まりはな屋

地方都市で、清貧生活  

曖昧

2016年03月30日 22時47分26秒 | 日々雑感
愛の反対は憎しみや嫌悪ではなく無関心…と聞いたことがある。

言われてみればそうかも、と思える面がある。

例えば、憎しみや嫌悪というのは嫉妬から生まれることもある。

つまり、相手がうらやましくて憎む。

相手に落ち度はないが、うらやましいから貶めたくて悪口を言う。

例えば、自分が好意を持った相手からつれなくされたときの逆恨み。

初めから関心のない相手には抱かない感情だ。

わたしは、男女問わず、恋愛感情や好意の多少に関わらず

相手が自分に関心がないと分かるとすぐに気持ちが荒むのだが

(そのことにやたらと敏感。そして被害妄想気味)

本当に微塵も関心のない相手だと、自分に関心がないことさえ気づかない。

あるときふと、そういえばこの人ってわたしに無関心だよね・・・と気づいても

ま、わたしも関心ないから別にいいけど、となる。

関心のない相手って楽だなーと思い、ふと結婚というのはもしかして

こういう相手とするのがいいのかもと思ったりする。

どのみち関心がなくなってゆくのなら、初めから関心がないほうがいいんじゃないか。

まあ暮らし始めたら嫌悪という危険も伴うけど。

でもやっぱり愛の反対は無関心じゃないと思う。

恋の反対は無関心だけど。

愛と恋は全く違う。

愛が憎しみに変わった…なんていうけれど

憎しみに変わったならば、それは愛ではなかったのだというのが持論。

それは自己愛というものだったのじゃないか。

もしくは恋という名の性欲だったんじゃないか。

それはともかく。

愛と無関心はもしかして同じ方向じゃないかと最近思うのだ。

相手が自分をどう思っていようがかまわない。

ただ相手を想ってる。

相手の感情には無関心。

なぜこんなこと考えたかというと、

自分が本当に好きな友人に対してこういう気持ちを持つことがあるから。

その友人が、もしもわたしのことを嫌うならそれなりの理由があるのだろう。

わたしと会わなくなったとしても、わたしに原因があるのだろう。

それは仕方のないことだ。

でもきっと、わたしはその友人のことが好きだと思うのだ。

「好き」と書くと面映ゆいけど、もっと淡々とした感情。

これは「愛」に近いのではないだろうか。

一方的に想っているというとストーカーのようだけど

見返りを求めず、なんの期待もせずに想うのならば

それは一種の愛じゃないだろうか。

もしかしたら「無関心」と思ってる人のことは愛せる可能性があるのだろうか。

逆算してみたけど。

無理そう。

愛と無関心の謎。

もう少し考えてみます。





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