万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

混迷を深める新型コロナウイルスワクチン問題

2020年06月15日 12時49分52秒 | 国際政治

 報道によりますと、安倍首相は、インターネットの動画番組にあって新型コロナウイルスのワクチンについて、年末には接種を開始できる見通しを語ったそうです。新型コロナウイルス禍に見舞われている最中にあって、ワクチンの出現は本来であれば朗報なのでしょうが、手放しでは喜べない側面もある気がいたします。

 第一に、新型コロナウイルスの出現から僅か1年足らずでの開発ともなりますので、そもそもワクチンの安全性には大いに疑問があります。季節性インフルエンザでさえ感染予防率は然程に高いわけではなく(50%程度…)、しかも、その効力は数か月しか持たないとされています。副作用(副反応)も懸念されますし、ましてや未だに新たな症状や後遺症の報告が続く謎の新種コロナウイルスともなりますと、開発成功の報にも疑心暗鬼とならざるを得ません。報道内容からしますと、開発されたのは、風邪の原因ともなるコロナウイルス一般に対して抗体を産生するユニバーサル・ワクチンのようでもあり、変異に対する対応力は高いようなのですが、後々、大規模な薬害被害が発生する可能性も否定できません。

 第二に挙げられますのが、政府と結びついた製薬会社による新型コロナウイルスワクチンの‘独占’問題です。安倍首相が念頭に置いているのは、イギリスのアストラゼネカ社、並びに、アメリカのモデナ社からのワクチンの提供のようです。日本国政府も、既に両者との交渉に入っているそうですが、ヨーロッパでは、6月13日にドイツ、フランス、イタリア、オランダの四か国が‘ワクチン同盟’を結成し、同社と4億回分のワクチン提供の契約を締結したそうです。また、モデナ社はアメリカ生物医学先端開発局から10憶ドルの支援を受けているため、‘出資者’であるアメリカも3億回分のワクチンを確保したとも伝わります。同社の供給目標数は20億回分とされていますので、残りの13億回分の枠を押させるべく、日本国政府も、同社との契約を急ぎたいのでしょう。

しかしながら、先に開発・製品化に成功した一社が各国の政府と契約を結び、必要量を満たしてしまうとしますと、政府調達における独占行為ともなりかねないように思えます。他のライバル企業は全て排除されてしまうことになるのですから(‘勝者総取り?’)。今後は、EU欧州委員会との連携を深めるとも報じられておりますが、EUの競争総局は異議を唱えないのでしょうか。

 この問題は、同時に、日本国政府による自国のワクチン開発潰しを意味するかもしれません。仮に、日本国政府が両社と契約を結び、国内で必要となるワクチン接種数の全数を発注するとすれば、日本国内におけるワクチン開発への熱意や意欲は一気に削がれることとなりましょう。国内でも、阪大を初めワクチン開発に取り組む研究機関や製薬事業者が少なくなく、医療物資の国産化、並びに、産業政策の面からも、ワクチン事業からの撤退は将来に禍根を残すかもしれません。第三の問題点は、日本国の脆弱化という側面です。ワクチンの安全性の確認には時間を要し、かつ、日本国では感染者数も死亡者数も比較的低いレベルで抑えられている現状からすれば、日本国政府は、時間をかけてでも安全性の高い国産ワクチンの開発を後押しすべきではないでしょうか(それとも、国民の命や健康よりも、来夏に延期した東京オリンピックに間に合わせることが大事?)。

 そして、第4の問題点を挙げるとすれば、アストラゼネカ社もモデナ社も、ビル&メリンダ財団からの資金援助を受けている点です。ビル・ゲイツ氏は、奇妙なことに日本国から叙勲されましたが、ワクチンをめぐる同氏の動きは慈善活動や人類愛とは程遠いように思えます。同氏がその桁外れの財力を以って全世界に張り巡らした策謀によって、人類は、国民救済の美名のもとでワクチン接種に追い込まれているようにも見えるのです。仮に、開発ワクチンに重大な欠陥や謀略が潜んでいるのであれば、人類の存続も危ぶまれる事態が想定されましょう。

 日本国では、現在、他の諸国とは異なり、公費負担ではあれワクチン接種は法律で強制されてはいないそうです。しかしながら、確か、緊急事態宣言の発令が可能となる方向で法改正がなされる際に、その原案として、ワクチン接種の強制化が報じられていたように記憶しております。謎の感染症の拡大からワクチンの強制接種までの流れが青写真として既に描かれているとしますと、空恐ろしい気もいたします。両社の生産能力を考慮すれば、日本国政府は、年末頃には全国民へのワクチン強制接種を試みようとするかもしれないのですから。


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政府の通貨発行権とモラルハザードの問題

2020年06月14日 12時45分21秒 | 日本政治

 赤字国債の中央銀行による直接引き受け、つまり、事実上の政府紙幣の発行は、悪性のインフレ要因となると共に、政府のモラルハザードを招くとする批判があります。取引の決済や消費、及び投資等に要する量を越えて市中にマネーが供給されれば当然にインフレは発生しますし、政府は、財政赤字を懸念することなく歳入を無限大に確保できるのですから、ばら撒き体質が民間を含めた健全な勤労モラルを蝕むかもしれません。

その一方で、昨日指摘いたしましたように、今般のコロナショックのような金融・経済ショックにあって、通常の財政出動を以って対応すれば、天文学的な借金を政府が背負い込むこととなります。従来の財務省の基本的な立場は、財政赤字問題は増税を以って解決する、というものですので、国民の負担は計り知れません。ショックは一時的ではあったとしても、その負の遺産は、その後、数十年にも亘って国民を重税で苦しめ、かつ、景気を低迷させかねないのです。

この問題は、実のところ、‘日陰者’の扱いをされてきた通貨発行益、あるいは、政府の通貨発行権の問題と正面から向き合うことでもあります。確かに、中央銀行による通常の公開オペレーションとは違い、何らの義務を負うことなく無から有を生むが如くに政府が通貨を発行するのですから、古典的な会計学の常識からすればあってはならない手法です。その一方で、政府には、市中に必要な通貨量を滞りなく供給し、経済活動並びに国民生活を支える責務がありますので、政府による通貨発行権の行使は、必ずしも頭から否定できないように思えるのです。とりわけ経済危機にあって政府の財政規模を越えた救済ができないともなれば、その国の経済は壊滅的な状況に至ることとなりましょう。今般のコロナ禍にあっては、収入の道が経たれた家庭は困窮化し、資金繰りに窮した事業者は倒産するしかなくなります。

その一方で、現実を見ますと、中央銀行は、市中を介した間接的なものではあれ、大量の国債を買い入れています。つまり、懸念されているモラルハザードは既に起きているのです。今般、マスク配布に際しての特定事業者との随意契約や、コロナ対策費として計上された給付金支給手続き業務の委託をめぐり、行政事務の民間への階段状のアウトソーシングが問題視されていますが、行政事業費の肥大化を支えているのも、政府による‘事実上の通貨発行権’の行使にあります。言い換えますと、‘日陰者’、即ち、‘不正は手段’と見なされてきた故に、むしろ、‘通貨発行益’は、政府、並びに、政治家の関連事業者等に集中して分配されてきた側面もないわけではないのです(特別会計の問題とも類似…)。

このような現実からしますと、政府の通貨発行権については、それを‘日陰者’として白眼視するのではなく、正当なる政府の財政・金融手段の一つ見なす、という考え方があってもいいように思えます。正当な財源として認められれば、それを、国民の利益のために広く活用することもできます。この点、今般の国民一律10万円の給付や持続化給付金は、この方向性とは一致しているように思えます。そして、今後、議論すべき諸点は、正当な政策手段として認めた上で、上述した懸念が現実のものとならないための、政府による通貨発行権の行使に際しての条件、制限、使途の範囲等、あるいは、安全装置の在り方なのではないかと思うのです。

