アークヒルズのAUX BACCHANALESで友人と昼食を共にした。昔、職場が神谷町であった頃は、この店は自分の昼食圏内だった。その後、フランス系の企業に移ってからは、今はビルごと無くなってしまったが、原宿の店で職場関係のカジュアルな会食があったりした。この店を利用するのは久しぶりだったが、相変わらず外国人客が多く、料理も、料理そのものを楽しむというよりは、料理と会話と雰囲気とを丸ごと楽しむようなものになっているのも変わっていなかった。以前は、食事の量が物足りなく感じられたのだが、齢を重ねて食べることのできる量が減っているので、今はちょうどよい。
今日の相手はかつての職場の同僚なのだが、職場が変わった後も律儀に連絡をくれるので、3ヶ月に一回くらいの割合で、こうして食事を共にしている。会話は互いの近況やら、その場で思いついたことなどで、至って気楽で楽しいものだ。気楽ということは、記憶にも残らないということでもあるのだが、ひとつ心に引っかかったものがある。最近、彼は仕事で広島市に行ったのだそうだ。空いた時間が半日ほどあったので、市内を少し歩いてみたのだという。その整然と区画された街並に強い印象を受けたというのである。ひろしま美術館の展示にも驚いたそうだ。
彼も私も埼玉出身で、彼が広島を訪れるのは今回が初めて、私は三原には仕事で出かけたことがあるが広島市には足を踏み入れたことがない。原爆を除くと、広島から連想するのは厳島神社とか戦国時代の毛利元就で、つまり歴史が深い町という印象が個人的にはある。元就については様々な逸話が今日まで伝えられていて、なおのことどのような土地だったのかという興味を覚えずにはいられない。さらに個人的な経験として、新入社員の頃に仕事を教えていただいた先輩社員が広島出身で、後年、勤務先のフランス系企業を解雇された翌日に街でばったり出くわして、結果的に就職先を斡旋していただくことになる別の先輩も広島出身だ。
しかし、広島といえば原爆を抜きには語ることはできまい。個別具体的なエピソードがなくとも、日本で生まれ育てば原爆を知らずに成長することなど不可能ではないだろうか。日本に関心を持ってくれる外国人の間でもヒロシマ・ナガサキは興味の的のひとつであるようで、身近にも「今、どうなっているのか知りたかった」と言って広島や長崎を訪れた経験のある外国人が何人かいるし、昔、ドイツのアウグスブルクでホームステイをしていたときにも、それが夏だったということもあって、会う人毎に「広島は今はどうなっている?」と尋ねられたものだ。そして、今回の福島の件である。先日読み終わった丸山真男の文庫本「丸山眞男セレクション」のなかにも氏の8月6日の記憶がさらりと記述されている。その経験にまつわる記述は意図的に避けられているようだが、それだけ経験としての衝撃が強かったということでもあるのだろう。原爆後の広島の姿は、個人的には写真や記録映像でしか観たことがないが、その復興の結果は事実として目の前にある。爆撃を受けた結果として焼け野原になったということが現象として同じであったとしても、焼夷弾による絨緞爆撃と一発の原爆による爆撃とでは、違うことのように思うのである。何がどう違うのか、今の私にはわからないし、この先、わかるようになるのかどうかもわからないのだが、「違う」という感覚を掘り下げてみる作業は、死ぬまでに一度は試みてみないといけないとは感じている。日本人として生活しているのだから、常識として広島や長崎について語ることができるようでなければいけないのではないかとも思うようになっている。そうした思いが伏流水のように心の奥底にあって、今日、友人との別れ際の会話のなかで、期せずしてその水が意識の上に湧き上がってきた。まずは自分の目で見てみないことには始まらない。すぐにでも出かけていきたい気持ちだが、生憎、今月来月は週末がすべて予定で埋まっているので、9月か10月にでも行ってみようと考えている。
今日の相手はかつての職場の同僚なのだが、職場が変わった後も律儀に連絡をくれるので、3ヶ月に一回くらいの割合で、こうして食事を共にしている。会話は互いの近況やら、その場で思いついたことなどで、至って気楽で楽しいものだ。気楽ということは、記憶にも残らないということでもあるのだが、ひとつ心に引っかかったものがある。最近、彼は仕事で広島市に行ったのだそうだ。空いた時間が半日ほどあったので、市内を少し歩いてみたのだという。その整然と区画された街並に強い印象を受けたというのである。ひろしま美術館の展示にも驚いたそうだ。
彼も私も埼玉出身で、彼が広島を訪れるのは今回が初めて、私は三原には仕事で出かけたことがあるが広島市には足を踏み入れたことがない。原爆を除くと、広島から連想するのは厳島神社とか戦国時代の毛利元就で、つまり歴史が深い町という印象が個人的にはある。元就については様々な逸話が今日まで伝えられていて、なおのことどのような土地だったのかという興味を覚えずにはいられない。さらに個人的な経験として、新入社員の頃に仕事を教えていただいた先輩社員が広島出身で、後年、勤務先のフランス系企業を解雇された翌日に街でばったり出くわして、結果的に就職先を斡旋していただくことになる別の先輩も広島出身だ。
しかし、広島といえば原爆を抜きには語ることはできまい。個別具体的なエピソードがなくとも、日本で生まれ育てば原爆を知らずに成長することなど不可能ではないだろうか。日本に関心を持ってくれる外国人の間でもヒロシマ・ナガサキは興味の的のひとつであるようで、身近にも「今、どうなっているのか知りたかった」と言って広島や長崎を訪れた経験のある外国人が何人かいるし、昔、ドイツのアウグスブルクでホームステイをしていたときにも、それが夏だったということもあって、会う人毎に「広島は今はどうなっている?」と尋ねられたものだ。そして、今回の福島の件である。先日読み終わった丸山真男の文庫本「丸山眞男セレクション」のなかにも氏の8月6日の記憶がさらりと記述されている。その経験にまつわる記述は意図的に避けられているようだが、それだけ経験としての衝撃が強かったということでもあるのだろう。原爆後の広島の姿は、個人的には写真や記録映像でしか観たことがないが、その復興の結果は事実として目の前にある。爆撃を受けた結果として焼け野原になったということが現象として同じであったとしても、焼夷弾による絨緞爆撃と一発の原爆による爆撃とでは、違うことのように思うのである。何がどう違うのか、今の私にはわからないし、この先、わかるようになるのかどうかもわからないのだが、「違う」という感覚を掘り下げてみる作業は、死ぬまでに一度は試みてみないといけないとは感じている。日本人として生活しているのだから、常識として広島や長崎について語ることができるようでなければいけないのではないかとも思うようになっている。そうした思いが伏流水のように心の奥底にあって、今日、友人との別れ際の会話のなかで、期せずしてその水が意識の上に湧き上がってきた。まずは自分の目で見てみないことには始まらない。すぐにでも出かけていきたい気持ちだが、生憎、今月来月は週末がすべて予定で埋まっているので、9月か10月にでも行ってみようと考えている。