我が国のサッカーの現状を憂う:
対ヴェトナムのサッカーを見て「誰があのようなサッカーを教えるのか」と思わずにはいられなかった。
昨12日夜にヴェトナムで開催されている掲題の選手権に出場している我が代表が、予選リーグで地元のヴェトナムに苦戦する試合の中継を見た。因みに、AFCとはFIFAのアジア版のことのようだ。我が代表は19歳以下とは言っても、その多くがJリーグの1部の試合を経験しているそうだった。私が見れば非常に情けない試合振りだったが、結果が知りたくて最後まで見てしまった。
何と、消極的で未熟極まりない我が代表は90分ギリギリでヴェトナムに1対1の同点に追いつかれたものの、最近は当方のおかしなカタカナ語批判に圧されたのか滅多に聞かなくなった「ロスタイム」の6分間に、奇跡的とも言える2点を取って勝ってしまった。所謂「結果オーライ」だった。
U-19代表の何処がいけないのかと言えば、別に目新しいことはなく、フィールド全体を広く使う?「後方に視野が広い」とでも形容したい思い切りの良いバックパスの多用、全体の和を守る為に?勝手にシュートはせずパス回しの為のパス回しを続ける、後ろで横のパスを回し続け、もしかして前線で誰かがフリーになるのを待っている間に相手が横取りするのを待つという風に、A代表の悪いところだけを全て見習って将来に備えておくというところだった。
偶々途中から見た大学でのフットボール(アメリカンである、念のため)経験者の次男が「誰があのようなサッカーサッカーを教えるのか」と言って嘆いていたほど、将来に希望が持てないサッカーをしていた。その横と後ろのパス交換を多用する様をJリーグ監督経験者である解説者の早野が「試合開始直後からあのようなバックパスをする消極性はいかん」と批判しほどだった。だが、これもたった一度だけだったのは、思うに元指導者としては忸怩たる思いがあるのかと邪推した。
早野はしきりに28度という暑さを云々して「やる気度」が希薄の連中を思いやっていたほど19歳以下の者どもは非常に消極的で、ボールを支配する時間の長さだけはヴェトナムを圧倒していた。時間を後方でのパス回しに使うのだから当然だが、その消極性には呆れ返るだけで何時になったらやる気を見せるのかと思わせてくれた。
あの連中が将来フル代表に上がっていくのかと思うと、次ぎのオリンピックも次ぎのW杯にも余り希望を持たない方が良いかと痛感させられた。しかしながら、90分が過ぎて後6分の猶予を貰った途端に実力を発揮して?立て続けに2点を取って勝ってしまった。当方は「それが出来るのだったならば、最初からそうしろよ」と叫んでしまった。あれは「やれば出来る」ということを示したのか、それとも実力?を最後まで温存して来たるべき対韓国戦に備えたのかと疑わせた。
実は、昨日偶然のことで近所の中学のサッカー部を指導する先生と語り合う機会があった。そこで、66年前の国体での高校サッカー部の部の準優勝校の一員として、その昔のWMフォーメーション時代のサッカーとその頃の金科玉条だった基本技を語ってみた。驚くべきことに、その先生は我々が昭和20年(=1945年)から教えられた「ストップ」も「トラッピング」を知らず、近頃は欧州や南米勢でもほとんどかけているのを見かけなくなった「フェイント」の作戦をしらず、教えていないと言うのだった。
先生は何か珍しい新説を聞くような表情で、熱心に我々の時代のサッカーの昔話を聞いてくれていたのには、こちらが感動してしまいそうだった。即ち、言うまでもないことで現代のサッカーは我々の時代には想像も出来なかったような次元にまで上り詰めているのであり、まるで再三指摘したDarvishがMLBを経験して「何か異種の競技をやっているのかと思った」と同じように、サッカーも進歩し変化したのだと思わずにはいられないのだ。
私が現代のサッカーに一言指摘したいことは「ブラジルには後から後からマスコミが言うスーパースターが出てくる。だが、彼等は昔風の基礎(基本技)を教えられていないようだし、また知らないようだ。だが、子供の頃から慣れ親しんだ野原同然の場所で覚えた優れた球慣れと足技で、古き良き時代の基本を無視しても世界最高水準に達しているのだ」なのだ。
それを見て、FIFAの50位辺りをうろついている国のサッカー選手が「あれで良いのだと錯覚して見習ってはならないのである。そういうことをするのは「足し算も引き算も十分に出来ていないのに微分・積分を勉強しようというのと同じように無謀なことだ」と言いたいほど無理があるのだ。だが、U-19代表は多少の無理をしても韓国に勝って決勝トーナメントに出ていって貰いたい。
