今週の中古CD漁りは何も収穫がありませんでした。 8月に廃盤セールをやるので、目ぼしいものはみんなそちらへ廻されているようです。
セールが終わるまで、しばらくは不漁が続くでしょう。 去年もそうだったので、さっさと見切りをつけてレコードを見に行くと、これがありました。
Keith Jarrett / The Koln Concert ( 西独 ECM 1064/65 ST )
ECMのレコードへの再認識により今までは眼中になかったこういうレコードが目に留まるようになり、よく見ると市場にはたくさん流通しているんだな
ということがわかりました。 新しい窓が開かれたわけです。
これは西独オリジナルですが、初版はでなく、第2版です。 ただ、私はこの作品にはあまり思い入れはないので、これで別に構いません。
店頭で検盤のために試聴したら、やはりそれまで聴いていたCDとは明らかに別の種類の音だということがわかりましたので、即買いです。
キース・ジャレットの音楽的基礎の一番底流に流れているのはアメリカのフォークミュージックで、それが良い悪いは別にして、あまりに無防備に
露呈されたこの作品への評価が真っ二つに分かれるのは当然です。 私自身はフォークやカントリーが元々好きなので、別にこれが悪いとは全然
思いません。 ただ、これを最初に聴いたのが多感な時期を過ぎてしまった頃だったので、このセンチメンタルさに飲み込まれることはなかった。
ジャズを聴くという前提で接するからいろいろと異論が出てくるのであって、ただのピアノ音楽として聴けばそれでいいのではないでしょうか。
前置きが長くなりましたが、今回の主題はこちらのほうです。
Cecil Taylor / Solo ( 日本Trio PA-7067 )
ケルン・コンサートとほぼ同時期に録音されたこの作品は、オーディオ評論家の重鎮として有名な人がエンジニアを務めたことで知られています。
そのせいか、どこを見ても「音がいい」という話になっていますが、キースのレコードを聴きながら、もういい加減にしてくれ、と改めて思ったのです。
セシル・テイラーのこの作品は昔からの愛聴盤なのですが、とにかく生気のない痩せ細ったピアノのサウンドで、この欠点さえなければ、とずっと
恨めしく思いながら今日に至っています。 CDの音もレコードと同じような音で、これはメディアの種類の問題ではありません。
オーディオマニアの間でこの評論家がどういう評価をされてるのかはよく知りませんが、この人はピアノの生音を聴いたことがないのか? と
あり得ない馬鹿げた疑問が頭をもたげてくるような録音です。
この人はハイエンドオーディオだけがオーディオであって、ローエンドオーディオは認めない、という持論を展開した人で、日本で初めて
ルディ・ヴァン・ゲルダーやロイ・デュナンの名前を持ち出したことや「レコード演奏家」という概念を提唱したことでも知られていて、なんだか
「とても偉い人」というイメージがあります。 そんな人ですから、うちのようなローエンドでは決してわからない、高級オーディオでしか
いい音が出てこないような魔法がこのレコードにはかけられているのかもしれません。 でも、この人はうちにある機器のことを何かの雑誌で
べた褒めしていたので、そんな理由でいい音が鳴らないということでもないはずです。
セシル・テイラーのこの演奏を聴いて一番驚くのは、ミスタッチがあまりないことです。 ドの音を弾く時、指が隣の鍵盤にあたってしまい、
レの音やシの音が同時に鳴ることがあります。 もちろんプロの演奏家では滅多にないことですが、でもそれはあくまで平均律上の規則内の演奏の
話であって、その縛りを解こうともがくこういう試みの場合は話が別じゃないかと思います。 訓練だけで回避できるような問題とはとても思えない
のですが、それをやっているのにまず驚かされる。 まるで目の前に楽譜があって、十分練習してから録音に臨んだかのようです。
ピアノの上に並んでいる全ての鍵盤の音の組み合わせは調性外のほうがはるかに多いんだから、その方が表現の可能性は大きいに決まっている、
だからこういう演奏をするんだ、といわんばかりの演奏で、私がこの人が好きなのは演奏の中にそういうものを感じるからです。
そういう純粋なピアニズムをもっと感じたいのに、この拡がりのない音は一体何なのかと思います。 これが深夜のコンサートホールに鳴り響いた
本当の音なのか? それに比べて、キースのレコードではピアノが何と生々しく響いていることか。 実際にピアノを自分で弾いた時に、自分の
身体の腹の奥に音が響くあの感じがあります。 しかも、このコンサートで使われたピアノが調律が悪いベーゼンドルファーで、音色に不自然な
ところがあるにも関わらず。 CDではあまり感じなかった違和感が、このレコードだとよくわかります。 そういうところまで録れているのです。
もちろん、70年代の日本のコンシューマー向けオーディオ機器の特性や当時の日本の平均的な家庭環境などを考慮したのかもしれませんが、
それにしてもこの不自然なくらいこじんまりとしたフラットな音はないんじゃないか、と思います。 普通、こんな風にピアノを弾いたらもっと
音の塊りが飛んでくるような響きになるはずで、そういうのを敢えて殺したんだとしたら、同時に音楽自体をも殺してしまったことになる。
以降、ピアノ音楽の録音はジャンルを問わず、その多くがケルンを目指すようにようになります。 セシル・テイラーのほうは、そうはならなかった。
ほぼ同時期に制作された2枚のピアノのレコードを聴きながら、オーディオ評論家って一体何なの? と思わずにはいられませんでした。
セールが終わるまで、しばらくは不漁が続くでしょう。 去年もそうだったので、さっさと見切りをつけてレコードを見に行くと、これがありました。
Keith Jarrett / The Koln Concert ( 西独 ECM 1064/65 ST )
