熊本熊的日常

日常生活についての雑記

夏は旅行

2011年06月30日 | Weblog
東京の梅雨明けはまだのようだが、夏であるには違いない。職場でも長期休暇を取る人がぼちぼち現れるようになった。どういうわけだか知らないが、長期休暇を取るということは旅行に出かけるのと同義ということに世間ではなっているらしい。旅行が好きというなら、休暇を取って好きなことをするというのは自然なことだ。しかし、単に休暇は旅行という習慣を墨守しているだけという人が多いような印象がある。好きでもないことや楽しくもないことのために時間や労苦を割くという行動がどうにも理解できない。

自分のことを考えると、家族を持っていた頃は、習慣というより義務で、子供の夏休みに合わせて旅行にでかけたものだ。離婚して家族から解放されると、その当時の印象が悪い所為もあるのかもしれないが、単なる物見遊山で出かけたいという欲求は湧いてこない。確かに、若い頃は遠くへ出かけるという行為自体が楽しいことだった。今は、少なくとも移動については疲労するだけのことなので避けられるものなら避けたいと思っている。事実、避けている。一人で暮らすようになってから遠出をするのは、何かしら目的があるときだけだ。昨年は6月に京都へ出かけたが、大きく二つの目的があり、ひとつが友人が出した店を訪れることと、好きな落語の舞台を訪ねることだった。一昨年は、やはり6月に北海道へ出かけたが、それは久しく会っていない友人の顔を見るためだった。

人生が果てしなく続くと無条件に感じることができるような年齢の頃は、然したる用もなく観光するということに抵抗は無かったが、人生がいつ終わっても不思議ではない年齢になると、他人との関係を抜きに行動を起こしにくくなるものだ。私にとっては、人と人との関係が豊かささ、より素朴に表現すれば、楽しさの基本だ。同道する相手がいるでもなく、出かけた先で旧交を暖め合う相手に会うでもなく、友人や知人に勧められて心踊る経験を共有するでもない、他人との関係性の見えない行為に時間を蕩尽する余裕は、今の私には無い。尤も、余裕以前に興味が無い。

子供が夏休みにロンドンへ遊びに行くという。大英博物館が観たいのだそうだ。勧めたい場所はいくらでもあるのだが、あまり口を出しては本人のためにならないので、ひとつふたつとっておきの場所だけを伝えておいた。ふと、須賀敦子がエッセイに書いていたオリエント急行にまつわる父親との思い出の話が脳裏をよぎった。