例えば、政府による通貨発行権の発動条件としては、経済・金融ショックの発生が想定されますし、こうしたショックも、バブル崩壊型と感染症型とに分けることもできます。発動の根拠としては、キャピタルゲインを狙った‘投機’によるバブリングが伴う前者よりも、無辜の人々が一方的に損害を被る後者により強い正当性が認められましょう(バブル崩壊に際しての消えたバブル分の完全補填は不可能…)。また、制限としては、産業構造の変化が付随する場合における給付期限の設定を挙げることができます。例えば、今般のコロナ禍のように、コロナ後にあっても衰退、あるいは、消滅が予測される産業については、予め推定した事業転換や転職に必要となる期間を給付期間として設定するのです。また、‘経済上の有事’ではなく、‘平時’においては、GDPの増加率を以って通貨発行額を決めるといった方法もありましょう(この場合、政府の歳入に組み入れる…)。

悪性のインフレを抑制する手段としては、今日では、政府による税制措置や中央銀行による売りオペや利上げ等もありますので、必ずしも‘タガが外れる’わけではありません。インフレの巧みなコントロールは、外国為替市場にあって円相場に悪影響を与えるリスクも低下させましょう。述べてきたように、上手にコントロールさえすれば、政府の通貨発行権の行使は、経済危機にあって最も有効な経済保全策であり、かつ、国民負担も軽い政策手段となり得ると思うのです。


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コロナ対策費は国債の中銀引き受けを前提に

2020年06月13日 12時07分56秒 | 国際経済

 日本国の財政は、戦後、長らく‘優等生’と評されていた歴史があります。財政赤字とそれに伴うインフレに悩まされてきた諸外国と比較しますと、歳出入のバランスがとれており、財政赤字も採るに足りない程度でした。それが1990年のバブル崩壊を境に一変し、今では世界最大の財政赤字国に一気に転落することとなったのです。今般のコロナ対策費に充てるための国債発行が加われば、近々、その残高は1000兆円を超えることでしょう。

 バブル崩壊の過程における日本国の財政赤字の急激な膨張の原因は、その‘補填的’な性格にあります。財政赤字の補填という意味ではなく、バブル崩壊に伴う日本経済の損失補填(経済補填?)と表現した方がよいかもしれません。当時の日本国政府は、拓銀、長銀、日債銀、山一證券等の倒産は許したものの、総額200兆円ともされる大量の不良債権を抱え込んだ金融機関に対して、積極的な資本投入を試みます。ケインズ主義的な政府による有効需要の創出、即ち、公共事業への積極的な財政支出に加え、金融救済に多額の予算をつぎ込んでおり、これらが日本国の財政赤字を急速に膨張させたのです(バブル崩壊後の財政赤字のバブル化?)。

 しかしながら、この手法、底なし沼にはまるようなものであったようです。バブルにおける損失額は1500兆円にも達したとする説もありますが、金融や企業から家計に至るまでの全般的な損失に対して、政府の赤字国債発行によって賄う方法には限界があります。そもそも、巨額となる政府支出を国民や企業から徴収する税収では賄えるはずもなく、経済ショック後のリセッションにあっての大幅な増税は致命傷ともなりかねません。となりますと、政府が赤字国債を大量に発行して資金を調達するか、もしくは、中央銀行が‘最後の貸し手’としの役割を果たす、あるいは、買いオペを増額して量的緩和策を実施することとなるのですが、日本国政府は財政的手法を選択し、国債の大量発行を以って危機を乗り越えようとしたのです。

 この結果、今日、日本国政府は、財政健全化を理由に消費税率を上げるに至ったのですが、10%上げによる歳入増加分が他の目的で使用され、かつ、今般のコロナ対策での歳出分が加わるとしますと、近い将来、国民には増税ラッシュが待ち構えているかもしれません。IMFも消費税率を20%程度まで上げるように提言しております。コロナ対策にあって日本国政府は、バブル崩壊後の手法を基本的には踏襲していますので、今後、増税不可避論が高まりかねないのです。

 そして、この問題は、日本国のみならず、コロナ対策として経済補填政策を実施した全ての諸国が抱える問題でもあります。欧米諸国の中には、政府による補填の対象が、全額とまではいかないものの、個人や事業者に対してコロナ禍による収益や賃金の減少分にまで及んでいますので、その総額は膨大です。因みに、EUでは、新たな基金を設立してコロナ共通債を発行し、将来的にデジタル課税や環境税等の共通税を以って同債権の償還費に充てるとする構想が議論されています。同構想では、最終的な負担者はグローバルに事業を展開するIT大手や大企業等となりますので、一般のEU市民としましては賛同しやすい構想なのでしょうが、それでも、EUが、巨額の財政赤字を抱え込むことには変わりはありません(発行額が大きいほど、信用不安から公債の利率を上げざるを得ず、利払いが増えるかもしれない…)。

 このように考えますと、経済ショックに対して財政的な手法、つまり、‘国債の発行による財源の確保と増税による償還’という方法を用いることには、相当の無理があるように思えます。とりわけ、今般のコロナ禍のように、経済活動をストップしなければならず、かつ、停止状態が長引くことにでもなれば、財政破綻は目に見えています。あるいは、日本国のように、一度のバブル崩壊により、その後、長期にわたり財政問題に悩まされることとなりましょう。となりますと、別の手法を考案しなければならないのですが、それは、案外、旧来の手法への回帰かもしれません。つまり、政府紙幣の発行とはでいかないまでも、政府発行が無利子で発行した国債を中央銀行が直接引き受けるのです(長期的には、政府紙幣の発行を含め、新たなシステムが必要なのかもしれない…)。

 いわば、‘なかったことにする’方法となるのですが、この方法ですと、政府は、国債発行に伴う償還や利払いの義務を負いませんので、当然に、国民は、間接的な‘借金返済の義務’から逃れることができます。つまり、増税圧力に晒されなくても済むのです。いささか‘開き直った’ような案なのですが(国民の共通財源としての通貨発行益を認める…)、中央銀行引き受けを前提とした方が、国民の多くは、今般の大規模な財政出動に対しても余程安心していられるのではないでしょうか。

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イギリスと‘大英帝国’の分離?

2020年06月12日 12時18分16秒 | 国際政治

 第二次世界大戦は、戦勝国であるはずのイギリスを没落に導いたとする評があります。何故ならば、同大戦を機に、イギリスは、アジア・アフリカにおいて保有していた植民地の大半を失ったのですから。かつての大英帝国も世界地図から姿を消すこととなったのですが(もっとも、1931年には英連邦へと転換…)、表舞台から姿を消したとしても、‘大英帝国’のネットワークは、今日までその命脈を保ってきたように思えます。

 大英帝国の形成過程を振り返ってみますと、とりわけアジアにおいては英東インド会社こそその立役者であったと言うことができます。英東インド会社とは17世紀初頭に設立された勅許による民間の株式会社であり、その株主リストにはユダヤ系の金融業者や実業家等の名も連ねていたのです。すなわち、東インド会社を先兵とする大英帝国の建設には、古来、世界大に張り巡らされてきたユダヤ系ネットワークのコネクションが大いに寄与したと言えましょう。いわば、大英帝国とは、イギリスという国家とユダヤ系ネットワークとの合作なのです。

 こうした視点から今般の北京政府による香港への国家安全法導入をめぐる英系企業の対応を見てみますと、今日、イギリスと‘大英帝国’とがいよいよ切り離されつつあるように思えます。報道によりますと、アヘン戦争以来、香港に拠点を有してきた英系資本であるHSBSの中国法人、並びに、ジャーディン・マセソンが、相次いで国家安全法に対する支持を表明しているからです(6月11日付日経新聞)。本国であるイギリス政府が香港への国家安全法導入に反対し、ファーウェイからのG5関連の調達を見直すなど、対中対立姿勢を強めているのとは対照的です。ここに、イギリスの国益並びに民主主義・自由主義という普遍的価値を護ろうとするイギリス政府の立場と、東インド会社の系譜を引き、ビジネス上の企業利益のみを護ろうとする英国系グローバル資本との立場の違いの鮮明化が見受けられるのです。

 そしてこの現象は、日本国にも影響を与えるように思えます。その理由は、HSBSもジャーディン・マセソンも、幕末から戦前までの時期にあって日本国の歴史と深くかかわっているからです。HSBSの前身は1865年に設立された香港上海銀行であり、翌1866年には横浜に支店を開設しています(三菱東京UFJ銀行の源流である横浜正銀銀行のモデルとも…)。同業は、明治政府の造幣事業等にも協力し(もっとも、明治政府は1869年に香港初の銀行であり、かつ、紙幣発行銀行でもあったオリエンタルバンクと貨幣鋳造条約を締結…)、日露戦争ではクーン・ローブ商会等と共に日本国債を引き受けています。また、ジャーディン・マセソン商会こそ、明治維新を陰から操った所謂‘黒幕’とも目されており、薩長両藩の‘維新の志士達’の海外留学を支援しつつ、佐幕派にも武器を売却していたグラバー商会とは、同社の長崎代理店でもありました。

