とっちーの「終わりなき旅」

出歩くことが好きで、趣味のマラソン、登山、スキーなどの話を中心にきままな呟きを載せられたらいいな。

「日本人の自然観・民俗学の視座から」野本寛一さん

2014-10-09 23:13:15 | 社会人大学
今日は、今年最後の社会人大学だった。講師は、近畿大学名誉教授の野本寛一さんである。人間の生活において、誕生、育児、結婚、死に至るさまざまな儀式が伴っているが、こうした通過儀礼とは別に、普段の衣食住や祭礼などの中にもさまざまな習慣、しきたりがある。これらの中にはその由来が忘れられたまま、あるいは時代とともに変化して元の原型がわからないままに行なわれているものもある。民俗学は、こうした習俗の検証を通して伝統的な思考様式を解明する学問だという。身近で行われている訳のわからない習慣みたいなものの意味が、民俗学の講義で分かると面白いかなと楽しみにしていた。

野本寛一さんは、静岡県出身の日本の民俗学者だ。フィールドワーク重視の研究手法に忠実なことで知られ、ひたすら歩き、景物に目を凝らし、人々の語りに耳を傾けてきたという。著書には、『地霊の復権 自然と結ぶ民俗をさぐる』『自然と共に生きる作法 水窪からの発信』『自然災害と民俗』等がある。

今回のテーマは、日本人の自然に対する思いという事で、四季折々の自然現象と人間の営みについていろんな例が挙げられていた。例えば、「タムシバやコブシの花がたくさん咲くと米が豊作となる」「麦の穂がビワの色になるとアワビがうまくなる」「トチの穂が出たら味噌を掻き込む」等だ。昔の人たちは、こういった自然の変化を捉え、農業の時期や食材を最適な時期に食べる事を伝承してきたのだと思い知らされた。だが、こういった伝承も生産する側と消費する側がはっきり分かれてきてしまっている現代では、消えて行く運命なのだろう。また、山形県には、「草木塔」という石塔があり草木を供養したものだという。動物を供養する塔はよくあるが、草木までも供養するという感性は昔の日本人が、如何に自然に対する思いが強かったことを表しているのかもしれない。

また昔の女性の地位について、野本さんの説は好意的である。地方によって生理の期間に女性が月小屋と呼ばれる小屋に籠もる風習があったというが、この風習は、いわゆる「血の穢れ」を排除しようとする社会の論理だけで行われてきたのではなく、むしろ生理の女性に安息の機会を与えるものであったという説だ。一年中家事に追われる女性のために休み日が設けられ、家庭の中で働く女性を保護する思想が民俗社会の底流にはあったからではないかと言われている。同じような話で、細江町の歴史民俗資料館に、産気づいた女性が籠るコヤ(産屋)が復元されていたのを見たことがある。コヤは、「お産は神様から子供を授かる神聖なことで、生死を重んじ、派手なことを控えて身を慎しむ」ための場所だったといわれているそうだ。

その他、印象に残ったのは、「仲間になるには、その国の食い物を食べる」という事や、「町の人は、草木を根こそぎ持って行くが、村の人は種や根を残しておき絶やさないようにしている」という話は、現代でも通じることである。

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