ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第377回)

2022-02-07 | 〆近代革命の社会力学

五十五 フィリピン民衆革命

(3)開発独裁体制の腐食と揺らぎ
 1972年の戒厳令施行以来、盤石と見えたマルコス独裁体制が革命へ向かう過程は、再びハイチとも類似・交錯する。ハイチでもローマ法王ヨハネ・パウロ2世の訪問が精神的な意味で革命の触媒となったように、カトリックが優勢なフィリピンでも、1981年2月の法王訪問は当時のマルコス独裁体制に少なからぬ影響を及ぼした。
 まず、マルコス政権は、法王を戒厳令下で迎える体裁の悪さを回避するためにも、訪問に先立ち8年以上に及んだ戒厳令の解除に踏み切った。そのうえで、同年6月に12年ぶりとなる大統領選挙を施行したが、この選挙は野党がボイコットする中、マルコスが出来レースで三選した。
 事実上の信任投票に近い選挙で民主制に復帰した外観を整備したわけであるが、この策は逆効果的に政権への反作用を強める結果となり、翌82年には、その四年後の民衆革命でも重要な役割を果たす二つの組織が台頭してきた。
 一つは、戒厳令解除に先立つ1980年結成の統一野党勢力が「統一民族主義者民主機構」として正式に旗揚げしたことである。これは反マルコス派の八政党が結集した政治連合組織で、86年革命後に副大統領となるサルバドール・ラウレルを中心に結成された。
 もう一つは、国軍中堅将校の間でマルコス一族支配の腐敗や縁故政治を批判する秘密ネットワークとして結成された「改革国軍運動」である。マルコスは戒厳統治の間、軍に依存してきたが、足元の権力基盤からも地殻変動が生じてきたことになる。
 そうした新状況の中、70年代の戒厳統治時代に有力な野党指導者として台頭し、弾圧を受けた後、アメリカに事実上追放されていたベニグノ・アキノ・ジュニアが1983年に帰国を敢行したが、白昼、到着したばかりのマニラの空港で暗殺されるという事件が衝撃を与えた。
 当初、政府は現場で同時に射殺された共産ゲリラ・新人民軍メンバーの犯行と発表したが、目撃証言から軍の関与疑惑が浮上したため、やむを得ず調査委員会を設置し、マルコスの腹心ファビアン・ヴェール国軍参謀総長を含む将兵らを起訴した。しかし、裁判では短期の審理で被告人全員が無罪判決を受けた。
 このアキノ暗殺事件にマルコス自身の指示や承認があったのかどうかは依然論争されているが、いずれにせよ、無罪判決が結論先取的に仕組まれた司法的茶番劇は国民各層を反発させ、かえって抗議活動を活発化させることとなった
 とはいえ、マルコスは第一期以来、軍事力強化を課題として、軍の大幅な増強に努めてきており、軍の一部門である警察軍を通じて地方警察も統合し、強固な軍事警察国家を構築していたため、その権力基盤は容易に揺らがないはずであった。
 しかし、経済面では、60年代半ばのマルコス大統領一期目には東南アジアでは随一の成長を見せていた経済が70年代以降低成長に暗転し、日米などからの援助と海外出稼ぎ労働者の送金に支えられる状況に低迷していた。
 その背景には、戒厳統治下とその後の独裁制維持の中で亢進した縁故政治と政治腐敗が生産活動の停滞をも引き起こしていた事実があった。その結果、1980年代前半期には、社会の上部構造より先に土台の経済が腐食し、揺らぎ始めていた。このことは、民衆の間にも、体制変革への待望を急速に生じさせる契機となったであろう。

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続・持続可能的計画経済論(連載第27回)

