8月31日(金) 起床5時00分 晴れ 気温30度

8月ラストデー!(^.^)/~~~
今回は少し長文化。
まっ、この歌でも流しながら読んで欲しい。
今日は朝一でお墓参り。母の祥月命日が明日9月1日でちょうど10年経つ。
溯る事10年前の今日平成14年8月31日の夕方・・・・・・
それまでも何度か危篤状態になるたびに会社を抜け出し、病院へタクシーで飛ばすことがあった。
・・・・・・会社が終わりいつも通り病院へ行く。
いつもより呼吸が苦しそうだ。日に日に体が弱っているのが見てとれる。
別室でお医者さんからも明日からモルヒネ?注射をして苦しさを和らげる治療をすると
告げられた。
ハーッ、ついにモルヒネを使うところまで来てしまったのかと。
自分は再び病室に戻り、「明日から違う治療をするらしいよ!」と言った気がする。
その他は特に何を話したかは覚えていない。
あっ、当時はマクドナルドのハンバーガーをテイクアウトして病院で食べることが多く、
その時もビックマックを持っていた。
定かな記憶ではないが母がそれを少し欲しがったようなので半分ずつ分けて食べた気がするが、
もうその半分のバーガーも全部食べ切れないくらい弱っていたと思う。
以前のブログでも記したと思うし、その後の告別式の挨拶でも述べたが、
母が入院している時は会社があろうとなかろうと、遅くなっても必ず毎日病院へ顔を見に行った。
コレが今になってみればオイラにとっては唯一の親孝行だったかも知れない。
毎日だから長居はしない。短い時は10分で切り上げる。
とにかく毎日行くことで一縷の望みをつないでいたと思う。お百度参りみたいなものだ。(笑)
そして意識のある母との最後の別れが今日8月31日の今頃(18時半位)だった。
帰りがけに必ず、「じゃ、また明日も来るからね!」という言葉を何百回言ったことだろう。
しかし、この日が最後の「じゃ、また明日来るからね!」になってしまった。
病室を出てゆくとき必ず手を振ってくれた母。オイラも軽く手を振る。
今となってみればその日だけは母はオイラの姿を自分の目に焼き付けているように思えた。
自分で自分の終焉を悟っていたのか・・・・・
翌日、9月1日の早朝5時ごろ電話が鳴る。病院の番号だ。すごく嫌な予感がする。
案の定、「容態が急変しました、すぐ来て下さい」と看護婦さんから。
1秒でも早く病室に着きたいからとにかく家から猛然とダッシュして走る、走る。
自分の車なんか使っていると駐車するのにタイムロスするのでとにかく自力でダッシュ!
途中でタクシーが通ったので拾う。飛ばしてもらう。
病院手前の交差点で赤信号に引っかかったのでソコで降りて信号無視して通りを猛ダッシュ。
緊急口からガードマンに名前と病室番号を言いながら素通り。(笑)
エレベーターも使わず4階の病室までダッシュ!
呼吸が異常に浅い母。お医者さんも看護婦さんも黙々と色々と手当てしてくれている。
心拍計だろうか?段々と数字が下がってくる。コレが「0」になると全てが終わってしまう。
親戚に電話するもその間にも数字は小さくなってくる。
この日が来ることは自分の中では覚悟していた。意外にも冷静で客観的な自分がそこに居る。
しばらくすると、お医者さんも看護婦さんも病室を出て「母と自分」の二人だけにしてくれた。
母はもう意識がないがオイラは必死に話しかける。
完全に一方通行のは会話だけど母には聞こえている、わかってくれていると思って話続けた。
そしてついに数字が「0」になって父や祖父、祖母が居る天国へ行った(逝った)
直後に叔母が到着したが間に合わなかった。辛いシーンだった。
このとき初めて「儚い」と言う意味を身を持ってわかった。
その叔母も数年後、天国へ行ってしまった。
母は家に戻らずそのまま葬儀場へ
自分はいったん、家に戻り色々と準備。
引き出しの中から母から自分宛てに手紙が出てきた。
すごく深い愛情が注ぎ込まれている文だ。さすがにコレを見た時は言葉にならなかった。
ありがとう。オレはいつまでも忘れないヨ!