対ヴェトナムのサッカーを見て「誰があのようなサッカーを教えるのか」と思わずにはいられなかった。
昨12日夜にヴェトナムで開催されている掲題の選手権に出場している我が代表が、予選リーグで地元のヴェトナムに苦戦する試合の中継を見た。因みに、AFCとはFIFAのアジア版のことのようだ。我が代表は19歳以下とは言っても、その多くがJリーグの1部の試合を経験しているそうだった。私が見れば非常に情けない試合振りだったが、結果が知りたくて最後まで見てしまった。
何と、消極的で未熟極まりない我が代表は90分ギリギリでヴェトナムに1対1の同点に追いつかれたものの、最近は当方のおかしなカタカナ語批判に圧されたのか滅多に聞かなくなった「ロスタイム」の6分間に、奇跡的とも言える2点を取って勝ってしまった。所謂「結果オーライ」だった。
U-19代表の何処がいけないのかと言えば、別に目新しいことはなく、フィールド全体を広く使う?「後方に視野が広い」とでも形容したい思い切りの良いバックパスの多用、全体の和を守る為に?勝手にシュートはせずパス回しの為のパス回しを続ける、後ろで横のパスを回し続け、もしかして前線で誰かがフリーになるのを待っている間に相手が横取りするのを待つという風に、A代表の悪いところだけを全て見習って将来に備えておくというところだった。
偶々途中から見た大学でのフットボール(アメリカンである、念のため)経験者の次男が「誰があのようなサッカーサッカーを教えるのか」と言って嘆いていたほど、将来に希望が持てないサッカーをしていた。その横と後ろのパス交換を多用する様をJリーグ監督経験者である解説者の早野が「試合開始直後からあのようなバックパスをする消極性はいかん」と批判しほどだった。だが、これもたった一度だけだったのは、思うに元指導者としては忸怩たる思いがあるのかと邪推した。
早野はしきりに28度という暑さを云々して「やる気度」が希薄の連中を思いやっていたほど19歳以下の者どもは非常に消極的で、ボールを支配する時間の長さだけはヴェトナムを圧倒していた。時間を後方でのパス回しに使うのだから当然だが、その消極性には呆れ返るだけで何時になったらやる気を見せるのかと思わせてくれた。
あの連中が将来フル代表に上がっていくのかと思うと、次ぎのオリンピックも次ぎのW杯にも余り希望を持たない方が良いかと痛感させられた。しかしながら、90分が過ぎて後6分の猶予を貰った途端に実力を発揮して?立て続けに2点を取って勝ってしまった。当方は「それが出来るのだったならば、最初からそうしろよ」と叫んでしまった。あれは「やれば出来る」ということを示したのか、それとも実力?を最後まで温存して来たるべき対韓国戦に備えたのかと疑わせた。
実は、昨日偶然のことで近所の中学のサッカー部を指導する先生と語り合う機会があった。そこで、66年前の国体での高校サッカー部の部の準優勝校の一員として、その昔のWMフォーメーション時代のサッカーとその頃の金科玉条だった基本技を語ってみた。驚くべきことに、その先生は我々が昭和20年(=1945年)から教えられた「ストップ」も「トラッピング」を知らず、近頃は欧州や南米勢でもほとんどかけているのを見かけなくなった「フェイント」の作戦をしらず、教えていないと言うのだった。
先生は何か珍しい新説を聞くような表情で、熱心に我々の時代のサッカーの昔話を聞いてくれていたのには、こちらが感動してしまいそうだった。即ち、言うまでもないことで現代のサッカーは我々の時代には想像も出来なかったような次元にまで上り詰めているのであり、まるで再三指摘したDarvishがMLBを経験して「何か異種の競技をやっているのかと思った」と同じように、サッカーも進歩し変化したのだと思わずにはいられないのだ。
私が現代のサッカーに一言指摘したいことは「ブラジルには後から後からマスコミが言うスーパースターが出てくる。だが、彼等は昔風の基礎(基本技)を教えられていないようだし、また知らないようだ。だが、子供の頃から慣れ親しんだ野原同然の場所で覚えた優れた球慣れと足技で、古き良き時代の基本を無視しても世界最高水準に達しているのだ」なのだ。
それを見て、FIFAの50位辺りをうろついている国のサッカー選手が「あれで良いのだと錯覚して見習ってはならないのである。そういうことをするのは「足し算も引き算も十分に出来ていないのに微分・積分を勉強しようというのと同じように無謀なことだ」と言いたいほど無理があるのだ。だが、U-19代表は多少の無理をしても韓国に勝って決勝トーナメントに出ていって貰いたい。