2022-02-06 | 〆続・持続可能的計画経済論

第2部 持続可能的経済計画の過程

第5章 経済計画の細目

(4)領域圏経済計画の構成及び細目
 領域圏経済計画は世界経済計画を大枠として策定される各領域圏単位での二次的な経済計画であり、持続可能的計画経済全体における核心を成す計画である。
 古典的な経済計画で言えば、各国ごとの中央経済計画に相当するものであるが、世界経済計画に枠づけされている点、策定単位の領域圏は排他的な主権国家ではない点で、古典的な計画経済とは大きく異なることが改めて留意される。
 後者に関連して、領域圏の中でも、複数の領域圏が協働して経済計画を策定することを主要な目的として緩やかに結合する合同領域圏にあっては、経済計画も合同の構成領域圏ごとではなく、合同領域圏単位で策定することになる。
 こうした合同経済計画をも含めた領域圏経済計画の細目は世界経済計画と相似形を成すので、基本的には世界経済計画のそれに沿ったものとなり、エネルギー計画に始まって、生産計画の細目が提示される(計画A)。その細目が地球環境の主要素である大気・土壌・水資源・生物資源のいずれに負荷のかかる業種かにより分類される点も同様である。
 もっとも、エネルギー計画に関しては、自領域圏内で産出できないエネルギー源は世界天然資源機関を通して包括供給を受けることになること、同様に、自領域圏内で生産できない製品に関しては、他領域圏からの輸入供給を受けることになる点で、領域圏経済計画の細目は各領域圏ごとに多様化される。
 また、領域圏経済計画の細目として、農林水産分野の経済計画(計画B)が別枠で策定されることも重要な点である。世界経済計画は地域的な生態系や食習慣の相違により偏差の大きい農林水産分野の計画を含まないため、この分野に関しては、領域圏経済計画が一次的な経済計画となり、農業・林業・漁業の各分野ごとの細目が提示される。
 さらに、経済計画の全体概要の根拠となる環境上の指針を別表として明示することは、世界経済計画の場合と同様である。その指針は基本的に世界経済計画に示された指針の縮約版であるが、世界経済計画上の指針より厳しい指針を設定する場合は詳細に記述する必要がある。
 なお、領域圏経済計画の三本目の柱となる製薬計画(計画C)は薬剤という製品の性質上特殊な構造を持つため、本章の最終節で改めて記述する。

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近代革命の社会力学(連載第376回)

2022-02-04 | 〆近代革命の社会力学

五十五 フィリピン民衆革命

(2)寡頭民主制から開発独裁制へ
 1946年にアメリカから独立した後のフィリピンでは、アメリカにならった大統領共和制が定着し、おおむね保守系の国民党とリベラル中道系の自由党の二大政党政の枠組みで政権交代を繰り返すことにより、東南アジアでは際立って安定した民主政治が遂行されていた。
 とはいえ、その実態はスペイン統治時代以来のスペイン系財閥や華僑系財閥による大土地所有制を土台とし、大多数の国民は貧農層という不平等な社会構造の上にに築かれた典型的なブルジョワ寡頭民主制にほかならなかった。そのため、農村部を拠点とした農民の武装抵抗運動組織が独立直後から活発に活動した。
 一方、独立フィリピンは対外的には引き続き旧宗主国アメリカに従属し、冷戦時代には東南アジアにおける反共の砦として米軍基地が半恒久的に置かれるなど、ラテンアメリカの状況に等しい対米従属構造の下に置かれていた。
 その点、農村に浸透しつつあったフィリピン共産党は米軍の支援を受けた1950年代の掃討作戦によっていったん壊滅したが、農村を拠点とする革命運動が隆起することを防ぐためにも、歴代政権のいくつかは大土地所有制にメスを入れる農地改革を試みた。しかし、どの政権も無視できない地方政治を掌握する財閥地主層の抵抗は強く、本質的な農地改革は不可能であった。
 そうした中、1965年の大統領選挙で、少壮政治家のフェルディナンド・マルコスが当選を果たした。弁護士出身のマルコスは当初自由党に所属し、上下両院議員を経験し、若くして上院議長にもなったが、65年大統領選挙に際して党からの指名を受けられなかったことで一転、対抗政党の国民党に鞍替え出馬し、勝利を収めた。
 こうして第10代大統領に就任したマルコスの施政方針は、地方での公共事業の増発と農業革新を通じた農業生産力の増強というものであった。つまりは農地改革を迂回した地方開発ということであり、そのために日本からの援助や投資も大いに活用した。
 このような資本主義的な開発優先政策は当初成功を収め、マルコスは1969年の大統領選挙で独立後初となる再選を果たした。しかし、その陰では、農村における階層分化と都市部への農民の流入によるスラム化などの新たな社会問題が発生していた。
 農村では毛沢東主義者が改めて共産党を再結成し、武装ゲリラ活動を開始する一方、都市では学生運動が隆起し、1970年代に入ると、治安の急速な悪化が見られた。これに対処するためとして、マルコスは1972年9月、戒厳令を布告し、以後81年の解除まで政権に居座り、野党を抑圧しつつ、軍事的な戒厳統治を継続した。
 これにより、フィリピンは従前の寡頭民主制から開発独裁制へと大きく転換することになる。この新体制下、マルコスはある意味で既存の地主階級の特権にメスを入れたが、それは特権構造そのものの変革ではなく、既得権益を自身の一族及び側近集団に付け替えただけのことであったため、急速に一族支配制へと変質していった。
 ただし、戒厳体制はあくまでも暫定措置にすぎないため、すでに戒厳令を機に国民党を離党していたマルコスは、独裁が固まった1978年にファシズムの性格の強い翼賛政党として「民族主義者・自由主義者その他連合新社会運動」を結成し、戒厳体制終了後の政権継続にも備えていた。

