桂離宮というと書院の建物を思い浮かべてしまうが、「離宮」というのは庭とかその世界を楽しむためのものらしい。もちろん、そこに建つひとつひとつの門、建物、造作にそれぞれに技巧が凝らされているのだが、そうした当たり前のことの上に、月の見える角度であるとか、周囲の風景の切り取り具合であるとか、考え得る全ての要素を盛り込んで離宮の全体が構成されているのである。そうした要素を読み解いて楽しむことのできる人がそうした場所の主や客になれるのだ。遊びというものはほんとうはそういうものだろう。精進して精進して精進し尽くして漸く際限のない深みに気づく。そこに絶望するのでも闘志を燃やすのでもなく、ふふふと面白がることのできる精神に人間としての値打ちがあるのだと思う。何が面白いのか、どう面白いのか説明できる程度の面白さは面白いうちに入らない。精神は言葉を超越したところにある。言葉を超えた世界を共有できる関係を友というのだろう。
誰でもできるようなゲームの類にうつつを抜かしているような奴はそもそも生きていないくていい。