で、ココからはいつもの感じのブログに戻る。(^_^)v
早いようで遅いような、長いようで短いような10年、その間に自分にも色々とあった。
とにかく即座に頼れる人間が同じ家にいなくなったことにより肉体的にも精神的にも
プレッシャーにさらされていた10年だ。
「風邪」引いても「めまい」が発生しても「偏頭痛」が発生しても「捻挫」しても
「肉離れ」してもとにかく自力で何とかするしかない。
家の中に食料がなければ足を引きずってでも這ってでも買いに行かねばならぬ。
洗濯物だって溜まればイヤになるのでコマメに行なう。
母や父が居たときは普段は気にもとめないことを自力で行なうとなるととてもエネルギーが必要。
軽く相談する相手もいないと良いことでもそうでないことでも自分で決断するしかない。
特に病院関係(病気)に関することはまず事実を受け止めてその後、自分で一つずつ処理して
行くしか方法がない。
幸いにもこんなボロ屋を残してくれたことに両親に感謝する。
持ち家があると無いとでは経済的にも違ってくるだろう。
まっ、2軒残してくれた事は当初は良かったけど、今は負担が増えてしまうので
この10年を区切りに売却して1軒に戻そうとも思う。
この10年で精神的に自分はかなり強くなったと思う。図々しいとも言う。(笑)
10年過ぎたからといって明日から急に変わるものでもないけど、
それでも何となく自分の中では良い意味で一区切りしたいと思う。
本来なら明日の午前中にお墓参りをするべきだが、
明日は久しぶりのカーとレースに参戦。
本格的レーシングマシンなので超ハイスピードバトルなので細心の注意をしないとヤバイ。
体力的にも多分、相当キツイと思う。
この数年はもう少しローカテゴリーのクラスでシリーズ戦を仲間(チーム)と共に
転戦していたけど、転戦は今年限りにしようと今の段階では思っている。
気力は充分あるのだが、さすがに筋力不足は否めない。
時折ある、お祭り的イベントやウチワだけの走行会などは今まで通り続けてもいいかなぁ!
まさか母の祥月命日にレースをやるなんて10年前には考えもしなかったことだ。
オイラが小さい頃から車が好きだったのを一番理解してくれていた両親だ。
まっ、天国から応援ヨロシク頼むよ!

8月ラストデー!(^.^)/~~~
今回は少し長文化。
まっ、この歌でも流しながら読んで欲しい。
今日は朝一でお墓参り。母の祥月命日が明日9月1日でちょうど10年経つ。
溯る事10年前の今日平成14年8月31日の夕方・・・・・・
それまでも何度か危篤状態になるたびに会社を抜け出し、病院へタクシーで飛ばすことがあった。
・・・・・・会社が終わりいつも通り病院へ行く。
いつもより呼吸が苦しそうだ。日に日に体が弱っているのが見てとれる。
別室でお医者さんからも明日からモルヒネ?注射をして苦しさを和らげる治療をすると
告げられた。
ハーッ、ついにモルヒネを使うところまで来てしまったのかと。
自分は再び病室に戻り、「明日から違う治療をするらしいよ!」と言った気がする。
その他は特に何を話したかは覚えていない。
あっ、当時はマクドナルドのハンバーガーをテイクアウトして病院で食べることが多く、
その時もビックマックを持っていた。
定かな記憶ではないが母がそれを少し欲しがったようなので半分ずつ分けて食べた気がするが、
もうその半分のバーガーも全部食べ切れないくらい弱っていたと思う。
以前のブログでも記したと思うし、その後の告別式の挨拶でも述べたが、
母が入院している時は会社があろうとなかろうと、遅くなっても必ず毎日病院へ顔を見に行った。
コレが今になってみればオイラにとっては唯一の親孝行だったかも知れない。
毎日だから長居はしない。短い時は10分で切り上げる。
とにかく毎日行くことで一縷の望みをつないでいたと思う。お百度参りみたいなものだ。(笑)
そして意識のある母との最後の別れが今日8月31日の今頃(18時半位)だった。
帰りがけに必ず、「じゃ、また明日も来るからね!」という言葉を何百回言ったことだろう。
しかし、この日が最後の「じゃ、また明日来るからね!」になってしまった。
病室を出てゆくとき必ず手を振ってくれた母。オイラも軽く手を振る。
今となってみればその日だけは母はオイラの姿を自分の目に焼き付けているように思えた。
自分で自分の終焉を悟っていたのか・・・・・
翌日、9月1日の早朝5時ごろ電話が鳴る。病院の番号だ。すごく嫌な予感がする。
案の定、「容態が急変しました、すぐ来て下さい」と看護婦さんから。
1秒でも早く病室に着きたいからとにかく家から猛然とダッシュして走る、走る。
自分の車なんか使っていると駐車するのにタイムロスするのでとにかく自力でダッシュ!
