10月13日。水曜日。曇り。
赤ちゃんが生まれ・・・
両親の元で育てられ、
社会に出て行き、
社会の環境に育てられていく。
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人は、生まれて以来、いろいろの環境の中で、『人格』が育っていく。
その主なる要因は何なのだろう。
両親の母国語、言語によるのだろうか?
あるいは、
両親の住む家庭や住む地域の、環境によるのだろうか?
言語が先か? 環境が先か?
両方の影響を受けて、育っていく。
狼に育てられた赤ちゃんもいると聞いたりする。
私の中学二年の孫娘。
数学と英語の塾に通っています。
中学生が通う普通の塾なのだが、
そこでの英語のクラスがとてもユニークなのです。
英語圏の国の中学生が読むような『小説』を二冊、
授業の始まりに渡される。
辞書もなし。質問もなし。だそうです。
ただ英語の『小説』を、英語圏の国の中学生が読むように、
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我が子どもたちの幼稚園児の時の本
英語のまま読む。
”はい。ここまで。授業終わります。
読み切れなかった人は本を家に持って帰って、続きを読んできてください。
宿題は、今日読み切れなかった本と新しい本一冊を持って帰り、
読んで目で追ってくるように。 はい。さようなら。”
孫娘の塾の英語クラスは、
バイリンガルを当たり前として、英語を教育しようとするクラスなのでしょうか?
英語の小説を、日本語に訳するのではなく、英語として読んでいる。
それは、私の子どもたちが過ごしたアメリカ生活の環境と似ています。
私の子どもたちは、
アメリカでは、日本人の方が一人も在籍しない
カトリック校の幼稚園から小学校に通いました。
そこは、日本人だからとの特別扱いもない、英語の学校生活。
日本語しか知らない子どもたちが、英語だけの世界に飛び込んだのです。
そして、家に帰れば、当然のように、日本語だけの家庭生活です。
母親の私は、特別に英語を教えたりすることなく、
正にバイリンガルが当たり前で育ちました。
帰国後は、
子どもたち二人だけで話すときは、家でも電車中でもどこでも、英語でしゃべる。
そして、両親がいる家の中では、当然のように日本語で話していました。
今では、二人の英語の発音は、英語圏の人そのものです。
人格形成には、言語が先か? 環境が先か?
孫娘の塾は、
生徒たちの将来にベストを考えての授業をしておられるのでしょう。
その結果が、英語を母国語のように慣れ親しんで、英語教育する方法なのでしょう。
普通の塾では、聞いたことも見たこともない授業です。
”それでいいんじゃない!” と、ど~んと構える孫娘のママです。
”結果はいかに!?” と、面白がっているおばあちゃんの私です。
以前にもブログに書いたことがありますが、
私の娘は、高校生になって、
又今度も日本人ゼロの、アメリカのカトリック高校に留学しました。
全く日本語を話すことなく、多感な高校時代をアメリカで過ごしました。
帰国すると・・・
迎えに出た父親が娘を認識できないほどに、
顔も容姿も雰囲気も、すっかり『アメリカ人』になっていました。
更に、
日本の高校の高三に復帰した娘は・・・
同じ事柄を、
日本語で考えた時の答と英語で考えた時の答は、全く別物である。
と、自分の中で、日本人とアメリカ人、二人の『別人』を体験するようになったのです。
私は、日本人として生きるの? アメリカ人としてとして生きるの? となったのです。
私にとっては、大変な驚きの娘の体験でした。
英語の言語とアメリカの環境が、日本人の娘を『アメリカ人』に作り上げたのです。
娘は、自分の体験から、『言語』を生涯の研究課題として、選びました。
人格形成には、言語が先か? 環境が先か?
生まれ出た赤ちゃんは、“オギャ~”、と一声を発して、命をつなぐ。
人は、言語と環境をもって、命をつなぐ。
大切に、大事に、育てたいものです。
私は、父親の意向で、小学生の頃から英語人たちの中で英会話を習得していきました。
その結果が今の私です。
人格形成には、言語が先か? 環境が先か?
孫娘の塾の教育方針は、これからの学校での英語教育の変革を予兆しているのでしょうか?
なんといっても、子どもの『人格』を育てるのは、親や周りの人の愛情ですよね。
なんて考えながら・・・
私も、今日の読書の秋、『英語小説』でも、目で追ってみましょう♡♡
感謝!感謝!
そして。
今日は10月13日。年間第二十八水曜日。
『今日の入祭唱』
『あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。』
詩編 119章10節
『今日の福音 イエスの言葉』
『そのとき、イエスは言われた。
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あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。
薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、
正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。
これこそ行うべきことである。
もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。
あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。
会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。
あなたたちは不幸だ。
人目につかない墓のようなものである。
その上を歩く人は気づかない。」
そこで、律法の専門家の一人が、
「先生、そんなことをおっしゃれば、
わたしたちをも侮辱することになります」 と言った。
イエスは言われた。
「あなたたち律法の専門家も不幸だ。
人には背負いきれない重荷を負わせながら、
自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」』
ルカによる福音書 11章42-46節
今日のイエス様は、
律法に熱心なファリサイ派の人と、
ファリサイ派の人たちに律法を教える律法の専門家に向かって、
『あなた方は不幸である』
と、おっしゃるのです。
律法の専門家は、
『先生、そんなことをおっしゃれば、
わたしたちを侮辱することになります』
と、イエスに反発しました。
では・・・
イエスのおっしゃる※『不幸な人』※とはどんな人でしょう。
※収入や収穫の十分の一は献げるが、
正義の実行と神への愛をおろそかにしている人
※会堂では上席に着くこと、
広場では挨拶されること、を好む人
※人には、守り切れない律法を教え、守らせながら、
自分は、律法を守るのを免除される口実を作って、守らない人
※白く綺麗に塗った墓でも、中では腐敗が始まるように、
自分自身の外を綺麗に飾っても、心の中は綺麗ではない人
人目につかない墓のような人
『幸せな人』とは、『神の掟』:『愛神愛隣』を守る人です。
神を愛し、人を愛する人です。
神に愛されていることを信じ、神に感謝して、
神の愛に応えて、隣人を愛する人です。
『今日のアレルヤ唱』
アレルヤ、アレルヤ。
『わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。
わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。』
ヨハネによる福音書 10章27節 アレルヤ、アレルヤ。
皆様!
御訪問にに感謝申し上げます。
『氏より育ち』・・・人柄は育った環境による影響が大きいのですね。
いくつになっても、謙虚に努力ですね。 お元気で!