新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

アメリカという国 #4

2014-10-27 09:21:43 | コラム
アメリカをスポーツの文化を通してみれば:

今回は思案していないで、直ぐ書ける材料に取りかかることに。

私は以前から「アメリカ人との話題に窮したら、彼等の三大スポーツである野球、フットボール、バスケットボールの何れかに持っていけば必ず乗ってくるし、打ち解けた雰囲気になることを保証する」と言っていた。さらにこの三つに「アイスホッケー」を加えて四大スポーツと称することもある、念のため。

また「彼等はこの三大スポーツを学校教育で教えられているので、例えば我が国のなまじっかの野球ファンでは到底及ばないほどゲームに精通している」と書いた時に、アメリカ在住経験がおありの方から「子供たちの学校ではそういう体育の授業はなかった」とクレームを受けたこともあった。そういう地域か州もあるのだろうかと思うが。

私は幸いにして昭和24年(1949年)にたった一度甲子園の野球に出て、我々野球部以外の者たちも含めた大方の予想を裏切って優勝してしまった高校の出身であり、同じ組(今では「クラス」というカタカナ語しか残っていないようだが)に甲子園組が、後年の前高野連会長の脇村春夫君も含めて4人もいた。お陰様で彼等の影響を受けだだけに止まらず校内大会用に指導も受け、それなりの野球通を以て任じていたほど知識はあった。それに野球は本業にサッカー次ぎに熱中していた時期もあった。

W社に転じた1970年代後半には事業部が保有する King Dome のボックス席で初めてMLBの野球を見た時にはその質の高さと完備した球場の設備にも圧倒された。アメリカではここだけではなく、ワシントン大学の7万人収容のフットボール専用の Husky Stadium にも NCAA のフットボールを見に行く機会も与えられたし、サンフランシスコの Candle Stick Park でもフットボール観戦もさせて貰った。

そこで感心したことが幾つかあった。先ずはスタンドの勾配が急でフィールドとの距離が、我が国の有名なスタジアムの緩やかすぎる勾配の構造とは異なって、非常に近くて見やすい点だった。どれほど急かと言えば、おかしな譬えであることを怖れずに書けば「迂闊に後ろを振り向けば、我が国の女性とは違って見えることを何とも思っていないらしい女性たちが大XXを開いて座っていると解って、目のやり場に困るほど」なのだ。

次なる特徴は目下取り壊しにかかっていると聞く国立競技場のように、芝生にフィールド(ないしはピッチ)をその中央に設けてその回りに陸上競技のトラックを必ず付けてしまう万能型の設計がされていないことだ。このトラックを付けてしまうと、それでなくとも緩やかな勾配のスタンドの上部の席からはサッカーやフットボールが遙か向こうのところで展開されるので、見にくい事夥しいのだ。アメリカでは幸いに地価も安いのでこういう経済的な?事はされていないのが好ましい。

第三は観衆の多くはそれぞれの競技のルールや試合運び等々に始まって、選手たちの上手さや特技などの精通しており、彼等の会話を聞いていれば我が国の誰の意向を帯して言っているのかと疑いたくなるようなお為ごかしの当たらず障らずの毒にも薬にもならぬ解説よりも、遙かに聞き所が多くて為になるのだ。彼等は皆一様に阪神タイガースどころではない地元ティームの熱烈なファンだが、決して贔屓の引き倒し的な単純なファンではないとことが凄いと思わせてくれる。

これは我が国がバブル景気に沸き立ってアメリカの不動産を買いまくっていた頃のことだった。当方が得意になってフットボールの蘊蓄を傾けて観戦中の大学フットボールを批評していたところ、後ろの席から声がかかって「あんた日本人だろう。フットボールを良く知っているのは解った。だが一言だけ言っておく。日本が幾ら景気が良いからと言って我々のフットボールまで買収するような真似をするな」と。その辺一帯の観衆に大受けだった。私はどんな顔をすれば良いのかと戸惑ってしまった。

最後に「これがアメリカか」と思わせられた Safeco Field の広ーい駐車場でのこと。私は車をいじらないので気にしたこともなかったが、2000年にこの新球場に元の上司と出かけた時のことだった。未だ試合開始まで時間があったので駐車場は空いていた。彼はその後の予定があって場外に出やすい場所に停めた。すると、そこに料金徴収係がやってきて、「料金が高いがより球場に近いところが空いているがどうする」と尋ねた。元上司はこの場所で結構とばかりに数ドルを節約できたのだった。

我が国の競技場の駐車料金が如何なる体系に競って資されているかなどは知る由もないが、この Safeco Field の球場との遠近で料金を設定するやり方には「アメリカだな-」と痛感させられたものだった。