 かくも深く香港に拠点を置いてきた英系資本が日本国に関わっており、しかも昔も今も変わらずに利益のみを求めて行動してきたとしますと(香港のみならず、日本国の民主主義にもマイナスに作用…)、教科書に記されている日本国の近現代史も大幅に見直さなければならなくなるかもしれません。‘維新の志士達’の活躍により欧米列強による植民地支配の脅威を跳ねのけて独立を護り、近代国家への転換を自力で成し遂げたという…。そして、戦後、一貫して第二次世界大戦とは日本国がアメリカと戦った戦争というイメージが定着してきましたが、開戦後、当時の日本国が、即、香港を占領した点に注目しますと、不可解な奇襲攻撃を以って始まった太平洋戦争の謎を解く鍵は、むしろ‘大英帝国’の版図でもあった‘南方’にあるかもしれないのです。

 昨日、‘長州出身’の安倍首相は、日本国をアジアの金融の中心地とすべく、香港から金融部門での人材を受け入れる方針を表明したとも報じられています。また、新型コロナウイルス禍にあって注目を浴びたダイアモンド・プリンセス号にも、歴史の‘因縁’を感じずにはいられません。同船舶の運営会社の前身はP&O(Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)であり、上述した香港上海銀行の創設者こそ、P&Oの香港支店長であったトーマス・サザーランドであったのですから。今日に至り、‘大英帝国’を陰で操っていた亡霊は日本国にも出現し、そしてその亡霊は、イギリスからも幽体離脱して全世界を彷徨っているようにも思えるのです。


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アメリカの‘危険な賭け’なのか?-黒人初の米空軍参謀総長の誕生

2020年06月11日 11時53分41秒 | アメリカ

 報道によりますと、アメリカでは、空軍の参謀総長の職に米国史上初めて黒人のチャールズ・ブラウン氏が就任する運びとなったそうです。議会上院は、トランプ大統領の指名を98対0で可決したというのですから、圧倒的な支持を得ての就任となります。同人事の背景には、白人警察官による黒人男性暴行死事件を発端とした抗議デモの広がりが指摘されておりますが、同大統領は、‘危険な賭け’に打って出たようにも思えます。

 指名権を有するトランプ大統領による史上初の黒人参謀総長の起用は、既に指摘されておりますように、国民統合政策の一環であったかのでしょう。コロナ禍での感染率や死亡率、並びに失業率の高さもあって黒人層は現状に不満を募らせており、白人層との間の経済・社会的な格差が今般の暴動激化の一因ともされています。人種間のみならず、大統領選を背景とした政治的対立がアメリカを引き裂きかねない状況下にあって、同大統領、並びに、アメリカの政界は‘全会一致’でブラウン氏を空軍の参謀総長の座に就けたのでしょう。

 そして同人事は、米中対立の構図をあって、とりわけ重要な意味を持ちます。何故ならば、近い将来において対中戦争があり得るならば、人種や民族の違いを超えた米国民の団結は必要不可欠であるからです。米空軍のトップが黒人であれば、白人層も黒人層も一致団結して共通の敵である中国に対峙することができます。つまり、同人事を以って、アメリカ国内の対中戦争の準備が国民の心理面において凡そ整ったとも言えるかもしれません。因みに、第二次世界大戦にあっても米軍における黒人兵士の存在が、完全にではないにせよ、その後の黒人層全体の地位向上に貢献したとも指摘されています。

 同人事を以って米国民の結束が強まればトランプ大統領は‘賭けに勝つ’ということになるのですが、負けるリスクもないわけではありません。そして、この‘危険な賭け’の勝敗は、偏にブラウン氏のアメリカという国家に対する忠誠心の如何にかかってきます。‘賭けに負ける’ケースとは、人種間の対立が一向に収まらず、黒人層の期待を一身に背負ったブラウン氏が米軍内部にあってアメリカに不利となる、あるいは、利敵な行動をとる場合です。中国等の反米勢力も空軍の制服組トップの地位あるブラウン氏に狙いを定めて様々な工作を仕掛けてくることでしょう。第一次世界大戦におけるロシア革命もドイツ敗北も兵士の反乱が決定的な意味を持ちましたので、米軍にありましても、反乱とまではいかないまでも、空軍の統率に乱れが生じれば、戦争の行方さえ左右しかねないのです。

 もっとも、空軍の上部には陸海空軍等を束ねる統合軍が設置されており、さらに上部には全軍を統括する国防総省が置かれています。また、大統領による解任もあり得ますので、仮にブラウン氏が反米的な行動をとったとしても、チェック機能が働いて大事には至らないことでしょう。しかしながら、職を解かれたら解かれたで黒人層が一斉に反発するでしょうし、反トランプ姿勢のマスメディアも黙ってはいないかもしれません。後者のケースでも国民統合が崩壊し、トランプ大統領は‘賭けに負ける’ことになりそうなのです。

 今日、アメリカが外部からの弱体化攻勢に晒されている現状を直視すれば、人種間対立の激化は‘敵方’の策略に踊らされているようにも見えます。そもそも、黒人層への新型コロナウイルスの被害集中が暴徒化の原因であるならば、その批判の矛先は、まずもってパンデミック化を招いた元凶でもある中国やWHOに向けられるべきです。そして、マサチューセッツ州の公園でコロンブスの銅像の頭部が破壊されるといった事件の発生は、その背後に事態を早期に収拾させたくない、もしくは、対立の激化を煽る勢力の暗躍も疑われるのです。‘危険な賭け’の行方は、人種の相違に拘わらず、自らが置かれている立場に対するアメリカ国民の自覚にもかかってくるように思えるのです。


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監視者を監視する民主的システムが必要では?

2020年06月10日 13時08分03秒 | 国際政治

 ITの急速な発展もあり、デジタル化の勢いは増すばかりです。全てがネットで繋がる社会は、人類の未来図として既定路線化しているかのようです。情報通信の分野のみならず、製造業においても自動車の自動運転化や家電製品のIT化が国を挙げて推進されており、経済活動から日常生活に至るまで全てがIT化されたスマートシティの建設も目前に迫っています。

 その一方で、IT先進国中国では、同技術は政府による国民の徹底監視に最大限に利用されており、人類の行く先に暗い影を落としています。デジタル化により、個々人の行動や発言は全て情報として収集し、データとして保存し得るのですから(デジタル化されない場合は瞬時に消える…)、公私に拘わらず、生涯に亘って個々人の全人格的な把握が可能となるからです。国家が体制維持を最優先課題として位置づけるとすれば、反体制的な国民を敢えて収容所送りとしなくとも、体制への従順度を判定基準とし、就学や就職等の機会において排除し、さらには、デジタル人民元の下で購買時の決済に不可欠となる金融口座も与えなければ、その日の食事にさえ事欠く状態に追い込むことができます(目に見えない強制収容所…)。否、体内にマイクロチップを埋め込めば脳内さえもコントロールされ、もはや人々は、自らの理性を働かせることさえできないようになるかもしれないのです。

 香港市民が北京政府による国家安全法の適用に抵抗する理由も、こうしたディストピアの出現を予感しているからなのでしょう。その一方で、中国本土では、国家主導による全面的な監視体制に対して然したる反対運動は起きていないようです。ITを用いた各種サービスの高い利便性ゆえに、政府による言論弾圧やプライバシーの侵害等について、国民の多くは目を瞑っているというのです。経済分野では自由化したとはいえ、中国国民は半世紀を超えて共産主義体制に慣らされてきましたので、そもそも自由やプライバシーに対する権利意識が薄いのかもしれません。

 それでは、自由主義国ではどうでしょうか。自由主義国にあっても、国家ではないIT大手による情報独占のリスクが指摘されております。情報支配の問題は中国限定ではなく、自由主義国でも他人事ではありません。利便性の向上を根拠としたIT化はあらゆる分野に及び、利用者は、選択の自由を失うと共に、否が応でもその利用を半ば強制されてしまうのです。

