熊本熊的日常

日常生活についての雑記

のわけのまたのひ

2011年07月21日 | Weblog
たいふうろくごうがとおりすぎ、すずしくなった。きょねんは、なながつまでは、ふつうのなつだったが、はちがつになって、もうしょがつづくことになった。ことしはどうなるのかわからないが、なつは、あつくてあたりまえ。あつすぎてもいけないが、きょうのような、すずしいひがつづいたら、のうさくもつのせいちょうにふつごうがしょうじてしまう。そうなれば、あきには、こめがないとか、なにがないかにがないとかいって、おおさわぎになるだろう。

あついひもあれば、さむいひもある。あめがふるひもあれば、かんかんでりのひもある。たまには、じしんもおこる。それが、このせかいの、あたりまえのすがただ。あたりまえがいやだからといって、せいかつのばしょをかこってしまい、そのなかのくうきをひやしたり、あたためたりする、というのは、かなりだいたんなはっそうだとおもう。くうちょうにかぎらず、われわれのせいかつは、そうした「あたりまえ」をひっくりかえすことばかりではないだろうか。「あたりまえ」をひっくりかえすのだから、それそうおうのちからしごとがひつようになる。たとえば、ぼうだいなでんりょくがひつようになる。そのでんきをえるために、やまおくに、きょだいなだむをつくったり、せきゆをこれでもかというほどもやしたり、げんしりょくなどというぶっそうなものをもちだしたりしなければならなくなる。

さんざん、べんりなおもいをしてきて、いまさら、べんりをすてることなどできもしない。むしろ、べんりをとことんついきゅうして、べんりにほろびるのが、いちばんらくなことのようなきがする。