家権力による究極的な権利剥奪処分であって、国家が廃される共産主義社会ではその存立基盤を失うからである。
 反対に、共産主義を公称しながら、刑罰制度は完全に存置されている体制があるとすれば、それは真の共産主義社会ではなく、いまだ国家の骨組みを残した標榜上の名目的共産主義社会にとどまっていることになる。
 しかし、刑罰制度の不存在はもちろん、犯罪の解決を法外のリンチや復讐に委ねることを意味しない。そうではなく、刑罰に代えて犯罪行為者の矯正及び更生を図る新たな制度が導入されるのである。
 その点では、改良主義的な刑罰制度の枠内ですでに現われている応報刑主義から教育刑主義への進歩の道程をさらに進め、刑罰という枠を取り去り、犯罪行為者の矯正及び更生を直截に目的とする処分に転換されるものと考えることができる。
 しかし、「教育刑」というとき、そこにはまだ刑罰としての性質が残されていることになるが、犯罪行為者の矯正及び更生を直截に目的とする処遇に転換された場合には、犯罪はもはや道徳的な「罪」ではなく、特殊な処遇を要する重大な犯則として把握されることになる。
 従って、共産主義社会において、犯罪と刑罰を定める「刑法」は存在せず、犯則行為と犯則行為者に対する処遇を定めた法という意味で「犯則法」と呼ばれる法典が「刑法」に相当する。「犯則法」はどのような行為が犯則に該当するかを予め法定し、かつそれに対して選択し得る処遇とその内容とを定める法律である。
 こうした事前法定主義の原則に関しては、伝統的な刑法と比べて大差はない。しかし、犯則行為に対する処遇はそれによって侵害された法益の重さではなく、行為者の矯正の必要度に応じて決まることから、個々の犯則行為に対する処遇が予め個別的に対応するわけではない。その限りで、杓子定規な形式的法定主義は否定される。
 簡単な実例として傷害についてみると、例えば現行日本刑法では「人の身体を傷害した者は、十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。」として、犯罪行為とそれに対応する刑罰が予め個別的に定められている。
 これに対して、共産主義的犯則法では傷害行為は犯則行為として法定されるも、個々の傷害行為者に対してどのような処遇を与えるかは当該行為者の特性を考慮して決定されるので、処遇の種類やその重さは個別的には法定されず、総則的に法定される。

:最終的に、法的な犯罪として残されるもの―言わば、最後の犯罪―は、ジェノサイドに代表される人道に反する罪である。ただ、この種の犯罪は世界法(条約)上の犯罪として民際的に処理される(拙稿参照)。

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