今般のウクライナ危機ほど、国連の無力さを晒した出来事はなかったかもしれません。安保理において事実上の’拒否権’を有するロシアという常任理事国が当事国となったのですから。しかしながら、よく考えてもみますと、国際の平和の維持に責任を負う国連という組織は、その構想において’第3次世界大戦’を想定していたとも言えるかもしれません。
国際連盟、並びに、国際連合という組織の基本構想は、全世界の諸国を含む包括的な枠組みにおいて全ての諸国の安全と平和を護ろうというものです。従って、その仕組みは、全メンバーの包摂性においては国家の治安維持の仕組みと共通していると言うことができます。すなわち、犯罪行為を禁じる法律(刑法)の存在を前提として、メンバーの内の一人でも違法行為や犯罪を働いた場合、合法的な物理的強制力(軍事力)の行使が許されている公的な機関が取り締まりを行うというものです。国連の場合、権力分立の原則を取り入れずに設計されたため、司法が政治に従属してしまい、中立・公正な立場からの紛争の解決が困難となっていますが、その基本構想にあっては、たとえ局地的な紛争であっても、国連に加盟している全世界の諸国は無関係ではいられなくなるのです(もっとも、国連憲章では、地域的枠組みを定めており、地方的紛争についてはブロックごとの対応を構想…)。そして、国連に込められた理想が実現されるならば、国連軍による犯罪国家に対しての戦いこそ、平和を実現するための軍事力の行使ということになるのです。
’戦争’という言葉の定義には諸説があるものの、こうした普遍的な組織による平和のための軍事行動=国際法の執行をも’戦争’の範疇に含めるならば、国連は、究極的には第3次世界大戦の発生を想定していたこととなります。何故ならば、国連軍が闘う相手となる’犯罪国家’が、被害国のみならず、他の諸国が団結して立ち向かってもかなわない程の抜きんでた軍事力を有する場合、あるいは、相当数の国家が’犯罪国家群’となって陣営を形成した場合、犯罪国家、あるいは、その陣営に対する国連軍の戦いは、世界大での’戦争’、即ち、’世界大戦’とならざるを得ないからです(国連憲章には敵国条項’が今なお残されており、第二次世界大戦時の対立構図や戦争観を引きづっていることも一因?)。
’犯罪国家’が処罰されるべきは、人類の普遍的な倫理において当然のことなのですが、ここに「国連構想の論理的・倫理的な帰結が’世界大戦’であることが望ましいのか」、という極めて悩ましい問題が持ち上がることとなります。’第3次世界大戦’ともなれば、終局的には核戦争にも発展しかねず、人類が滅亡するかもしれないからです。他国を救うために、全人類が滅亡しないまでも、暴力国家から攻撃を受け、多くの国民の命を失われると共に、国土が焦土と化す可能性があるのですから、このジレンマは深刻です。
こうした観点から今日の国際社会の動きを見ますと、ウクライナを含む各国は、ロシアを’犯罪国家’と認定した上で、国連の枠外において国連の理想を実現しようとする動きが見られます(この場に至っては、NATOにおける集団的自衛権の問題はスキップされる…)。特にブチャ虐殺事件については、米欧のみならず、これまで親ロ派あるいは中立派と目されてきたインドや中国も懸念を示しております。4月5日に開かれた国連安保理理事会では、グテレス事務総長の独立的調査機関設置の訴えに対して、ロシアのみが賛意を示さなかったと報じられていますので、ロシアが’有罪’である可能性は相当に高いのかもしれません(もっとも、同危機がもともと茶番、あるいは、ロシア軍並びにウクライナ軍の双方または何れかにおいて、敢えて事件を造らせるために外部から忍び込まされている工作組織が存在しているといった可能性にも注意を要します…)。ブチャ虐殺事件を機に、日本国内でもウクライナ支援の声が高まっているのですが、日本国を含め、各国とも、その先に予測される多大な犠牲を受け入れる覚悟はあるのでしょうか。他国のため、否、国際法秩序の維持のために、平穏な日常が失われるのみならず、国土が破壊され、無辜の国民の命を奪われる覚悟が…。
それでは、国際の平和と世界戦争との間に見られるこの深刻なジレンマ―戦争と平和のジレンマ―を解くことはできるのでしょうか。このままの状態では、第三次世界大戦へと拡大するシナリオも現実味を帯びてくるのですが、先ずもって、国連の機能不全によって幸いにももたらされた時間的余裕を有効に用いるべきかもしれません。国連の理想像に照らしますと、現実の国連が有する制度設計上の欠陥がむしろ’第三次世界大戦’を防いでいるという側面があるのは、何とも皮肉なことです。人類には、破滅的な’第3次世界大戦’を招くことなく、事態を収拾するために知恵を絞る時間がまだ残されているのです(つづく)。