万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

満州事変の弁護-リットン調査団は満州族の意向を優先すべきであったのでは

2015年01月12日 15時26分11秒 | 国際政治
 今年は、第二次世界大戦の終結から70周年を迎えるため、戦争に関する歴史にも関心が高まっております。本日は、共産主義者等から歴史修正主義との批判を受けることを覚悟の上で、若干、満州事変に関して日本国を弁護してみたいと思います。

 満州事変とは、中国等の歴史認識によりますと日本国の軍国主義による侵略戦争のはじまりと解されており、国際聯盟総会が採択した勧告案の受け入れを拒否したことにおいて、日本国が連盟を脱退し、国際社会から孤立する契機ともなりました。連盟の決定によれば、日本国を後ろ盾とした満州国の建国は不当であり、自治を認めつつも、満州の地を中華民国の主権のもとに置くべきとするものでした。しかしながら、この問題、法律問題として割り切れない部分があります。特に、辛亥革命によって清国の支配民族であった満州族は国を失ったわけですので、故地である満州に対して権利や権原を主張できる立場にありました。歴史的には、満州は、漢民族による支配が及んだことがなく、広大な荒蕪地が広がり、馬賊が跋扈する無法の地であったからです。この土地に関する優先的な決定権を持つ民族があるとしますと、それは満州族に他なりません。ですから、満州国の建国については、第一義的に満州族の決定が優先されるべきではなかったのか、と思うのです。事変後の1932年、満州族の長である溥儀は関東軍の提案を受け入れ、熱望していた清朝の復辟を条件に満州国元首就任を承諾し、その後、皇帝に即位します。リットン調査団の結論は、満州国建国は、満州族の自発的な民族自決運動の結果ではなかったとしておりますが、自力での独立が難しい場合もありますし、事後的であれ、満州族が自らの国家を持つに至ったことは、全面的に否定されるべきことでもないのではないように思えるのです。

 実のところ、第二次世界大戦の敗戦によって、日本国は連合国から断罪されることになりましたが、弁解の一言も許されず、当時の政治状況を敗戦国の立場から説明することができないとしますと、これもまた、歴史に対する見方が偏っているのではないでしょうか。そして、ステレオ・タイプの歴史観は、第二次世界大戦の人類史における真の意義をも見失わせるのではないかと思うのです。

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コメント (2)
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