マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

父と私・・・『子どもは親の鏡』 そして 『わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。むしろ分裂だ。』

2021-10-21 12:41:58 | 父と母のこと 兄弟のこと
10月21日。木曜日。晴れ。

父と私。

    『花の都・パリの路地』
  
     
       父が愛した、単身赴任が長かった花の都、パリです。

                『花の都・セーヌ川とエッフェル塔』
              
                  父は、セーヌ川のほとりで、
               絵描きさんが描いていた『絵』を購入しました。


  4人の兄妹の中で、私が一番父に似ているそうです。
  4人目にして産まれた、初めての『女の子』だった私は、
  何の指示もなく、期待を受けることもなく、
  ただただ無条件に愛されたお陰で、『父』を受け継いだのでしょうか。


      父は、パリでの単身赴任についても、他事でも、
             父の頃は会社の事務所もなく、異国での取引の難しさはいかばかりだったかと想像しますが、  
             泣き言や愚痴を言うことはありませんでした。
      私は、自分の置かれた境遇について、
             どんな過酷な状態でも、それを受け入れ、
             泣き言や愚痴を言うことを知りませんでした。
             親からそれを学ぶことがなかったのです。
      
  私も年を重ねて、
    『子どもは親の鏡』といわれるように、
  親から口に出して教えられなかったことでも、
  親にそっくりだと思うことが多くなりました。


      子を一生懸命に育てている我が子どもたちを見ているときに、
         あれこれと言葉に出して言う必要はなく、
       自分の『背中』を見せれば良いのだと思います。
         愛情深く育てるだけで十分だと思います。


       今日は、父の命日が近くなって、
       コロナのために行けなかった『墓参り』が2年ぶりに可能かな?
       墓参りを夢見ながら・・・、父が遺した6枚の『パリ』を見ながら・・・、
           父を偲んでいます。  感謝!感謝!



そして。

今日は10月21日。年間第二十九木曜日。

『今日の入祭唱』

   『わたしは主を愛する。
  主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。』
        詩編 116章1&2節


『今日の福音 イエスの御言葉』

   『そのとき、イエスは弟子たちに言われた。
  
  「わたしが来たのは、地上にを投ずるためである。
 そのが既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
 しかし、
     わたしには受けねばならない洗礼がある。
  それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。


 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。
       そうではない。言っておくが、
         むしろ分裂だ。


     今から後、一つの家に五人いるならば、
  三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

   父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、
    しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
       対立して分かれる。」』
       ルカによる福音書 12章49-53節



旧約時代。
神は、モーセの口を借りて、『言葉』を遺されました。


       『きょう、私は、生と死、
      
        祝福と呪いをあなたの前に置く。
   あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、
 あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につきしたがいなさい。
    それがまさしくあなたのである。』
      申命記 30章19&20節

同様に、

新約時代。
イエスも、『言葉』をおっしゃいました。


     イエスは、ペトロとアンデレに言われた。
       『わたしについて来なさい。』
    
    『わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。
     そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。』
           マタイによる福音書 11章29節

   
  神様もイエス様も、その御意志は、
  すべての人が、『命』を得、『安らぎ』を得ることです。

  イエスは、すべての人に、『命』と『安らぎ』を与えるために、
  神からこの世に派遣されたのです。


    ところが・・・
    そのイエスを信じ、弟子になった人もいましたが、
    そうでない人もおりました。
    そのために・・・
    キリストへの信仰のため、同じ家庭の中でも違いがあり、
    分裂が生まれたのです。


  神も、キリストも、
  すべての人、一人一人に、いつも、呼びかけておられるのです。

    私たちは・・・
    その呼びかけに対して、無関心でいることは出来ません。
    答えるか、答えないか。 選ぶか、選ばないか。
    けじめをつけて、はっきりとした『答』を出すとき、
    ある人とは違う『答』となり、『分裂』が生まれることもあるのです。


        信仰は、個人的な『決断』:『決心』です。
           神は強制をなさいません。
         自由に選ぶように呼びかけられるのです。


     私たちキリスト者は・・・
     『キリスト』の呼びかけに応えました。
     その時には、反対の意見の人もいたかもしれません。
     そのために、辛い目にあう人もいらしたことでしょう。
     でも、そのために、
     『分裂』以上の、『相互理解』が深まったのです。

   
    
『今日のアレルヤ唱』

アレルヤ、アレルヤ。
  『わたしたちの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、
キリストのゆえにすべてを失いましたが、それらをちりあくたと見なしています。』
         フィリッピの信徒への手紙 3章8&9節   アレルヤ、アレルヤ。


皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
今日も穏やかな日です。深まってきた秋をお楽しみください。 お元気で!