一見したところは救いの無い作品に見える。原作者が本作の原作となる同名の連作短編集の執筆途中に自殺してしまったことが先入観として影響しているのかもしれないが、それにしても観ていて暗澹たる気分に落ち込んでいく。
しかし、観終わってあれこれ考えてみると、主人公たちがもう一歩前へ踏み出していたら、踏み出さないとしても、せめてなんとか持ちこたえていたら、事態は新たな展開を見せたのではないかとも思えてくる。その微かな希望を与えているのがラストシーンとなる「ネコを抱いた婆さん」の場面だ。この婆さんは軸が振れていない。主人公たちのなかでは最年長だが伊達に年齢を重ねていない。無闇な頑固さではなく、戦略性のある頑固さであるようにすら見える。自分の生活を淡々と守り抜く姿はカッコいい。おそらく、この物語の先に婆さんの家の強制退去が待ち構えているのだろうが、それが悲劇的なことになるとは思えないのである。彼女のことだから、たとえ転んでもタダでは起き上がらないだろうという期待すら抱かせる。
それに引き換え、他のエピソードの主人公たちは過剰に不甲斐無い。不平や不満のなかに埋没していくだけで、そこから抜け出そうという意欲もなければ知恵もない。逆境に対する情緒的な反応を示すだけで理知的な対応は何一つできないでいる。見ていて暗澹たる気分になるのは、彼らが直面した困難な状況が誰にも起こりうる身近なものであると感じられる所為もあるだろうが、それ以上に、彼らの無力さにあるのではないかと思うのである。それは作品を観ている最中にそう思うのではなく、観終わってから少し冷静になって、観ていた最中に感じたやるせなさの理由を突き詰めていくと、そうなるのである。
人は生まれることを選択できない。ひとたび生を与えられれば、それがどのようなものであれ、与えられた生を全うするよりほかにどうしょうもないのである。何故だか知らないが、そうした当たり前の制約を無視して、生きることそのものに無条件に価値を与えているかのような考え方や見方が世の中に行渡っているように感じられる。例えば、自殺の多くは背後にうつ病がある、などといわれているが、自ら死を選ぶのは人が日々刻々無数に下している意思決定のひとつに過ぎないのではないか。ある特定の意思決定が「正常」であるのか「病的」であるのかを分ける基準は何なのだろうか。
本作のなかの最初のエピソード「まだ若い廃墟」の主人公は、はっきりとは描かれていないが、おそらく山の上で初日の出を妹と共に拝んだ後、登山道のどこかから投身自殺を遂げたのだろう。享年27歳。両親を早くに亡くし、妹とふたりで一生懸命真面目に生きてきた。そういう若者が勤務先の造船所の人員削減措置の対象となり失業する。それまで船を造ること以外の仕事は考えたこともなかったのだろう。当たり前に続くと思っていたものが失われ、それでも当たり前のように日が昇る。初日の出を見つめる彼の表情に既に生気は無い。目の前の当たり前と失った当たり前の間で、現実から突き放されてしまったのかもしれない。そうした状況で自ら死を選ぶことが、果たして「病」だろうか。船を造ることにこだわらずに、なりふりかまわず生活の糧を得る手段を探し求めれば何かが見つかったかもしれない。そう軽々しく言葉にできるのは彼の現実から遠くにいる人々だ。彼の傍でずっと一緒に生きてきた妹は、無造作に励ましたり、余計なことを口にしたりはしない。その沈黙は彼女が兄をよく理解していたことの証左でもあると思う。
ただ、この兄妹の日常には大きな欠落を感じないわけにはいかなかった。それは人間関係の希薄さだ。兄にも妹にも友人知人がいるようには感じられない。ふたりだけで絶海の孤島のように生きているかのように描かれているのである。
孤独がこの作品の全てのエピソードに共通するテーマであるかのようだ。この兄妹の他に、「ネコを抱いた婆さん」の「婆さん」、「黒い森」の主人公であるプラネタリウムで働く比嘉隆三、「裸足」の主人公親子、どの人の描写にも家族以外の人間関係が出て来ない。「裂けた爪」の主人公は燃料店の社長という立場なので、それなりに家族以外との関係もあるのだが、社長というものへの自己像に束縛され過ぎていて、真っ当な人間関係が全く無いかのように見える。そうしたあからさまな孤独も作品の暗澹たる印象の大きな要素だろう。
おそらく、人が生きようという意欲を持つのは、自分の存在が他者から認知されていると実感するからなのだろう。自分を認める他者の存在が感じられないとき、人は自分が置かれた不確実性のなかで方向感を失って前に進むことができなくなるのだろう。