 しかしながら、利便性の高さが必ずしも心地よさや安心感を意味するわけではありませんので、人々の言動の情報化はストレスともなります。誰とも知れない外部者に常に監視されている状態となるのですから、獄中の囚人の心理と大差はなくなります。目下、ある研究グループが、‘私生活が監視されている状態に、人間は、どこまで耐えうるのか’という実験を行っているそうですが、その結果が待たれるところです。生体測定を目的としたスマートウォッチもその装着自体がストレスを与えるかもしれませんし、高齢者や子供の安全を確認するための‘見守り’用の監視カメラも、24時間監視される本人たちにはストレスとなるかもしれないのです。況してやガラス張りのようなスマートシティともなりますと、そこが‘ユートピア’なのか‘ディストピア’なのか、もはや分からなくなってくるのです。

 現状を見ますと、テクノロジーが牽引する利便性の向上にも自ずと懐疑的になるのですが、今般の新型コロナウイルスの感染拡大は、‘利便性か監視か’のジレンマに加えて、‘生きるべきか監視されるべきか’の選択を迫っているようにも思えます。そして、後者の場合には、接触を介して感染するウイルスというものの性質上、全ての人々の命に関わるだけに、事態はより深刻なようにも思えます。いわば、命を人質に取られてしまっているに等しいからです。そしてここに、自らの命を護るために、情報を独占する上部の監視者の存在を認め、自らを‘囚人’とすることに合意してしまうという、パラドックスが見受けられるのです(最も狡猾な戦略は、相手に自らの力で自らを倒させること…)。

 この論理、個人の権利保護から始まって絶対主義体制の正当化を帰結してしまったホッブスの思想をどこか思い起こさせるのですが、果たして、人類は、このパラドックスから抜け出すことはできるのでしょうか。少なくとも、政府であれ、民間のIT大手であれ、‘監視者を監視される側が監視する民主的なシステム’が必要でありましょうし、監視者を隠れた存在にせず、監視者自身の情報こそ全面的に公開されるべきなのかもしれないと思うのです。

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‘選択と集中’への疑問―IT大手は逆を行く

2020年06月09日 11時50分36秒 | 国際政治

 日本国内では、大手企業の業績不振が報じられるたびに、回復策として‘選択と集中’が叫ばれます。採算性の低い部門を選択的に切り離し、利益の出る部門に経営資源を集中すべきであると…。あたかも万能薬のように提起されるこのスリム化方針、果たして適切な方向性なのでしょうか。

 ‘選択と集中’とは、グローバル時代の申し子でもあります。アメリカの大手IT企業や中国等の躍進を前にした日本企業の相対的停滞の主因は、しばしばグローバリズムの波への乗り遅れが指摘されてきました。これまで手広く事業分野を広げてきた日本企業は、時代遅れとなった不採算部門を整理し、グローバル時代に成長を見込める主力部門のみを残せば、サバイバルのチャンスがあるというのです。この方針に従い、これまで、多くの企業が組織改革を実行し、‘不要’とみなした部門を手放してきました。

 グローバリズムにあって生き残りの策として‘選択と集中’というスローガンが登場してきたのですが(GMのCEOであったジャック・ウェルチ氏の著書の誤訳とも…)、グローバリズムの‘勝者’であり、かつ、最先端を走るIT大手を見ますと、実のところ、同方針とは真逆の経営方針で臨んでいます。フェイスブックは、会員制の交流サイトから始まりましたが、実現が危ぶまれているとはいえ、デジタル通貨の発行を伴うリブラ構想を打ち出すことで、今や既存の国際通貨制度を脅かすまでの多角化を見せています。書籍通販サイトに始まるアマゾンも、今では、クラウド事業により政府の情報管理部門にまでビジネスを広げています。ネット検察サービス会社であったグーグル社も負けてはおらず、自動運転システムや量子コンピューターの開発により、次世代の産業をリードしようとしているのです。中国のアリババ・グループに至っては、これら全てを自らの事業に取り込む勢いなのです。

 IT大手は、プラットフォーマーである点において共通しております。いわば、経済並びに社会インフラを私的に保有しているに等しく、経営の多角化においては極めて有利な立場にあると言えましょう。プラットフォームを利用すれば、如何なる事業も飲み込むことができるのですから。このため、経済の全体的な支配が懸念される巨大な‘財閥(コングロマリット)’を形成しており、今日では、競争法の観点からその貪欲な企業買収に対して規制の強化が試みられているのです。

 それでは、非IT系の従来型の企業による‘選択と集中’とプラットフォーマーでもあるIT大手による経営の多角化という、正反対の流れが同時に進行した場合、一体、何が起きるのでしょうか。予測される結果とは、IT大手側のさらなる膨張と非IT系企業の先細りであり、そして、グローバルレベルにおける市場の寡占化なのではないでしょうか。‘選択’の結果として分離された事業は、同分離事業を本業とする他のグローバル企業に譲渡されるかもしれませんし、IT大手ではなくとも、海外ファンドや中国等の外国企業によって安値で買い取られるかもしれません。米中のようなIT大手を有さない日本国は、自国企業が‘選択と集中’を推進すればするほど、海外のIT財閥への譲渡と、それによる経済支配が拡大してくることとなりましょう。そして、日本国の大手企業が本業に‘集中’したとしても、14憶の巨大市場、並びに、海外企業の買収を介して巨大化した中国企業との競争に敗北する未来も予測されるのです。

 それでは、日本企業も‘財閥化’すればよいのか、と申しますと、それでも国内の市場規模を考慮すれば、規模の経済が強力に働くグローバル時代にあって米中巨大IT企業を前にしての生き残りは難しいと言わざるを得ません。むしろ、IT大手の‘グローバル財閥化’にこそ歯止めをかけるべきであり、国際レベルでの独占禁止の強化こそ必要とされているとも言えましょう。そして、経済全体の方向性としても、徒な不採算部門の切り捨てよりも、企業規模の大小に拘わらず、経営の自立性が保護されることで個々の企業の自由度が高まり、人々のアイディアや工夫が生かされるような柔軟で分散的なシステムを目指すべきなのではないでしょうか。


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日本国が中国陣営には入れないもう一つの理由-食糧安全保障

2020年06月08日 10時49分15秒 | 国際政治

 新型コロナウイルスのパンデミック化のみならず、香港への国家安全法の施行問題により、目下、国際社会における中国の孤立は深まっております。医療物資の供与や医療支援の戦略的展開を軸とした、所謂‘マスク外交’も、その背後の意図を疑われ、素直に受け取る諸国も数えるばかりです。逆風が吹き荒れる中、中国は、孤立回避策として日本国に秋波を送っているようにも見受けられます。
 
  一方、日本国側でも、自公政権の親中方向への急旋回が日本国民に不安を与えております。中国の‘代理人’とも目される二階幹事長や公明党等の親中派の政治家、並びに、中国市場から利益を得ている民間企業は、国民世論を無視してでも、日米同盟の解消、並びに、中国陣営への参画を進めるかもしれません。仮にこのような事態が起きれば、日本国の民主主義も内部から切り崩されることとなるのですが、日本国は、アメリカの同盟国であり、かつ、自由、民主主義、法の支配といった諸価値を尊重する国家であり、基本的な価値観からして違います。一党独裁体制を堅持している中国が、少なくとも日本国民にとりましては、到底組めない相手であるのは言うまでもありません。その一方で、もう一つ、日中同盟が成り立たない重要な理由があるように思えます。

 今般の新型コロナウイルス禍で明らかとなった点は、マスクや防護服といった医療物資を中国に依存するリスクです。感染病の拡大等により、国民多数が医療物資を必要とする局面では、こうした製品の供給ストップは、国民の命を危うくします。実際に、医療物資の一大生産国であった中国が一時的にではあれマスク等の輸出を禁止したため、日本国を含めて世界各国で深刻な品不足が生じ、パニック状態に陥りました。

 こうしたコロナ禍で発生した出来事は、有事に際して予測される経済封鎖の危機を示唆しています。言い換えますと、国民の命に関わるような物資が不足したのでは、戦おうにも戦えないのです。高齢世代の人々は、既に第二次世界大戦にあってこの経験しているのですが、米中対立が第三次世界大戦へと発展しかねない状況にあって、この点は、重要な政策決定の判断材料となりましょう。

