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「三内丸山考」サンナイは縄文語、古代蝦夷や中世アイヌとの繋がりは?

2019年08月22日 | ART / CULTURE

ここは三内霊園の裏口、新青森からゆるやかに下った池。。三内霊園は三内丸山遺跡に隣接していますが、その間には沖館川が流れていて、その両岸の丘陵が三内という地名。。


サンナイは多くの人が指摘しているようにアイヌ語地名とみて間違いなさそうで、そこに縄文遺跡がある。こういうところは滅多にないのではないかと思う(調べてませんが)。

当然考えられる推論として、縄文語でもサンナイかそれに似た発音だった可能性がかなり高いと思う。

三内(さんない) サン(浜の方へ出る)・ナイ(川)

今回(8/17)は暑かったし時間もなかったので遺跡には足を運ばなかったが、是川と同じように海岸(縄文海進で自衛隊か運動公園のあたり)にも河口にもほど近い緩やかな丘で、海と山の幸を得るには好適ですが、例によって防御には向かない。。

岡田康博氏は狩猟採集民だから戦いがないとは言えないと書いていますが、実際に明らかな戦いの痕跡は見つかっていないようだし、隣村や周辺地域を武力で制圧しようとしても、弥生人のように鉄器と馬と米があれば別だけど、大規模な軍事行動は起こせない。。

起こせないし、起こす必然性も見当たらない。もし隣村を併合しても、同じようにサケやクリをとっているだけで、支配のためのコストがかかるだけで、メリットはあまりなさそう。。

ただし、三内丸山には中世の館の跡も同時に発掘されたとのこと。是川や大湯では近隣でも台地の辺縁部の断崖を利用しているので、少し意外な感じがするが、この三内丸山に縄文以降どんな歴史があったのかは全くの謎。。(たぶん江戸時代の菅江真澄らの記載まで空白なのでは…中世の浪岡の歴史にも関わっていないし)

上述の「サンナイ」という地名が縄文時代から続いているという仮説も、そこに人が居続けなければ成り立たないので、これも謎のまま。。

岡田氏は、アイヌ人が縄文人の末裔だという説については、身体的特徴などでは認めていながら、冷淡とも言える記載。。(2000年時点の著書ですが、門外漢の梅原猛氏の仮説を意識してのものではないかと。。)

岡田氏は同時に、縄文人はどこに行ったのかという問いに、どこにも行かない、そこに居続けたと答えています。おそらく、その通りなのではないかと思う。

縄文人、アイヌ人、弥生人、倭人、現代の近畿人、東北人、そこに古代蝦夷、隼人などがどう位置付けられるのかというのが、私の頭の中でも全くの謎のままで、毎年の特別展や書籍などを見ても、何もわからないまま。。
今となっては古い説かもしれませんが、故・梅原氏の言説が最も説得力を持つのではないかと。。

一方で、昨年の丹後平古墳展で「蝦夷(エミシ)は政治的な用語」という冒頭の説明には強い違和感を覚えたことを今でも記憶しています。

その傍証は、三戸南部氏の「聖寿寺館跡」(室町・戦国時代)で中世アイヌが館内に居住していたことを示す皿が出土していること。
この中世アイヌは、古代蝦夷の末裔ではないのか?
鉄の文明を導入し、蕨手刀を作ってこの地を支配していた人たちは、どこに消えてしまったのだろう。
(アテルイ・田村麻呂の時代と三戸南部氏の時代では、700年もの隔たりがあります。)

この辺りの関係を明快に推測している仮説があるのかどうか、それすらわかりません。ご存知の方、あるいは自説がある方はご教示ください。

※この文章はFacebookに2回にわたって書いた三内丸山遺跡の特別展探訪記の続きですが、友達限定から公開に変更しておきますので、興味のある方はご覧下さい。
https://www.facebook.com/odorusyounikai/posts/2249735151746613
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