しかし、観終わってあれこれ考えてみると、主人公たちがもう一歩前へ踏み出していたら、踏み出さないとしても、せめてなんとか持ちこたえていたら、事態は新たな展開を見せたのではないかとも思えてくる。その微かな希望を与えているのがラストシーンとなる「ネコを抱いた婆さん」の場面だ。この婆さんは軸が振れていない。主人公たちのなかでは最年長だが伊達に年齢を重ねていない。無闇な頑固さではなく、戦略性のある頑固さであるようにすら見える。自分の生活を淡々と守り抜く姿はカッコいい。おそらく、この物語の先に婆さんの家の強制退去が待ち構えているのだろうが、それが悲劇的なことになるとは思えないのである。彼女のことだから、たとえ転んでもタダでは起き上がらないだろうという期待すら抱かせる。
それに引き換え、他のエピソードの主人公たちは過剰に不甲斐無い。不平や不満のなかに埋没していくだけで、そこから抜け出そうという意欲もなければ知恵もない。逆境に対する情緒的な反応を示すだけで理知的な対応は何一つできないでいる。見ていて暗澹たる気分になるのは、彼らが直面した困難な状況が誰にも起こりうる身近なものであると感じられる所為もあるだろうが、それ以上に、彼らの無力さにあるのではないかと思うのである。それは作品を観ている最中にそう思うのではなく、観終わってから少し冷静になって、観ていた最中に感じたやるせなさの理由を突き詰めていくと、そうなるのである。
人は生まれることを選択できない。ひとたび生を与えられれば、それがどのようなものであれ、与えられた生を全うするよりほかにどうしょうもないのである。何故だか知らないが、そうした当たり前の制約を無視して、生きることそのものに無条件に価値を与えているかのような考え方や見方が世の中に行渡っているように感じられる。例えば、自殺の多くは背後にうつ病がある、などといわれているが、自ら死を選ぶのは人が日々刻々無数に下している意思決定のひとつに過ぎないのではないか。ある特定の意思決定が「正常」であるのか「病的」であるのかを分ける基準は何なのだろうか。
本作のなかの最初のエピソード「まだ若い廃墟」の主人公は、はっきりとは描かれていないが、おそらく山の上で初日の出を妹と共に拝んだ後、登山道のどこかから投身自殺を遂げたのだろう。享年27歳。両親を早くに亡くし、妹とふたりで一生懸命真面目に生きてきた。そういう若者が勤務先の造船所の人員削減措置の対象となり失業する。それまで船を造ること以外の仕事は考えたこともなかったのだろう。当たり前に続くと思っていたものが失われ、それでも当たり前のように日が昇る。初日の出を見つめる彼の表情に既に生気は無い。目の前の当たり前と失った当たり前の間で、現実から突き放されてしまったのかもしれない。そうした状況で自ら死を選ぶことが、果たして「病」だろうか。船を造ることにこだわらずに、なりふりかまわず生活の糧を得る手段を探し求めれば何かが見つかったかもしれない。そう軽々しく言葉にできるのは彼の現実から遠くにいる人々だ。彼の傍でずっと一緒に生きてきた妹は、無造作に励ましたり、余計なことを口にしたりはしない。その沈黙は彼女が兄をよく理解していたことの証左でもあると思う。
ただ、この兄妹の日常には大きな欠落を感じないわけにはいかなかった。それは人間関係の希薄さだ。兄にも妹にも友人知人がいるようには感じられない。ふたりだけで絶海の孤島のように生きているかのように描かれているのである。
孤独がこの作品の全てのエピソードに共通するテーマであるかのようだ。この兄妹の他に、「ネコを抱いた婆さん」の「婆さん」、「黒い森」の主人公であるプラネタリウムで働く比嘉隆三、「裸足」の主人公親子、どの人の描写にも家族以外の人間関係が出て来ない。「裂けた爪」の主人公は燃料店の社長という立場なので、それなりに家族以外との関係もあるのだが、社長というものへの自己像に束縛され過ぎていて、真っ当な人間関係が全く無いかのように見える。そうしたあからさまな孤独も作品の暗澹たる印象の大きな要素だろう。
おそらく、人が生きようという意欲を持つのは、自分の存在が他者から認知されていると実感するからなのだろう。自分を認める他者の存在が感じられないとき、人は自分が置かれた不確実性のなかで方向感を失って前に進むことができなくなるのだろう。