 コロナ禍の経験からしますと、中には、マスクや医療物資の大量生産・大量輸出で見せたその高い生産力から、中国と組むべきと考える人もあるかもしれません。しかしながら、米中対立にあって内製化を急ぎながらも、産業の‘コメ’とも称される半導体一つ取りましても、中国は未だに海外からの輸入に依存しています。また、医療物資についても、コスト面で有利なために製造拠点が中国に集中したに過ぎず、中国が、特別な技術を有しているわけでもありません。工業製品の分野では、たとえ中国が禁輸措置を以って経済封鎖を試みようとしても、国内生産、あるいは、他の国での代替生産が可能ですので、その効果は限定されているのです。また、中国は石油の世界最大の輸入国でもあり、レアアースを別とすれば、戦時の戦略物資、並びに、生産に要する鉱物資源を自給できるわけでもないのです。

 それでは、食糧はどうでしょうか。2013年末から中国は、食糧不足を背景として従来の「95%の食料自給率の維持」の原則を転換し、農産物の輸入拡大に転じています。この結果、中国は、コメやムギ等の主食となる穀物は凡そ自給しているとはいえ、大豆については既に13%程度にまで自給率が低下し、その大半を輸入に頼るようになりました(主たる輸入先はブラジル、アメリカ、アルゼンチン…)。近年、食糧自給率の低い日本国からも農産物を輸入するに至ったように、14憶の人口を抱える中国は、国民の生活水準の一般的な向上と都市人口の増加も相まって世界最大の食糧輸入国となったのです。

目下、米中両国間にあって大豆の輸出入の行方が注目を集めていますが、有事に際して両国間の大豆取引が遮断された場合、不利となるのは中国側となりましょう。アメリカが太平洋を海上封鎖すれば、中国は、ブラジルやアルゼンチンからも調達できなくなります。大豆油を絞った残りの大豆ケークは家畜飼料として使われていますので、大豆の輸入が途絶えれば、中国国民の多くは、豚肉を食材とする伝統的な家庭料理さえ食することさえ難しくなるのです(もっとも、特権的な共産党員や富裕層は入手できるのでしょうが…)。

このことは、仮に日中同盟が成立した場合、有事に際して日中両国とも食糧難となる可能性を示しています。つまり、食糧安全保障の観点から見ても、日中同盟は成り立たないのです。第二次世界大戦末期のように日本国民が飢餓に苦しむ状況に至っても、‘同盟国’である中国からの食糧支援は望み薄です。否、むしろ逆に中国側から食料提供の‘要請’を受けるかもしれません。食料面における中国の脆弱性に鑑みれば、世論を無視した日本国政府による中国陣営への背信的な乗り換えは、最悪の選択となるのではないかと思うのです。


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日本国政府は再び全体主義陣営に与するのか―対中批判声明不参加問題

2020年06月07日 13時07分31秒 | 日本政治

 報道によりますと、日本国政府は、同盟国であるアメリカをはじめ欧州諸国が呼び掛けている対中非難声明への参加を拒否したそうです。同声明は、香港への国家安全法の導入を決定した中国を批判するものであり、日本国政府の拒絶の態度に欧米諸国では失望の声も上がっていると伝わります。

 近年、自公長期政権にあって、日本国政府は、政権内の親中派勢力の影響力拡大と共に、親中姿勢を頓に強めております。一方、政権内の親中傾斜に反比例するかのように、日本国民の対中感情は悪化の一途を辿っており、既に保守層の離反も始まっているようです。度を越した親中姿勢こそ、新型コロナウイルスのパンデミック化の責任が中国にあることも手伝って、昨今の内閣支持率の下落の一因とも推測されるのです。今般の対中批判声明の拒絶に際しても、最も深く失望したのも、欧米諸国ではなく、日本国民なのではないでしょうか。香港への国家安全法の適用拡大は、自由や民主主義の圧殺を意味するのですから。

日本国政府は全体主義へと大きく傾斜しており、国民が不安視するのは当然のことなのですが、このプロセス、どこか第二次世界大戦への道を思い起こさせます。戦前の日本国は、イギリスと日英同盟を結んでいながら、最後にはナチス・ドイツ、並びに、ファシスト政権が成立していたイタリアと日独伊三国同盟を締結し、全体主義陣営の一員として同世界大戦を戦うこととなります。共産革命によって中華人民共和国が成立する以前の出来事でもありますので、今日の国際情勢とは大きく異なるのですが、自由主義陣営からの離脱という点において両者は共通しています。

それでは、何故、当時の日本国は、自由主義陣営と袂を分かったのでしょうか。その理由を探りますと、日英同盟終焉の転機となったワシントン会議(1921年11月から1922年2月)に求めることができそうです。同会議では、四か国条約、並びに、海軍軍縮条約と共に、中国の門戸開放、機会均等、主権尊重を原則とする九か国条約が締結されています。同条約により、日本国は、石井・ランシング協定の破棄と共に山東省等の中国大陸における権益を失ったのです。その後の日本国の対外政策は、いわば‘ワシントン体制’への挑戦と見なされたわけですが、中国の権益が絡んでいる点において今日の日本国政府の方向性と重なります。言い換えますと、今日もまた、日本国は、中国市場における利益を失いたくないばかりに、戦争への道を歩むことになりかねないのです。

 歴史を振り返りますと、第二次世界大戦にあっては、日本国の敗北により、インフラを含め、官民による中国大陸への投資は全て中国に残置財産として事実上‘没収’されることになりました(サンフランシスコ講和条約…)。もっとも、中国が世界第二位の経済大国へと成長した今日にあっては、中国の立場はかつての中華民国とは違っています。どちらかと申しますと、中国の今日の国際社会における立場は、国際的な孤立と拡大主義的な方針という意味において戦前のドイツに類似しており、国民に徹底した忠誠心を誓わせる独裁体制においても共通しています。

そして、現状から予測される事態とは、戦前の日英同盟と同様に日米同盟が破棄され、仮に米中対立を軸とした第三次世界大戦が起きるとすれば、日本国は、勝っても負けても悲惨な状況に追い込まれる、というものです。勝利した場合には、当初は寛容な態度で接するとしても、やがて中国は、日本国に対する影響力を強め、日本国の自由も民主主義も潰そうとすることでしょう。今日の香港のように…。一方、敗戦の憂き目を見るとすれば、その過程にあって、米軍を主力とする自由主義陣営軍による徹底した攻撃と破壊を受けることでしょう。

こうした事態を予測すればこそ、日本国政府は、今般の対中非難声明に積極的に参加すべきであったのではないでしょうか。民主的な制度を整えた今日の日本国にあって、国民の大多数が中国陣営への‘乗り換え’に反対しております。政府が国民世論を無視して中国への接近を強めるとしますと、日本国政府こそ、日本国民を全体主義国に売り渡そうとする‘内なる脅威’にもなりかねないのではないかと思うのです。


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危ういアメリカ―ホワイトハウス前通り改名問題

2020年06月06日 13時00分29秒 | アメリカ

 アメリカにおける白人警察官による黒人男性暴行死事件は全米に抗議デモを巻き起こし、一時は、トランプ米大統領が軍の出動を表明する事態となりました。同抗議活動の暴徒化した原因として、過激派による煽動が指摘されていますが、その後の展開を見ますと、アメリカは極めて危うい状況に直面しているように思えます。

 その理由は、コロンビア特別区、即ち、ワシントンD.C.の通りの一部が、同事件に因んで‘ブラック・ライブズ・マター(黒人の命は大切)広場’に改名されたと報じられているからです。しかも、改名されたのは、アメリカ合衆国の大統領府であるホワイトハウスに面する通りというのですから(ペンシルバニア通り?)、否が応でも人々の関心を呼びます。日本国内でも、どちらかと申しますと、アメリカの‘抵抗の正義’を象徴するかのように報じられているのですが、この措置には‘美談’では済まされない‘危険な何か’が感じられるのです。

 それでは、通りの改名は、どのような手続きを経て実現したのでしょうか。現在のワシントンD.C.の市長は、2015年からミューリエル・バウザー氏が務めています。バウザー市長は民主党の政治家であり、1991年から1995年に市長職をあったシャーロン・プラット氏に次いで2番目の黒人系女性市長としても知られています。事件発生から僅か数日にして通りの名称が変わるという迅速さからしますと、おそらく、その背景にはバウザー市長の決断があったことは容易に想像がつきます。

