熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2016年10月

2016年10月30日 | Weblog

塩野米松 『失われた手仕事の思想』 中公文庫

芸大美術館で明治工芸展を観たときに売店でたまたま見かけて購入。職人と呼ばれる人々に対する取材をまとめたもの。岩波新書で出ている永六輔の『職人』というのもあるが、こちらのほうが取材量が圧倒的に大きい印象。

本書では社会の仕事観は世界観であり文化創造の原動力であると言っているが、同感だ。自分の生活の場をどのように作り上げるか、ということは自分の世界観そのものだ。世界の成り立ちに対する認識と理解に基づいて我々は日々自分の行動を律しているはずだ。市場原理であるとか民主主義であるとか、金科玉条の如くに語られているのをよく見聞きするが、万人が単一の「原理」だの「主義」だのを信奉するというのは、要するに自分では何も考えないということでもある。その結果が今の世間だ。物事すべてがデジタルで表現できると信じ、自分自身を含めて生活のあらゆる要素をデジタルデータ化して、それを機械的に処理することで無理無駄のない生活を実現するのだという。人の生活とはそういうものなのか?

デジタルデータを操作することで人が社会が反応する。パブロフの犬どころか、炎や照明に群がる虫のようだ。多少救いがあるのは、それでうまくいっている人や組織や社会というものを見聞きしないことだ。

本書に紹介されている漁師の言葉が面白い。この漁師は大分県佐賀関町の人で、地元では一二の腕を持つのだが、息子に漁師を継がせなかった。
「息子に漁師をやらせなかったのは頭が悪かったから。頭の悪いやつに漁師はできません。海も、風も、魚も同じとき、同じものなんていないからね。それを判断し、対応し、そのうえ自分の思うところに思うように針を流せるのは馬鹿じゃ無理です。だから、息子は会社員にしました。言われたことぐらいはできるでしょ」(41頁 対馬の手作りの釣り針) 

私は学校を出てから30年以上も会社員として生活している。どうして会社勤めを続けてきたのか、その理由がよくわかった。やっぱり私は馬鹿なのだ。 漁師に限らず、手仕事というのは一定しない材料や環境に対して臨機応変に向かい合い、生活の役にたつ成果を産み出す作業だ。そのためには材料や環境を熟知し、瞬時に的確な判断ができなくてはいけない。誰にでもできることではない。一方、組織やシステムは一定のロジックの下に構成されるのでマニュアル化ができる。マニュアルが存在するということは、それが誰にでもできることでもある。

 

『落語研究会 柳家小三治 大全』解説書(上下) 小学館

いつも付箋を貼りながら本を読む。読み終わって付箋のところだけを読み直し、いくつかの付箋を外してしまう。かつては、その付箋の箇所を帳面に書き留めておいたのだが、さすがにこのごろはそういう気力がなくなってしまった。付箋がベラベラついたままの本が書棚に並ぶのは形としては良くないのだが、老いると醜くなるという己への戒めもあって、敢えてだらしない付箋付きの本を並べておく。

それでこの本なのだが、付箋を一枚も貼らなかった。何故なら、付箋を貼るとすると全ページが付箋だらけになって付箋を貼る意味がなくなってしまうからだ。落語のなかに人が生きていく上で必要な教訓が全て網羅されていると思う。世にある落語を全て聴いたわけではないけれど、毎月1回か2回の落語会でわずかに数年ほど聴いただけなのだが、それでも十二分にハッとさせられたりドキッとした。そこに無数のDVDやネット動画の視聴が加わると、落語を聞き続けるだけで心臓発作で死んでしまうほどだ。まだ生きているけれど。なにがそんなに良いのか、全く説明できないし、説明しようとも思わないのだが、ほんとうに「好き」というのはそういうことだろう。ただ、最近は老けて感性が鈍くなったのか、以前ほどドキッとしなくなった。おかげで寿命が少しだけ元にもどったような気がする。

 

新間聡 『大和指物師 幽玄・川崎修の世界』 やまと崑崙企画

奈良を旅行したとき、元興寺の売店に並んでいた。建具屋を営んでいる妻の実家への土産にしようと購入。なんとなく手にとってぱらぱらと読んだら面白かったので、自分用にアマゾンのマーケットプレイスで購入。

 手仕事の意味、それがなくなることの意味を改めて確認できた気がする。目の前の現象や事象の背後にどれほど多くのことが在るのか、それを知らなくとも何かが在るという気配を感じるくらいのことができるか否かが生活の厚みのようなものに大きく関わるとの思いは齢を重ねるにつれて強まる一方だ。こういう本を読むこともそうした思いを強くする大きな力になる。職人が弟子を育てるのに住み込みにさせて生活丸ごと共にするのは仕事の背後にあるものを学ばせるためだ。言葉で説明することができないことがあるから、自分の背中を見せてそこから感得させるのである。手仕事は知識だけでどうこうなるものではない。それを習得するのに仕事の結果だけを見てもわからない。だから、そこに至る全てを実際にやってみる必要がある。それが掃除やご飯炊きから始まるのかもしれないし、親方の子供の世話かもしれないのである。同じ理由から遊びも重要だ。仕事は顧客あってのものだ。その顧客と会話が成り立たないことには、顧客の求めているものがわからない。だから、顧客が己を語る緒くらいは知っておかないといけないのである。もちろん、自分の仕事については誰よりも理解していないといけない。今は使わない道具や技巧のことであっても、今使う道具や技巧に至る道程を理解する上で、歴史や伝統は知っている必要がある。手仕事というのは、つまりは人の生き方そのものだ。手仕事が評価されないというのは、その仕事がまずいという所為もあるだろうし、評価できる能力が社会に備わっていないということもあるかもしれない。果たして、今の我々の社会は手仕事を、人の生き方というものを、きちんと評価できているのだろうか。