熊本熊的日常

日常生活についての雑記

最後

2011年02月11日 | Weblog
昨日、職場で間もなく退職する人と少し立ち話をした。本当は最後まで何事もなかったかのように普通に仕事をして、ある日突然姿を消す、というような辞め方をしたかったが、結局は普通の退職風景になってしまった、と語っていた。その美意識には共感できるものがある。退職の理由についてもいろいろ語っていたが、同じような職務を経験してきた者どうしとして、素直に納得できた。今週の火曜日に退職を願い出て、来週月曜日が実質的な最終出社日で、あとは正式退職日まで有給の消化に充てるのだそうだ。それほど頻繁に言葉を交わす間柄ではなかったが、比較的良好な関係を維持できていたと認識していた相手なので、そういう人が職場から姿を消すのは寂しいことではある。辞める理由も納得のいくものであるが故に、なおさらだ。

私は閑職の身なので辞めるときの姿など考える必要もないのだが、職場の自分の席に私物は殆ど置いていない。皆無とは言わないが、数えるほどのものなので、単に出社をしないというだけで少なくとも物理的にはきれいさっぱり消滅できる。職場はそれでもいいとして、問題は人生の最後をどうするか、ということだ。

以前にもこのブログに書いた記憶があるのだが、身辺整理をして最終的にはノート1冊に後始末に必要なことをまとめて残すだけにしたいと思っている。いざ、原稿を作り始めてみると面倒で容易に進捗しない。ノートを残す相手は子供を想定しているが、逆縁という事態になる可能性もあるだろうから、周囲にできるだけ迷惑のかからないようにするという主旨でまとめなければならないのだろう。

生活全般に関しても物理的には比較的片付いているほうではないかと認識している。昨年1月にある雑誌に取り上げられたときには私の部屋の叙述として「1LDKのマンションの部屋は、がらんとしている。」と書かれていた。日本語として「がらんとしている」と「片付いている」とは同じニュアンスではないような気がするので、素直に喜ぶことはできないのだが、余計なものが無いという雰囲気は「がらんとしている」でも伝わるのではないだろうか。それから1年以上過ぎて、大きくは変化していないと思う。

いろいろ事務連絡が必要なのは役所関係と金融機関と住居関係の3つが主なものだろう。連絡自体は残された者の作業だが、連絡を円滑にできるような配慮は私自身の責任だ。いろいろ書き出していくと細かいことが次から次へと出てきて、改めて生きてきるということにまつわる事務の煩雑さを実感する。その煩雑さこそが、自分の意識していないところで自分に関する諸々が運動していることの証左だ。人はひとりで生まれひとりで死ぬものだが、生きている間は関係性のなかに浸っている。なるほど「人間」とは上手い語彙を考え出したものだと改めて感心する。