構図からしますと、黒人系の市長が自らとアイデンティティーを同じくする黒人男性の死を悼んで通りの名称を独断で変えたことになるのですが、一般市民からの積極的な支持や要請があったのかどうかは不明です(あるいは、事後的であれ、区議会等の承認を得るのでしょうか…)。同通りの標識は、既に市長の命によって新しい名称に替えられており、車道には一面、同スローガンが黄色いペンキで描かれているそうです。市長が通りの名称を一夜にして変更し得る権限を持つとしますと、今後、何らかの政治的な事件や出来事が発生する度、あるいは、市長の任期終了を以って道路標識が頻繁に取り替えられ、一般の市民の人々が同一の通りとして認識できず、混乱が生じる可能性も否定はできません。

 バウザー市長は、通りの改名に先立って国防総省が派遣した1600人の陸軍兵士の撤退をも要請しており、トランプ政権との対立姿勢を強めてきてもいました。民主党の政治的な立場からしますと、暴動に発展したとはいえ、市民の抗議活動に対する‘軍の介入は許せない’ということなのでしょうが、バウザー市長の自らの出身母体である黒人コミュニティーへの過度な肩入れは、アメリカの統合の危機をむしろ際立たせています。

おそらく、同市長のいささか過激な行動も、アメリカ大統領選挙を意識したパフォーマンスなのでしょう。トランプ大統領に対しましては、アメリカの分断を煽っている、あるいは、人種間対立を政治利用している、とする批判もあるのですが、亡くなった黒人男性に哀悼の意を表するまでは理解の範囲に入るものの、バウザー市長の独断的な街路の名称の変更も、政治的対立が人種間対立と結びつくという意味においても、同程度に問題含みです。そして、その背後には、アメリカを弱体化したい何らかの政治勢力の思惑が潜んでいるようにも思えるのです。

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日本国政府はより厳しい対中出入国規制を

2020年06月05日 12時51分55秒 | 日本政治

 報道によりますと、技術者を中心として日本人が中国に渡航するケースが見受けられるようになったそうです。いち早く経済を回復基調に乗せ、かつ、IT分野において世界をリードしたい習政権の意向を受けた、中国企業による技術者獲得の動きの一環のようですが、現地の日本企業による業務上のやむを得ない渡航もあるのでしょう。しかしながら、緊急事態宣言が解除されたとはいえ、日本国内ではコロナ禍は、収束には至っておらず、また、第二波の到来も懸念されております。

 日本人の中国への渡航に先立ち、中国政府は、韓国と共に日本国への渡航禁止措置の緩和を申し入れていたそうです。両国とも既にコロナ禍は終息しており、感染リスクが皆無に近いにも拘わらず、渡航が許されない状態は不適切であると…。同要請に対して日本国政府は否定的であり、先日発表された入国規制緩和対象国にも含まれていませんでした(緩和対象国は、タイ、ベトナム、オーストラリア、ニュージーランドの4か国…)。コロナ禍を通して中国政府が公表する数字は怪しく、同国の情報隠蔽体質を考慮しますと、‘感染者ゼロ’の発表にも懐疑的にならざるを得ません。日本国政府も、中国のコロナ危機は未だに完全には去っていないと判断したのでしょう(5月には遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省において感染拡大の報告が…)。

 かくして、日本国政府は、中国を渡航中止勧告を意味するレベル3に指定しているのですが、同勧告は強制力を伴う渡航禁止措置ではないため、中国への渡航を完全に止めることはできないそうです。実際に、3月から中国フライトが大幅に減便され、満席ではないとはいえ、日本系、並びに、中国系の航空会社とも、大連、上海、瀋陽といった主張都市への直行便は週1便程度には運航しています。すなわち、少なくとも日本国政府は、日本人の中国への渡航を全面的に禁止しているわけではないのです。因みに、中国は、米航空会社に対しては中国便の運航を停止する一方で、自国航空会社に対しては米国便を認めていたため、目下、米中間において、中国による米航空会社の運航再開申請の却下に対抗して、アメリカが中国系航空会社の米国乗り入れを禁止するという、制裁の応酬が起きています。

 以上に、日本から中国への渡航を見てきましたが、その逆の中国から日本国への入国については、日本国政府は、中国を上陸拒否国に指定しており、一先ずは、厳格な水際対策を実施しています。とりわけ中国と韓国に対しては、過去(3月8日まで)に発給された査証(一次・数次)の効力も停止されており、上述した両国による日本国政府に対する規制緩和の要請にはこうした背景があります。もっとも、日本国の永住者や定住者の在留資格を有する中国籍の人々に対しては入国拒否対象から外しており、今日、これらの対象者だけでも凡そ30万人に上ります。言い換えますと、これらの人々は、日本人と同様に日中双方において入国の際にPCR検査や14日間の待機期間を課せられつつも、比較的自由に行き来することができるのです。

 それでは、中国側はどうなのでしょうか。最初に中国政府による自国民に対する措置をみますと、新型コロナウイルスが発生し、パンデミック化の様相を呈した初期段階の1月27日に、団体旅行客を対象に出国禁止措置を採っています。ところが、それ以降、積極的に自国民の海外への渡航を禁止する講じた様子は見られません。日本国政府が入国禁止措置に至ったのも、中国政府が、個人の出国者に対しては何らの制限も課していなかったからなのでしょう。

次いで、海外からの入国者に対する措置を見てみますと、中国では、新型コロナウイルスの‘再上陸’を警戒し、外国人の入国にはことさらに神経をとがらせてきました。3月31日からは、これまでビジネスや親族訪問を目的に認めてきた15日以内の滞在者に対するビザなし渡航の措置も停止され、在日大使館や領事館、及び、東京と大阪に設けられている中国査証センターも業務停止状態にあります。とは申しますものの、在日中国大使館のホームページには、「葬儀、親族危篤等の緊急事由の人のために<優先ルート>を開通しています」とあり、特別の理由がある場合には、入国が許されているようです。既に5月中に日系企業の駐在員の凡そ140人に査証が発給されており、今後は、さらに拡大させる予定とも報じられています。

 以上の日中両国政府による出入国の規制措置について概観してきましたが、どちらの国により高いリスクが認められるのか、と申しますと、それは、日本国の側のように思えます。中国が自国民の出国に対して全面的な禁止措置を採らなかった怠慢がパンデミック化の主要な原因なのですが、今日、同国は、出国規制の強化どころか、逆に自国民の渡航を後押しする姿勢を見せています。日本国側もまた、原則としては入国拒否の措置をとりつつも、永住者等の資格を有する在日中国人の往来のみならず、今後、中国政府が日本人に対する査証の発行数を増やすとしますと、帰国便の搭乗者としての中国からの入国者も増加することでしょう。上述した規制緩和の対象四か国に含まれてはいないものの、既に、日中間では、出入国制限が事実上緩和されているに等しいのです。

 北九州市を中心に新型コロナウイルスの拡大が報じられていますが、もしかしますと、新型コロナウイルスの変異体が海外から持ち込まれた可能性も否定はできないように思えます(一日につき感染者が10名入国すれば、再度、緊急事態宣言の発令が必要との試算も…)。中国政府発の安全宣言は信用に足りず、かつ、政治の分野にあっても同国が香港に対する弾圧姿勢を強める中、日本国政府は、中国との人的な往来についてはより制限的であるべきなのではないでしょうか。


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SNS中傷規制は慎重に―法規制よりも共通認識を

2020年06月04日 11時17分02秒 | 社会

 先日、女子プロレスラーであり、「テラスハウス」という番組の出演者もであった木村花さんが自ら命を絶ったと報じられております。番組で放映された態度を不快と感じた視聴者からSNSにて大量の誹謗中傷の投稿が寄せられたため、木村さんはいたく傷つき、その心痛に耐えられなかったと伝わります。まことに痛ましい出来事であり、政治サイドでは、これを機にSNSにおける中傷を規制する法律の制定に向けて準備が進められているそうです。

