カイロプラクティックの先生と話をしていると、年齢が比較的近い所為か昔話になることがある。今日はレコードの話だった。あくまで互いの印象のことでしかないのだが、レコードからCD、CDからネット配信へと、音楽ソフトは時代とともに手軽なものになった。そして、手軽になるのと軌を一にするように音楽は売れなくなっている。レコードの時代は、その形態から、否応なくそれなりの再生装置を準備しなければならず、レコード自体もデリケートなものだったので、傷をつけたりしないように注意を払って扱ったものである。現在のようにいつでもどこでも自分の好きな楽曲を聴くなどということはできなかった。その所為なのかどうかは知らないが、聴くときには聴くことに集中することが自然なことだった。ウォークマンが登場して、カセットテープに録音したものなら、いつでもどこでも聴くことができるようになった。しかし、依然として音源はレコードだった。CDが登場するに至って、レコードという扱いが厄介なものから解放された。私も手持ちのレコードを中古レコード屋に売り払って、CDに買い換えた。ところが、CDの時代になると、肝心のアーチストのほうがぱっとしなくなってきた。例えば、ビートルズのCDは今でもCD屋の店頭で大きな販売スペースを占めている。彼らがメジャーデビューしたのは1962年11月だ。音楽の世界は、その存在感が大きいということなのかもしれないが、店舗という物理的に限定された場所で解散して40年にもなるアーチストの作品が棚のなかで目だっているということは、その後に続くものが無いということだ。音楽が売れないので音楽会社も経営が成り立たない。音楽会社の経営が不安定なので、新しい音楽家への投資は細る一方だ。ますます新しいアーチストは出てこない。同じことは映画にも言えるし、おそらく電子ブックが普及すれば書籍の世界も現状に輪をかけて低迷を深めることになるのだろう。
音源や映像がデジタル化されることで扱いが簡便になり、いつでもどこでも楽しむことができるようになったことで、我々は一生懸命に聴いたり観たりしなくなった。日常生活の風景の一部になることで、ありふれた消費財になってしまったのである。デジタル化というのは、たまたまそうした技術的な側面が簡便化の推進力となったというだけのことで、どのような事情にせよ、簡便になること、簡単にできるようになること、というのは物事の価値や生活のなかの位置づけを大きく変えることにつながることが多いように思う。
よく言われることだが、様々な道具類、特に電化製品の普及で、我々の家事労働の負担は軽減されている。しかし、軽減されて浮いた時間や労力が、どれほど人々の生活を豊かなのものにしただろうか。「手軽」とか「便利」ということの本当の意味は何だろうか。
漠然と感じることなのだが、手軽や便利になって失われることの最たるものは身体感覚だろう。自分の手で何事かの過程を加えることで最終形のものを得る、ということが少なくなっている。手間隙をかけるということが、あたかも忌避すべきことであるかのように世の中が流れてきたように思う。家事もそうだが、工業製品にしても工程の短縮と簡略化を目指し、自働化が進む一方だ。結果として確かに生活は手軽で便利になった。その代わり、身の回りに得体の知れないものが増えた。かつて自動車はある程度自分で手入れのできるものだった。今は電子部品が増えて、ちょっとした不具合でも指定工場に持ち込まなければならない。購入して間もない携帯電話が通話途中に電源が落ちてしまうというようなとき、電話会社のサービスカウンターに持ち込むと、修理をしてくれるのではなく新品と交換になる。今、修理可能な機械というのはかつてに比べてかなり少なくなっている。そして、不具合があれば交換するということに我々も慣らされつつある。「馴らされている」と言うほうが正確かもしれない。都合が悪くなれば修理や修復を考えるのではなく、それを捨て去って別のものに代えることが当たり前ということは豊かなことなのか。機械を人間に置き換えてみると、寒々とした生活風景が想像される。
音源や映像がデジタル化されることで扱いが簡便になり、いつでもどこでも楽しむことができるようになったことで、我々は一生懸命に聴いたり観たりしなくなった。日常生活の風景の一部になることで、ありふれた消費財になってしまったのである。デジタル化というのは、たまたまそうした技術的な側面が簡便化の推進力となったというだけのことで、どのような事情にせよ、簡便になること、簡単にできるようになること、というのは物事の価値や生活のなかの位置づけを大きく変えることにつながることが多いように思う。
よく言われることだが、様々な道具類、特に電化製品の普及で、我々の家事労働の負担は軽減されている。しかし、軽減されて浮いた時間や労力が、どれほど人々の生活を豊かなのものにしただろうか。「手軽」とか「便利」ということの本当の意味は何だろうか。
漠然と感じることなのだが、手軽や便利になって失われることの最たるものは身体感覚だろう。自分の手で何事かの過程を加えることで最終形のものを得る、ということが少なくなっている。手間隙をかけるということが、あたかも忌避すべきことであるかのように世の中が流れてきたように思う。家事もそうだが、工業製品にしても工程の短縮と簡略化を目指し、自働化が進む一方だ。結果として確かに生活は手軽で便利になった。その代わり、身の回りに得体の知れないものが増えた。かつて自動車はある程度自分で手入れのできるものだった。今は電子部品が増えて、ちょっとした不具合でも指定工場に持ち込まなければならない。購入して間もない携帯電話が通話途中に電源が落ちてしまうというようなとき、電話会社のサービスカウンターに持ち込むと、修理をしてくれるのではなく新品と交換になる。今、修理可能な機械というのはかつてに比べてかなり少なくなっている。そして、不具合があれば交換するということに我々も慣らされつつある。「馴らされている」と言うほうが正確かもしれない。都合が悪くなれば修理や修復を考えるのではなく、それを捨て去って別のものに代えることが当たり前ということは豊かなことなのか。機械を人間に置き換えてみると、寒々とした生活風景が想像される。