10月21日。木曜日。晴れ。
父と私。
『花の都・パリの路地』
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父が愛した、単身赴任が長かった花の都、パリです。
『花の都・セーヌ川とエッフェル塔』
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父は、セーヌ川のほとりで、
絵描きさんが描いていた『絵』を購入しました。
4人の兄妹の中で、私が一番父に似ているそうです。
4人目にして産まれた、初めての『女の子』だった私は、
何の指示もなく、期待を受けることもなく、
ただただ無条件に愛されたお陰で、『父』を受け継いだのでしょうか。
父は、パリでの単身赴任についても、他事でも、
父の頃は会社の事務所もなく、異国での取引の難しさはいかばかりだったかと想像しますが、
泣き言や愚痴を言うことはありませんでした。
私は、自分の置かれた境遇について、
どんな過酷な状態でも、それを受け入れ、
泣き言や愚痴を言うことを知りませんでした。
親からそれを学ぶことがなかったのです。
私も年を重ねて、
『子どもは親の鏡』といわれるように、
親から口に出して教えられなかったことでも、
親にそっくりだと思うことが多くなりました。
子を一生懸命に育てている我が子どもたちを見ているときに、
あれこれと言葉に出して言う必要はなく、
自分の『背中』を見せれば良いのだと思います。
愛情深く育てるだけで十分だと思います。
今日は、父の命日が近くなって、
コロナのために行けなかった『墓参り』が2年ぶりに可能かな?
墓参りを夢見ながら・・・、父が遺した6枚の『パリ』を見ながら・・・、
父を偲んでいます。 感謝!感謝!
そして。
今日は10月21日。年間第二十九木曜日。
『今日の入祭唱』
『わたしは主を愛する。
主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。』
詩編 116章1&2節
『今日の福音 イエスの御言葉』
『そのとき、イエスは弟子たちに言われた。
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「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。
その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
しかし、
わたしには受けねばならない洗礼がある。
それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。
そうではない。言っておくが、
むしろ分裂だ。
今から後、一つの家に五人いるならば、
三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」』
しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
対立して分かれる。」』
ルカによる福音書 12章49-53節
旧約時代。
神は、モーセの口を借りて、『言葉』を遺されました。
『きょう、私は、生と死、
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祝福と呪いをあなたの前に置く。
あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、
あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につきしたがいなさい。
それがまさしくあなたの命である。』
申命記 30章19&20節
同様に、
新約時代。
イエスも、『言葉』をおっしゃいました。
イエスは、ペトロとアンデレに言われた。
『わたしについて来なさい。』
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『わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。』
マタイによる福音書 11章29節
神様もイエス様も、その御意志は、
すべての人が、『命』を得、『安らぎ』を得ることです。
イエスは、すべての人に、『命』と『安らぎ』を与えるために、
神からこの世に派遣されたのです。
ところが・・・
そのイエスを信じ、弟子になった人もいましたが、
そうでない人もおりました。
そのために・・・
キリストへの信仰のため、同じ家庭の中でも違いがあり、
分裂が生まれたのです。
神も、キリストも、
すべての人、一人一人に、いつも、呼びかけておられるのです。
私たちは・・・
その呼びかけに対して、無関心でいることは出来ません。
答えるか、答えないか。 選ぶか、選ばないか。
けじめをつけて、はっきりとした『答』を出すとき、
ある人とは違う『答』となり、『分裂』が生まれることもあるのです。
信仰は、個人的な『決断』:『決心』です。
神は強制をなさいません。
自由に選ぶように呼びかけられるのです。
私たちキリスト者は・・・
『キリスト』の呼びかけに応えました。
その時には、反対の意見の人もいたかもしれません。
そのために、辛い目にあう人もいらしたことでしょう。
でも、そのために、
『分裂』以上の、『相互理解』が深まったのです。
『今日のアレルヤ唱』
アレルヤ、アレルヤ。
『わたしたちの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、
キリストのゆえにすべてを失いましたが、それらをちりあくたと見なしています。』
フィリッピの信徒への手紙 3章8&9節 アレルヤ、アレルヤ。
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
今日も穏やかな日です。深まってきた秋をお楽しみください。 お元気で!