熊本熊的日常

日常生活についての雑記

或る「間違い」

2011年06月24日 | Weblog
職場で、帰り支度を始めようかという頃になって、若い同僚が近づいてきて、「熊本さん、お忙しいですか?」という。「そうでもないけど、何?」というと、あれこれと話を始める。要するに愚痴なのだが、面白かった。

何か特別面白いことをしようと思えば、定石を外してみるというのは選択肢のひとつになるだろう。彼は敢えてそれに挑んだのだが、今のところは目論見を外し、しかもその目論見について語る相手も身近にいないというのである。それでも彼は恵まれている。都内にある、誰でもその名を知っている私立高校を出て、やはり都内にある、誰でもその名を知っている国立大学を卒業している。卒業生どうしの連携は強く、そうした人たちがこの国の中枢を担っている。彼はそうしたネットワークの中に居るのである。だから、彼が自分の抱えている疑問や不満を語っても、職場では思うように通じないのに、学生時代の友人だと別の仕事をしている人であっても通じるという現象が起こる。おそらく、逆も真で、彼の学生時代の友人も似たような経験を重ね、それがますますネットワークを強固なものにする誘因として作用しているのだろう。

新たな価値を創造する契機になるのは、詰まるところは人と人との出会いだと思う。世に「閥」と呼ばれるものがあり、そこで企業や社会の重要な決定につながるような意思疎通が図られているのは時代や洋の東西を問わず共通したことだろう。情報通信技術の大衆化のなかでSNSと呼ばれるものが急速に普及したのも、人々の間に他者とのつながりを希求する本能にも似た衝動があるからだろう。そのつながりを支える、あるいは裏付けるものが「信用」と称されるもので、形式としては履歴のように見えるが、それを構成するアイテムが持つ記号論的な意味が履歴に価値を与えている。個人的な経験からすれば、学歴は重要なのだが、学歴それ自体ではなく、その背後にある文化がより重要だろう。例えば、小学校から付属校があり実質的に16年一貫教育の学校や、国立大学であっても入学者の出身校に強い偏りがあれば実質的には7年あるいは10年の一貫教育ということになる。そうした長い時間を共有することで醸成される共通感覚のようなものが人間関係の根底にあるように思う。家族というものを特別視する人が多いのも、結局はその人が抱える人間関係のなかで最も長い歴史を持つということに起因した感情に拠るところが大きいのだろう。時間というものに着目すれば、そうした大学を卒業していても、その一貫した時間の流れから外れていれば、その大学を出た意味は半減してしまうのではないだろうか。逆に、そうした学歴の本流を押さえていれば、卒業後に多少目先の変わった進路を取っても、傍目には悲観するほどの苦境に陥ることは無いように思う。おそらく、学校で学ぶ学問自体には然したる意味はない。学ぶことを通じて見出す「自分」とか、学校や学問という場を通じて得るネットワークに価値があるということだろう。

ところで、彼の悩みだが、要するに進路を誤ったというのである。尤も、それは深刻なものではなく、彼くらいの年齢や社会人経験の人が誰しも抱えていることだろう。今、この瞬間の選択が正解なのか誤りなのか、というようなことは人生全体の文脈のなかでしか判断することができない。生きているという現在進行形においては、正解も間違いもどちらも存在し得ない。私はそう思っている。