熊本熊的日常

日常生活についての雑記

呼吸

2011年06月05日 | Weblog
生きていくためには呼吸という行為が不可欠だ。吸って吐いての繰り返しだが、吸いっぱなしというわけにもいかず、吐きっぱなしというわけにもいかない。吸うのと吐くのとが釣り合うことで、生命を維持することができる。生理として呼吸が必要なように、精神にも何事かを吸収することと、それによって生み出したものを表現することとのバランスが必要であるように思う。精神の呼吸が何を指すかというのは人それぞれだろうし、時代によっても違うはずだ。

今の日本なら、不景気だのなんだのと言っても、すぐに生活に困窮するようなことは、天災に見舞われるといったことがない限りは少ないのではないだろうか。然したる不自由もないまま、それどころか必要以上の庇護の下に成人して社会に出る、という人が殆どなのではないだろうか。いきなり社会に放り出されて、吸うの吐くのと意識する余裕もないままに、日々新しいことに追われて、気がつけば10年や20年は経っている、というのがありふれた状況のように思う。「新しいことに追われて」といっても、多くの場合は企業その他の組織のなかでの経験である場合が殆どだろう。勿論、若いうちから起業する人もいるが、それは日本という文脈では依然として少数派だ。組織の一員としてとは言いながら、そこでの経験がそれまでの保護者の庇護の下での生活には無かったことばかりであるのも現実だ。そうやって、でかい図体になってから、ようやく人として自立する機会を得るというのは、世界を眺めてみれば恵まれたことであるには違いないだろう。

問題はそこからだ。社会人になって数十年経ったところで、果たして本当に自立できているのかということだ。組織に属していてもフリーターであっても賃労働の機会に恵まれている限り生活はできる。賃労働の機会に恵まれるというのは、市場経済という我々が置かれている社会の一員として機能するということだ。しかし、賃労働というのは賃金を支払う側にとって都合の良い場合においてのみ供給される就労機会であって、そうした条件に適合しなくなれば適合するように身の丈を合わせ続けなければならない。「身の丈を合わせる」と言っても、自分でどうにかなることとならないことがある。組織という合理性に貫かれているはずのものと、個人という合理性を超えた存在との乖離が、年齢を重ねるごとに大きくなっていくような気がするのである。

組織というのは分業によって機能する集団であり、分業によって継続性を確保しているという性質を持つ。つまり、健全な組織のなかのひとつひとつの仕事は、極端な言い方をすれば誰でもできるようになっているはずなのである。現実には職種によって賃金に大きな差がある。賃金の高いものは、それなりに高度な技能が要求され、その技能は「誰にでもできる」類のものではないから高い賃金を払うことになる、というのはおそらく幻想だ。組織やそれが置かれた文化や習慣でたまたま「高度な技能」と認識されているに過ぎないことがいくらもあるはずだ。組織というものは、本来的に突出した要素を抱え込んでは成立しない。

人体を考えてみればわかりやすい。確かに心臓や脳のように致命的機能を持つものはある。しかし、さらに掘り下げてひとつひとつの細胞というレベルで眺めれば致命的なものなどないだろう。肝心なのは予測可能な機能を予測可能な期間において発揮するという、ただそれだけのことだ。個々の要素が同質でも、それによって構成されるそれぞれの組織が、与えられた状況に応じた個性を持つことで、その組み合わせによって発展性を獲得するのである。個々の要素の個性が強すぎれば、そもそもそれらが集まったところで「組織」と呼ぶことができるような機能集団は成立しないだろう。

組織の中ではひとりひとりの労働者は末端から経営者に至るまでひとつの細胞と同じだ。内閣総理大臣だろうが東京電力の社長であろうが、代わりはいくらでもある。組織の存続を決めるのは、組織が置かれた状況であって組織そのものではない。状況というのは個別具体的なものではなく、つまり、目には見えないのである。歴史上の名宰相や名経営者は、その「状況」があればこそ名を成したのであって、何時如何なる状況でも同じように機能したどうかは証明することができない。

書いているうちに、書こうと思ったことから逸れていくのだが、要するに、自分が精神の呼吸を上手くできていないと感じられるのである。「人生50年」という言葉が、平均寿命が80年を超えている現代でもしばしば聞かれる。それでも実際に50年近く生きてみれば、その言葉が妙に腑に落ちることがいくらも出てくる。そして、その期限を超えて生活を考えたときに閉塞感を覚えるようなことが増えてくるのである。そのような閉塞感や生きることの違和感を覚え始めたのは40代に入った頃からで、あれこれと対策を打ってきたつもりなのだが、大きな潮流のようなものには逆らうことができないという当然のことを改めて思わないではいられない。昔のエライ人が「40にして惑わず」と語ったが、惑う余地が限られてくるのである。「不惑」というと堂々とした語感があるが、要するに「先細り」ということだ。細っていても先があると思えるうちは生きることを考えないといけないので窒息しそうになりながらも精神の呼吸を考えないといけない。誰もがそんな窮地を生きているのか、私だけが窮地に陥っているのか知らないが、私だけだとしたら、まことに面目ないことである。