Alexander Von Schlippenbach / Piano Solo ( 西独 FMP 0430 )
何の予備知識もなく白紙の状態で聴くと、これはフリージャズというよりも単にピアノソロによる即興という語り方のほうがよりしっくりとくるなあと思う。
一般的にフリージャズと言われる音楽には、それがどのような種類のものであれ、その水面下にある種の共同幻想的な核のようなものが横たわっていて、
それは「混乱」や「喧噪」という形を借りながらかなり遠回しに表現されるものだけれど、このピアノソロを聴いていると、ここにあるのはそういうものとは
全く異質のものなんじゃないかと思えてくる。
この人の頭の中では実はちゃんと調性に沿って作曲されたオリジナルのメロディーがあって、それを意図的に無調性に翻訳しながらピアノを演奏しているような
フシがどうも感じられてしまう。 現にラグタイム風の小節が途中で出てきたりするし、手が滑って上手く翻訳し損なった和製英語の言葉のような箇所も
たくさん出てくる。 人知れず積み重ねられた練習や研鑽で武装しながらも、フリーに徹しきれていない綻びのようなものが見えてしまうところがあるし、
何よりもどんなにメカニカルな無調フレーズを弾いていても、なぜかその裏では別の有調の旋律が並走しているのが聴こえてしまうような気がするのだ。
だから、そういう意味において、これは一般に言うところのフリージャズとはうまく重ならない。
西洋音楽理論の権化のような楽器であるピアノで完全無欠のフリーミュージックを演奏するのは困難を極める作業に違いないと思うけれど、何事においても
困難であればあるほどそれに憑りつかれてしまう人が世の中にはいる。 シュリッペンバッハも元々そういう傾向を持った人だったのではないだろうか。
普通にピアノを上手く弾けるし、普通に作曲もできるけど、そういう既にできることなんかには興味がなく、進んで困難な道に踏み込んだのだろう。
エヴァン・パーカーとのトリオの時やグローブ・ユニティーのような大編成時には感じられなかったのに、ピアノソロという素肌をさらす場面になった途端に
個性や素の部分が見えてくる、というのは人間味があってとてもいいことだと思う。 彼らだって、別に得体の知れない怪物というわけではないのだ。