 木村さんの死は悼むべきことなのですが、SNSの法規制にまで事態が拡大するともなりますと、言論の自由にも抵触しかねませんので、ここは慎重に考えてみる必要があるように思えます。何故ならば、プロフェッショナルな芸能界の人々と不特定多数の視聴者との関係は、社会一般の個々人間の関係とは異なっているからです。

 芸能界の人々は、番組への出演や興行によって生計を立てているプロの職業人です。木村さんもまた多くの人々にショーに足を運んでもらい、「テラスハウス」の視聴者を含め、たくさんのファンに支えられて女子プロレスラーとして活躍してきたことでしょう。こうした職業では、芸能人と視聴者との関係は1対多となり、前者は後者なくして職業として成り立たないのです。このため、通常は知名度が高いほどに出演料や回数などにおいてプラスに働くのですが、何らかのトラブルが発生しますと、視聴者からのリアクションは、当事者となる芸能人一人に向けて一斉に襲い掛かることとなります。

 また、報道によりますと、木村さんは‘ヒール役’、すなわち、‘悪役’であり、自分自身とは異なる役回りを演じていたそうです。この点は、俳優さんや女優さんも同じなのですが、台本がある場合には、キャスティングされた役に成りきってそれを忠実に演じることこそ‘プロ’ということになります。‘悪役’のイメージが広く定着していたとすれば、木村さんが、視聴者からバッシングを受けやすい下地があったことは想像に難くありません。

 しかも、芸能人には、公私の区別が曖昧なところがあります。一般の職業であるならば、職場を離れれば自らの私的空間に戻ることができます。ところが、芸能人の場合には、しばしばスキャンダルが報じられて世間を騒がせるように、法的な意味では‘公人’ではないのも拘わらず、私生活にまでが人々の関心の的となり、公に報道されることが少なくないのです。また、逆に、芸能人その人の人格や個性、あるいは、才能を以ってファンとなる人もおります(もっとも、真に‘素’であるのかは分からないのですが…)。この側面にも、他の職業との違いを見出せるのであり、木村さんは常時ストレスにさらされ、精神的に追い詰められやすい状況に置かれていたとも推測されるのです。

 そして、木村さんのケースでは、「テラスハウス」というテレビ番組の内容が、上記の諸点をさらに悪化させる方向に作用させたようにも思われます。「テラスハウス」とは、‘台本なし’を看板として、シェアハウスで暮らす若者たちの日常生活を公開するという内容であったのですから(実際には、番組の編集者による演出や指導が加えられているらしい…)。これでは、プロとしての‘悪役’と木村さん個人の人格とが融合してしまい、前者としての行動が後者の命を奪ってしまうという悲劇を招いてしまった、といっても過言ではありません。すなわち、このような番組では、視聴者は、木村さんの悪役としての虚偽の‘性格’を、木村さん自身の生来の性格として認識し、木村さん自身を批判・非難することになるのです。

 このように考えますと、芸能人と視聴者との間の関係において発生した特別なケースであり、この事件を一般化してSNS規制にまで踏み込むことは過剰対応のように思えます。再発を防止する方法があるとすれば、それは、むしろ、芸能界、あるいは、メディアと視聴者との関係を双方ともによく理解し、でき得る限り芸能人の公私を分けると共に、双方とも責任の所在や批判すべき対象を慎重に見極める必要があるとも言えましょう(もっとも、芸能人の側にも私生活の公開を職業上の活動の一部とする向きもあるし、個人としての発言もあり得る…)。

 木村さんも、職業として割り切れば自ら命を絶つこともなかったことでしょうし、視聴者も本気で憤慨し、誹謗中傷を浴びせることもなかったことでしょう。そして、「テラスハウス」が‘ドラマ’の一種であるならば、視聴者からの批判や苦情は、出演者ではなく番組を作成したテレビ局が全面的に引き受けるべきであったかもしれません。何れにしましても、こうした問題に対しては、国民一般を対象とした法規制の強化という方法は適さないように思えるのです。

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アメリカの暴動と香港問題の比較―民主主義とは集団的自己決定

2020年06月03日 10時59分46秒 | アメリカ

 人種間対立を背景にアメリカで発生した暴動は、新型コロナウイルスのパンデミック化や香港問題で国際社会から厳しい批判を受ける北京政府にとりましては、民主主義国家の優位性を否定する絶好のチャンスとして利用したいところであったのかもしれません。しかしながら、昨日の記事において指摘しましたように、国内的な社会統合の問題であるアメリカの暴動と自治の枠組みの破壊を目論む香港問題とでは本質的な違いがあります。前者は多数決を旨とする民主的な制度では解決しない性質の事柄ですので、‘民主主義が機能しない’とする中国側の批判は当たらないのです。

 そして、この両者の比較は、民主主義というものの別の側面をも浮かび上がらせてきます。民主主義とは、‘自らの集団に関する事柄はその構成員で決める’とする、集団としての自己決定を本源的な価値とする言葉です(個人レベルでも自己決定の尊重は人としての本源的な価値を認めることを意味する…)。このため、国内政治にあっては、普通選挙を初め、様々な民主的な制度を介して国民は統治に参加しています。これまで国民投票、リコール、イニシャチブ、陪審制や裁判員制度など、様々な民主的制度が考案されてきており、その導入度が高いほど民主主義のレベルも高いと評されてきたのです。

 しかしながら、民主主義はオールマイティーではなく、今般のアメリカの暴動のような国民の間に存在する下部集団の間での対立を解決する手段としては限界があります。現行の制度では、民主的制度は‘多数決’を決定原則としますので、国家として一つしか選べない事項を選択する場合には、常にマジョリティーが有利となるからです。

 もっとも、対立が‘相互破壊’に向かうほど激化する場合、それを避ける方法が全くないわけではありません。その一つは、統合の枠組みを敢えて‘緩める’という方法です。つまり、反目しあう下部集団のそれぞれにより強い自己決定権を与えるのです。例えば、今般のアメリカの暴動の発端は、白人警察官が黒人男性を逮捕しようとした際に発生しています。現状のままでは、今後ともこうしたケースが頻発するでしょうから、黒人容疑者の逮捕は黒人警察官に任せるという方法です。あるいは、黒人居住地区の治安維持の権限を同コミュニティーに委託するという方法もありましょう。黒人コミュニティーは治安維持の権限を得るのですが、その一方で、同コニュニティーの安全を護る責任を負うことにもなるのです。

ただし、治安維持の権限のみの移譲では、経済的な格差や社会的な差別等の根本的な解消には繋がらない、あるいは助長するとする批判もありましょう。アメリカの場合、黒人の人々は、先祖が奴隷商人の手によってアフリカから奴隷として連れてこられた歴史がありますので、合衆国内に黒人の人々のみが特定の地域に国境線を引いて‘独立する’ことは殆ど不可能です(また、この方法ですと、本来の目的とは逆に人種隔離政策にも見えてしまう)。この歴史的な側面が、アメリカにあって人種問題の解決が難しい理由でもあるのですが、少なくとも、黒人コミュニティーにあって自治の精神を培う機会を得れば、暴動といった無責任な行動をある程度は抑えるはできるかもしれません。

もちろん、先ずは、黒人容疑者を死に至らしめるような警察による乱暴な逮捕の方法は改め、法の前の平等を徹底すべきでしょうし、さらに踏み込んで、アファーマティヴ・アクションを強化する、逮捕要件の緩和や裁判での酌量余地を広げる、あるいは、黒人層への社会保障向け予算の配分比率を高めといった、優遇的な方法もあるかもしれません。しかしながら、後者の方法では、法の前の平等の原則を崩し、逆差別が発生すると共に、白人層の不満を高め、人種間対立をさらに深めるリスクもあります(オバマ政権下における黒人優遇政策が人種間対立を深めてしまった前例がある…)。

その一方で、民主主義の価値が集団的な自己決定にあるとしますと、中国において発生している重大問題の多くは、‘民主的な手段’によって容易に解決することができます。香港の人々が政治的な集団としての自己決定権を行使すれば、完全なる独立さえ夢ではありません。チベット人、並びに、ウイグル人も同様に、‘国民投票’によって自発的にその意思を表明する機会があれば、中国からの独立を躊躇なく選択することでしょう。また、台湾についても、中国は、最早、その併合を主張し得なくなるのです。因みに、国際社会では政治的集団の自己決定の権利を民族自決権と呼び、国家の独立を支える原則として認めています。

