万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

国連なき安全保障体制の構築は可能?

2022年04月12日 15時40分30秒 | 国際政治

 ウクライナ危機において判明した国連の制度的欠陥は、もはや国連に期待を寄せることはできないという、深刻な現実を知らしめています。国連に絶望したウクライナのゼレンスキー大統領は、安保理理事会において「国連を解体する覚悟はあるのか」と訴えたと伝わりますが、’国連なき国際社会において如何にして安全を確保するのか、という問題は、全ての諸国にとりまして現実的な課題となりつつあります。そこで、本日の記事では、国連なき安全保障体制について考えてみようと思います。国連なき国際社会を想定する場合、国際法の有無を軸に幾つかのケースに分けてみる必要がありそうです。

 

第1のケースは、国連と共に国際法も消滅し、国際社会が、力のみが手段となる野蛮な無法地帯に逆戻りするというものです。第1のケースは、さらに個別的な対応と集団的な対応に分かれます。

 

個別的対応とは、各々の国が自衛に努めるというものです。自国を護るのは、原則として自国の軍事力のみとなりますので、各国とも、軍備拡張競争に参加せざるを得なくなります。しかも、国際法が存在していませんので、軍事テクノロジーの開発に歯止めがきかず、非人道的な兵器の登場もあり得るかもしれません(もっとも、現状でも、秘密裏に生物・化学兵器が開発されている…)。この状態では、規模が大きい、資源が豊富、高度な技術力といった条件を備えた国が優位となり、弱小国が攻撃を受け、征服・支配されるリスクは高まります。無法地帯化にあっては、全ての諸国は侵略リスクに晒され続けることになりましょう(あるいは、世界征服を達成する強大な国が出現する?)。

 

もっとも、仮に、全世界の諸国の安全を保障する体制が存在するとすれば、それは、’核武装体制’であるかもしれません。現代という時代にあっては、原子力の利用により、核の抑止力という絶大なる手段があるからです。国際法の消滅により、各国は、核拡散防止条約や核兵器禁止条約等に拘束されることなく核兵器や運搬手段を開発・配備できますので(他国から調達するオプションも…)、核の抑止力によって自国の安全を護ることもできます。核による相互抑止体制では、国力の相違に拘わらず国家間関係は対等となり、国家という最小単位間において実現した力の均衡が平和を維持する構図となります。

 

その一方で、集団的対応は、さらに有事に際して一時的に他国と同盟を結ぶ形態と、長期的な安全保障体制として構築される形態との二つに分かれます。前者の戦時同盟は終戦後に終了しますが、後者の体制化する形態は、中世の封建体制やアジアの冊封体制に類似した構造となりましょう。現実にあって、国家間には軍事力に差がありますので、他国からの軍事的脅威を受けている中小国は、自国のみで安全を確保できないと判断した場合には、軍事大国と軍事同盟を結ぶぼうとすることでしょう。各国の同盟政策の結果、大国間、大国と同盟グループ、同盟グループ間の間で勢力均衡が実現すれば、同体制下においても平和が保たれます。もっとも、この体制では、軍事大国とその同盟国との関係は対等ではなく、義務と権利がそれぞれ異なる非対称な関係となります。軍事大国は、同盟国の安全を保障しますが、同国の軍事戦略への協力を含めて何らかの’見返り’を求められることとなりましょう。

 

 第1のケースにおいて安全保障を確保するためには、どのような形であれ、力の均衡を実現する必要があります。その一方で、第2のケースは、国連は消滅しても、国際法だけは生き残るというものです。

 

法の存在によって人類の野蛮化は回避できるのですが、法のみで平和を実現することには困難を伴います。仮に、純粋に法の存在そのものが平和をもたらす場合があるとすれば、それは、国際法が定めた行動規範を全ての諸国が順守するしかありません。即ち、侵略やジェノサイド等の禁止(利己的他害行為)、並びに、紛争の平和的解決や武力による現状の一方的変更の禁止(暴力的手段)といった行動規範が誠実に守られていれば、自ずと国際社会に平和が訪れることとなりましょう。この側面から見ますと、全ての諸国が自由で民主的国家体制であることは極めて重要です。国民の多くは戦争を望みませんし、残虐行為を厭う良識を備えているからです。

 

もっとも、法とは、それが執行されなければ画餅となりがちです。全ての諸国が国際法を自発的、かつ、誠実に順守するとは限りませんので、第2のケースでは、違法行為や犯罪が行われた場合、原則として各々の国家が執行機能を担います。個別的自衛権であれ、集団的自衛権であれ、何であれ、国家の自然権あるいは正当防衛権の発動によって、これらの行為が排除されるのです(被害国以外の国が執行を行うこともあり得る…)。第1のケースと比較しますと、第2のケースでは国際社会において違法性が問われますので、侵略といった行為が起きるリスクは低下します。その一方で、当事国が国際法を主観的に解釈することになりますので、違法性の判断において中立・公平性に欠けるという問題があります。なお、国連が機能不全となったウクライナ危機は、同ケースに近いと言えましょう。

 

以上に述べてきましたように、国連なき国際社会において安全保障体制を構築することは必ずしも不可能というわけではないようです。一つの方法で完璧に安全を保障できないならば、幾つかの方法を組み合わせて極力リスクを低減させるという方法もありましょう。何れにしても、国連改革によって対処すべきか、あるいは、国連なき安全保障体制の構築を目指すのか、今後とも、あらゆる可能性を排除せず、国際社会において議論を尽くしてゆくべきではないかと思うのです。


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