途中でタクシーが通ったので拾う。飛ばしてもらう。
病院手前の交差点で赤信号に引っかかったのでソコで降りて信号無視して通りを猛ダッシュ。
緊急口からガードマンに名前と病室番号を言いながら素通り。(笑)
エレベーターも使わず4階の病室までダッシュ!
呼吸が異常に浅い母。お医者さんも看護婦さんも黙々と色々と手当てしてくれている。
心拍計だろうか?段々と数字が下がってくる。コレが「0」になると全てが終わってしまう。
親戚に電話するもその間にも数字は小さくなってくる。
この日が来ることは自分の中では覚悟していた。意外にも冷静で客観的な自分がそこに居る。
しばらくすると、お医者さんも看護婦さんも病室を出て「母と自分」の二人だけにしてくれた。
母はもう意識がないがオイラは必死に話しかける。
完全に一方通行のは会話だけど母には聞こえている、わかってくれていると思って話続けた。
そしてついに数字が「0」になって父や祖父、祖母が居る天国へ行った(逝った)
直後に叔母が到着したが間に合わなかった。辛いシーンだった。
このとき初めて「儚い」と言う意味を身を持ってわかった。
その叔母も数年後、天国へ行ってしまった。
母は家に戻らずそのまま葬儀場へ
自分はいったん、家に戻り色々と準備。
引き出しの中から母から自分宛てに手紙が出てきた。
すごく深い愛情が注ぎ込まれている文だ。さすがにコレを見た時は言葉にならなかった。
ありがとう。オレはいつまでも忘れないヨ!
で、ココからはいつもの感じのブログに戻る。(^_^)v
早いようで遅いような、長いようで短いような10年、その間に自分にも色々とあった。
とにかく即座に頼れる人間が同じ家にいなくなったことにより肉体的にも精神的にも
プレッシャーにさらされていた10年だ。
「風邪」引いても「めまい」が発生しても「偏頭痛」が発生しても「捻挫」しても
「肉離れ」してもとにかく自力で何とかするしかない。
家の中に食料がなければ足を引きずってでも這ってでも買いに行かねばならぬ。
洗濯物だって溜まればイヤになるのでコマメに行なう。
母や父が居たときは普段は気にもとめないことを自力で行なうとなるととてもエネルギーが必要。
軽く相談する相手もいないと良いことでもそうでないことでも自分で決断するしかない。
特に病院関係(病気)に関することはまず事実を受け止めてその後、自分で一つずつ処理して
行くしか方法がない。
幸いにもこんなボロ屋を残してくれたことに両親に感謝する。
持ち家があると無いとでは経済的にも違ってくるだろう。
まっ、2軒残してくれた事は当初は良かったけど、今は負担が増えてしまうので
この10年を区切りに売却して1軒に戻そうとも思う。
この10年で精神的に自分はかなり強くなったと思う。図々しいとも言う。(笑)
10年過ぎたからといって明日から急に変わるものでもないけど、
それでも何となく自分の中では良い意味で一区切りしたいと思う。
本来なら明日の午前中にお墓参りをするべきだが、
明日は久しぶりのカーとレースに参戦。
本格的レーシングマシンなので超ハイスピードバトルなので細心の注意をしないとヤバイ。
体力的にも多分、相当キツイと思う。
この数年はもう少しローカテゴリーのクラスでシリーズ戦を仲間(チーム)と共に
転戦していたけど、転戦は今年限りにしようと今の段階では思っている。
気力は充分あるのだが、さすがに筋力不足は否めない。
時折ある、お祭り的イベントやウチワだけの走行会などは今まで通り続けてもいいかなぁ!
まさか母の祥月命日にレースをやるなんて10年前には考えもしなかったことだ。
オイラが小さい頃から車が好きだったのを一番理解してくれていた両親だ。
まっ、天国から応援ヨロシク頼むよ!