ECMのレコードへの再認識により今までは眼中になかったこういうレコードが目に留まるようになり、よく見ると市場にはたくさん流通しているんだな
ということがわかりました。 新しい窓が開かれたわけです。
これは西独オリジナルですが、初版はでなく、第2版です。 ただ、私はこの作品にはあまり思い入れはないので、これで別に構いません。
店頭で検盤のために試聴したら、やはりそれまで聴いていたCDとは明らかに別の種類の音だということがわかりましたので、即買いです。
キース・ジャレットの音楽的基礎の一番底流に流れているのはアメリカのフォークミュージックで、それが良い悪いは別にして、あまりに無防備に
露呈されたこの作品への評価が真っ二つに分かれるのは当然です。 私自身はフォークやカントリーが元々好きなので、別にこれが悪いとは全然
思いません。 ただ、これを最初に聴いたのが多感な時期を過ぎてしまった頃だったので、このセンチメンタルさに飲み込まれることはなかった。
ジャズを聴くという前提で接するからいろいろと異論が出てくるのであって、ただのピアノ音楽として聴けばそれでいいのではないでしょうか。
前置きが長くなりましたが、今回の主題はこちらのほうです。
Cecil Taylor / Solo ( 日本Trio PA-7067 )
ケルン・コンサートとほぼ同時期に録音されたこの作品は、オーディオ評論家の重鎮として有名な人がエンジニアを務めたことで知られています。
そのせいか、どこを見ても「音がいい」という話になっていますが、キースのレコードを聴きながら、もういい加減にしてくれ、と改めて思ったのです。
セシル・テイラーのこの作品は昔からの愛聴盤なのですが、とにかく生気のない痩せ細ったピアノのサウンドで、この欠点さえなければ、とずっと
恨めしく思いながら今日に至っています。 CDの音もレコードと同じような音で、これはメディアの種類の問題ではありません。
オーディオマニアの間でこの評論家がどういう評価をされてるのかはよく知りませんが、この人はピアノの生音を聴いたことがないのか? と
あり得ない馬鹿げた疑問が頭をもたげてくるような録音です。
この人はハイエンドオーディオだけがオーディオであって、ローエンドオーディオは認めない、という持論を展開した人で、日本で初めて
ルディ・ヴァン・ゲルダーやロイ・デュナンの名前を持ち出したことや「レコード演奏家」という概念を提唱したことでも知られていて、なんだか
「とても偉い人」というイメージがあります。 そんな人ですから、うちのようなローエンドでは決してわからない、高級オーディオでしか
いい音が出てこないような魔法がこのレコードにはかけられているのかもしれません。 でも、この人はうちにある機器のことを何かの雑誌で
べた褒めしていたので、そんな理由でいい音が鳴らないということでもないはずです。
セシル・テイラーのこの演奏を聴いて一番驚くのは、ミスタッチがあまりないことです。 ドの音を弾く時、指が隣の鍵盤にあたってしまい、
レの音やシの音が同時に鳴ることがあります。 もちろんプロの演奏家では滅多にないことですが、でもそれはあくまで平均律上の規則内の演奏の
話であって、その縛りを解こうともがくこういう試みの場合は話が別じゃないかと思います。 訓練だけで回避できるような問題とはとても思えない
のですが、それをやっているのにまず驚かされる。 まるで目の前に楽譜があって、十分練習してから録音に臨んだかのようです。
ピアノの上に並んでいる全ての鍵盤の音の組み合わせは調性外のほうがはるかに多いんだから、その方が表現の可能性は大きいに決まっている、
だからこういう演奏をするんだ、といわんばかりの演奏で、私がこの人が好きなのは演奏の中にそういうものを感じるからです。
そういう純粋なピアニズムをもっと感じたいのに、この拡がりのない音は一体何なのかと思います。 これが深夜のコンサートホールに鳴り響いた
本当の音なのか? それに比べて、キースのレコードではピアノが何と生々しく響いていることか。 実際にピアノを自分で弾いた時に、自分の
身体の腹の奥に音が響くあの感じがあります。 しかも、このコンサートで使われたピアノが調律が悪いベーゼンドルファーで、音色に不自然な
ところがあるにも関わらず。 CDではあまり感じなかった違和感が、このレコードだとよくわかります。 そういうところまで録れているのです。
もちろん、70年代の日本のコンシューマー向けオーディオ機器の特性や当時の日本の平均的な家庭環境などを考慮したのかもしれませんが、
それにしてもこの不自然なくらいこじんまりとしたフラットな音はないんじゃないか、と思います。 普通、こんな風にピアノを弾いたらもっと
音の塊りが飛んでくるような響きになるはずで、そういうのを敢えて殺したんだとしたら、同時に音楽自体をも殺してしまったことになる。
以降、ピアノ音楽の録音はジャンルを問わず、その多くがケルンを目指すようにようになります。 セシル・テイラーのほうは、そうはならなかった。
ほぼ同時期に制作された2枚のピアノのレコードを聴きながら、オーディオ評論家って一体何なの? と思わずにはいられませんでした。
(録音技師はテイラーのソロと同じECM盤 !)
kenさんのサンベアの記事を読むと、音は悪くなさそうなんですよね。
でもなあ、10枚組、相場感がよくわからないし、失敗だったら目も当てられない・・・・ 悩みます。
内容はいいんですかね? 聴いたことないもんで。 安いトリオ盤を探して、一回トライしてみるか・・・
よく言えば、三人の音が塊になって飛んでくる、とでもなるのでしょうが、カセットレコーダーで録ったのでは…?というほどの音ですね。
これが日本人の限界…なのでしょうか。
録音というのは重要なファクターです。 このせいで、この評論家氏の話はまともに読む気がなくなりました。