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近代革命の社会力学(連載第375回)

2022-02-03 | 〆近代革命の社会力学

五十五 フィリピン民衆革命

(1)概観
 ハイチ民衆革命からおよそ2週間後、フィリピンでも同種の民衆革命が勃発した。フィリピン民衆革命は、1986年2月22日から同月25日のわずか3日間で電撃的に生じた点で、ハイチのそれとは対照的であったが、革命の経緯及び動因には類似する点が多い。
 当時のフィリピンの場合も、1965年以来、連続して大統領の座にあったフェルディナンド・マルコスが70年代以降、夫人を含めた一族による長期独裁体制を確立して、経済的利権をも独占する状況にあり、こうした一族支配への国民各層の反発が80年代半ば以降、強まっていた。
 そうした中、マルコスがさらなる政権継続を狙って1986年2月に実施した大統領選挙では、いったんマルコスの「当選」が発表されたものの、現職陣営による露骨な不正投票の実態が集計現場から暴露されると、民衆の憤激を招き、全土規模での民衆蜂起に発展した。
 最終的には、政権の支柱でもあった軍部の離反を招き、アメリカの仲介を経て、マルコス一家がハワイに出国、野党対立候補コラソン・アキノが改めて正当な当選を宣言して、革命はひとまず収束に向かった。
 このように不正投票が民衆蜂起の契機となった点でも、革命の前年、不自然な高率による承認のために不正投票が疑われた憲法改正国民投票が一つの契機となったハイチ民衆革命と類似している。また、アメリカが外圧により親米独裁政権の終焉を手引きした点でも、同様の力学が見られた。
 それでも、同年同月の革命ながら、フィリピン革命をはるかに人々の記憶にとどめたのは、フィリピン革命では革命の過程がテレビ報道を通じて全世界に配信されたためであった。当時はまだ汎用インターネットの登場前であったが、テレビジョンの全盛期であり、国際報道も盛んになっていた時期である。
 そのため、全世界がフィリピン民衆革命を共時的に視聴体験することとなり、革命のスローガン「ピープル・パワー」は時代のキーワードともなった。こうして、1986年フィリピン民衆革命は、現在であればインターネット動画を通じて配信されるであろう、言わば「スペクタクルの革命」としても、新時代の到来を予感させる革命事象であった。
 このピープル・パワー革命は、アジア全域に一定以上の波及効果を持ち、1987年の韓国における民主化運動(6月民主抗争)、1988年のビルマ(現ミャンマー)における民主化運動(8888民主化運動)、さらには89年の中国における学生蜂起(64天安門事件)などに間接的に影響した。ただし、これらの波及事象はいずれも革命には進展していない。
 また、1989年に始まる中・東欧からモンゴルまでユーラシア大陸に広く及んだ社会主義諸国における連続革命も民衆革命の性格を持っており、直接的ではないにせよ、ピープル・パワーを見せつけたフィリピン革命の波及効果を認識できる事象であったと言える。

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近代革命の社会力学(連載第374回)

2022-02-01 | 〆近代革命の社会力学

五十四 ハイチ民衆革命

(4)革命の収束と収束しない混迷
 1986年のデュヴァリエ体制打倒から国際的監視下での1990年の大統領選挙までの間は、「デュヴァリエ抜きのデュヴァリエ体制」と揶揄される旧体制の中途半端な継続期であった。しかも、1988年の問題含みの大統領選挙をはさみ、政権が二転三転する混乱期でもあった。
 まず、最初の国家統治評議会は前回も触れたとおり、ナンフィ国軍参謀総長を議長とする旧体制派中心の軍民混合政権であり、旧体制の象徴である暴力団的治安部隊トントン・マク―トの解体は実現したが、本質的な変革には踏み込まなかった。
 そうした中、唯一反体制派から登用されていた人権弁護士のジェラール・グルグが一か月で辞職すると、強まる国民の抗議行動を受け、ナンフィは特に旧体制との結びつきの強いメンバーを交代させ、新たな評議会を形成した。
 この後、1987年に民政移管のための大統領選挙が実施されるが、この選挙はナンフィを中心とする軍部が仕切り、投票が暴力的に妨害される不正な選挙であった。結果、有力な野党系候補がボイコットしたため、デュヴァリエ父大統領のブレーンから反体制派指導者に転じていた学者出身のレスリー・マニガが「当選」した。
 中道保守系のマニガは軍部や旧体制派からは一定の支持があったと見られるが、88年の政権発足直後、軍の人事を巡ってナンフィと対立し、ナンフィを退役させようとするが、これに反発したナンフィが軍事クーデターを起こして自ら大統領に就任、マニガはわずか4か月で失権した。
 ナンフィは前年度、自ら新設した国軍最高司令官職に就き、軍部を拠点に隠然たる政治基盤を築き、新たな独裁者たらんとしていた。ところが、3か月後、下士官によるクーデターが発生し、ナンフィはあっけなく失権した。
 この下士官クーデターは、先にナンフィ―によって国家統治評議会を追われていたプロスぺ・アブリル将軍が背後で画策したもので、クーデター後にアブリルが新大統領に就任した。
 この人物はデュヴァリエ体制の申し子で、デュヴァリエ父子大統領の側近者として知られていた。そのため、1988年9月のアブリル政権の成立は、まさしく「デュヴァリエ抜きのデュヴァリエ体制」の極点と言える反革命反動であった。実際、アブリル政権は腐敗と人権侵害にまみれ、民衆運動が再活性化された。
 その結果、1990年3月、アブリルは政権維持を断念し、軍に権力を移譲してアメリカへ亡命した。その後、国際監視下で行われた大統領選挙では、民衆運動の指導者として台頭していたジャン‐ベルトラン・アリスティド司祭が当選した。
 アリスティドはラテンアメリカで政治的に行動する民主派キリスト教聖職者の教義となっていた「解放の神学」の実践者であり、80年代半ばからの民衆運動においてリーダー格となっていた人物であった。
 彼の当選により、1986年に始まる民衆革命はひとまず収束したと言える。ところが、これで正常化には向かわず、アリスティドの急進性を恐れた旧体制派の意を受けた軍部のクーデターにより、わずか7か月で失権、再び軍事独裁政権に復帰した。
 この後、アメリカと国連の介入によるアリスティドの復権、アリスティド政権下での内乱とクーデターによる彼の再失権と、ハイチ政治の激動は収まることなく、混迷する小国にとっては甚大過ぎた2010年のハイチ大震災を経て、かえって今日まで余波の続く長い混迷期を招いた。
 結局のところ、ハイチ民衆革命は、その一つの結実であったアリスティド政権下でも、歴史的に構造化された貧困問題や社会的不平等、トントン・マク―ト解体後も形を変えて存続してきた(アリスティド政権下でさえ)暴力団政治などの諸問題を解決することができずに終わった。

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