以上にアメリカと中国のそれぞれの問題を比べてみましたが、この比較からアメリカの抱える問題の方が後者よりも解決がより困難であることが分かります。それ故に、同問題はアメリカの弱点ともなるのであり、社会統合、あるいは、国民統合の脆弱性こそが、米中対立の最中にあって、中国が同問題を対米戦略に利用しようとした理由とも憶測されます。そして同時に、他国の支配をよしとする帝国志向の中国が、民主主義、否、それに内在する集団的な自己決定の権利をあくまでも拒絶しようとする理由も見えてくるように思えるのです。


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アメリカの暴動と香港問題は違う

2020年06月02日 13時06分07秒 | 国際政治

 白人警察官が逮捕に際して黒人男性を死亡させた事件に反発し、アメリカ各地では、デモ隊による暴動が発生しています。アメリカにおける人種間の分断が深まる背後には、香港問題で批判を浴びている中国の影も見え隠れするのですが、マスメディア等の報道では、アメリカの民主主義の危機とする見解も散見されます。

 中国が香港問題において、アメリカをはじめ国際社会から厳しい批判を受けている理由は、「一国二制度」の合意の下で香港が中国に返還されたにもかかわらず、今日、国際法を無視し、国家安全法を香港に適用させようとしているからに他なりません。それは取りも直さず、一党独裁体制とは異なる制度、即ち、民主主義体制は絶対に認めないとする北京政府の意思表示であり、強引なる「一国一制度」への移行による民主化運動の封殺を意味するのです。今般の全人代での決定は、直接に暴力は振るわなくとも暴力を脅しとする、天安門事件に優るとも劣らない暴挙とも言えましょう。

 新型コロナウイルスのパンデミック化もあり、中国に対する逆風は強まるばかりなのですが、北京政府の目には、アメリカで発生した暴動は民主主義体制の優位を否定する格好の材料に映ったのかもしれません(あるいは、背後で煽っている可能性も…)。一党独裁国家よりも、民主主義国の方が、遥かに国家運営において劣悪であるとする印象を与えることにより、香港を独裁体制に飲み込むことを正当化したいのでしょう。実際に、中国外務省の趙立堅副報道局長は、記者会見の席で「どうして米国は香港警察を非難し、一方で自国の抗議活動の参加者を銃で脅すのか。典型的な二重基準だ」と述べたと伝わります。

 しかしながら、国家内部の人種や民族といった人の集団間の対立は、民主主義では解決しない種類の問題ではないかと思うのです。民主主義における主たる解決手段とは、多数決です。例えば、政治家の人選(選挙)、多様な意見や利害の調整、あるいは、国民に共通する問題の解決方法等に際して、民主主義は民意を反映する手段として、国内にあって制度化されています。プロセスとしての自由な議論、並びに、少数意見の尊重が謳われつつも、最終的には‘数’が決定要因となるのです。ところが、民主主義は、統治に関する一般的な政策においては機能しますが、国民の枠組みという統合の側面では機能不全に陥る可能性が高いのです。

 何故ならば、民主的制度における主要な決定要因が‘数’、しかも‘多数’であるならば、常に‘マジョリティー’が決定権を持つことを意味するからです。しかも、統合の分野では、ゼロ・サム問題も少なくありません。例えば、予測されている人口構成の変化が現実のものとなり、アメリカ合衆国の言語や歴史等も、黒人、ヒスパニック系、あるいは中国系の人々が‘マジョリティー’に転じた途端、一変に塗り替えられてしまうことでしょう。実際に、今般の暴動では歴史的な遺産として指定されている教会も焼き討ちに遭っており、西欧風の建物等も‘悪しき支配’の象徴として撤去されてしまうかもしれません。歴史によって形成された国民の枠組みに起因する問題は、民主的な手段を以ってしても解決することは難しく(敢えて元凶を問うならば、それは近代の奴隷貿易…)、かつ、万能薬と言えるような解決策もない、現代という時代にあってなおも最大級の難問なのです。

 そして、香港問題が提起しているのは、むしろ、自立的な国民の枠組みの破壊、あるいは、アイデンティティーの抹消という、別な意味での危機なのではないでしょうか。中国の法律が香港に直接に適用された瞬間、香港の主体性も香港市民の枠組みも法的には消滅しかねないのですから。アメリカがダブルスタンダード(二重基準)なのではなく、中国こそが問題の本質的な違いを区別していない、あるいは誤魔化そうとしているのではないかと思うのです。


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台湾が証明するWHO不要論

2020年06月01日 12時21分19秒 | 国際政治

 先日、オンラインで開催されたWHOの年次総会では、中国を後ろ盾とするテドロス事務局長の意向が働いて台湾のオブザーバー参加が認められませんでした。度重なる中国寄りの姿勢に失望し切ったアメリカは、早々にWHOからの脱退を表明することとももなったのです。

 参加を拒絶された台湾としては無念の限りなのかもしれませんし、自由主義国のメディアの多くも残念な結果として報じています。しかしながら見方を変えますと、必ずしも落胆すべき出来事ではないかもしれません。何故ならば、台湾は、WHOの非加盟国であったからこそ、新型コロナウイルスの封じ込めに成功したとも言えるからです。

 報道によりますと、台湾は、WHOの加盟国ではない故に、感染症に対する全世界レベルでの情報収集体制を整備してきたそうです。WHOから感染症に関する情報を得ることができないからです。このため、武漢にあって新型コロナウイルスの発生が報告された際にも、即座に専門家会合が設置され、独自に現地に調査員を派遣して情報収集に当たらせています。中国が‘人から人へ’の感染を正式に認める前に既に同情報を察知しており、台湾の迅速な対応と完璧なまでの初動体制は、WHOの非加盟国であったことが功を奏したと言えましょう。全世界に先駆けて中国大陸からの渡航を遮断した台湾政府の決断の裏には、独自のルートによる正確な情報の裏付けがあったのです。

 仮に、台湾がWHOの加盟国であったならば、同国もまた、他の諸国と同様に新型コロナウイルス禍による甚大な被害に苦しめられたことでしょう。台湾と中国大陸との間の活発な人の相互往来を考慮しますと、台北市や高雄等の主要都市の封鎖もあり得たかもしれません。感染が国境を越えて広がる事態に至っても、しばらくの間、WHOは、‘パンデミックには未だ至っておらず、各国政府の渡航禁止や制限も過剰反応という’基本スタンスを維持していました。加盟国としてWHOの指針に従っていれば、一衣帯水の関係にある台湾も大感染地帯と化したかもしれないのです。

  今般の台湾の成功例は、国際機関が時にして有害な存在になり得ることを示しています。国際組織が腐敗したり、重大な情報を隠蔽するといった不正な行為を働いたり、あるいは、故意ではなくとも偽情報を発信したり、決断を誤ったりする場合には、国際機関は本来の役割を果たすどころか、逆の方向に作用します。新型コロナウイルス問題において、WHOが感染の封じ込めとは逆の、感染拡大を招いたように。そして、国際機関の一員としての義務を誠実に果たそうとする加盟国ほど、酷い被害に遭ってしまうのです。このような場合は、国際機関は存在していな方が‘まし’となりますし、アメリカのように早々と脱退した方が賢明であるかもしれないのです。

 しかも、台湾は、比較的規模の小さな国でありながら、WHO以上の高い情報収集能力を示すことにもなりました。機密性の高い軍事分野ではないということもありましょうが、国際機関、あるいは、米中ロといった大国ではなくとも、一国が独自に感染症に関する情報収集網を構築することは必ずしも不可能ではありません。台湾が、実際に証明して見せたのですから。

今般の新型コロナウイルス化を機に、中国依存からの脱却の機運が高まっておりますが、信頼性に欠ける国際機関への依存もまたリスク要因です。むしろ、台湾に倣い、各国が自国の情報収集能力を高め、独自に最適な対策を迅速に実施する方が、国際機関の指示を待つよりも、国際社会が直面している共通問題の解決にも資するかもしれないのです(国際協力は情報交換を中心に…)。アメリカの脱退により以前にもましてWHOにおける中国支配が強まることが予測される中、日本国政府も含め、加盟各国政府は、脱退をも視野に入れつつ、今後のWHOに対する方針を決定すべきではないかと思うのです。


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