考え過ぎかも知れませんが:
小渕優子は観劇会などをもっと早く辞めていても良かったのではないかと考えています。それでも当選できただろうし、次回の選挙でも当たり前の如くに当選できると思わせるのです。
私は小渕優子が今回のような問題を起こしていたことを見る時に、オバマ大統領が(後難を怖れずに言えば)アメリカの非知識階級というか所謂少数民族を政策的に色々な形でおもてなしして当選してきた経過に何処かが似ていると思いました。「滅多に見ることが出来ないので、年に一度の明治座での観劇を楽しみにしている」のように後援会だったかの会員が述懐していたのは、そういう手法で選挙民の支持を確保していたのだと聞こえました。
小渕式選挙は、80年を超えるこれまでの人生でただの一度も選挙区内の候補者から接触されたことがない私の理解を超越した出来事にしか思えません。議員という名の人と対で語った経験は、先週の水曜会での鈴木都議との何分にもならない語り合いが最初でした。積極的に働きかけない私にも、もしかして、問題があるかも知れません。だが、何となく小渕優子の手法が解るような気もします。あれは支持して貰っているとの念を押すための観劇会かと思えるのです。あるいは私の選挙に対する理解が全面的に誤りであるのかも知れませんが。
26年も住んでいる新宿区(東京一区)では海江田に接触されることは望みませんが、与謝野馨からは年に1~2度彼の動きが掲載された新聞の切り抜きを纏めた冊子が送られてきただけで「支持をお願いされた経験」があっただけです。それでも、彼等候補者の掲げる政策、所属の党、人物と経歴から、供応もされず接触もなくても、誰に投票すべきかの判断くらいは出来ます。
私は渕優子は明治座に案内せずとも当選できたのではなかったかと思ったりするのですが・・・。あの手法は選挙民の判断力を軽視しているのとさえ思えてなりません。¥12,000も払えるならば、群馬から都内の浜町まではそう遠くはないと思えるし、インターネットの時代では自分で予約くらい(小渕ではなく孫にでも頼めば)簡単に出きる時代ではないのでしょうか。弁当くらい持参すれば良いのではとも言いたいのです。有権者をスポイルするかのよう手法は不適切ではないかと言いたいのですが。
小渕優子は観劇会などをもっと早く辞めていても良かったのではないかと考えています。それでも当選できただろうし、次回の選挙でも当たり前の如くに当選できると思わせるのです。
私は小渕優子が今回のような問題を起こしていたことを見る時に、オバマ大統領が(後難を怖れずに言えば)アメリカの非知識階級というか所謂少数民族を政策的に色々な形でおもてなしして当選してきた経過に何処かが似ていると思いました。「滅多に見ることが出来ないので、年に一度の明治座での観劇を楽しみにしている」のように後援会だったかの会員が述懐していたのは、そういう手法で選挙民の支持を確保していたのだと聞こえました。
小渕式選挙は、80年を超えるこれまでの人生でただの一度も選挙区内の候補者から接触されたことがない私の理解を超越した出来事にしか思えません。議員という名の人と対で語った経験は、先週の水曜会での鈴木都議との何分にもならない語り合いが最初でした。積極的に働きかけない私にも、もしかして、問題があるかも知れません。だが、何となく小渕優子の手法が解るような気もします。あれは支持して貰っているとの念を押すための観劇会かと思えるのです。あるいは私の選挙に対する理解が全面的に誤りであるのかも知れませんが。
26年も住んでいる新宿区(東京一区)では海江田に接触されることは望みませんが、与謝野馨からは年に1~2度彼の動きが掲載された新聞の切り抜きを纏めた冊子が送られてきただけで「支持をお願いされた経験」があっただけです。それでも、彼等候補者の掲げる政策、所属の党、人物と経歴から、供応もされず接触もなくても、誰に投票すべきかの判断くらいは出来ます。
私は渕優子は明治座に案内せずとも当選できたのではなかったかと思ったりするのですが・・・。あの手法は選挙民の判断力を軽視しているのとさえ思えてなりません。¥12,000も払えるならば、群馬から都内の浜町まではそう遠くはないと思えるし、インターネットの時代では自分で予約くらい(小渕ではなく孫にでも頼めば)簡単に出きる時代ではないのでしょうか。弁当くらい持参すれば良いのではとも言いたいのです。有権者をスポイルするかのよう手法は不適切ではないかと言いたいのですが。