かなり昔の話です。8月末のことでした。もうひと月くらい昔になりますね。あと少ししたら10月になっちゃうんですから、すごく昔です。
18キップで彦根に出ました。3時間くらいかけてやっと彦根に着いた。それからすぐに近江鉄道に乗り換えて、高宮という駅まで250円だったかな。13時ころに着きました。お昼は何を食べたんだっけ。電車の中でパンでも食べたんでしょう。
中山道を探して、とりあえず、宿場の南橋の無賃橋というところまで行きました。街道の街並みはかなり残っています。バイパスでもできたら、街並みを生かせそうなくらい残っている。でも、滋賀県は、いいものが残っているのに、あまりにありふれているので、活用せずに取り壊したり、自動車をバンバン走らせていて、歩いていて落ち着きませんでした。
五街道といったって、今は全く歩く人はいないのだから、宿場としての機能は必要ないし、クルマさえ走ることができたら、もうそれでいいし、古い建物は、持ち主が要らなくなったら取り壊せばいいという感じになってしまっています。
同じ中山道でも、関ケ原というところは国道21号になっているそうで、とても歩けそうにないそうです。私も一度だけクルマで走ったことがありますが、古そうなのに、クルマの流れがあって、とても止まることはできないし、たぶん、歩くこともできない感じでした。
高宮宿も、それとはレベルは違うけど、クルマは間断なく走っています。何だか落ち着かない。古い町並みだけど、その中で特に古い建物とお城を探さなくてはならない。
最初に目に入ったのは、中山道に出るまでの間に、目に入った酒蔵みたいなところで、日本酒はまるで嗜まない私ですけど、古い酒蔵は好きで、見学できたり、そこで作ったお酒があるのなら、買いたい方なので、とりあえずふたたび町に戻りました。
建物の前を通った時は、お休みみたいな雰囲気で、シーズンではないし、動かしていないのだろうと思ったのです。
でも、調べてみると、ここは音瀬酒造といい、猩々菊(しょうじょうぎく)というお酒を造っていたそうです。でも、今はよそに委託製造してもらって、どうにかブランドを続けているということでしたが、私が見た酒蔵は、もうただの遺物にになっていたようです。考えてみると、残念です。でも、これも世の中の流れというべきなんでしょう。
数少ない宿場の風景写真。高宮神社前の大きな蔵のお家でした。
お城は? たしか、高宮城が……、
お城があったところが、小学校になっていて、8月だけど、学校は始まっているみたいで、子どもたちは校庭でそれぞれ何かして遊んでいました。あれ、自由時間だったんだろうか。遊びという授業ではなかったのかも。
確か、午後は過ぎているし、放課になってたのかな。先生たちもおられなかったでしょう。考えてみれば、暑いのによくもまあ外にみんないましたね。
学校の敷地の端っこに、お城跡という説明があり、高宮氏というのが二系統あって、どっちが栄えて、信長さんの時代をどんなふうに過ごしたかとか、書いてあったと思うんだけど、適当に見てしまいました。
きっと三重県や、自分につながるタネがあったのかもしれないのに、暑いせいか、何だかいい加減に見ていました。もうここからどこに歩くか、何を見るかに心を奪われていて、歴史的な説明はどうでもよくなっていました。
心は彦根市に向いていて、電車で三駅くらいを乗ったけれど、たぶん、歩けるだろうと思っていて、あとはどれだけ街道を探せるか、なのです。中山道は山のふもとに道を設定してあります。彦根は琵琶湖すれすれの湖畔に町があります。ということは、少しだけれど、坂を下りる感じで街に行かなくてはならない。
また、町側から多賀大社に向かう道もあっただろうし、それなりの古い街はどこにあるんだろう。少なくとも、近江鉄道で三駅ばかり乗っていた時には、それらしい道は見つからなかった。
私は、中山道を江戸側に歩いて、どこかにあるはずの彦根に抜ける道を探すことにしました。
とにかくやみくもに北側をめざします。宿場町を出ると、新興住宅やら、少し古いお家やら、あまり街道気分を盛り上げるものがありませんでした。
セブンイレブンが右手に出てきて、左手は鎮守の森みたいな感じ。向こうに橋も見える。もう少し歩いたら、物部守屋の部下に矢でねらわれた聖徳太子さんを守ったという地蔵さんがあって、そこまでは行くことにしました。そこまでに彦根に抜ける道はあるだろうと、あてずっぽうで歩きました。
セブンイレブンの向こうに見える山。ただの山かと見ていたら、街道ガイドによると、歌枕になったり、壬申の乱の合戦場になったりした床の山(鳥籠山)というのが見えます。この下を右から左に川が流れています。
川に沿って歩けばいいやという考えも出てきます。そして、暑くて、公園でお茶飲んだり、ここでレーズンパンも食べましたね。
公園には芭蕉さんの句碑もあるということでしたが、見つけられなかった。
とにかく、作品は、「ひるがほに昼寝せうもの床の山」で、
その意味は、壬申の乱や歌枕で知られる床の山が中山道にはあるみたいだけれど、できれば君の近くの昼顔を楽しみながら、昼寝をしたいものだが、それもできないまま君の住んでいる所を通り過ぎて江戸に帰ってしまうよ。
というものだそうです。挨拶の句なんですね。たったの五七五でお弟子さんにあれこれ気持ちを伝えるんだから、芭蕉さんってたいしたものです。
それで、私はキッカケを見つけて、道を西にとることができました。ここから西に向かって歩き始めた時は、太陽もサンサンだし、とても暑かったのです。
それが、歩いているうちにどんどん暗くなって、彦根の駅に着くころはゴロゴロと雷様も鳴っていて、彦根の町は全く見られずに、スタコラサッサと立ち去ることになったのでした。
ああ、今度は冬かな。冬は、カゴシマに行きたいんだけれど……。
懐かしく拝見させていただいております。
鳥籠山の下を流れる川、今では芹川と呼んでいます。小さな鮎が釣れるんですよ。
芭蕉の俳句、私も知りませんでした。
また機会がございましたらぜひ多賀大社へもお運びください。由緒あるいい神社ですよ)^o^(