らびおがゆく Vol.3

山形県を中心とした演奏活動等

指揮者とオーケストラ Vol.2

2005年05月21日 13時42分27秒 | 音楽
 しつこいかもしれないが、個人的な意見である事を明記しておく。
 良い指揮者とはどんなタイプなのだろうか?オケ側にとっては、練習時間が短くて的を射た練習の進め方をする人。仮に長い時間練習しても飽きさせない時間の使い方の出来る人ということになろうか?何回も演奏している曲に新しい発見をさせてくれる人なども付け加えとく。事務所的には、集客力があり、ギャラが安いというところか・・・。逆に嫌われるタイプの指揮者は、指揮棒の暴力で全ての拍ををしばりつけ、演奏者側の自由をまったく奪うタイプ。そういう人に限って練習時間がダラダラと長く、やたらと細かく練習し、しつこい。ミスをしたパートだけに耳が行き、その原因を見つけられない。初日の練習でその状況になったら、本番の出来はすでに見えている。これは異論もあると思うが、演奏者は本番が本番であって、指揮者は初日の練習から本番が始まっていると思っていい。指揮者になる人は、オケ側の人間より数段懐が深く、レベルも上の選ばれた人間しかなれないということだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

指揮者とオーケストラ Vol.1

2005年05月21日 01時40分53秒 | 音楽
 これから書くことはあくまで個人的な意見であり、プロの演奏家の中でも少数意見派だと予想される事を明記しておく。
 よくCDなどの宣伝文句に「炎の****」とか「指揮棒から奏でられる全身全霊の音楽」とかの記述を見かける。一方、雑誌などの演奏会評でも「指揮者の****の音楽は・・・」とかの記述を見かける。しかしまてよ?最近ふと思ったのだが、指揮者はお客に対し、一音も発していないのである。(たまに奇声を発する指揮者はいるが。)プロオーケストラともなれば、指揮者を置かず大抵の曲は演奏できてしまう。なぜオーケストラが、誰か個人の手兵なのか?いつもその表現の仕方に違和感をおぼえる。そもそも良い演奏がその日出来たのは、その指揮者一人のおかげなのだろうか?ベームが晩年、ウィーンフィルを振って名演を繰り広げたが、晩年のベームは指揮棒を持つ手が震えていたそうで、テンポもなにも解らなかったそうである。ウィーンフィルの団員が「ベームの心の中にある音楽をオケ側でくみ取って演奏していた」と言ったとかの内容を何かの本で読んだ気がする。

 結局名演が生まれるかどうかは、指揮者の棒のテクニックでは無く、その指揮者がオケ側に好かれていて、「こいつのためなら」と一肌脱ぎ集中力が増す団員の数とお客様の数が多ければ、その確立が上がるという結論になってしまう。

 じゃ、名演奏は聴衆と俺達Tutti奏者しだいだな・・・・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする